赤紙1枚で始まった5年間の従軍
やなせたかし編の第2回は、東京での楽しい学生生活から一転して戦争へと向かう時期がテーマです。語り手の楊睿之さんは、今回の内容がすべてやなせたかしの自著・自伝から取ったもので、アカデミックに歴史を検証したものではないと断っています。
楊さんは、やなせたかしの主観が多く入っているため、戦争を経験した方やその家族には不愉快に感じる部分があるかもしれないとしたうえで、あくまで彼の思いを伝えることが目的だと話します。
やなせたかしは21歳から26歳までの5年間、1940年から1945年の終戦まで陸軍に従軍しました。そのうち2年間は中国に派兵されましたが、運よく激戦地には行かず、大きな戦闘も経験せずに生きて帰国しています。
召集当時のやなせたかしは、田辺製薬の宣伝部でグラフィックデザイナーとして働いていました。そこに赤紙 ── 旧日本軍の召集令状の通称。淡い赤色の用紙だったことからこう呼ばれ、届いた人は指定の日時に入隊する必要がありましたが届き、業務の引き継ぎもできないまま会社を辞めて兵隊になります。
親戚たちは、子どもの頃から命令や団体行動が苦手だったやなせたかしが、嫌になって脱走するに違いないと本気で心配しました。憲兵に捕まれば死刑になるかもしれないと、どう逃がすかを真剣に話し合ったそうです。
さらにやなせたかしは、地元高知ではなく、縁もゆかりもない九州・小倉の部隊に入れられます。父は亡くなり、母は再婚し、育ての親である叔父叔母とも養子縁組をしていなかったため、地元以外の部隊に割り当てられたと楊さんは説明します。
入隊を担当した将校からは、戸籍上たった一人なのだから国家に身を捧げても泣く者はいない、心おきなく忠節を尽くせ、おめでとう、という言葉をかけられたといいます。
俺みたいな天才が何も成すことがなくて、鉄砲担いで死ねるかというふうに(やなせたかしは)思ったみたい。でもどうしようもないんですよね。
修羅の部隊で殴られ強くなった草食系男子
楊さんは、将校の言葉に「冗談じゃない」と思う人と「そうだ」と思う人がこの時代にどう分かれるのか、と問いかけます。当時のスタンダードは、むしろ将校の発言のほうだったからです。
やなせたかしが入った第12師団の西部73部隊は、要塞攻撃用の大砲を馬に引かせて運ぶ部隊でした。勇猛果敢な強者揃いで、73部隊が来ると他の日本の部隊が逃げ出すほどだったと楊さんは紹介します。
部隊には炭鉱や荷役で働いていた荒くれ者が多く、ヤクザも普通にいたそうです。文化系出身の草食系男子だったやなせたかしは、周りの九州の言葉も聞き取れず、とんでもないところに来たと暗い気持ちになりました。
新兵訓練も、やなせたかしの目には古めかしく映りました。木の銃で藁人形を突いたり、リアカーを戦車に見立てて爆弾を差し出す訓練をしたりする様子に、大和魂があれば勝てると言われても絶対無理だと感じたそうです。
軍隊内のしごきも激しく、教官や古参兵から意味もなく殴られ続けました。脱走者が出ると連帯責任でチーム全員が往復ビンタを受けたといいます。楊さんは、アンパンマンの顔が潰れて変形する描写はこの体験からではないか、と冗談まじりに推測しています。
叩く方楽しいのかな。叩く方もちょっとなんかやりたくない人とかもいるでしょうけどね。
ところが、やなせたかしは意外にも殴られ強くなり、教練を通じて肉体的にも精神的にも強くなっていきます。自分でも信じられないくらい精神の根底から叩き直された、と振り返っているそうです。
ちゃんとこれが機能しちゃうんだ。この意味のなさそうなビンタとかがちゃんと機能するんだね。おもろ。
班長の世話係、馬、そして人生の分かれ道
やなせたかしは、班の中で神様扱いだった班長のお世話係に命じられます。学校を出ているから気が利くと勘違いされたのだろう、と本人は語っています。
靴磨きや服の繕い、下着の洗濯まで引き受けた一方で、班長にずっとくっついていたおかげで、やなせたかしはビンタの風よけも得られました。
やなせたかしは大砲を運ぶ馬の世話も担当し、馬の世話が終わるまで自分の食事もできない馬中心の生活を送ります。ある時、馬の尻尾を引っ張って蹴られ、前歯を折ってしまいました。
中国派兵より前に、やなせたかしは軍馬を届けるため一度大陸へ渡っています。門司港から船でプサンへ、鉄道で満州を経由して、日本軍占領下の南京まで向かいました。満州の寒さは立ち小便がたちまち凍るほどで、暖を取ろうと馬に抱きついては噛まれたそうです。
入隊数か月後の幹部候補生の試験で、やなせたかしは上の階級の士官候補生に合格します。しかし試験前夜の馬の当番中に居眠りしたことがばれ、下の階級の下士官に下げられました。
まもなく中国の最前線に送られた
がっかりしたものの、しばらく小倉に残ることになった
がっかりした降格が、結果的に最前線行きを避けることにつながったわけです。楊さんは、人生の分かれ道はわからないものだと話しています。
暗号班と「殴らない軍曹」、特攻へ向かう弟
樋口さんは、あれだけ嫌がっていたやなせたかしが軍隊で頑張っている様子に注目し、本質をつかむ速さや柔軟性があったのでは、と話します。楊さんも、要領がよかったのかもしれないと応じます。
幹部の試験のあと、やなせたかしは暗号班に配属され、教室で乱数表の数字を足し引きする勉強をします。炎天下でしごかれる他の兵を窓から眺めて「楽ちんだな」と思う一方、解読ミスが部隊の集結命令を狂わせかねない緊張感もあったそうです。
先輩になったやなせたかしは、新兵を殴ってもよい立場でした。しかし、殴るのも殴られるのも嫌だからと新兵を殴らなかったことで、やなせたかしは人気の軍曹になります。戦後には新兵の家族から「班長さんがいい人でよかった」とお礼を言われたこともあったといいます。
小倉にいた頃、海軍に進んだ弟の千尋がやなせたかしを訪ねてきます。千尋はすでに海軍中尉で、兄より階級が上でした。訪問の目的は、海軍の特別攻撃隊に加わる前の最後の挨拶でした。
楊さんによると、当時はまだ人間魚雷はなく、千尋は甲標的 ── 旧日本海軍の特殊潜航艇。母艦から発進して敵艦に魚雷攻撃を仕掛ける小型潜水艇で、真珠湾攻撃などに投入されましたという奇襲攻撃用の潜航艇に応募したのではないかと言われているそうです。
なぜ志願したのかと怒るやなせたかしに、千尋は、特別任務を志願する者は一歩前に出ろと言われ、みんなが出るのに出ないわけにはいかなかったと答えました。
弟はね、僕はもうすぐ死んでしまうけれども、兄貴は生きてて絵を描いてくれというふうに弟は言うんですよ。もうどうしようもないんですよ、もう本当に。
やなせたかしは戦争が終わればまた弟に会えると信じていましたが、この面会が最後になりました。
死を覚悟した敵前上陸、待っていたのは農村だった
1943年、24歳のやなせたかしはついに中国へ派兵されます。佐世保から船で上海に渡り、行き先を知らされないまま再び乗船しました。「明日は敵前上陸」と命令が出た夜、やなせたかしは明日は死ぬと覚悟を決めたそうです。
未明に鉄のボートで海岸に向かい、この世ともおさらばだと思って上陸したものの、敵はいませんでした。奥へ進んでも敵襲はなく、のんびりした中国の農村風景が広がっていたといいます。
上陸地は福建省の福州で、やなせたかしの父が亡くなったアモイと同じ省の都市です。楊さんは、日本軍がこの地に派兵した理由を次のように説明しています。
想定
アメリカ軍は台湾を足がかりに日本本土へ上陸してくる
読み
台湾に侵攻するなら、対岸の福州に拠点を構えるはず
作戦
福州の中国軍を制圧し、アメリカ軍を迎え撃つ守備隊を置く
結末
アメリカ軍は沖縄を足がかりにし、作戦は空振りに終わった
やなせたかしの部隊が送られたのは市内から外れた農村部で、戦闘の影響はほとんどなく、村人は戦争中であることも知らなかったそうです。部隊は民家を兵舎にし、横穴を掘り、足りない大砲をごまかすために木で偽物の高射砲を作って茂みに隠しました。
紙芝居の双子と、絵が喜ばれた最初の体験
福州でのやなせたかしの仕事は、本来の暗号班に加えてプロパガンダでした。占領地の住民に日本の考え方を伝えて安心感を持たせ、治安の改善や食料調達、情報収集をしやすくするのが目的です。
やなせたかしはビラやポスターを作り、紙芝居を作って村人の前で上演しました。紙芝居は、離れて暮らす双子の兄弟の一方が傷つくと、もう一方も痛みを感じるという物語でした。
やなせたかしはこの双子を日本と中国に重ね、双子の兄弟だから仲良くしようと紙芝居で語ったそうです。樋口さんは、弟との経験も入っていそうだと感想を述べています。
紙芝居は人気で、上演が終わると村人がごちそうしてくれました。娯楽が少なかったからだろう、と楊さんは推測しています。
もうプロの画家やん。紙芝居描いてやって。で、金もらうって。まさか絵の才能が戦争に役立つと。
楊さんは、以前のプロパガンダ回で話した「プロパガンダはエンタメの形でやってくる」をまさに実行していると指摘します。チョークで描いた壁画も村人に喜ばれ、自分の絵が人に喜んでもらえたことが、やなせたかしの原体験の一つになりました。
とにかく目の前の人を喜ばせるっていうことに全集中する。そこの一点の目的のために彼は制作をしてるっていう側面がありますよね。
軍隊生活を記録した絵日記も仲間に喜ばれましたが、引き揚げの際に全部焼いてしまいました。機密に触れて連帯責任で仲間に迷惑をかけたくなかったためだといいます。
上海への行軍と、目の前の食料を食べられない飢え
アメリカ軍が福州に来なかったため、やなせたかしの部隊には上海への移動命令が出ます。重装備で毎日40キロを歩き、少しでも荷物を軽くするために手榴弾を池や川に投げ込み、魚を捕ったりもしたそうです。
行軍の途中では中国軍からの銃撃や迫撃砲、白兵戦もあり、やなせたかしは日本の将校が撃たれる場面も見ています。上海にたどり着いた直後にマラリアを発症しますが、行軍中だったら置き去りにされて生きていなかっただろう、と楊さんは話します。
上海でやなせたかしは、暗号班の仕事や軍隊内向けの壁新聞作りを続けます。そこで経験したのが、深刻な飢えでした。上海決戦に備えて食料を倹約せよと命令され、食事は薄いおかゆだけになります。
駐屯した村の市場には野菜も魚も並んでいたのに、買いに行くことは許されませんでした。食料が目の前にあるのに食べられず、タンポポのような草まで食べて空腹に耐えたといいます。
重労働とかストレスとか疲労とかあっても、若いから寝たらなんとか回復するんですよ。耐えられるんですよね。でも空腹だけはね。もう生物として耐えられないと。
楊さんは、この飢えの体験がのちのアンパンマンにつながっていくと話しています。暗号班にいたためか、やなせたかしは本土の空襲や広島・長崎への原爆投下も知っており、もう負けると思っていたそうです。
終戦後の部隊は、まるで文化祭
上海に移って2か月ほどで、1945年8月15日に戦争は終わりました。玉音放送を聞いたやなせたかしの気持ちは、やれやれ、やっと終わったのか、という安堵だったそうです。村人との関係も険悪ではなく、捕虜収容所に入れられたり石を投げられたりすることもありませんでした。
終戦後、食料についての命令は正反対のものに変わります。
上海決戦に備えて食料を倹約せよ。食事は薄いおかゆだけ
アメリカ軍や中国軍に取り上げられるのは癪だから、全部食べてしまえ
兵士たちはもう入らないほど食べさせられ、満腹になると走って腹を空かせてまた食べたそうです。
規律が緩むと、ヤクザだった兵士が賭場を開き、やがて近くの中国の農民も一緒に遊ぶようになりました。やなせたかしは興味がなく、行かなかったといいます。
同じ頃、部隊では絵や俳句、短歌、演劇サークルなどの文化活動が流行します。大日本帝国の敗北に落ち込んだ若いエリート将校たちが、なぜかやなせたかしのもとへ人生相談に来て、やなせたかしは絵の描き方を教えたりしていました。
演劇コンクールでは、やなせたかしが脚本、演出、主題歌を手がけ、ハーモニカの上手な兵士に作曲を、裁縫の得意な兵士に衣装を頼みました。主演女優には一番いかつい鬼軍曹を抜擢し、本人も乗り気で大爆笑になったそうです。
やなせたかしが作った故郷を思う歌は部隊で大人気になり、帰国時には記念に歌詞を書いてほしいと頼まれました。楊さんは、絵や歌でみんなに喜んでもらうこの経験も、彼の原体験だと話します。
秋元康やん。
コカ・コーラの冷蔵庫と、戻らなかった弟
楊さんは、東南アジアや沖縄では悲惨な状況もあった中で、やなせたかしの部隊はあまりひどい状況にならなかったと補足します。樋口さんは、悲惨な話しかない感覚があったので意外だと応じています。
引き揚げではアメリカ海軍の船に乗り、やなせたかしは初めてアメリカ兵を見ます。美しく凛々しいアメリカ兵と、真っ黒に汚れてボロボロの自分たちとの対比がみっともなかったと振り返っています。さらに冷蔵庫でコカ・コーラを冷やしているのを見て、これは負けるわけだと思ったそうです。
それでも帰れる嬉しさが勝り、日本の陸地が見えると兵士たちは踊り上がって喜び、泣く者もいました。佐世保港で殺虫剤をかけられ、その日のうちに除隊。援護局で家までの切符と、軍からの給料が入った通帳を受け取りました。
高知へ帰る列車で広島を通り、原爆の惨状に大きなショックを受けます。実家では、突然の帰宅に驚いた叔母が泣き崩れ、「ちいちゃんは死んだぞね」と告げました。
弟の千尋は輸送船ごとフィリピン沖で撃沈され、渡された骨壺には一片の骨もなく、名前を書いた木札だけが入っていました。番組では撃沈を「1944年」としていますが、同時に「終戦直前」とも話しています。
やなせたかしは涙も出ず、実感と悲しみが湧いたのはもっと後だったそうです。戦後は毎日のように仏壇で千尋のことを祈り、晩年も海を見るたびに、海の底に沈む弟を思い出していました。
やなせたかしは、優秀でみんなに愛された弟が理不尽に死に、コンプレックスの塊のような出来損ないの兄が生き残ったと捉えました。なぜ自分だけが生き残ったのか、自分は何のために生まれ、何をして生きるのか。楊さんは、ここで彼が最初に直面したこの命題に、人生の中で何度も向き合うことになると話します。
聞いていた深井さんは、この問いがアンパンマンの歌詞にあると気づきます。
戦争が残した3つの価値観と、語らなかった理由
楊さんは最後に、戦争を通じてやなせたかしの中に形成された価値観をまとめます。1つ目は、肉体的な苦痛はいつか慣れるが、ひもじさだけはどうしようもなく、何よりも耐え難いということです。
2つ目は、正義とはあやふやなものだということです。やなせたかしは、天皇は神であり、日本は中国の民衆を助ける正義のために戦うのだと教えられ、聖戦だと思わされて戦争に行きました。
天皇は神様であり、日本は中国の民衆を助けるために聖戦を戦っている
中国から見れば日本は侵略者。東京裁判で裁かれ、国内では急に平等と民主主義が唱えられた
このガラリと変わる混乱が、やなせたかしの中にリアルな原体験として刻まれました。戦争する国はどちらも自分を正義と主張し、正義と正義が対立しているだけで、相手をやっつければみんな幸せになるほど単純な話ではない、と考えるようになったといいます。
3つ目は、社会で一番憎悪すべきものは戦争だということです。戦争は一種の狂気で、どんなに優しい人でも銃を向けられれば撃たざるを得なくなり、普通なら考えられない行為もしてしまう、とやなせたかしは考えました。のちに『僕は戦争は大嫌い』というタイトルの本も出しています。
一方で、やなせたかしは長い間、長年のスタッフにさえ戦争体験をほとんど話しませんでした。空襲も激戦地も知らず、敵に実弾を撃ったこともなく、意味もなく動き回っていただけで、本土の国民のほうがよほどつらい目を見たという引け目があったからです。
それでも晩年に戦争の本を出したのは、同世代で戦争を語れる人がほとんどいなくなり、記憶が忘れ去られることに危機感を抱いたからでした。人間は過去を忘れると同じ失敗を繰り返すので、若い人につらい経験をさせないために語るようになったといいます。
現代人に想像できない飢えと、早すぎた気づき
樋口さんは、現代日本で本気の飢えを経験するのはむしろ難しく、自分にとって一番空腹だったのは無理なダイエットくらいだと話します。お金を出せば24時間食べ物が手に入り、炊き出しもある今は、究極の飢えは想像するしかありません。
楊さんは、この飢えの体験から、やなせたかしが「今人気のヒーローは自分を救ってくれないのではないか」という観点を得ていくと予告します。スーパーマンやバットマンは、俺のこの飢えを救えるのか、という問いです。
出演者の一人は、90年代のアメリカ映画はテロリストやロシア系を敵にした分かりやすい善悪で描かれていたが、最近のNetflix作品では黒幕が意外な側にいるなど、単純な白黒ではなくなってきたと話します。そのうえで、正義が簡単に逆転することに当時気づけたやなせたかしは、かなり早かったと評価しています。
楊さんは、やなせたかしがそれを表現する手段を持っていたことにも触れ、しかも飢えにフォーカスした点が特徴だと会話が続きます。樋口さんは、藤子・F・不二雄も「正義の反対は悪ではなく、また別の正義」という趣旨の言葉を残していたと記憶を挙げています。
アンパンマンが生まれるのはまだ何十年も先ですが、楊さんは、こうした人生経験を踏まえて大人がアンパンマンを見ると、さまざまな解釈ができるようになると話します。バイキンマンのあり方についても、後の回で詳しく触れると予告して第2回は締めくくられました。
まとめ
やなせたかしの5年間の従軍は、激戦とは無縁だった一方で、理不尽な暴力、弟の死、深刻な飢え、そして敗戦による価値観の逆転に満ちていました。紙芝居や歌で人を喜ばせた体験も含め、この時期がのちのアンパンマンの土台になっていきます。
- 縁もゆかりもない小倉の荒くれ部隊に入ったやなせたかしは、意外にも適応し、新兵を殴らない軍曹として慕われた
- 福州でのプロパガンダの紙芝居や、終戦後の演劇・歌作りが、自分の作品で人を喜ばせる原体験になった
- 上海で食料を前に食べられなかった経験から、肉体の苦痛よりも飢えが耐え難いと骨身に染みて感じた
- 特攻に志願した弟の死と敗戦後の混乱から、正義は立場次第で容易に逆転するという価値観が生まれた
- 戦争体験に引け目を感じて長く語らなかったが、記憶が失われる危機感から晩年に語るようになった



