ソクラテスたちは「人間とは何か」をどう考え直した?
今回のテーマは古代ギリシャとローマの教育です。深井さんは、話の途中で迷子にならないよう、最初にこの回のポイントを示します。
深井さんによると、それまで人間とは何かは神話の中で語られていました。アテネではソクラテス、プラトン、アリストテレスがそれを考え直し、その転換は後の中世の教育の大転換にもつながっていくといいます。
ほぼ同じ時期には、ブッダのように人間について問い直す人物が各地に現れたことにも、深井さんは触れています。
ただし、古代ギリシャの教育の理念はこの時代には社会に実装されませんでした。前回の「教育のコストを誰が払うか」という観点で見ると、理念を実行して得をする人がいなかったからです。
だから社会に実装できなかった。
ギリシャの教育の理念は、後のルネサンス期に学び直した人たちによって再発見され、活かされていくことになります。
スパルタの「強さ」とアテネの「考える力」
深井さんはまず、同じギリシャのポリスでもスパルタとアテネの教育が大きく違っていたことを説明します。
スパルタは、自分たちの倍ほどいる被征服民に言うことを聞かせるため、全員が強くなければならないと考えました。そのため強さに特化した教育を作り、子どもは生まれた時点で強くなりそうかを選別されたといいます。
スパルタの子どもは7歳ぐらいで親元を離れて共同生活に入り、20歳まで体育中心の教育を受けました。深井さんは、これはスパルタが裕福で、生産活動をしなくてよかったことを示していると読み解きます。
全部奴隷がやってくれた。
一方のアテネは民主主義の国で、今の民主主義に比較的近い仕組みを持っていました。一部の人ではなく、みんなが情報を取り入れ、考えて決めなければならない社会です。
(市民に)権限がありますから、間違ってたら変な方向に行きますからね。
アテネでは教育への社会的ニーズが変わり、公教育があった可能性も指摘されています。ただし時代が古すぎて、実態ははっきりしないと深井さんは話しています。
多数の被征服民を従えるため、強さに特化。7歳ごろから共同生活、20歳まで体育中心
民主主義のため、市民一人ひとりが考えて決める力を重視。公教育があった可能性も
「議論で勝てばいい」ソフィストはなぜ広まった?
アテネの民主主義は、やがて衆愚政治 ── 民衆が目先の利益や感情に流され、政治がうまく機能しなくなった状態を批判的に呼ぶ言葉。古代アテネの民主政の末期を指して使われることが多いですに陥っていきます。力が落ちていく中で現れたのが、ソフィストと呼ばれる人たちでした。
深井さんによると、ソフィストは議論で勝てばいいという文化を作り、弁論のスキルを教えていきました。民主主義を機能しなくさせた張本人でもあったといいます。
本来のアテネ市民の議論は、国家全体がどうすれば良くなるかを考えるためのものでした。ところがソフィストの広めた文化では、相手を言い負かして終わらせることが目的になってしまいます。
別に言い負かしても、その国が他の国から攻められてやべえ時に何かが良くなるわけじゃないじゃないですか。
深井さんは、言い負かす技術は「俺は何でも知っている、お前はわかっていない」という前提に立っていると指摘します。楊さんはこれを一言で「マウントや」と受けています。
ソクラテスの「無知の知」と、やっぱり論破
アテネに大きな転機をもたらしたのは、ペルシア帝国の侵攻でした。深井さんは、外的な状況が大きく変わると、人間は「そもそも社会はこれでいいのか」と考え始めると話します。
そこで現れたのがソクラテスです。ソクラテスは、分かったつもりで論破しようとする人々に、本当は何も分かっていないと突きつけました。
自分が何か思考ができている、知見が溜まってるって、自分で思ってるつもりでしょ。今はもうとりあえず一回全部それを捨て去ってゼロベースで考えろよみたいな。
深井さんはソフィストが生まれた背景にも触れます。豊かになったアテネでは人々に余裕ができ、神話ではなく観察とロジックで世界を説明する思考が生まれました。ソフィストはその思考法を、議論や人の内面に持ち込んだ人たちでした。
楊さんによると、ソフィストの多くはアテネの外から来た人たちでした。しきたりにとらわれず、生計を立てるために手っ取り早いスキルを教えてお金を取っていた可能性もあるといいます。
豊かさと余裕
アテネが豊かになり、観察とロジックで世界を考える思考が生まれる
ソフィストの登場
よそから来た人々が、相手を言い負かす弁論術を教える
衆愚政治
言い負かす技術が出世につながり、国力が落ちていく
外的な危機
ペルシアの侵攻で、社会のあり方そのものが問われる
ソクラテス
「何も分かっていない」と気づかせるため、質問で相手を詰めていく
ただし、ソクラテスのやり方もまた論破でした。いろいろな人のところへ行き、質問で相手を詰めていったといいます。
もう論破が好きなんだろうね、この人たちがね。
ソクラテスは論破しすぎて恨みを買い、最終的に死刑になります。楊さんは、弁論術が出世につながる構造を、一部のビジネス系YouTuberになぞらえて笑いを誘っています。
楊さんはさらに、中国で科挙 ── 中国で隋の時代に始まり、清の末期まで続いた官僚登用試験。儒教の経典などの知識が問われ、合格を目指す受験勉強が社会に広がりましたが登場した後、学問を研究していた学校が受験予備校になってしまった流れとも似ていると話します。
教育を変えたのは、教育について考えた人ではなかった
深井さんが強調するのは、ペロポネソス戦争のような天地がひっくり返る大事件によって、アテネの人々が今までの成功法則を疑い始めたという点です。
そこで考え始めた人たちは、教育だけを考えていたわけではありませんでした。社会とはどうあるべきかを考え、その延長線上で教育を考えていたといいます。
深井さんは、これは自身の私見だと断ったうえで、教育を変える人の前段階には世界について考える人が必要だと話しています。
楊さんはこれを会社にたとえます。先に理念やビジョンがあり、そこへ進む道筋として日々の教育や業務がある、という理解です。
深井さんは、古代や中世では教育が身分や職業ごとに細分化されていて、国民単位で利害を一致させたのは近代国家以降だと補足します。みんなが同じ公教育を受けることは、中世から見ればありえないことでした。
というか、職人にしかなれないからみたいな、生まれがね。
プラトン『国家』の「全生涯にわたる教育」は何が新しかったのか
ソクラテスの弟子プラトンは、著書国家 ── プラトンの代表的な対話篇の一つ。理想の国家のあり方や正義について論じ、哲学者が統治する「哲人政治」の構想を示していますの中で、よき市民を全生涯にわたって教育するという考え方を述べています。
深井さんは、この考え方がメソポタミアのシュメールやエジプトの教育とまったく違うと指摘します。シュメールやエジプトでは、王を補佐する役人に文字や算数を教える、限定的なスキル教育でした。
王を補佐する役人のため、文字や算数など特定の目的のための限定的なスキルを渡す
国家の責任で、よき市民を全生涯にわたって教育する
深井さんの解釈では、アテネの市民は民主主義のもとで、自分たちがどうあるべきかを自ら考えなければならない立場にありました。だからこそ全生涯にわたる教育が必要だと考えたのです。
この人たちは国家そのものだから、自分たちが。自分たちが何であるべきでどうするべきかを自ら考えないと、誰もそれを他の人が考えて自分に降ろしてはくれないわけ。
深井さんは、この構図が自身の主張するリベラルアーツ ── 特定の職業のためではなく、自由な人間として考え判断するための幅広い教養。古代ギリシャ・ローマの自由市民の学問に由来しますの必要性とほとんど変わらないと話します。
例として挙げられたのは、50年前の日本のサラリーマンと今の人々の違いです。かつては自分のあり方を考えなくてよかったけれど、今は主体的に人生を生きる必要があるので、学び続けるニーズがあるといいます。
深井さんはさらに、社会の変化に気づくセンスと、それを言語化するセンスの両方を持つ人が思想家になっていくと話します。楊さんは、変化はある日突然ではなくグラデーションで進むので、気づくこと自体が難しいと応じています。
選び抜かれた者が政治をする、プラトンの哲人教育
プラトンが唱えたのはエリート教育で、深井さんはこれを哲人教育と呼んでいます。出発点は、才能のある良き市民が先天的に存在し、選ばれた血筋同士の結婚で生まれるという優生学的な考え方でした。
深井さんによると、近代ヨーロッパの啓蒙思想以降は、全員が教育を受ければ可能性を開花させられるという考え方に変わっていきます。プラトンの発想はそれとは違うものでした。
プラトンの構想では、年齢に応じた段階を踏みながら若者を選別し、最後まで残った者が哲学者となって政治を牽引します。
だから結構ふるいにかけてエリートを作ってる感じはありますよね。
深井さんは、この構想が実際に行われたとは思わないとしつつ、年齢ごとの発達段階という概念がある点に注目します。昔の人は生まれた日を記録せず、年齢を意識することもほとんどなかったからです。
プラトンの構想には、身分や階層に関係なく市民を同じ学校に集めることや、成長に従って複雑な知識を教えることも盛り込まれていました。奴隷がいたため完全にフラットではないものの、こうした概念は彼ら以前にはなく、中世にも忘れ去られていたといいます。
家庭教師と私塾、そしてムセイオンへ
アテネに公教育があったかは不明ですが、家庭教師がいたことは確実です。深井さんは、アレクサンドロスにアリストテレスが家庭教師としてついた例を挙げています。
さらに、プラトンはアカデメイア ── プラトンがアテネ郊外に開いた学園。哲学や数学などを教え、英語の「アカデミー」の語源になりましたを、アリストテレスはリュケイオンを開き、上流階級の人々を集めて哲学や学問を議論していました。
しかし、その間もアテネの国力は落ち続け、ついにはアレクサンドロス大王のマケドニアに飲み込まれます。理想の教育は語られても実践されない状態になっていきました。
アレクサンドロスの時代ごろからは、ムセイオン ── ヘレニズム時代のアレクサンドリアなどに作られた学術研究施設。英語の「ミュージアム」の語源とされていますやビブリオテーケができ、知の集積が進みます。
ただし深井さんは、それが自分たちで新しく思想を作り出す場ではなかったと話します。すごい人たちの思想を取り入れて学ぼう、という場だったのです。
西洋の四書五経みたいな感じだもんね。
哲学が生まれる条件とは?
なぜギリシャでは思想が大きく発展したのに、その後の時代は引き継ぐことに集中したのか。深井さんはリスナーにも考えてほしいとしたうえで、楊さんに問われて自分なりの答えを語ります。
(僕の中では)やっぱ文化なんだと思います。
深井さんによると、ローマは土木技術や統治技術、元老院のような社会システムの構築に優れていた一方で、哲学はギリシャに頼りきりでした。文化によって、考える領域に得意不得意があるという見方です。
そのうえで深井さんは、ギリシャには哲学に適した条件がたまたま揃っていたと話し、その条件を挙げます。
深井さんは、これらの条件が揃うことで、人間とは何か、社会とは何かを考え始めると話します。
お腹が空いてる時に空青い、なんで青いかなって考えないですよ。
深井さんは、今の世界にもこの条件が揃っていると話します。インターネットで異なる考えに触れられ、多くの人が食べるのに困らず、時代の変化という外的要因も多い。みんなが哲学的なことを考え始めるのは再現性のある社会現象だというのが、深井さんの見立てです。
共和政ローマは何を学んでいた?
ローマでは、初期のポリスの時代には国家が教育に関わることはありませんでした。教育システムが確立されていくのは、王を追放して権力が偏らないようにした共和政の時代からです。
深井さんは、これもアテネと同じ構図だと指摘します。自分たちが政治の主体者であれば、考える力が必要になり、勉強しなければならなくなるからです。
ただし初等教育は私立学校で、国がお金を出すわけではありませんでした。学んでいたのは主にラテン語と算術、いわゆる読み書きそろばんです。楊さんは、元老院の議論の場に息子を連れてきて見学させる実践的な教育もあったと補足します。
ローマではラテン語に加えてギリシア語も学びました。ソフィストたちが考えた思想や古典文化を取り入れるためで、ギリシア語の文献をラテン語に訳して読むことはしていなかったといいます。
深井さんによると、訳さなかったのは訳せなかったからです。国民国家が標準語を定める前は、同じ帝国内でも場所が違えば意思疎通ができず、ギリシア語の「アレテー」や「イデア」に対応する言葉をラテン語でいちいち作ることもしませんでした。
昔の日本人が漢文を勉強するようなイメージでいいのかな。
政治家に「徳」が求められるのはなぜ?
ローマもアテネと同じく、哲学を修めた人を政治家に置く哲人政治家を重視しました。政治家には教養と人格が必要だという考え方があったのです。
深井さんは、その理由の一つとして、自分たちが政治の主体者であることを挙げます。もう一つは、働きながら実感しているという、いろいろな背景の人に言うことを聞いてもらう状況での経験です。
深井さんは、中国でもローマでもギリシャでも徳が重視されたのは、人に言うことを聞いてもらわなければならない社会になったからではないかと考えています。
楊さんは日本の武士の例を挙げます。武士団を率いる立場の人は、腕力だけでは人がついてこないため、利益配分やトラブル解決のための教養を学び始めたといいます。
深井さんによると、食べられない時代なら強さだけで人はついてきます。ある程度満たされた社会では、人をまとめる鍵が信頼関係になり、信頼を築ける人の共通点に名前をつけたものが「徳」だという見方です。
信頼がない組織では管理コストが増え続けます。深井さんは、中国で法で治める法家 ── 中国の戦国時代の思想の一派。厳格な法と賞罰によって国を治めることを説き、秦の統治に大きな影響を与えましたの後に、漢帝国で儒教が発達したのは、結果的に統治コストが低いという意味で合理的だったと話しています。
楊さんはこれを受けて、儒教やキリスト教のように、国家が合意形成にどんなフォーマットを使ったかは、歴史を見る一つの観点になると述べています。
人間が成長したのではなく、社会が変わった
深井さんはローマの話をまとめます。アテネもローマも、政治の主体者である市民が、力でも言い負かしでもなく人を説得する拠り所として、人格陶冶、教養、哲学を求めました。その結果、教育が必要だという考えに至ったといいます。
楊さんは、武力から人格や哲学へと複雑になる流れを、最初は人間の成長のように捉えていたと話します。
人間が成長したっていうよりは、社会が変容したから、それが必然的に必要になったから(選ばれた)。
深井さんは、かつて西洋では進歩主義的に上下があると考えられていたと応じつつ、社会と人間の精神は相互に影響し合っていると話します。樋口さんも「規定されてるって感じ」が一番しっくりくると受けています。
王を補佐する役人のための、限定的なスキル教育
政治の主体者である市民のための、教養・人格・哲学を含む生涯にわたる教育
深井さんは最後に、この解釈は本に書いてあったことではなく自身の私見であり、本に書かれていたのはファクトの部分だと断っています。次回は、ローマが滅んだ後のキリスト教社会で教育がどうなっていくのかが語られる予定です。
まとめ
古代アテネとローマでは、市民が自ら政治に関わる社会だったからこそ、考える力や人格を育てる教育が求められました。深井さんは、ソクラテスやプラトンの思想の転換も、ペルシアの侵攻のような外的要因や、豊かさと多文化といった社会の条件から生まれたと読み解いています。
- スパルタは強さに、アテネは民主主義のための考える力に特化した教育を行っていた
- ソフィストの弁論術は衆愚政治を招き、危機の中でソクラテスが「無知の知」を突きつけた
- プラトンは国家がよき市民を全生涯にわたって教育するという、シュメールやエジプトとは質的に違う構想を示した
- ローマも共和政の時代に教育が整い、政治家には教養と徳が求められた
- 深井さんは、教育の変化は人間の成長ではなく、社会の変容によって規定されると見ている




