社会契約論のあと、なぜフランスは100年も混乱したのか?
前回までの「民主主義の歴史編」では、ホッブズ、ジョン・ロック、ルソーの社会契約説を扱いました。今回はその社会契約論に影響を受けて起きたフランス革命のあと、実際のフランスがどう動いたかを追っていきます。
深井さんによれば、社会契約論が出てきてフランス革命も起きたものの、その後のフランスでは「ぐちゃぐちゃなこと」が展開されます。端的に言えば、フランスは100年ぐらいずっと混乱状態だったといいます。
まあ端的に100年間ぐらいずっと混乱状態なんだよね、フランスが。
楊さんは、フランス革命が世界史上とても衝撃的な出来事だったと補足します。フランス革命への評価の違いが、19世紀以降の保守主義や自由主義、社会主義といった政治思想の立場の違いを生み出していくため、今回はその流れにも触れるといいます。
深井さんは混乱の大まかな流れを先に示します。革命で最初の共和政が生まれ、ロベスピエールの独裁政治を経て、ナポレオンが皇帝になります。ナポレオンの没落後はブルボン朝が復活し、別の王に替わり、また共和政になり、最後はナポレオン三世の第二帝政へと続きます。
俺が一般意志だ。
楊さんのこの一言は、ロベスピエールの独裁を、前回までに学んだルソーの一般意志 ── ルソーが『社会契約論』で説いた概念。個々人の利害の総和ではなく、共同体全体の利益を目指す人民の意志を指し、主権の根拠とされますになぞらえた冗談です。自由を担保するはずの共和政で独裁が起きる皮肉を、番組は笑いながらも見つめています。
深井さんが今回のエッセンスとして挙げるのは、人々が不安になると強い指導者を求めてしまうという、何度も繰り返される挙動です。
やっぱりその民主主義に耐えらんないんだよね、結構。
会社がなんか危ない時か、傾いた時に強い社長、強いリーダーが欲しがるのとちょっと似てる感覚ですよね。
ナポレオン失脚からルイ18世へ。国民の300分の1しか投票できない復古王政
ナポレオンまではフランス革命のシーズンで扱ったため、今回はナポレオン失脚後から話が始まります。ナポレオンはロシアとの戦争に敗れてエルバ島へ流され、フランスでは王政がリバイバルします。
即位したのは、処刑されたルイ16世の弟とされるルイ18世です。ところがルイ18世が王位に就いて1年も経たないうちにナポレオンがパリへ戻り、ルイ18世は亡命します。ナポレオンの再起は3カ月ほどで終わり、セントヘレナ島へ流されました。
その後ルイ18世が戻り、復古王政が本格的に始まります。深井さんは、リアルタイムで生きていたらどんな気持ちだったのかと、目まぐるしさに驚いています。
リアルタイムで生きてたらどんなんなんだよって感じだよね、ほんと。
この復古王政は、革命前の絶対王政とは違い、王権がだいぶ制限された立憲王政 ── 憲法のもとで君主の権力が制限される政治体制。君主も法に従う点が絶対王政との違いで、イギリスが代表例とされますでした。深井さんは、法律の下に王様も従うというイギリス的な考え方に、フランスも移行したと説明します。
フランス革命で一度吹き飛んだ貴族については、王の帰還後に革命前の爵位が認められました。ただし特権や財産は元に戻らなかったそうです。深井さんは、ピューリタン革命と名誉革命を経ても貴族が残り、ポール・マッカートニーがナイトになったイギリスとの違いとして、フランスの徹底ぶりを挙げています。
復古王政の議会は、世襲貴族からなる貴族院と、高額納税者からなる下院の二院制でした。ところが選挙権を持つ人はごく一部に限られていました。
深井さんは、政治参加が相当制限された状態で、時代の揺り戻しが起きていると整理します。国王も立憲王政のもとで制限されているため、国王も民衆もどちらも制限されている構図だったといいます。
シャルル10世と七月革命。「絶対ここで出てきちゃダメな人」の登場
ルイ18世は、兄のルイ16世を革命で処刑された生々しい記憶もあってか、立憲王政に理解を示していたといわれます。しかしルイ18世には子どもがいなかったため、アルトワ伯がシャルル10世として即位します。
このシャルル10世は筋金入りの絶対王政論者でした。深井さんはこの人選に思わず笑ってしまったといいます。
これ俺も笑った。絶対ここで出てきちゃダメな人出てきたなと。
シャルル10世は、亡命貴族の財産を補償したり、軍隊の統帥権を掌握したりと、過去の絶対王政のスタイルに戻す反動的政策を次々に進めます。しかし革命を経験したフランスの市民や民衆は、もうそれを許しませんでした。
君主制のダメさって、こういうとこにあるよね。この2代目3代目が経験をさ、共有してないから。
背景にはイギリスとの経済競争もありました。産業革命を経たイギリスから安い製品が流入し、フランスの産業はリアルタイムで破壊されていたといいます。自由な経済活動がなければイギリスに勝てない状況で、王政への逆戻りや言論統制は、フランス人にとって危機感しか生まないものでした。
シャルル10世は国民の不満から目をそらすためにアルジェリアへ出兵し、内閣不信任案を決議した議会を解散させ、出版にも厳重な統制を加えます。深井さんは、議会の解散で「ラインを踏み越えてしまった」と表現しています。
7月27日、パリの民衆が決起し、「栄光の三日間」と呼ばれる戦闘で国王軍は敗れます。シャルル10世は8月2日に退位し、1週間も経たないうちにブルボン朝は完全に終わりました。これが七月革命です。
深井さんによれば、女性が旗を振る姿で知られるドラクロワ ── 19世紀フランスのロマン主義を代表する画家。劇的な構図と鮮やかな色彩で知られますの「民衆を導く自由の女神」は、この七月革命をテーマに描かれた絵だといいます。
妥協の王ルイ・フィリップと、金持ちのための七月王政
七月革命のあと、革命派の内部では共和政にしたい人たちと、王様がいたほうがいいという人たちが対立していました。妥協案として国王になったのが、オルレアン家のルイ・フィリップです。
ルイ・フィリップは、フランス革命のシーズンで登場した「貴族なのにフランス革命を支持した人」の息子でした。進歩的な考え方を持ち、王族や貴族に与しない人物だったため、共和派から見ても王様として許せる存在だったといいます。
(共和派と王政派)両方の納得感をある程度満足。
七月王政も立憲君主制の形をとり、制限選挙もやや緩和されました。しかし実態は、オートブルジョワジー ── フランス語で「上層ブルジョワジー」の意。銀行家や大実業家など、最上層の富裕市民層を指しますと呼ばれる最上層の金融家や実業家が動かす政治でした。選挙権がお金持ちにしかなかったためです。
バリバリ特殊意思だよね。
樋口さんの言う「特殊意思」は、ルソーが一般意志と対比させた、一部の人の個別の利益を指す言葉です。民衆が起こした革命でできた政府なのに、一部の金持ちのための政治が行われ、投票権を持たない民衆に残された抗議方法は暴動しかありませんでした。
深井さんは、ここがイギリスとの違いだと指摘します。イギリスでは選挙権の拡大運動が比較的穏便に進み、支配者層も力で抑え込むことをあまりしませんでした。一方のフランスでは、民衆が要求を掲げて暴動を起こし、権力側も思いきり押さえつけることが、革命以降の伝統になっていったといいます。
選挙拡大運動を比較的穏便に進め、支配者層も力での抑え込みをあまりしない
民衆が要求を掲げて暴動を起こし、権力側も徹底的に押さえつける
だからこういう歴史勉強すると、フランスがフランスやってる感じなんだよね。
一方で、オートブルジョワジー支配のもとでは文化が栄えました。オペラが催され、新聞や文学作品が多く生まれ、パリは芸術の都になっていきます。樋口さんは、若手芸術家を支えるパトロンが現れたことにも触れています。
「働いて金持ちになればいい」ギゾーの発言と二月革命
芸術の都パリが花開く一方で、社会不安は増大していきました。フランスでも産業革命が起き、都市に人口が集中し、初期の産業革命に特有の劣悪な労働環境が民衆を苦しめます。同じ時期に、社会主義を唱えるカール・マルクスも登場していました。
不満が溜まるなか、当時の政治をリードしていたギゾーは、不満があるなら頑張って働いて金持ちになればいいという趣旨のことを言います。深井さんは、これを「パンがなければケーキを食べればいい」の再現だと表現します。
ギゾーっていうその当時政治をリードしてた人が、いやそんな不満だったらお前らも頑張って働いて金持ちになればいいじゃんみたいなこと言うんですよ。
当時は暴動を恐れて政治集会が法律で禁止されていました。そこで民衆は「これは宴会です、飲んでいるだけです」と言いながら政治集会を開いていたといいます。
さらに大物政治家や高級官僚の汚職スキャンダル、経済不況が重なります。楊さんは、ジャガイモや麦の不作による食料不足という基本的な社会不安もあったと補足しています。
こうしてパリで再び暴動が起き、二月革命、あるいは1848年革命と呼ばれる革命が起こります。深井さんは、七月革命を起こした人たちにこの対応をすればそうなるのは当然なのに、渦中にいるとわからないのだろうと話します。
身の危険を感じたルイ・フィリップはイギリスへ亡命し、政府は立憲王政に見切りをつけて共和政を宣言します。これが第二共和政です。
実験してるなって感じですね。
労働者を政府へ。国立作業場が生んだ登録者急増と45%増税
二月革命後、民衆は社会主義者のルイ・ブランと、機械工のアルベールを政府に入れます。深井さんは、ただの労働者であるアルベールが入閣したことに笑ってしまったといい、人望のある労働者だったのだろうと推測しています。
俺たちのために一言言ってやってくれよみたいな。
この政府のもとで、労働者のための委員会であるリュクサンブール委員会と、失業者を救済する国立作業場アトリエ・ナショナル ── 1848年の二月革命後に設立された国立作業場。失業者に公共事業の仕事を与えて賃金を支払う仕組みで、同年のうちに廃止されましたが作られます。七月王政が金持ちのための政治をした反動だと深井さんは説明します。
国立作業場では、失業者に公共の土木工事の仕事を割り振り、1日2フラン、仕事がない日でも1.5フランを支給したそうです。樋口さんは、アメリカのニューディール政策に近いと反応しています。
めちゃめちゃ労働者フレンドリーな政策の結果、当然ながら登録労働者数は急速に膨れ上がりました。
手厚い支給
仕事がない日でも手当を支給する国立作業場を設立
登録者の急増
3月末の2350人が、5月には10万人(パリの人口の約1割)に
財源不足
政府の財源確保が追いつかなくなる
45%増税
国家財政の立て直しのため、直接税を45%増税
これね、笑っちゃダメだけど、ちょっと俺も笑っちゃった。むちゃくちゃじゃんつって。
やっぱ針が一回限界まで振らないとダメなんでしょうね、社会って。
樋口さんは、その瞬間その瞬間の問題を解決していったらこうなったのだろうと受け止めます。深井さんも、目の前の問題解決を重ねた当然の帰結として、制度が成り立たなくなる現象が起きたと応じています。
普通選挙で勝ったのは保守派。自分で選んで弾圧される民衆
1848年は、フランスの二月革命だけでなく、ミラノ、ウィーン、ベルリン、プラハなどヨーロッパ各地で民衆蜂起が起きた年でした。マルクスやエンゲルスもこの動きに参加していたと深井さんは触れています。
第二共和政は制限選挙の反動から、6カ月以上同じ市町村に住む21歳以上のすべての男性に投票権を認めます。女性の投票権はまだ認められませんでしたが、財産に関係なく選挙権が広がり、有権者は25万人から900万人へ一気に増えました。
財産による制限選挙。有権者は約25万人
6カ月以上同じ市町村に住む21歳以上の男性すべてに投票権。有権者は約900万人
王も貴族もいらない、みんな平等という考えで共和派が普通選挙を実施した結果、勝ったのは保守派でした。選挙権が広がった農村部の人々が保守的だったためです。
ここがめちゃくちゃ面白えな、ここが。
深井さんによれば、勝ったのは「労働者対策の資金を無尽蔵に使うのはないだろう」と考える人たちでした。国立作業場は解散され、革命を起こしたパリの労働者は、自分たちにお金を渡すはずの政府がなぜ手を引くのかと混乱します。
パリの労働者は再び蜂起しますが、保守政権はこれを武力で徹底的に弾圧します。樋口さんは、900万人が選んだ政府に弾圧される構図に戸惑いを隠せません。
何それ?自分で選んで自分で弾圧されてってこと?
ナポレオンの甥が皇帝に。ルイ・ナポレオンと第二帝政
民衆と争い続ける保守政権は、事態を収めるために、憲法に基づいて国民投票で大統領を選びます。当選したのは、ナポレオン・ボナパルトの甥であるルイ・ナポレオンでした。
パリの民衆にとっては、誰を選んでもダメだという状況でした。一方でナポレオンは、記憶のなかで自分たちにいいことをしてくれた人物だったため、その甥なら何とかしてくれるかもしれないと期待されたのです。深井さんはこれを「ポピュリズムだよね」と表現しています。
ルイ・ナポレオンは昔から陰謀やクーデターの画策が好きな人物だったらしく、当選はダークホース的なものでした。それでも皇帝ナポレオンの威光が効き、演説も上手かったといいます。
ナポレオン神話がね、機能してるよね。
ルイ・ナポレオンは民衆の不満をすくい取る形でクーデターを起こし、保守派の議会を解散させます。そして国民投票で解散を追認させ、大統領の任期を延長し、実質的な皇帝になっていきます。
良かったよね。解散させちゃったけど良かったよねつって。俺大統領で任期あるけど任期延長していいよね?つって延長するんですよ。
深井さんは、この手法はカエサルやナポレオンと同じだと指摘します。ルイ・ナポレオンはナポレオン3世として皇帝に即位し、第二帝政が始まりました。帝政復活を承認する国民投票でも、圧倒的多数の賛成を得たといいます。
もうずっとOSを入れ替えてるって感じ。
番組では、ルイ・ナポレオンが全国を遊説し、国民のために身を粉にして働く者にこそ強い主導権を与えるべきだと説いたことも紹介されます。それは自分自身のことを指していました。ここまでの政体の移り変わりを並べると、次のようになります。
第二帝政は、ビスマルクが登場する普仏戦争での敗北によって終わり、フランスはその後共和政に落ち着きます。どうすればよかったのかという問いに対して、深井さんは、犠牲も多かったが、この振れ幅の大きい状態でやっていくしかなかったのではないかと答えています。
その時代にはいたくないし、犠牲も多かったけど、もうこれでこういう振れ幅すごい状態でやっていくしかなかったんじゃないですか。
次回は、ヒトラーを生んだドイツのワイマール共和国を、改めて民主主義の側面から扱うと予告されています。
フランス革命をどう評価するか。保守主義・自由主義・社会主義の分岐
フランス革命後の混乱は、政治思想にも大きな枝分かれをもたらしました。楊さんは、フランス革命に対するスタンスの違いから、保守主義、自由主義、社会主義が生まれていったと説明します。
保守主義の創始者とされるのが、イギリスの政治思想家エドマンド・バーク ── 18世紀イギリスの政治家・思想家。『フランス革命の省察』で革命を批判し、近代保守主義の祖とされますです。バークは、伝統と慣習を無視して、素人たちが抽象的な原理をもてあそんでいるとフランス革命を批判しました。
バークの考えでは、人間は白紙の状態で生まれるのではなく、歴史のなかで定着してきた伝統を自分の中に取り込むことで理性的に振る舞えます。フランス革命はそれを全部壊し、無秩序を生んだという批判です。深井さんも、革命後の経緯だけを見るとそう思ってしまうと共感しています。
自由主義は、民主主義や多数決はよいとしても、多数者による専制が生まれるのではないかと考えました。多数決でできたものが自分たちの自由を保障してくれるとは限らないため、自由をどう守るかに焦点を当てた立場です。
代表的な論者のバンジャマン・コンスタン ── 19世紀フランスの自由主義を代表する思想家・政治家。「古代人の自由と近代人の自由」の講演で知られますは、ルソーを評価しつつ、その自由の捉え方を批判しました。ルソーの言う自由は、民会に出て公の意思決定に加わる古代ギリシャのポリス市民の自由だというのです。
コンスタンによれば、商業が発達し、誰もが生産活動で忙しい時代には、私的な生活を享受することにこそ自由の本質があります。樋口さんも、みんながみんな政治に参加できないという主張は「ちょっとわかっちゃう」と話しています。
社会主義は、フランスでも産業革命によって貧困労働者が増えたことから生まれました。抑圧された人々の解放を目指した革命なのに、経済的・社会的な不平等が拡大している。そこで社会の構造そのものを変革すべきだと考えた人たちのなかに、マルクスとエンゲルスがいました。
| 思想 | 代表的な人物 | フランス革命・民主主義への見方 |
|---|---|---|
| 保守主義 | エドマンド・バーク | 伝統と慣習を無視し、抽象的な原理で秩序を壊したと批判 |
| 自由主義 | バンジャマン・コンスタン | 多数者による専制を警戒し、私的な生活の自由を重視 |
| 社会主義 | マルクス、エンゲルス | 革命後も拡大した経済的・社会的不平等を、社会の変革で正そうとする |
樋口さんは、社会契約説を頑張って理解したのに「結局何もなかったやん」という印象を口にします。それに対して、フランスは最終的に共和政に落ち着き、その理論的背景では社会契約説がずっと機能しているという見方も示されています。
まとめ
フランス革命後のフランスは、復古王政、七月王政、第二共和政、第二帝政と、約100年にわたって体制を行き来しました。その過程では、不安になると強い指導者を求める挙動が繰り返され、革命への評価の違いが保守主義・自由主義・社会主義という政治思想の分岐を生み出しました。
- ナポレオン失脚後の復古王政は立憲王政だったが、選挙権は約300人に1人に限られていた
- 絶対王政論者のシャルル10世は七月革命で退位し、妥協で即位したルイ・フィリップの七月王政は富裕層のための政治になった
- 二月革命後の国立作業場は登録者が急増し、直接税45%増税を招いた
- 普通選挙では農村部の支持で保守派が勝ち、最終的にナポレオンの甥が国民投票を背景に皇帝となった
- フランス革命への評価から、保守主義・自由主義・社会主義が枝分かれしていった





