陥落の翌日に処刑されたハリル・パシャ
オスマン帝国編の最終回は、前回までに語られたコンスタンティノープル陥落の「その後」から始まります。深井さんによると、この戦いは外の敵との戦いであると同時に、オスマン宮廷内の権力争いでもありました。
宮廷内の対立は、メフメト2世を支える奴隷出身のザガノス・パシャと、由緒正しい家柄で攻略に反対していたチャンダルル・ハリル・パシャとの争いです。パシャ ── オスマン帝国で高位の軍人や政治家に与えられた称号。大宰相をはじめとする政権の中枢を担う人々がこう呼ばれました同士にとって、攻略の成否は自分たちの命運を左右するものでした。
勝たれたら、あれだけ反対したのに、やっぱりやった方が良かったってことになっちゃう。
結果は攻略成功でした。メフメト2世は入城した翌日にハリル・パシャを罷免・逮捕し、一族とともに処刑します。罪状は、敵に利益を与える「利敵行為」でした。
深井さんによれば、ハリル・パシャは実際に贈り物や賄賂を受け取りながら、戦争を和平交渉で終わらせようとしていたそうです。そのやりとりの手紙を、メフメト2世は戦いの最中に見ていました。
見てるんだけど、戦いが終わるまで(メフメト2世は)何も言わなかったんですよ。
メフメト2世が黙っていた理由について、楊さんは軍の士気への配慮を挙げています。
さすがに戦いの最中でね、そういうことを断罪してもね、自分たちの軍のこの雰囲気というか、状況を揺らす。
とりあえず弱みをつかむだけつかんどいて、もうあとでお前あの清算してやるぜみたいな。
深井さんが驚いたのは、メフメト2世の感情の制御です。人生をかけた戦いで側近が敵と通じていると知っても、激高せずに機を待ったことを、当時まだ21歳だった点とあわせて評価しています。
それの事実を見たときに、普通の21歳であればキレると思うんですよ。
一度に3つを手にしたコンスタンティノープル攻略
ハリル・パシャを処刑したあと、メフメト2世はザガノス・パシャを大宰相に据えます。以後のオスマン帝国では、大宰相を奴隷出身者が務める例が圧倒的に増えていきました。
深井さんは、この人事によって権力が皇帝に集中する専制君主体制がつくられたと説明します。楊さんの言葉では、皇帝が「ずっとグリップしやすい体制」を続けていくことでした。
深井さんは、メフメト2世のコンスタンティノープル攻略にはいくつもの意味が重なっていたと整理します。その全部を21歳で一気にやったことが、この王の際立った点だといいます。
| 観点 | 手に入れたもの | 番組での説明 |
|---|---|---|
| 宗教・軍事 | キリスト教圏への足がかり | キリスト教側へ攻める糸口を押さえた |
| 経済 | 東西交易の要地 | 交易地を押さえて豊かになれる |
| 国内政治 | 皇帝に有利な権力構造 | 奴隷出身者を大宰相に据え、専制体制を固めた |
楊さんは経済面について、ヨーロッパ側への影響も補足します。オスマンがアジアとの交易路に立ちはだかったことで、ヨーロッパ商人は利益を中抜きされたり商売を邪魔されたりしたそうです。
楊さんによれば、ヨーロッパがイスラム圏を避けて新しい交易ルートを開拓した背景の一つがここにあり、それが大航海時代につながったと考えられています。結果としてキリスト教国が力を持つ一因にもなった、と楊さんは「歴史はわかんないですけどね」と留保しつつ語りました。
キリスト教徒の街をムスリムの都へどう変えたか
首都をコンスタンティノープルに移したメフメト2世には、大きく2つの課題がありました。1つ目は、キリスト教徒の街だったコンスタンティノープルを、ムスリムが住みやすい街に改造することです。
最初に手を付けたのは、大聖堂だったアヤソフィア ── ビザンツ帝国時代に建てられたキリスト教の大聖堂。オスマン帝国の征服後にモスクとして使われ、現在のイスタンブールを代表する建築の一つですのモスクへの改造でした。深井さんは、ムスリムにとって1日5回の礼拝はとても大切なので、まず祈る場所を用意したと説明します。
ほかの教会もモスクに作り替えられ、メッカの方向を示すアーチ型のくぼみであるミフラーブ ── モスクの壁に設けられた、聖地メッカの方向を示すくぼみ。礼拝する人はこの方向に向かって祈りますや、祈りの時間を告げるアザーンを流すための塔が加えられていきました。
深井さんの豆知識によれば、現在のハギア・ソフィアに立つ塔は、モスクに改造されたときに建てられたものです。ビザンツ帝国の時代には、あの塔はなかったといいます。
2つ目の課題は人口でした。ビザンツ帝国の人口は激減しており、陥落時に戦える人は7000人しかいませんでした。人を呼ばなければ、街として機能しません。
こうした政策の結果、30年後にはコンスタンティノープルの人口は10万人に達しました。樋口さんはこの事業を現代の言葉にたとえています。
地方創生事業やってるんですね。
ただし、オスマン帝国はムスリムだけの国を目指したわけではありません。深井さんによれば、オスマンに従うキリスト教徒には教会組織を残し、自分たちで裁判や教育ができる自治権力を持たせていました。
都市化に欠かせない食料についても、オスマン帝国は強い権力を活かしました。商人が小麦を他国に輸出したくても、イスタンブールに持ってくるよう求めることができたため、都市を回せたと説明されています。
メフメト2世の版図と、まだ半分にも届かない600年
メフメト2世はさらに、アンカラの戦いでティムールにバヤズィトが敗れた際に失った領土を取り戻していきます。バルカン半島とアナトリア半島をほぼ統一する状態にまで持っていき、オスマン帝国は大いに繁栄しました。
一方で「出る杭は打たれる」ように、サファヴィー朝やマムルーク朝といった新しい対抗勢力も現れます。ただし、その話は今回は扱わないとされました。
シリーズはメフメト2世の7代目までで8〜9話に及びましたが、600年の歴史のうち半分にも届いていません。深井さんは、この先にメフメト2世よりさらに有名なスレイマン1世と、近代にトルコ共和国を建国したケマル・アタテュルクが登場すると紹介し、いつか2人を取り上げたいと話しました。
じゃあまだ一番おいしい目玉のところまでいってない。
冷徹な王はチューリップ好き?
メフメト2世の素顔として、楊さんは意外な一面を紹介します。頭が切れてストイックで、若くして国を治めた王が、実はチューリップが大好きだったというのです。
実はですね、(メフメト2世は)チューリップが大好きなんですよ。
番組の説明によると、メフメト2世は服や食器、絨毯などにチューリップのデザインを取り入れ、宮殿の庭園にはチューリップ庭園を作って愛でていたそうです。その影響で、チューリップはオスマンを代表する花として定着していきました。
人前ではほとんど笑わないクールな王という像とのギャップに、出演者たちは「メフメっちゃん」と親しみを込めて呼びます。そこから、敵に囲まれた孤独を芸術で癒やしていたのかもしれない、という推測も語られました。
若い頃の2回廃位させられた時はすごく多分すごいショックだったんだと思うよ。
楊さんは、コンスタンティノープル攻略そのものも、若い頃の挫折の反動のように見えると話しています。
イスラムがまとめた多様性のプラットフォーム
エンディングで樋口さんがシリーズの感想として挙げたのは、オスマン帝国が多様性を認める性質を持ち、さまざまな人々をイスラムという上位概念でまとめていたことでした。
お前と俺違うんやけど、ちなみに俺イスラムやけど、え、私もイスラムだけど。え?あ、じゃあ一緒やん。仲良くしようぜみたいな。
樋口さんは、日本人の感覚ではピンと来にくいとしつつ、好きなミュージシャンが同じだと盛り上がる感覚の、もっと根強いものだと表現しました。
楊さんは、社会が「俺とお前の違い」をどこで線引きするかは時代や場所で異なると指摘します。その線引きに注目して歴史を見ると、理解しやすくなるかもしれないと話しています。
楊さんによれば、多民族・多言語・多宗教をまとめたプラットフォームがうまく機能していたからこそ、それが近代に崩れたときの影響は大きかったといいます。
プラットフォームの崩壊
近代になり、多様な人々をまとめていた枠組みが効かなくなる
民族意識の高まり
バルカン半島などで、各民族が「俺とお前は違う」と意識し始める
民族紛争
民族主義(ナショナリズム)のもとで紛争が相次ぐ
第一次世界大戦
民族紛争が大戦の遠因の一つになる
楊さんは、まとまること自体に良し悪しの両面があるとも述べます。まとまりすぎれば他者を排除することがあり、まとまることで自分たちの生存権を確立できることもあるからです。
「オスマントルコ」と呼ばない理由
民族の話の補足として、深井さんはこのシリーズで「オスマントルコ」ではなく、あえて「オスマン帝国」と呼んできた理由を説明します。オスマンはトルコの国だと思われがちですが、歴史を学ぶとそうとは限らないからです。
深井さんによれば、近現代にオスマン帝国領の人々が自立し、帝国はトルコ共和国の範囲まで縮小していきました。独立した人々の原動力は「自分たちはこういう民族で、あなたたちとは違う」という意識だったといいます。
独立する側が比較対象として「トルコ人」をつくり、ギリシャやセルビアとして独立していきました。その過程で、残った側もトルコ人としてまとまらざるを得なくなり、「オスマントルコはトルコ人の国だ」と言うようになったと深井さんは説明します。
イスラムやオスマンという枠でまとまり、民族で人を分ける意味がなかった
民族という概念で連帯をつくり、民族単位で独立していった
深井さんは、オスマン帝国のスルタン自身が混血だったことも挙げます。母親がブルガリア人やセルビア人であることも珍しくなく、さらにキリスト教徒から改宗した奴隷出身者が政治の中枢にいました。
オスマン帝国の人たちは、自分たちのことをオスマントルコなんて一回も呼んだことがない。
民族は昔からあった概念なのか
この話を踏まえて、深井さんは「民族」という概念そのものに疑問を投げかけます。
楊さんは、民族を、時代の要請によって自分たちで強く意識するようになった枠組みの一つに過ぎないと補います。樋口さんは、後の時代に民族を定義して過去をさかのぼって見ていたことに驚きます。
深井さんによれば、ビザンツ帝国でも、人々が自分をローマ人と思うかギリシャ人と思うかの転換点がありました。アイデンティティのつくり方は時代によって違い、人は常に自己を再定義しているといいます。
オスマン帝国のシリーズを後回しにしてきた理由も、ここにあると深井さんは話します。現代の概念から遠く分かりづらいため、前提を多く語る必要があったのです。
日本だって明治維新の前は日本人っていう概念あったかどうか。
楊さんは、明治維新以前の人々が意識していたのは長州人や薩摩人だったと続け、樋口さんはそれを「フォルダの階層が違う」と表現しました。
勝手に自分で境界作ってるだけ。そんな境界最初は存在しないし、あるって思ってるだけでないかもしれない。
深井さんは、チンギス・カンの回で扱った遊牧民と農耕民という区別も、実際には混ざり合っていると指摘します。カテゴリーはわかりやすくするための便宜であり、グラデーションが存在する事実を認識することが大切だとまとめました。
歴史を「例えずに」理解するには?
最後に樋口さんは、シリーズ前半で深井さんが「本当は例えちゃいけない」と話していたことを思い出します。歴史上の別の場所で起きたことが日本の何かと同じであるはずがなく、例えた時点で違うものになるからです。
いかに例えずに理解しに行くか。(英語の)アップルをリンゴに訳さずアップルで理解しに行くのと一緒です。
深井さんは、homeと「家」、familyも言語によって中身が違うと続けます。オスマン帝国の制度も同じで、デヴシルメ ── オスマン帝国がキリスト教徒の少年を徴集し、改宗させて官僚や兵士に育てた制度。奴隷出身者が政権中枢に入る道にもなりましたやティマール ── オスマン帝国で軍人に土地からの徴税権を与え、その代わりに軍役を課した制度は、日本の幕藩体制に置き換えずに、そのまま理解する必要があるといいます。
シリーズは、600年のうち半分にも届かないところで一区切りとなりました。続きはまた別の機会に、という形で締めくくられています。
まとめ
コンスタンティノープル陥落後、21歳のメフメト2世は政敵を処刑して専制体制を固め、ムスリムが住みやすい街づくりで首都の人口を30年で10万人にまで回復させました。後半では、イスラムを軸に多様な人々をまとめたオスマン帝国の姿から、民族は普遍的な概念ではなく、時代ごとに再定義される枠組みだという視点が語られました。
- メフメト2世は裏切りの証拠を握りながら戦いが終わるまで黙り、陥落の翌日にハリル・パシャを処刑した
- モスクの改造、学院や寄宿舎の整備、食料の確保によって、コンスタンティノープルは30年後に人口10万人の都市になった
- オスマン帝国はイスラムやオスマンという枠で多様な人々をまとめ、その崩壊が民族紛争と第一次世界大戦の遠因になったと語られた
- オスマン帝国の人々は自らを「オスマントルコ」と呼ばず、民族は後の時代につくられた枠組みだと深井さんは指摘した
- 歴史や異文化は、身近なものに例えずにそのまま理解しに行く姿勢が大切だとされた





