気楽なノマドのイメージは大間違い?
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遊牧民と聞くと、羊を追い、馬に乗って移動する気楽な暮らしを思い浮かべる人は多いはずです。深井さんは、そのイメージ自体は間違っていないと言いますが、生活の実態はまったく違うと指摘します。
めちゃくちゃしんどいです。
舞台は砂漠ではなく草原、しかも草原より荒れ地のほうが多い土地です。深井さんはこの世界を、能力社会だと表現します。
草原、でも草原よりも荒れ地の方が多かったりするし、めちゃくちゃ能力社会なんですよ、遊牧民世界って。
遊牧民の世界では、まず馬に乗れないと何もできません。農耕民族のような人間関係よりも、戦闘の強さや戦闘指揮のうまさ、自然を読む力が問われる社会だと深井さんは説明します。
なるほど。ザ・生き抜く力のサバイバルスキルですからね。
楊さんは、その環境の厳しさを気温で補足します。夏と冬で寒暖の差が激しく、生き抜くだけでも過酷な土地なのです。
物を持たない暮らしと、生活に組み込まれた「略奪」
遊牧民は季節ごとに住む場所を変え、決まったルートをぐるぐると移動します。道中には井戸が掘られていて、農耕民族のように定住はしません。
移動距離は部族によってまちまちで、数百キロ動くグループもあれば、数十メートルしか動かないグループもあるといいます。物を持ち運べないため、そもそも物欲があまりありません。
問題は、生活に必要な物資が手元にないことです。そこで生活のルーティーンの中に組み込まれているのが、深井さんが挙げる「略奪」でした。
物資がないから、ルーティーン、生活ルーティーンの中に、略奪っていうのが入ってるんです。
たとえば皿が欲しいとき、買うのではなく略奪しよう、という発想になる。感覚そのものが農耕民族とは違うのだと深井さんは言います。
一方で楊さんは、略奪だけでなく交易も彼らの生業だと補足します。農耕民から羊と日用品や鉄、ナイフなどを交換し、そこにマーケットが形成されました。
実は農耕地帯と乾燥地帯の境目で文明が生まれることが多いのは、やっぱそこでマーケットが、需要と供給が交換される場が形成できるから。
略奪が生業の一つに入っているため、そこに罪悪感やハードルはほとんどありません。仕事に行くくらいの感覚で略奪に向かうという話に、樋口さんもうなずきます。
全員が「戦闘機」に乗れる集団の強さ
略奪が生活に組み込まれているということは、戦争のハードルもきわめて低いということです。だからこそ遊牧民はバンバン戦争をするのだと深井さんは言います。
彼らが一致団結すれば最初から超強い理由は単純です。全員が馬に乗れて、集団がすべて騎馬兵で構成され、歩兵がいないからです。
当時のね、馬って今で言うと何だろうね、飛行機ぐらいじゃない?戦闘機だよね。
深井さんはこの例えを引き取り、普通の国との違いを説明します。通常の国はパイロット養成学校を作って戦闘機に乗せますが、モンゴルでは日常から全員が戦闘機に乗っている状態だというのです。
女も子供も全員戦闘機に乗ってるから、基本全員が戦闘機に乗れるんですよ。
定住していないため、移動や引っ越しに対する心理的な抵抗も小さいといいます。物を持たず、物資を求めて外へ出ていく必要があるため、集団は外へ外へと膨張していきました。その膨張があの帝国をどんどん作っていったという側面があると深井さんは語ります。
自分が戦いたくて兵を率いた。ペルシア帝国を倒し復讐という大義名分を果たした時点でモチベーションが尽きた
略奪が生活ルーティーンに組み込まれ、みんなが外へ出ていく動機を最初から持っていた。士気を沸かせる必要がなかった
同じ征服者でも、アレクサンドロスは大義名分を果たすと兵の士気が消えました。対してモンゴルは、そもそも略奪を外へ向ける動機が全員の中にあったため、リーダーが士気を奮い立たせる必要すらなかったと深井さんは指摘します。
なぜ定住しないのか、農耕民族とセットの関係
ここで樋口さんが素朴な疑問を投げかけます。国を征服して米や麦が取れるなら、そこに住めばいいのではないか、なぜ定住しないのか、というものです。
ここでちょっとめちゃくちゃ素朴な疑問なんすけど、なんで定住しないんですかね。
樋口聖典 さんからの質問
定住しないのではなく、彼らにとってはそれが当然の生き方だからだと深井さんは答えます。北海道で寒くても住み続ける人がいるのと同じで、遊牧民として生まれ育てば、きつくても苦ではないという説明です。
楊さんは補足として、中には定住して農耕を始めた人や、農耕民の国家を支配して税を取った例もあると付け加えます。ただし基本的な生き方としては、遊牧が彼らにとっての当然でした。
深井さんが強調するのは、遊牧民は自給自足的でありながら、物資は自給自足できないという点です。武器や皿など技術者が必要な物は、交易か略奪で周辺文明から調達していました。
逆に言うと、周辺に農耕文明がない限りは、遊牧民の生活は成り立たないわけですよ。だからこれセットなんだよ。
遊牧民と農耕民は、常にセットで補完し合う関係にあります。中華文明とも、中東のオアシス系の人々とも、遊牧民は継続的にやり取りをしていました。
技術者ゼロ、全員が営業マンの「株式会社」
遊牧民の特徴として、深井さんは技術者がいないことを挙げます。移動しながらでは研究開発も難しく、物も持てないため、技術を蓄えられないのです。
その結果、集団はほぼ全員が軍人になります。奴隷に農業をさせたスパルタとは違い、モンゴル部は征服しても相手を奴隷にせず、技術者はコネクションのようにつないでいったといいます。
めっちゃ株式会社に近いんですよ、実は。
この株式会社的な性格が最もよく表れるのが、戦争の仕組みです。戦争は人を殺すためではなく物資を得るために行われました。出撃の際には、各部族長を集めてクリルタイ ── モンゴルなど遊牧民社会で開かれた部族長らの合議の集まり。指導者の選出や遠征などの重要事項を決めた最高会議とされますという最高会議を開きます。
クリルタイでは各部族が出す兵力を決め、略奪した物品はその兵力に応じて分配されました。出資に応じて配当を得る株式会社の考え方に、とても近い仕組みです。
え、株式やん。
各部族は武器などを自前で用意する代わりに、税金を徴収されていませんでした。国のつくり方が根本から違うのだと深井さんは言います。
モンゴル帝国になってしばらくすると税が生まれましたが、それでも羊100頭につき1頭という非常に軽いものでした。江戸時代とは大きく異なる負担の軽さです。
バックオフィス不要、営業だけで回る国家
樋口さんは、普通は国を維持するのに役所の人件費や建設費がかかるはずだと問い返します。しかし遊牧国家には、その役所の人自体がいません。
楊さんは、農耕定住民との違いを整理します。定住して人口が増え、産業や国ができれば、それをマネジメントするために組織が必要になります。
国をマネジメントするためにはどうしても組織が必要なんですよ。
深井さんは、農耕国家は管理コストが非常に高い一方、遊牧国家は管理しなくてよいため管理コストがないと対比します。バックオフィスはいらない、営業だけで形成できる国家だというのです。
人口と生産力を養い定住地をマネジメントするために組織が必要。管理コストが高く、役所や経理などのバックオフィスを抱える
管理する対象が少なく管理コストがない。役所も経理も不要で、全員が「営業マン」。ただし営業マネージャーは存在する
樋口さんはこの構図を、農耕民族が花、遊牧民がミツバチだと例えます。根を張らずに花から取ってきて移動し、物資や文化を運ぶイメージです。
これに対し楊さんは、より直感的な例えを持ち出します。金は持っているが弱い農耕民族と、金は持たないが圧倒的に強い遊牧民という対比です。
軍事力にものを言わせて、農耕民から良い条件で物を引き出す。楊さんによれば、こうしたパターンはユーラシア大陸の歴史で繰り返し見られたといいます。
なぜ「遅れた側」が強かったのか
遊牧民は基本的に北や西にいて、中国側から見ると南下してくる存在でした。交易がうまくいかなくなったり、双方の状況が変わってバランスが崩れたりすると、略奪へと転じていきます。
その頻度は多く、漢民族と呼ばれる人々は長い間、遊牧民に怯え続ける構図の中にいました。
深井さんは、人類学を学ぶ前まで抱いていた自身の疑問を打ち明けます。遊牧民のほうが文明的に遅れている感覚があり、なぜその人たちのほうが強いのか不思議だったというのです。
いい武器とかこっちのが作りそうだしさ、中国の方、中華文明の方がって思ってたんだけど、そういう捉え方が間違ってるって話だった。
楊さんは、この関係を安全保障の観点から整理します。中国大陸の王朝にとって、北や西の遊牧民といかに良い関係を築くかは、どの時代でも最重要の国家課題でした。
どの王朝にとっても安全保障上最重要課題なんですよね。
贈り物を贈り、政治力で関係を築き、時に防ぎ、時に攻める。中国の王朝はずっとこの課題と向き合い続けてきたのだと楊さんは語ります。
カンとカーンの違いという豆知識
ここで深井さんは、混同されがちな「カン」と「カーン」の違いを説明します。カンは固有名詞ではなく、遊牧民のリーダー、つまり部族長のような意味の言葉です。
一方、チンギス・カーンのように伸ばす「カーン」は、カンの中のカンを指します。皇帝と王様の違いにあたり、皇帝がカーン、王様がカンにあたるといいます。
深井さんによれば、チンギスは王様までしか行っていないため「チンギス・カン」となります。書物では「チンギス・ハーン」と書かれることも多いですが、当時のモンゴル語では「ハ」より「カ」に近い発音だったらしい、というのが深井さんの説明です。
匈奴から突厥へ、遊牧民の長い歴史
ここからは遊牧民の長い歴史をざっくりとたどります。深井さんによれば、その歴史は2000〜3000年分にも及びます。
漢帝国のライバルとして登場するのが匈奴 ── 紀元前後にモンゴル高原を中心に勢力を持った遊牧民集団。漢帝国と長く対立しました。ヨーロッパ史に登場するフン族と同一ではないかとする説もありますです。漢の始祖である劉邦は32万の大軍で匈奴に向かいますが、敗れてしまいます。
32万で負けるんだと。
敗れた劉邦は屈辱的な和平を結ぶことになります。毎年決まった額の絹や酒、米などの物資を渡し、皇族の娘を匈奴のトップに嫁がせる。要するに、略奪しないでほしいという意味の関係でした。
匈奴のほかにも、鮮卑、柔然、鉄勒、契丹、女真など、さまざまな名前が登場します。これらはすべて遊牧民の部族の名前です。
深井さんは注意も添えます。これらはモンゴル系やトルコ系とされますが、実際にはぐちゃぐちゃに混ざっており、しかもトルコやモンゴルという概念自体が彼らより後の時代にできたものです。そのため、本当は何系かを言い切ること自体が難しいのだといいます。
紀元前3世紀から紀元6世紀ごろまでは、匈奴や鮮卑、柔然といったモンゴル系の人々が遊牧民としての王国を作っていました。続く6世紀から9世紀にかけては、突厥 ── 6世紀から8世紀ごろにかけてモンゴル高原から中央アジアに広がった遊牧国家。トルコ系とされますやウイグルといったトルコ系とされる人々が登場します。
深井さんは、三蔵法師・玄奘が旅した際に出てきたのが突厥だったと補足します。そのトップの称号「カガン」も、カンと同じ系統の言葉でした。
過酷な環境の弱小チーム、モンゴル部の登場
モンゴルという名前が文献に初めて登場するのは7世紀ごろ、600年代とされます。チンギス・カンが現れる1160年代よりもかなり前のことです。
当時のモンゴル部が住んでいたのは、冬にマイナス50度になる土地だったといいます。外で寝れば死に、羊を死なせれば食料を失って自分たちも死ぬ、そんな過酷な環境でした。
周囲にはさまざまな部族がいて、自然環境も置かれた状況も厳しいものでした。ただし、この時期の彼らがどんな人々だったかは、ほとんど歴史に残っていません。
11世紀ごろになると、ようやく王国らしくなり、リーダーが現れます。深井さんは、リーダーが生まれた理由を略奪の必要性に求めます。
遊牧している範囲内ではグループごとに動けば済みますが、略奪となると、複数のグループを集めて戦闘を指揮する人が必要になります。さらに、略奪した物を納得のいく形で分けられる人も欠かせません。
これぐらい活躍したよね、確かにって思わせる力が必要なんです。
つまり遊牧民のリーダーとは、うまい評価ができて、戦闘指揮がうまい人物のことでした。そのリーダーの中のリーダーが王様のようになり、カンと呼ばれるようになっていきます。
略奪の必要が生じる
物資を得るために外へ略奪へ出る必要が出てくる
集団を束ねる人が要る
グループ同士を集めて戦闘を指揮する人物が必要になる
評価と分配ができる人
活躍に応じて略奪品を納得のいく形で分配できる人物が求められる
カンが生まれる
評価と戦闘指揮に優れた人物がリーダーとなり、その中のリーダーがカンになる
国家の仕組みが整った国が、なぜ弱いのか
11世紀ごろまで大きくなったとはいえ、モンゴルは常に軍事的な緊張地域にいました。深井さんは、一人ひとりが戦闘民族のような集団だったと表現します。
それでもこの時点では、モンゴルはまだ弱小チームでした。突厥やウイグルのような強い勢力に比べれば、全然弱い状態だったのです。
モンゴル部は血縁で結びついた氏族が複数集まって集団を形成しました。ただし農耕民族ほど世襲的ではなく、血統の良い人々の中から強力なリーダーが合議で選ばれる、やや民主主義的な仕組みでした。
この時点では法律も税金もなく、農耕民族が考える国家とはかけ離れています。それでも、仕組みが整っていない国が農耕民族より強いという逆転が起きていました。
深井さんはこの状況を、大企業よりベンチャーが強い時があるのに似ていると例えます。制度が整っていなくても、一人ひとりのマンパワーがパフォーマンスにつながることがあるのです。
その国家の仕組みが整ってるからといって強いわけではないっていうのが面白いところなんですよね。
楊さんは、自分たちが無意識に「国家イコール強い」と思い込んでいたと振り返ります。制度に縛られて身動きが取れなかったり、腐敗したりすることもあるからです。一方で、実力で選ばれる遊牧民のリーダーは腐敗しにくいと深井さんは指摘します。
金と西遼の代理戦争と、チンギス・カンの登場
6世紀から9世紀には統一国家が存在したモンゴル高原ですが、それ以降は長く統一が実現しませんでした。深井さんは、この状態を群雄割拠の戦国時代に例えます。
この群雄割拠を利用していたのが、金 ── 12世紀に女真族が中国北部に築いた王朝。モンゴル高原の東側に接し、諸部族を代理戦争に利用しましたという国と、カラキタイ(西遼とも呼ばれる国)でした。両国はモンゴル高原の両脇にあり、各部族をどちらかの側に付けて代理戦争を行わせていたのです。
金と西遼の狙いは明確でした。代理戦争でモンゴル高原をかき乱し続けることで、中心に強力な国家が生まれないよう、部族がまとまらないようにしていたのです。
なんじゃそりゃ。
なぜそこまでするのか。理由は、モンゴル高原の人々がまとまれば非常に強く、まとまられたら勝てないからでした。利害が一致しづらく、リーダーが出てきづらいうちに、とにかくかき乱すという戦略だったのです。
そして、その状況の中に現れたのがチンギス・カンでした。もともと強かった者たちをまとめ上げたからこそ、彼は強かったのだと深井さんは語ります。
それをまとめて、だから元々強かったやつらをまとめることができたのがチンギス・カン。
樋口さんは、単語はすべて分かるのにピンと来るのが難しいと率直な感想を漏らします。深井さんは、シリーズの終盤でようやく腑に落ちるはずだと応じ、続きは次回へと持ち越されます。
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まとめ
チンギス・カンを理解するには、まず遊牧民という人々の前提を知る必要があります。過酷な環境で鍛えられたサバイバル力、略奪と交易を軸にした生活、そして株式会社にも似た組織のあり方が、彼らの強さの背景にありました。
- 遊牧民の暮らしは気楽なノマドとは程遠く、荒れ地で生き抜く能力社会だった
- 略奪と交易が生業に組み込まれ、生活物資は周辺の農耕文明から調達していた
- 全員が騎馬兵で、税も役所もなく、兵力に応じて略奪品を分配する株式会社的な組織だった
- 国家の仕組みが整っているから強いとは限らず、制度の整わない遊牧民が農耕国家を脅かし続けた
- 金と西遼はモンゴル高原を代理戦争でかき乱し続けたが、それをまとめ上げたのがチンギス・カンだった







