ローマの後継国ビザンツ帝国は、なぜずっとピンチだったのか
前回までのオスマン帝国編はメフメト2世を中心に語ってきましたが、今回のエピソードでは攻められる側のビザンツ帝国に焦点が移ります。
深井さんによると、ビザンツ帝国はもともとローマ帝国そのものです。大きくなりすぎたローマ帝国は東西に分裂し、西のローマ帝国は早い段階で消えたため、東ローマ帝国が事実上ただ一つのローマ帝国として繁栄しました。
「ビザンツ帝国」という呼び名は、元祖のローマ帝国と区別するためにできた名前だと考えればよい、と深井さんは説明します。
ビザンツ帝国が治めていたのはバルカン半島とアナトリアです。この場所はイスラム勢力が勃興すると真っ先にぶつかる位置にあり、実際にイスラムの諸勢力はガンガン攻めてきました。
ずっとピンチなんですよ、ビザンツ帝国って。イスラムが出てきた時からずっとピンチにピンチを重ね続けるという、かわいそうな歴史を持ってます。
基本弱い。
樋口さんが言うように、これまでのイスラム関連のシリーズでもビザンツ帝国は何度も登場し、そのたびに領土を削られてきました。
同じキリスト教なのに、なぜカトリックと仲が悪いのか
ビザンツ帝国もヨーロッパのキリスト教国です。樋口さんが「同じキリスト教ですからね」と言うと、深井さんは他のキリスト教国との仲は実は悪かったと明かします。
理由は、ビザンツ帝国がカトリック教会と決裂し、正教 ── 東方正教会とも呼ばれるキリスト教の大きな流れの一つ。教義や教会制度をめぐる対立から、11世紀にローマ・カトリック教会と分かれたとされますを信奉していたことです。ビザンツ側はローマ教皇を認めず、ローマ教皇の側も自分を認めない相手を認めませんでした。
ローマ滅亡後の西欧はカトリックを中心に国家形成を進めたため、キリスト教世界はカトリック中心の西欧と、正教中心のビザンツの世界に二分されていきます。
正教を信奉し、ローマ教皇を認めない。イスラムとの戦いの最前線にいる
カトリック教会を中心に国家形成を進める。ローマ教皇は自分を認めないビザンツを認めない
この対立を決定的にしたのが十字軍 ── 11世紀末から、聖地奪回などを名目に西欧のキリスト教徒が派遣した遠征軍。複数回行われ、第4回十字軍は1204年にコンスタンティノープルを攻略したことで知られますです。イスラムを駆逐するという大義名分で来た十字軍が、イスラムとの最前線にあるコンスタンティノープルを略奪しました。
もともと十字軍ってほぼ略奪目的なんですよ、途中から。
略奪を受けたビザンツの人々は、イスラムよりもカトリックのほうを嫌いになったといいます。西欧の人々を「ラテン人」と呼んで忌み嫌う国民感情が生まれ、イスラムと戦わなければならないのに西欧とも連携しにくい状況に置かれました。
樋口さんの言葉を借りれば、ビザンツ帝国は「孤立してる感じ」です。深井さんも、正教国はビザンツだけではないものの、西欧からは孤立した状態だったとまとめます。
オスマンの家来になった皇帝に、何ができたのか
単独で戦うしかないビザンツ帝国は、イスラム勢力の伸長をまったく抑えられませんでした。オスマン帝国が出てくると、コンスタンティノープルが陥落する前から、ビザンツはすでにオスマンの臣下になっていたと深井さんは話します。
ブルガリアやセルビアと同じように、ビザンツもキリスト教徒のままオスマンに組み込まれました。自治は認められていましたが、オスマンの皇帝が出陣を決めれば、ビザンツ皇帝も兵を率いて従軍しなければなりません。
それをまた西欧から見ると、お前キリスト教徒なのに、なにそのイスラムの犬みたいなことしとんねんみたいな感じで。
さらにビザンツ帝国からオスマンのスルタンへお嫁さんを迎えることもあり、スルタンの血筋にはビザンツ家の血が入っていました。これもカトリックからは、キリスト教の純粋さを汚す行為に見えたといいます。
ビザンツ皇帝自身は、弱いがゆえに外交上やむを得ず臣下になっていました。深井さんは「実際オプションないと思うんだよね」と同情します。
ところが、皇帝の家来たちの中にはスルタンの宗主権を認めない人も多く、「後々絶対に滅ぼされる」と反対していました。ビザンツ帝国は内部でも分裂していたのです。
こうした国を最後に率いたのがコンスタンティヌス11世です。深井さんは「コンスタンティヌス11世だったらどうする?」と問いかけます。
仲間だと思ってるキリスト教の国たちからハブられ、オスマントルコというすげえジャイアンみたいなやつからプレッシャーをかけられ、自分の会社の中でも内紛が起きて、みたいな。
この苦境を会社にたとえ、深井さんは「とりあえず銀行に謝って倒産して」と冗談で返します。そのうえで、本を読みながら本気でそう感じたと続けます。
深井さんによれば、まずビザンツ帝国が持つ軍隊が少なく、イスラム勢力に勝つのは困難でした。ローマ教皇と教会を合同しようにも、国民感情が割れているので難しかったといいます。
(教会合同を)首相とか大統領だけがいきなり仲良くするぞとか言ったら、その国民にむしろ降ろされるじゃん、そっちが。
反乱した皇子に、スルタンは何と言ったのか
最後の皇帝より何代か前にも、ビザンツの苦しさを物語る出来事がありました。オスマンに従う皇帝ヨハネス5世に対し、息子のマヌエル2世が反発し、テッサロニキ ── ギリシャ北部の港湾都市。ビザンツ帝国ではコンスタンティノープルに次ぐ重要都市の一つでしたでオスマンへの反乱を起こしたのです。
当時のスルタンはムラト1世です。オスマン軍はテッサロニキを包囲して補給路を断ち、5年間の包囲の末、飢えた市民が自ら城の門を開けてしまいました。
ヨハネス5世はムラト1世に謝り、息子にも謝らせました。ムラト1世は二人を許しましたが、そのときマヌエル2世にかけた言葉が怖いと深井さんは話します。
ムラト1世は、かつてはビザンツのものだった土地を取り返そうとする正当性は認め、気持ちもわかると語りました。そのうえで、二度と自分の権威に対して同じことをするな、オスマンが支配者であるという事実を受け止めろと告げたといいます。
最後にムラト1世は、父ヨハネス5世に「息子を許してあげてね」と言って話を終えました。
すぐに処刑したらしたらで、それはそれで正しい選択であるけど、あえて生かすっていうね。
ムラト1世の次のスルタンは、前回までに登場した「稲妻」バヤジッド1世です。その時代には、かつて反乱を起こしたマヌエル2世が皇帝になっていて、家来として各地の戦争に連れて行かれました。
バヤジッド1世は夜の飲み会にマヌエル2世を誘ってきたそうです。マヌエル2世はそれがひどく嫌だったようで、「これらのことに耐えるのは容易ではない」「私はひどく憂鬱になった」という趣旨の手紙が残っています。
(手紙では)ちゃんと書いてますけど、クソだりいってことですね。
手紙には、スルタンが夕食の前に3杯乾杯して自分を盛り上げようとしたことも書かれています。深井さんは、数百年後の日本のPodcastで自分の手紙が読まれるとは思いもよらなかっただろうと笑います。
深井さんは、これだけ武力差があると個人の能力では決まらないところがあると話します。ティムール ── 14世紀後半に中央アジアで大帝国を築いた軍事指導者。1402年のアンカラの戦いでバヤジッド1世を破り、捕虜にしましたのような圧倒的天才なら勝てるかもしれないが、そのティムールもモンゴル軍が強いから強かったのだ、と付け加えます。
家財道具を売るように援軍を求めたビザンツ帝国
若い頃に反乱を潰されたマヌエル2世は、皇帝として西欧諸国に助けを求めていきます。フランス王シャルル6世のような有力者や、ベネチア、ハンガリーなどに、コンスタンティノープルを助けるべきだと交渉しました。
ただしビザンツ帝国にはお金がありませんでした。儲かる土地の多くをオスマンに取られていたため、オスマンは裕福で、ビザンツは賄賂もあまり渡せなかったのです。
代わりに渡したのが、キリスト教の神聖な物品である聖遺物 ── 聖人の遺骨や遺品、キリストにゆかりのある品など、信仰の対象として崇敬される物。中世ヨーロッパでは非常に高い価値を持ちましたでした。ビザンツはまだ宗教的な権威を持っていたので、敬虔な王のもとへ聖遺物を持参し、滅ぼされたらこれも失われると訴えたといいます。
家の銀行残高がゼロで、もうお金ないんで、家のなんか棚持っていきますみたいな。テレビ持っていってください。
形見の着物を売りに行くみたいな。
しかも、こうして呼んだ援軍はバヤジッド1世に速攻で潰されてしまいました。
本来、交易の拠点であるコンスタンティノープルは貿易で儲かるはずの都市です。しかし共和国として独立したベネチアやジェノヴァが、力を失ったビザンツから貿易特権を獲得し、関税をゼロにしていました。
領土の喪失
儲かる土地の多くをオスマンに取られる
関税収入の喪失
ベネチアやジェノヴァに関税ゼロの貿易特権を与えてしまう
賄賂が渡せない
援軍集めでお金の代わりに聖遺物を差し出す
深井さんによると、海賊や盗賊が当たり前にいた時代には、安全に商売をするために軍事力が欠かせませんでした。そのため商業大国ベネチアは、同時に最強レベルの海軍大国でもあったといいます。
バヤジッド1世がティムールに敗れて死んだ後も、ビザンツ帝国は「次に攻められたら終わる」という危機感の中にいました。バルセロナ、ローマ、フランス、スペイン、ハンガリー、ポーランド、リトアニアなどへ使者と聖遺物を送り、要塞の補修や拡充も進めます。
さらにムラト2世に対抗する皇帝候補を擁立してオスマン側を混乱させようとしましたが、失敗し、かえって激しく攻められてしまいました。深井さんは、外交が下手というより持っているカードが弱かったと見ています。
最後に残ったのは、世界最強のセキュリティ
深井さんによれば、コンスタンティノープルに最後に残ったのは、栄華を極めた時代に作った最強の防御力だけでした。その防御力と若き野心家メフメト2世がぶつかるのが、コンスタンティノープルの戦いです。
家のセキュリティだけなんですよ。
コンスタンティノープルは今のイスタンブールです。深井さんは街の形を、二等辺三角形を東に尖らせて倒したような形だと説明します。
コンスタンティノープルの北・南・東は海で、海側にも城壁が1重あります。唯一の陸路となる西側の約6.5キロは、全長にわたって三重の防壁で守られていました。
| 構造 | 高さ・深さ | 幅 |
|---|---|---|
| 内側の壁 | 高さ12メートル(5階建て級) | 5メートル |
| 真ん中の壁 | 高さ8.5メートル | 2メートル |
| 外側の壁 | 高さ2メートル | - |
| 外側の堀 | 深さ10メートル | 20メートル |
さらに内側と真ん中の壁の間には、高さ20メートルの塔が55メートル間隔で約100基並んでいました。壁を登ってくる敵兵を、塔の上から射殺すための塔です。
深井さんは、攻める側の視点でこの城壁を突破する手順をたどります。
これはね、23回ぐらい包囲されてんだけど、ビザンツ帝国って。基本的に全部防いでる。
近代兵器のない時代、歩兵だけでこの城壁を落とすのは非常に難しいことでした。そこでメフメト2世が用意したのが「ウルバンの巨砲」という大砲で、その話は次回に続きます。
まとめ
今回のエピソードでは、ビザンツ帝国がイスラム勢力に押されながら、カトリック世界とも対立し、国内まで割れていた苦境が語られました。お金も軍隊も外交カードも乏しい帝国に最後に残ったのが、三重の城壁という最強の防御力です。
- ビザンツ帝国はローマ帝国の後継国だが、イスラムの勃興以来ずっと劣勢だった
- 正教とカトリックの対立や十字軍による略奪で、西欧との連携も難しかった
- オスマンの臣下となった皇帝は、スルタンの威圧や国内の反発の間で板挟みになった
- 領土と関税収入を失い、援軍集めでは聖遺物を差し出すしかなかった
- 陸側の三重城壁は約23回の包囲をほぼ防いだとされ、メフメト2世は巨砲で挑むことになる





