戦争を経験したクリエイターは何が違うのか
コテンラジオの新しいシリーズの題材は、アンパンマンの作者やなせたかしです。この回は、やなせたかしという人物の紹介から始まります。
深井さんは、やなせたかしの断片的な情報を知っただけで「やべえ人だ」と感じていたといいます。関心を持った理由として、やなせたかしが戦争経験者であることを挙げています。
戦争経験した後に何か生み出してる日本人の人たちってすげえ人が多い気がする。
深井さんは例として、ワコールの創業者や、哺乳瓶で知られるピジョンの創業者、漫画家の水木しげるの名前を出します。どの人も戦争を経験したあとに事業や作品を生み出しており、信念の強さを感じると話しています。
楊さんも同じ感覚を持っていると応じます。日本はアニメや漫画で世界に知られていますが、戦争や飢えのような凄まじい原体験を持つクリエイターと、そうでないクリエイターとでは毛色が違うと感じているそうです。
しかもアンパンマンは彼がおじいちゃんになってからの作品なんですよ。
やなせたかしは2013年に亡くなっています。出演者の一人は、家に子どもがいるのでアンパンマンのグッズがたくさんあり、子どもたちはアンパンマンの顔を見ただけで楽しそうにすると話しています。
天丼マンやロールパンナのように、アンパンマンには食べ物のキャラクターが大勢出てきます。子どもはあのキャラクターで食べ物を覚えるらしい、という話も出ました。楊さんによると、天丼マンはやなせたかしがその時期に天丼を好きだったから作ったそうで、キャラクター作りはそのくらいのノリだったといいます。
絵本作家は一つの顔にすぎない、マルチな経歴
楊さんは、アンパンマンは2世代、3世代にわたって親しまれてきた国民的ヒーローだと話します。そのうえで、今回のシリーズは通常の4話構成ではなく6話構成になると告げます。やなせたかしが凄まじい哲学を持ってアンパンマンを作っており、しかも戦争を経験しているため、その分だけ話数が増えるそうです。
やなせたかしは、アンパンマンの印象から絵本作家として知られています。絵本だけで500冊ほど出していますが、楊さんによると、それは彼の一面にすぎません。
やなせたかしの最初のキャリアは、商品のポスターやパッケージを手がけるデザイナーでした。その後の仕事は多岐にわたります。
楊さんは、当時やなせたかしを「マルチ人間の祖」と評した声もあったと紹介します。ただ、やなせたかし本人はその器用さを嫌がっていたそうです。
いろんなことができるっていうのは、自分の代表作を持てないということなんですよ。
やなせたかしは、やったことのない仕事でもセンスで乗り切ってしまうため、また次の仕事を頼まれました。それでも本人の中では便利屋扱いで、使い潰されているという感覚が何十年も続いたといいます。その最後に生まれたのがアンパンマンでした。
中国の戦地とアンパンマンはどうつながるのか
楊さんは、やなせたかしと手塚治虫の違いにも触れます。2人とも戦争体験者ですが、やなせたかしは実際に兵隊として中国に派兵されています。楊さんは、その辛い経験がアンパンマンの根底にも流れていると話します。
え、ちょっと結びつかないですね、あの平和な世界と。戦争っていう。
楊さんは、やなせたかしは子ども向けに受け入れやすい表現をしているだけで、根底には本人の強烈な体験が効いていると説明します。
楊さんは、アンパンマンは世界的なヒーローと比べても負けていないと考えています。先出しの情報として、最初のアンパンマンは食べ物ではなく人間だったことも明かされました。
で、ほら、(アンパンマンは)顔をちぎってひもじい人に食べさせるじゃないですか。それだけだったらいいんですけど、その代わりに自分がパワーダウンするんですよ。
楊さんはさらに、アンパンマンはいろいろなキャラクターから愛されているのに、主題歌では「愛と勇気だけが友達」とされている点を挙げます。これには樋口さんも、子ども心に引っかかっていたと応じました。
深井さんは、アメリカのヒーローの多くは命を助けるか敵を倒す存在だと指摘します。自分の顔を差し出し、しかもパワーダウンするという設定は、冷静に考えると特異だと出演者たちは話しています。楊さんによると、なぜその設定にしたのかも、やなせたかし自身がすべて語っているそうです。
伊勢平氏の末裔に生まれた、文芸一家の少年
やなせたかしは1919年、大正8年に東京で生まれました。生まれる3か月前に第一次世界大戦が終わった、という時代です。
やなせたかしの本名は、名前をそのまま漢字にした柳瀬嵩です。楊さんによると、「嵩」の字は嵩山 ── 中国・河南省にある名山。少林武術で知られる少林寺があることで有名ですに由来します。中国に留学していた父が、思い入れのある山の名から取って息子に付けたそうです。
両親はともに高知の出身です。父の柳瀬清は伊勢平氏 ── 桓武平氏のうち伊勢国を拠点とした一族。平清盛を輩出した平家の主流ですの末裔とされ、柳瀬家は300年続く家柄だといいます。
父の柳瀬清は文学と美術を愛する文芸青年で、家には石川啄木の歌集、宮沢賢治、落語、ロシア文学の本が揃い、クラシックのレコードもありました。父は上海にあった日本の私立大学に留学し、中国語を徹底的に身につけています。
母は高知の大地主谷内家のお嬢様で、美人で勝ち気、社交的な性格でした。しつけは厳しく、言葉より先に物差しで叩かれたといいます。
(母は)小さい頃のやなせたかしに「お前は正直すぎるんだ、もっとずる賢くならないと世間を渡っちゃいけないよ」というふうに、発破をかけてた。
弟の千尋は兄にべったりで、2人は川で泳いだり、朝から晩までチャンバラごっこをしたりするほど仲が良かったそうです。楊さんは、この家族全員がやなせたかしの価値観の形成に関わってくると話します。
やなせたかし自身は、子どもの頃の自分を内向的でおとなしく、目立たない子だったと振り返っています。著書では自分を自閉症気味だったとも書いているそうです。活字なら大人向けの雑誌でも婦人雑誌でも読み倒し、絵とクレヨンがあれば何時間でも一人で遊べる子どもでした。
5歳で父を亡くし、7歳で母と別れる
やなせたかしが5歳のとき、記者になっていた父が、出張先の中国・アモイで亡くなります。病死とみられています。幼い兄弟には何が起きたのか理解できず、葬式で大人たちが泣く中、梅の木の下でビー玉遊びをしていたそうです。
父の死後、柳瀬一家はすでに高知に戻っていました。弟の千尋は、開業医をしていた父の兄の養子になります。やなせたかしは母と祖母と暮らしますが、母は自活の道を探して習い事に忙しく、実際には祖母に育てられたようです。
母の周りにはいつも男性がいて、やなせたかしは周囲から母の悪口を聞かされていたといいます。それでも母と映画や芝居を見に行くのが好きで、母のことを嫌いではありませんでした。
やなせたかしが7歳のとき、母は再婚し、2人の子どもを置いて家を出ます。別れ際に母が兄弟に伝えた言葉を、楊さんは次のように紹介しています。
「おじさんの言うことをよく聞いて、早く体を良くなってね、あなたたちの体が良くなったら、お母さんは迎えに来るからね」っていう風に言ったそうなんですよね。
楊さんは、これは子どもをその場で納得させるための嘘だったと話します。母を悪く言う大人に、弟は噛みついて抵抗しました。兄弟は体を丈夫にすれば母が迎えに来ると信じ、2人で冷水摩擦に励んで、かえって風邪をひいたといいます。
優しい伯父夫婦の家で、なぜ甘えられなかったのか
やなせたかしも、弟が養子になった伯父夫婦の家に引き取られます。ただし、やなせたかし自身は養子にはならず、居候という形でした。
伯父は読書家で俳句をたしなみ、バイクも乗り回す文化人でした。伯父の病院は教師や知識人が集まるサロンになっていて、毎晩のように宴会が開かれていたそうです。伯父の病院の跡地は、現在、高知で記念公園になっています。
伯父夫婦はやなせたかしを大切に育て、やなせたかしもいつしか2人を「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになります。特に伯母は優しく、ほとんど叱られることがなかったといいます。
ただし、子どものいない伯父夫婦は弟を溺愛しました。夜になると、弟は伯父夫婦に挟まれて奥座敷で寝ますが、やなせたかしは玄関横の勉強部屋で寝ていました。
だから(伯父夫婦に)心を開ききれない、甘えられないっていうふうな感覚があった。
やなせたかしは、本当は行きたかった修学旅行を、お金を出してもらうのが心苦しくて「行きたくない」と嘘をついて断りました。実の母に会いに行くときも、伯父夫婦は嫌な顔をせずに送り出してくれます。そのことがかえって申し訳なく、愛情に応えられていないと感じていたそうです。
戸籍謄本の「バツ」と、弟と比べられ続けた劣等感
入学試験のために戸籍謄本を取り寄せたとき、やなせたかしは、自分以外の家族すべてにバツが付いているのを目にします。父は死亡、母は再婚、弟は養子で、残っているのは自分の名前だけでした。
孤独に加えて、やなせたかしは劣等感の塊でした。不器用で運動が苦手で、自分の竹とんぼだけが飛ばずにポトンと落ちたことを、ずっと物悲しく覚えていたといいます。大人になっても折り鶴が折れなかったそうです。
やなせたかしの劣等感を強めたのは、周囲の大人が弟と比べ続けたことでした。やなせたかしと弟の立場は、小学校と中学校で逆転します。
小学校では、やなせたかしが首席で卒業。弟は病気がちで成績も振るわなかった
中学校では、弟が頑丈になり、柔道も勉強もできる人気者に。やなせたかしは数学ができず、勉強をしなくなった
弟は最終的に京都帝国大学の法学部に進み、ドイツ語も読めたといいます。周囲からは、弟こそ柳瀬家のホープだと見られていました。
やなせたかしは、遊びの柔道で弟に内股で倒されて笑われたとき、逆上して弟を泣くまで叩きのめしたこともあったそうです。皮膚がかぶれやすく、全身を包帯で巻かれた時期もあり、心はひねくれ、外見もよくないと自分を責めていました。
イメージを変えようと、不良になろうとしたり、芥川龍之介のような病的なインテリを目指して雨の中を歩き回ったりしましたが、どれもうまくいきませんでした。
中学を卒業するまで、やなせたかしは理由のわからないまま泣いてばかりいたといいます。夜の線路に寝転んで自殺を図ったこともありますが、列車が近づくと怖くなって逃げ出しました。家出をして町の消防隊が総出で探したこともあります。空腹に耐えかねて深夜に帰宅しても、伯父夫婦は怒らなかったそうです。
家庭環境は確かに複雑だけれども、悲惨というほどでもなく、むしろ恵まれていたというふうに大人になった柳瀬嵩は振り返っています。
絵と本を支えに挑んだ二浪の受験
コンプレックスの塊だったやなせたかしを支えたのが、絵と本でした。絵を描いている間はコンプレックスを気にせずにいられ、うまいと褒められる喜びも知ります。
同級生の姉が人気漫画家の妻で、その漫画家が女優と写っている写真を見たことから、やなせたかしは漫画家に憧れるようになります。町に1軒しかない本屋へ新刊を買いに行くときは胸が躍り、連載小説を熱心に読みました。
絵で食べていきたいと考えたやなせたかしに、伯父は「少し絵がうまいくらいでは食えない、デザイン(当時の言葉で図案)を狙え」と助言します。やなせたかしはこの助言に従って受験に挑みますが、合格までに2浪しています。
二次試験の後も、やなせたかしは自信がなく、再び縄を首に巻いていたといいます。合格を知ったときの感動は、70年以上たっても忘れられないと振り返っています。
「銀座で遊べ」という先生と、イキる高校デビュー
やなせたかしが入学したのは、現在の千葉大学工学部にあたる東京高等工芸学校 ── 1921年に東京に設立された官立の高等工芸学校。工業デザインや印刷などを教え、戦後は千葉大学工学部の母体になりましたの図案科です。ここでグラフィックデザインやポスターの描き方を学びます。やなせたかしは、自分の生き方や人生の考え方はすべてこの学校で学んだと振り返っているそうです。
中学を卒業したころから、やなせたかしの性格は憑き物が落ちたように落ち着きます。学費や生活費は伯父夫婦が出してくれ、上京したやなせたかしは解放感にあふれていました。
ここは銀座に近いから、一日に一度ぐらい銀座に出て散歩してくださいと。そこで吸収するものは学校で習うものよりも栄養になる。
これは担任の杉山先生の言葉です。杉山先生は、デザイン科に入ったからといってデザイナーにならなくてもいい、小説家でもダンサーでもいいとも話したそうです。やなせたかしは感激し、講義をサボってまで毎日のように銀座へ出て、映画、演劇、キャバレーを終電まで楽しみました。
やなせたかしは『キングコング』『フランケンシュタイン』『透明人間』などのSF映画を好んで観ています。美術展では有名な画家の作品をこき下ろし、「ちょっと上手いのはピカソぐらい」と言うほど尖っていたそうです。
こういう人がね、アンパンマン作るってマジ面白い。
クラスは20人ほどで、みんな兄弟のように付き合っていました。誰かがコンペで賞金を取ると、みんなで旅行に使ってしまうような学生生活だったといいます。
伯父の死、兄弟の別れ、そして1年で届いた赤紙
卒業の年、それまで兄弟を支えてきた伯父が亡くなります。兄弟は遺体の前で声を合わせて泣き、「お父さん、迷惑ばかりかけました」と謝ったそうです。
伯父の死によって、兄弟は離れ離れになります。養子だった弟は家を継ぐことになり、自由な身のやなせたかしをうらやみました。楊さんは、この兄弟の別れが後の話につながると予告しています。
やなせたかしは現在の田辺三菱製薬にあたる田辺製薬にデザイナーとして入社し、商品のポスターや広告イラストを担当します。同級生と一緒の入社で、のびのびと働いていました。
卒業
伯父が亡くなる
兄弟の別れ
弟は家を継ぎ、やなせたかしは自由な身になる
就職
田辺製薬でデザイナーとして働く
徴兵
社会人1年目で兵隊にとられ、翌年に真珠湾攻撃が起きる
やなせたかしの社会人生活は1年で終わります。徴兵されたからです。やなせたかしが徴兵された翌年に真珠湾攻撃が起き、銀座で遊んでいた青年の世界は一気に変わっていきます。戦地での体験は次回に語られます。
まとめ
アンパンマンの作者やなせたかしの前半生は、父の死、母との別れ、弟との比較による劣等感、そして自殺未遂に彩られていました。その中で絵と本を支えにデザイナーの道へ進み、銀座で青春を謳歌しますが、社会人1年目で徴兵されます。
- やなせたかしはデザイナー、詩人、作詞家、構成作家など多彩な仕事をこなしたが、本人は代表作を持てないことに長く苦しんだ
- 5歳で父を亡くし、7歳で母が再婚して家を出た。伯父夫婦に育てられたが、居候という負い目から甘えられなかった
- 弟と比べられ続けたことで劣等感を深め、思春期には自殺未遂や家出も経験した
- 絵と本を心の支えにし、2浪の末に東京高等工芸学校に合格。銀座で遊び回る自由な学生生活を送った
- 田辺製薬に入社してから1年で徴兵され、次回からは戦争体験が語られる



