なぜルソーは「偏ったイメージ」を持たれてきたのか
コテンラジオの社会契約説シリーズは、ホッブズ、ジョン・ロックと続き、この回でついにルソーを扱います。冒頭では出演者から、ルソーはこれまでの番組で偏ったイメージをつけられてしまった偉人なので名誉を回復させたい、という声が上がります。
もう3回目だよね、(ルソーが)出てくるの。だから、よっぽど世界史に対する影響力がでかかったんだろうなというふうに思うんですけれども。
ルソーの思想を理解するうえでの前提として、番組ではまず説明の難しさが語られます。ルソーは政治だけでなく哲学や文学など幅広い分野で考えを残し、著作の解釈は研究者によって大きく異なるといいます。
さらにルソーの思想は、本人の死後に意図を超えて現実社会で利用され、一部だけを取り出して政治利用されることもあったと紹介されます。
政治についての代表作が社会契約論 ── 1762年に刊行されたルソーの政治思想の主著。人々が結ぶ契約によって正当な政治共同体がどう成り立つかを論じ、後のフランス革命などに影響を与えたとされますです。歴史を動かした書と評価されるほどの影響を持ちながら、具体的な改革案を示した本ではなく、理想を突き詰めた抽象的な議論だった点を押さえておくと理解しやすいと説明されます。
ホッブズやロックと、ルソーの問いはどこが違う?
深井さんは、社会契約説の3人を「問い」で比べます。ホッブズの問いは、どうすれば命を守る共通権力を作れるか。ジョン・ロックの問いは、どうすれば財産が守られるかでした。
ルソーの社会契約論の問いは、構成員の身体と財産を共同の力で守る「結社形態」を見つけることです。ここまではホッブズやロックと同じですが、ルソーはさらに条件を加えます。
この後に、そしてこの結社形態は、それを通じて各人がすべての人と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由なままな形態であること。ここが難しいところなんだよね。
楊さんは、ルソーの問題意識を「人が法に従いながらも、依然として自由でいられるか」と言い換えます。ルソーから見た当時の社会は不正がはびこり、支配する者もされる者も精神が腐敗していて、本当の意味では誰も自由ではない状態だったといいます。
楊さんによれば、ルソーは人間が共同で暮らす限り、完全な自由はありえないと考えていました。何らかの拘束、ルソーの言葉でいう「鎖」は必ず必要です。ルソーが問うたのは、その鎖をどうすれば正当なものにできるかでした。
深井さんは、3人が求めた「自由」の中身の違いも整理します。ルソーの自由は、財産と命に加えて、自らが決めたことに自らが従うことを含んでいます。
| 思想家 | 中心となる問い | 自由の捉え方 |
|---|---|---|
| ホッブズ | 命を守る共通権力をどう作るか | 自然権を放棄してでも命を守る |
| ジョン・ロック | 財産をどう守るか | 財産と命 |
| ルソー | 統治されながら自由でいられる結社形態は何か | 財産と命、そして自分が決めたことに自分で従うこと |
ホッブズの考えでは、生き残るために相手を倒す権利、つまり自然権を手放すと人は不自由になります。それでも命が守れるならそちらのほうがいい、というのがホッブズの立場だと深井さんは説明します。
自分の理性が自分に命じるままに生きれる世界みたいなものを、誰かに統治されながらどうやって実現できるのかってことを彼は考えたわけだよね。
普通に考えれば、誰かに統治されれば自分の考え通りにはできません。樋口さんが「理論上むずそうに見える」と言うと、深井さんは、ルソーは理論上それを解決してみせたのであり、それこそが大きな功績だと答えます。
一人ぼっちで幸せな自然状態は、なぜ専制に行き着くのか
ルソーもホッブズと同じく、国家がない「自然状態」を想定しました。ただしルソーは、文明が進むほど人類は腐敗すると考えていたので、ルソーの自然状態は最も良い状態として描かれています。
深井さんによると、ルソーの自然状態で人は一人ぼっちです。それでも満ち足りていて、自分を慈しむ心と思いやりを持ち、人を羨むことも妬むこともなく質素に暮らしているといいます。
そうですね、お前やんみたいな。
深井さんは、このルソーの自然状態はかなり主観的だとツッコミを入れます。歴史研究から分かった事実ではなく、ルソーが推論して描いたシミュレーションだという位置づけです。
ルソーによれば、文明が発達するにつれて、この自然状態は3つの段階を経てダメになっていきます。深井さんはその過程を次のように説明します。
第1段階
法律ができて所有権が確立され、富める者と貧しい者の差が正当化される
第2段階
為政者の選び方が決まり、王のような強者と庶民の差が当たり前になる
第3段階
合法的な権力が専制的な権力に変わり、主人と奴隷の関係が正当化される
第2段階の例として深井さんは、「この家に生まれたらフランス王家」のように、生まれで為政者が決まる仕組みを挙げます。第3段階はフランスの絶対王政化にも重なる、と話しています。
第3段階まで進むと、人民は王の言うことに盲目的に従う奴隷のようになります。王の側も人民に対して義務感や誠実さを持たず、自分の欲望に従うだけになり、善や正義の原理が消えてしまうといいます。
ルソーは、それこそが自分の生きる「今」だと考えていました。すでにそうなっている社会の中で、我々が自由なまま我々自身を統治するにはどう考えればよいか。それがルソーの出発点だと深井さんは整理します。
なぜ「我々が我々を統治する」しかないのか
ルソーは、自分が自分の主人であることを重視しました。深井さんは、ホッブズとの大きな違いがここにあると説明します。
ホッブズの場合、主権を渡す先は第三者でよく、王でも議会でも「リヴァイアサン」でもかまいませんでした。一方、ルソーの考えでは、王ではダメで、統治するのは「我々」でなければならないといいます。
端的に言うと、自由っていうものを担保しようとすると、自分で自分を統治するしかないからなんです。第三者に統治させると必ず自分の自由が制限されるからですね。
深井さんによれば、ルソーの自由は「自分が決めたことに自分で従う」という自律的な自由です。この発想はカント ── 18世紀ドイツの哲学者。ルソーの影響を強く受け、理性が自ら立てた法則に従うことを「自律」と呼んで道徳哲学の中心に置きましたにも通じる、と深井さんは言います。
自律的な自由を前提にすると、他者に主権を渡した時点で自由は必ず制限されます。ルソーの立場では、自由は他人に譲り渡せないものであり、だから主権者は「みんな」でなければならない、という結論になります。
自由は人に渡すと自由として成り立ってないからです。
奴隷契約はなぜ成り立たないのか
深井さんはさらに、社会契約という「約束」の側からも、自由が譲り渡せない理由を説明します。なお、ルソーの社会契約を「個人と共同体の契約」と読むか「個人同士の契約」と読むかは、研究者の間でも解釈が分かれているそうです。
深井さんの説明では、どちらの解釈でも約束をする主体は、理性を持った自律的な自分でなければ成り立ちません。現代でも未成年が単独で契約を結べないのは、理性が十分ではない主体とみなされるからで、発想としてはそれに近いといいます。
従属するという契約を結んでいる瞬間から自分の自由を明け渡してるわけだから、契約主体として成り立たなくなるので、その契約は成り立たないでしょって話を彼はしてる。
樋口さんが「誰かに自由を明け渡したら、その人は何になるのか」と尋ねると、深井さんは「奴隷ですよ」と答えます。現実に奴隷がいる国はあっても、ルソーから見ればその状態に正当性はありません。
深井さんは、奴隷という状態は、不平等の3段階のどこかで力によって不当に獲得されたものだと説明します。理性ある主体として自分が消えてしまう契約はありえないので、ホッブズの「第三者に主権を渡す」という考え方はルソーの論理では退けられることになります。
みんなの意思と私の意思は、どうすれば一致するのか
ルソーの考えでは、統治する者とされる者がほぼイコールで結ばれていない限り、自由は担保されません。ただ、深井さんは、ここにすぐ難題が出てくると指摘します。みんなの意思と私の意思は、普通は違うからです。
クラスでみんなの意思っていうのはどういうふうに集計するかっていうのを、集計方法によるんだけど、例えば多数決を取ったとしましょう。その多数決の中で自分がマイノリティだったら、それって自分の意思じゃないじゃないですか。
全員が契約の主体である以上、誰か1人の意思でも無視されれば、その時点で契約違反になります。深井さんは、それでは原理的に不平等の3段階と変わらない、と言います。
ところがルソーは、この問いに結論を出しました。私の意思とみんなの意思がイコールになれば、みんなの決めたルールに従う自分は、自分の決めたルールに従う自分と同じになります。その鍵としてルソーが持ち出したのが「一般意志」です。
楊さんは、一般意志はルソーの思想の核心なのに解釈がとても厄介だと話します。ある研究者は、読者向けに「共同体にとって何が最善で正しいかの答えを常に握っている、なんだかとても大事な何か」くらいに捉えて読み進めるよう勧めているそうです。
特殊意志・全体意志・一般意志は何が違う?
深井さんは、一般意志を説明するために、特殊意志と全体意志という2つの概念を持ち出します。特殊意志は「僕がこうしたい」という1人の人間の個別の利害で、全体意志はその特殊意志を足し合わせたものです。
一般意志は、全体意志から個別の利害を相殺した結果として出てくる、みんなに共通する利害を代表するものだとされます。深井さんは、一般意志は強い公共性を持つと説明します。
| 概念 | 中身 | 誤る可能性 |
|---|---|---|
| 特殊意志 | 1人の人間の個別の利害 | ある |
| 全体意志 | 特殊意志の総和 | ある |
| 一般意志 | 個別の利害を相殺した共通の利害 | 誤らないとされる |
樋口さんが「一般意志は全体意志とどこが違うのか」と尋ねると、深井さんは多数決の例を挙げます。クラス会の多数決で少数派の意見を無視したら、その結論がクラスを幸せにするときもあれば、しないときもあります。
例えばナチスドイツが全体としてもうユダヤ人は迫害していいよっていう風にみんなで決めた。でもじゃあこれは正しいことなのかどうかっていう観点なんですよね。
深井さんによれば、一般意志のもとではユダヤ人も社会の一員であり、契約の主体です。そのため、ユダヤ人の自由を奪う決定は、全体意志としてはありえても、一般意志としてはありえません。
一般意志は平均でも総和でもありません。ただし、個別の利害をどう相殺するのかは、社会契約論にはあまり書かれていないといいます。深井さんは、議論を想定している可能性はあるものの、議論をしても一般意志が出てこない可能性もあると付け加えます。
一般意志は「理想論」ではなく「原理」
深井さんは、ルソーが目指したのは現実問題の解決ではないと強調します。現実に当てはめれば批判や課題はいくらでも挙げられますが、それとこれとは分けて考えよう、という立場です。
さっきヤンヤンは理想論って言ったんだけど、より正確な表現すると政治原理に近いかなと。
深井さんの説明では、一般意志という原理に基づかない限り、どれだけ頑張っても我々の自由は担保されません。一般意志が本当に実現できるかには疑問が残るとしても、原理としては確かにそう言える、という整理です。
深井さんはさらに、一般意志は、自分の考えを「一般性」で塗りつぶせという意味ではないと話します。個別の利害を持つ自分と一般意志を持つ自分は同居してよい、というのが深井さんの解釈です。
政治参加とは「二人の自分」を持つことなのか
深井さんは、社会契約の結果として、政治共同体の中に2種類の自分が存在すると解釈します。1つは個別の利害を持つ特殊な自分で、もう1つはその一つ向こうの次元で一般性を代表する自分です。
個別性の自分とその一つ向こうの次元である一般性を代表している自分みたいなものが存在していて、この2つの自分というものを内包するっていうことが、いわゆる政治参加することだっていうことが、ルソーが言ってることなのかなと思うんですよね。
一般意志を含んだ政治共同体が法律を作れば、その決定には一般意志としての自分が入っています。だから「私が決めたこと」だと言えますし、しかも特殊意志としての自分が決めたものではありません。
深井さんは、特殊意志が決めたことでないという点が「超重要」だと言います。自分であれ他人であれ、特殊意志が決めたことでは、原理的に私を自由にはできないからです。
深井さんはこの話を現代の民主主義につなげます。私たちは、自由を求めた結果として社会全体にとってよい結論を出せると、根拠なく信じて民主主義をしている。その信念こそ一般意志的なところから来ている、というのが深井さんの見方です。
「これが一般意志だ」と言った瞬間に何が起きる?
樋口さんは「何がよいかは人によって違うのでは」と疑問を投げかけますが、話しながら「それは特殊意志になるのか」と自分で気づきます。深井さんも、そうした違いをすべて相殺した結果が一般意志だという定義の問題だと答えます。
深井さんによると、ルソーは一般意志は誤らないとも述べています。深井さんはこれを、後から振り返って誤らなかった決定を一般意志と呼べる、という話だと解釈しています。
樋口さんは、政府が「一般意志はこれだ」と言えば世論を操作できてしまうのでは、と懸念します。深井さんは、実際にそういう使われ方をしてきたと認めたうえで、一般意志への望ましい向き合い方を示します。
一般意志があると考えることは大切ですが、何が一般意志かを誰かが判定することはできません。深井さんは、これは政治原理として「かなりすごいことを言っている」と評価します。
代案がない原理に、民主主義はどう向き合うのか
樋口さんが「これはソリューションではないんですよね」と確かめると、深井さんは「ソリューションじゃなくて原理です」と答えます。
ルソーが言ったものすごく重要なことは、それ(一般意志)を目指さない限り我々の自由は担保されないって言ったことが大事なんですよ。
深井さんは、コロナ禍をどう乗り切るかといった政治の上手い下手と、ルソーの話は原理的に別の話だと言います。シリーズ冒頭では、ポピュリズムや衆愚政治で民主主義が危機にあるという話も出ていました。
深井さんは、そうした指摘はその通りだとしつつ、ルソーの原理に代わる原理はまだ誰も出していないと言います。代案がないまま民主主義を否定すれば、自由の担保の仕方が完全に分からなくなってしまう、という指摘です。
深井さんは、民主主義が最高だと言うつもりはないと断ったうえで、状況としてはそうなっていると話します。また、特殊意志だけに基づく議論や利害調整は、ルソーから見れば自由を担保していないことになります。
イギリスの中世でも、人々は自分の立場から主張を続けていました。深井さんは、そうした状態とルソーを経た現代の民主主義との大きな違いは、一般性を踏まえた主張をするかどうかにあると見ています。同時に、そこには全体主義に転ぶ危うさもあると付け加えます。
古代アテナイやローマの民主政とは何が違う?
樋口さんは、古代ギリシャでも平民が政治に参加していたが、それは自由を担保するためではなかったのか、と問いかけます。
深井さんによると、アテナイ ── 古代ギリシャの都市国家で、現在のアテネ。紀元前5世紀頃、市民が民会に直接参加する民主政を発展させましたがしていたのは、1人の権力に治められたくないという権力集中の忌避でした。ローマの共和政も、権力集中を避け、公共性を担保するための仕組みに近かったといいます。
権力集中を避け、公共性を担保するためにみんなで決議する
一人ひとりの自由を担保するために、一般意志に基づいて統治する
深井さんは、ローマのやり方は結構一般意志っぽかったとも話しています。そのうえで、一般意志に基づかない政治はどこまでいっても利害調整の結果にすぎず、権力の正当性を示せない、というのがルソーの主張だと説明します。
深井さんが挙げる理由は、国家権力や政府は我々の自由を担保するために存在する、というものです。
一般意志を会社経営に例えると、なぜ危ないのか
樋口さんは、一般意志を「みんなが社会のためを考えれば社会はよくなる」という考えや、「情けは人のためならず」「オールフォーワン・ワンフォーオール」と比べます。深井さんは近いとも言えるとしつつ、重要なのは一般意志が全体意志ではないことだと答えます。
深井さんは、一般意志について絶対に理解すべき点を2つ挙げます。1つは、自由は一般意志にしか担保されないので全体意志で政治をしてはいけないこと。もう1つは、一般意志で統治する根本の理由は我々の自由を担保するためだということです。
国のために頑張ってるわけじゃなくて、自分の自由のためにやってるわけ、それは。
深井さんによれば、自由を目的とする点が、全体主義を否定できる根拠になります。一般意志を「自分のことばかり追求せず国のために頑張れ」と受け取ると、全体主義と同じになってしまうからです。
樋口さんは、自分が自分を働かせる経営者の姿に例えてみます。生物としては楽をしたいのに、経営者としての自分が働かせている、という感覚です。
株主で経営者だけど、楽したいですよね、生物的には。うまいもん食って寝ていたい。
深井さんは、この経営者の例えは危険だと答えます。経営者は自由のためではなく自社の経済的利益のために動き、その範囲で公共性を発揮しているにすぎないからです。
あと、一般(意志)は誤らないんですけど、経営者は普通に間違えまくるじゃないですか。
えーと、前例があります。僕です。
深井さんは、ローマのように「公共性を持ってみんなのために頑張る」ことや、何か1つの目的のために自己犠牲をすることと一般意志は明確に違う、と繰り返します。自由が担保されない契約は、ルソーから見ればありえないからです。
深井さんはさらに、ルソーは社会契約論の中で間接民主制、つまり代議制を否定しており、今の政治とは食い違う部分もあると紹介します。だからこそ、現実の政治で一般意志をどう達成するかと、原理としての一般意志は分けて考えるべきだといいます。深井さんは、この考え方を苫野先生と話す中で聞いたそうです。
深井さんは、実現が難しいからという理由でこの原理を否定するのは違うと考えています。この原理を目指しながら、今ある技術でどう達成できるかを求め続けることが大事だ、というのが深井さんの理解です。
民主主義は「宗教」なのか
だから僕はちょっと語弊を恐れずに言うとですね、ここまで勉強した結果、僕は民主主義ってやっぱ宗教なんだなと思ったね。
深井さんの理由は、一般意志には実体がないことです。民主主義は一般意志を信じて進めるもので、信じなければ達成されず、信じなければ崩壊します。出演者からは、ネガティブな意味で「宗教」という言葉を使っているわけではない、という補足も入ります。
樋口さんに一般意志を分かりやすく言い換えてほしいと頼まれると、深井さんは「過去、現在、未来のすべての人類がOKと言っている意志」と無理やり例えます。樋口さんは「もうそれ悟りやん」と返します。
深井さんは、民主主義が一部の国に浸透しないのも、この特性のためだろうと話します。目の前ではこの原理にそぐわない出来事ばかりが起こるので、それでも「いける」と思うには信仰のようなものが必要だからです。
番組の準備では、民主主義を研究する政治思想家や学者の本も読んだそうです。その中で、学者が「民主主義は頑張るしかない」と書いていたことが、出演者には面白かったといいます。
これ否定的に言ってんじゃないよ。僕は民主主義やめようとも思ってないし、これを信仰したままやった方がいいと思ってます。
一方で、現実の人間は、政党や利益団体を作り、特殊意志の総和で政治をしてしまいます。深井さんは、一般性を少しも考えない特殊意志だけの主張はどうなのか、と個人的な考えを述べています。
深井さんは、この解釈は何冊かの本を読み、複数の学者に話を聞いたうえでの自分の読み方だと断っています。先生によって意見が違い、深井さんと異なる見方をする先生もいたそうです。
樋口さんは、全員が政治に参加している以上、理論上は全員が一般意志を考えなければならないことになる、と気づきます。深井さんも、一般性のある自分を持たなければならないことになると認めます。それが本当に誰にでもできるのかという究極の問いも残る、と話しています。
ルソーが構想した「立法者」と、その後の時代
楊さんは、ルソーが、普通の人が一般意志をどう正しく認識するかについても一応の案を出していると紹介します。ただし、ロジックとしての説得力は微妙だと前置きしています。
ルソーの案では、一般意志を正しく認識できるのは徳のある市民です。そして、すべての市民に徳を持たせる存在として、共同体の外にいる「立法者」を想定しました。
楊さんの説明では、この立法者は天才で、歴史上まれにしか現れない奇跡的な存在とされます。人間性を変える力を持ち、人々の導き手となって、人間を強制的に進化させるという理屈です。
樋口さんは、1人の人間に頼っているように聞こえると反応します。楊さんによれば、この部分を危険だと指摘する学者もいますが、ルソーは原理の話をしているだけなので単純に批判するのはお門違いだ、という学者もいるそうです。
深井さんは、ルソーの意見が出る前と後では、民主政や共和政の目的がまったく違うと振り返ります。現在の民主主義社会は社会契約説とイコールではないものの、その影響を多分に受けて出来上がっていくといいます。
だけど、実際これ(ルソーの思想)が言われた直後の社会から世界大戦までってさ、もう無茶苦茶するわけじゃん。
樋口さんは、身体も財産も自由もなくなる時代だと応じます。社会契約説の三部作はここで一区切りとなり、次回からはフランス革命以降の話に戻ります。
まとめ
ルソーは、統治されながら自由でいるための原理として「一般意志」を示しました。深井さんは、実体のない一般意志を目指し続ける民主主義を、システムではなく信仰に近いものだと捉えています。
- ルソーの問いは、身体と財産を守りつつ、自分が決めたことに自分で従う自由をどう保つかだった
- 自由は譲り渡せないので、第三者ではなく「我々が我々を統治する」必要があるとされる
- 一般意志は特殊意志の総和である全体意志とは違い、個別の利害を相殺した共通の利害とされる
- 「これが一般意志だ」と宣言した時点で、それは特殊意志になってしまう
- 代案がない原理として、民主主義は目指し続けるしかない信仰に近いものだと深井さんは見ている




