敗戦で空っぽになった青年を、廃品回収が動かした?
やなせたかし編の第3回は、戦争が終わり、やなせたかしが中国から高知の実家へ帰ってきたところから始まります。
楊さんによると、やなせたかしは戦争を通じて「正義は逆転する頼りないものだ」と身をもって知りました。弟も亡くし、しばらくは敗戦ボケのような状態で、何も考えられなかったそうです。
そんなやなせたかしに、元戦友が廃品回収の手伝いを持ちかけます。進駐軍が出したクズから使えそうなものを掘り出し、闇市で売る商売でした。
廃品の中には、進駐軍の雑誌が捨てられていました。デザインのセンスも装丁も美しく、紙の質まで高かったことに、やなせたかしの心がうずき出します。
やっぱまた(やなせたかしは)デザインの仕事してえなと思うんですよ。面白いですよね。
廃品回収からそこ(デザインの仕事)につながっていくの?
楊さんは、何をして生きていけばいいのかわからない中で、やなせたかしが次の一歩を踏み出すきっかけになったのが、この廃品回収の仕事だったと説明します。
この頃、やなせたかしは久しぶりに実母とも再会しています。再婚相手に先立たれ、一人で田舎に暮らしていた実母の家に泊まった夜、実母は枕元で小さく「許してね」と言ったそうです。
やなせたかしは、そのとき眠ったふりをしていたと自分で書き残しています。樋口さんは、2025年の朝ドラで描かれたらたまらない場面になりそうだと反応していました。
高知新聞で出会った、バッグを投げつける同僚
デザインの仕事がしたいと考えたやなせたかしは、高知新聞に就職します。雑誌の立ち上げに関わり、編集メンバーとして座談会の司会、取材、編集、紙面のイラストや漫画まで何でもこなしました。
まあ一人おったら便利でしょうね、こういう人が。絵描けて司会できて。
この雑誌チームで、やなせたかしは生涯を共にする小松ノブ小松ノブさんと出会います。楊さんによれば、ノブさんはとにかく気が強い人でした。
広告費を踏み倒そうとする会社の社長に、ノブさんは「はっきりしてよ、払うの払わないの?」と迫り、持っていたバッグを投げつけたといいます。やなせたかしはそれを見たのか聞いたのか、ハートを撃ち抜かれたそうです。
一方のやなせたかしは、自他ともに認める恋愛の奥手でした。昔、夜の公園でデートした相手に「殺し文句を言ってよ」とせがまれ、言葉を探しているうちに明るい街へ出てしまい、「あなたっていい人だけどダメだよね」と振られた経験があります。
そんなやなせたかしに、プロポーズしたのはノブさんのほうでした。大雨の後の雷が鳴る夜道、ノブさんは突然「柳瀬さんの赤ちゃんが産みたい」と告げます。
その一言で、柳瀬(やなせたかし)の心はたちまちに燃え上がって、抱きしめたんですよね。
やなせたかしはこの瞬間、遠くで紫色の閃光が夜のカーテンを切り裂くのが見え、この人と結婚しようと決心したと書いています。楊さんは「詩人だね」と笑っていました。
六畳一間から始まった東京生活と、戦後のエンタメ熱
高知で働いていたやなせたかしは、やがて上京を望むようになります。仕事をもっと本格的にやりたい気持ちに加え、青春を過ごした銀座への憧れがありました。
やなせたかしは、新聞社で自分にジャーナリストの適性がないとも感じていました。地震が起きて同僚がすぐ取材に飛んだとき、自分はのんきに寝ていて、それが恥ずかしかったそうです。
先に上京して代議士の秘書として働いていたノブさんを追い、やなせたかしも新聞社を辞めて東京へ出ます。法律婚はせず、事実上の夫婦としての生活でした。
二人の新婚生活は、屋根に穴が開いた共同トイレの六畳一間から始まりました。寒いので同じ布団で抱き合って寝ていたという話に、樋口さんは「なんかいいな」としみじみ反応します。
楊さんは、やなせたかしの上京は判断として間違っていなかったと話します。空襲で焼けた東京では闇市がひしめく一方、戦時中に抑圧されていた日本人が活字や音楽、漫画などのエンタメに飢えていました。
新しい雑誌が次々と創刊され、出せば必ず売れたといいます。戦後の東京は、クリエイターにとってチャンスの時代でした。
なんとかもうそれ(戦争のトラウマ)に蓋をしてさ、振り切ってさ、もうとにかく忘れたかったんですよ、みんな。柳瀬(やなせたかし)もそう。
やなせたかし自身も、戦争は嫌いだから早く忘れたかったと語っています。楊さんは、そのエネルギーが戦後日本を消費とエンタメの時代へ押し出したのではないかと考えています。
今も使われる三越の包装紙は、やなせたかしが手がけた
東京でやなせたかしが転職したのは、三越の宣伝部でした。売り場の看板や店内装飾、ショーウィンドウのデザインに加え、画家に絵を依頼するアートディレクターのような仕事もしていました。
この三越時代にやなせたかしが担当したのが、包装紙のリニューアルです。白地に赤い丸みのある文様が並ぶデザインで、現在も使われています。
絵を描いたのは当時の花形画家、猪熊弦一郎 ── 香川県出身の洋画家。戦後の日本を代表するモダニズムの画家の一人で、三越の包装紙「華ひらく」の原画でも知られますでした。案件の担当はやなせたかしで、文様の中にローマ字で書かれた「mitsukoshi」の文字はやなせたかしが描いたものだそうです。
ああ、これや。はいはいはい。
ただ、三越社員としてのやなせたかしは、本人いわく扱いにくい人物でした。最初から三越で一生を終える気はなく、権威が嫌いでよく反抗したといいます。
平社員なのに部長より高い弁当を平気で食べ、「俺の自由意志だから、階級差をつける意味はない」という態度だったそうです。束縛も極端に嫌い、社内で副業を堂々とこなしていました。
副業は漫画でした。漫画家の集団「独立漫画派」に参加し、仕事終わりに銀座の事務所へ通っては、グループが受けた漫画の仕事を分担して原稿料を得ていました。
やがて漫画の収入が三越の給与を上回り、サラリーマン生活がつまらなくなったやなせたかしは、6年勤めた三越を辞めます。漫画界に衝撃を与える作品を描きたいという思いがありました。
独立した漫画家を待っていた「めっちゃ暇」
三越を辞めて漫画家になったやなせたかしを待っていたのは、楊さんいわく「めっちゃ暇」な日々でした。
妻のノブさんが外で働くあいだ、やなせたかしは縁側でぼーっとし、黒板を買ってきてありもしない予定を書き込み、忙しいふりをしていたそうです。
まあまあ、それはそうだね。それはそうだ。
仕事がまったくないわけではありませんでした。連載を25本ほど持ち、現在のサッポロビールにあたる日本ビールのCM用4コマ漫画も描いていました。
それでも、やなせたかしは漫画家として名刺代わりの作品を作れませんでした。同じ頃に始めた仲間が次々と売れていく中で、本人は理由を「絵が下手でセンスがない」と自己分析しています。
もう一つの理由が、漫画ブームの変化です。やなせたかしの得意はシンプルな線で描く4コマ漫画でしたが、時代は写実的な劇画へと移っていきました。
シンプルな線画の4コマ漫画
ゴルゴ13や北斗の拳の系統のような、写実的な劇画
確かにそれ(劇画)に対しては画力がちょっと足りてないんでしょうね。
食べていくため、やなせたかしはイラストや4コマなど細かな下請け仕事を何でも引き受けました。器用さもあって「困った時の柳瀬さん」という評判が立ちますが、楊さんは「良くも悪くも」だと強調します。
50歳まで続いた便利屋生活と、置き去りにされる感覚
楊さんは、漫画家は誰もが知る人気キャラクターを持たなければ存在しないのと同じだと説明します。鉄腕アトムといえば手塚治虫、ドラえもんといえば藤子・F・不二雄、という具合です。
ここで深井さんが確認したのは、手塚治虫がやなせたかしより10歳年下だという点でした。やなせたかしの便利屋生活は50歳まで続き、そのあいだに手塚治虫をはじめ多くの漫画家に抜き去られていきます。
やなせたかしは、テレビ、ラジオ、芸能界から来る仕事をすべて引き受けました。コントや脚本を書き、ステージの演出や舞台美術まで手がけるうちに、自分の本業が何なのかわからなくなっていったそうです。
知り合いの評論家からは「何か一つの仕事に絞らないと、あなたの漫画は何かがはっきりしませんよ」と忠告されます。それでも、食べていくためには仕方がありませんでした。
同じ頃の漫画界には、鉄人28号、おそ松くん、ゲゲゲの鬼太郎、巨人の星、あしたのジョー、ドラえもん、ガラスの仮面などが次々と生まれていました。頂点には「神様」手塚治虫が君臨していたと楊さんは語ります。
その神様(手塚治虫)が10歳年下なんでしょ?だって。
サイン会では子どもたちに「ドラえもんの絵を描いて」とせがまれ、漫画家仲間の世界旅行にも誘われませんでした。やなせたかしは、序列が下だから当然だと思いつつも、深く傷ついたといいます。
樋口さんは、絵で食べられない人が大勢いる中で絵で食べられていたのだから、どこを基準にするかだと指摘します。楊さんも、客観的には普通に優秀なクリエイターだったのは間違いないと話します。
実際、第一線の芸能人や歌手が次々と仕事を持ち込み、芸能界の人脈も広がりました。台本の書き方やステージ演出など多くのスキルも身につけ、楊さんによれば、この下積みの財産は後にすべてアンパンマンに生かされることになります。
『手のひらを太陽に』はなぜ「悲しいんだ」から始まるのか
パッとしないと本人が感じていた下積み時代にも、代表作は生まれています。その一つが『手のひらを太陽に』です。
ニュース番組の曲を頼まれて徹夜していた夜、やなせたかしは退屈しのぎに子どもの頃のレントゲンごっこを思い出し、懐中電灯を手のひらに当ててみました。
すると血の色が驚くほど赤く透けて見えました。自分はこんなに絶望しているのに、体には赤い血が流れている。心は元気がなくても血は元気なんだと、励まされたような気がしたそうです。
徹夜の退屈
ニュース番組の曲を頼まれて夜通し作業していた
レントゲンごっこ
懐中電灯を手のひらに当て、赤く透ける血を見る
自分への励まし
心は元気がなくても血は元気なんだと感じる
フレーズの誕生
「手のひらを太陽に透かして見れば」が浮かぶ
作曲は、坂本九の『見上げてごらん夜の星を』も手がけたいずみたく ── 昭和を代表する作曲家の一人。多くのCMソングや歌謡曲、ミュージカル作品を手がけましたです。楊さんは、この組み合わせも芸能界の仕事を幅広く受けてきた人脈があったからだと話します。
この歌はNHKの『みんなのうた』で放送されて全国で歌われ、小学校の音楽の教科書にも採用されました。
楊さんが注目するのは「生きているから悲しいんだ」という歌詞です。やなせたかしは、悲しみがなければ喜びはなく、不幸にならなければ本当の幸福はわからない、ということを伝えたかったそうです。
樋口さんは歌詞を見ながら、同じ箇所が1番から3番で変わっていく構成に気づきます。
| 番 | 歌詞 | 樋口さんの読み |
|---|---|---|
| 1番 | 生きているから悲しいんだ | 影 |
| 2番 | 生きているから嬉しいんだ | 光 |
| 3番 | 生きているから愛するんだ | すべてを包括する愛 |
「ミミズだってオケラだってアメンボだって」という一節について、楊さんは、弟と遊んだ田舎の原風景が反映されているのではないかと推測しています。生き物すべてに同じ命が宿っている、という思いが込められているのかもしれません。
善と悪を一緒に描く「二項共存」と『チリンのすず』
楊さんは、やなせたかしの作品に共通するのは、誰でも書けそうな言葉で深い命題を表現するスタイルだと話します。子どもから老人まで楽しめるものでなければいけない、というのが本人の信念でした。
これ、マジで分かりやすさと深さを両立するって一番難しいやつですからね。
楊さんが挙げるもう一つの特徴は、1つの作品に相反する感情を2つ以上入れていることです。悲しみと嬉しさ、喜びと痛み、善と悪を同時に描き、どちらかが100%にはならないといいます。
二項対立じゃないんですよね。二項共存みたいな、そういった感じですね。
樋口さんは、これは明らかに戦争体験から来ているのではないかと指摘し、楊さんも同意します。どちらが正義でどちらが悪とは言えない、という感覚です。
その特徴がよく表れた作品として、楊さんは59歳のときの絵本『チリンのすず』チリンのすずを紹介します。母を狼に殺された子羊のチリンが、正体を隠して仇の狼に弟子入りする物語です。
いつも嫌われていた狼は、弟子にしてほしいと頼まれて初めて心が温かくなり、チリンを毎日鍛えます。やがて羊には見えない獣に育ったチリンは、嵐の夜に狼を角で突き刺します。
狼は「いつかこういう時が来ると覚悟していた。お前にやられてよかった」と言って死んでいきます。チリンは狼が先生であり父のような存在だったと気づきますが、もう羊には戻れず、たった一人になってしまいます。
なんかもうハッピーエンドちゃんちゃんじゃないんですよね。
楊さんは、この作風が藤子・F・不二雄のSF短編シリーズにも似ていると話します。価値観が入れ替わる時代を生きた世代の漫画家には、こうしたエグいものへの感覚があったのかもしれない、という見立てです。
50代の転機。一晩で書いた『やさしいライオン』
50代前後、やなせたかしに3つの転機が訪れます。この頃、漫画ではなく、絵本や童話を書きたいという表現のコアが徐々にできあがっていました。
原点は、幼い頃に読んで最も衝撃を受けたというルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』でした。ただ童話を書いた経験はなく、どの出版社も相手にしてくれなかったそうです。
1つ目の転機は偶然から始まります。ラジオ局のディレクターから、脚本家の原稿が遅れて番組に穴が開きそうだと、明日までに30分のドラマを頼まれたのです。
何言ってんの?この人。
楊さんいわく、ここでも「困った時の柳瀬さん」でした。やなせたかしが徹夜で書き上げたのがラジオドラマ『やさしいライオン』で、放送されると評判になります。
『やさしいライオン』はその後、現在アンパンマンを出版しているフレーベル館から絵本化され、ロングセラーになりました。社名は、幼稚園をつくったドイツの教育者フリードリヒ・フレーベル ── 19世紀ドイツの教育者。世界で初めて「幼稚園」を創設し、遊びを通じた幼児教育を重視しましたに由来します。
急な依頼
ラジオ局から明日までに30分のドラマを頼まれる
徹夜で執筆
ラジオドラマ『やさしいライオン』を書き上げ、評判になる
絵本化
フレーベル館から絵本になり、ロングセラーに
新しい領域
縁のなかった幼児向けコンテンツの制作へ広がる
楊さんは、もしやなせたかしが漫画しかやっていなかったら、ラジオ業界とつながることはできなかったと強調します。遠回りに見えた便利屋生活が、チャンスの入り口になったわけです。
ずっと構想とか考えてたんだろうね。じゃないとさ、そんなクオリティの高いものを一晩で確かにできないじゃん。
深井さんと楊さんは、自分たちもコテンラジオをやっているからこそ、30分のドラマを一晩で仕上げる大変さがなんとなくわかると笑い合っていました。
母と子を引き裂いた『やさしいライオン』の結末
楊さんによると、『やさしいライオン』にアンパンマンは登場しませんが、アンパンマンを生むきっかけになった重要な作品です。
物語の主人公は動物園の犬とライオンです。太っている犬のムクムクが、いつも震えているライオンのブルブルの母親代わりになります。
大人になったブルブルはムクムクから引き離され、サーカスの人気者になります。ある夜、懐かしい子守歌を聞いたブルブルは檻を破り、雪の丘で年老いて死にかけたムクムクを見つけて抱き合います。
ところが、ライオンを見た街の人が呼んだ警官に、ブルブルは撃たれて死んでしまいます。ムクムクをしっかり胸に抱いたままでした。
どっちの気持ちわかるよね。撃ってる方も撃たなきゃってなるやつ。
楊さんは、この物語には実の両親ではなく叔父と叔母に育てられたやなせたかしの少年時代の心象風景が重なっていると話します。樋口さんも、ブルブルが本人なのかもしれないと受け止めました。
やなせたかしは、世界には嘘や暴力やどうしようもないことがあり、ふわふわした優しい話だけでは大事なものを子どもに伝えられないと考えていました。楊さんは、賛否両論はあると思うと添えています。
『やさしいライオン』はやなせたかしの名刺代わりとなり、アンパンマンへの道を開きます。そして2つ目の転機として、ある日「神様」手塚治虫から一本の電話がかかってくるところで、この回は次回へ続きます。
まとめ
今回のやなせたかし編は、戦後の空白から始まり、何でもこなせるがゆえに長く便利屋として消費された下積みの日々が、『手のひらを太陽に』や『やさしいライオン』という代表作へとつながる過程を描いた回でした。
- 廃品回収で見た雑誌をきっかけに、やなせたかしは再びデザインの道へ向かい、三越の包装紙も手がけた
- 劇画ブームについていけず、50歳まで続いた便利屋生活は、本人にとって置き去りにされる苦しい時代だった
- 『手のひらを太陽に』は、絶望の中で自分を励ますために書かれ、悲しみと喜びを共存させる世界観が込められている
- 急な依頼を一晩で仕上げた『やさしいライオン』は、幅広い仕事で培った人脈とスキルから生まれ、アンパンマンへの道を開いた



