12万の軍勢が「もう一つの都市」に見えた包囲
メフメト2世は、12万から16万ともいわれる兵でコンスタンティノープルを包囲します。深井さんによれば、かつてバヤジードが攻めたときより規模ははるかに大きく、予算は「どう考えても16倍以上」でした。
包囲軍の天幕は大地を埋め尽くすほどで、当時の記述には、隣にもう一つコンスタンティノープルのような街があるように見えたと残っているそうです。
12万の軍の天幕。それを見たときのコンスタンティノープルの人の絶望って何だろうね。
樋口さんは地元の田川市にたとえて「田川市3つ分」と驚き、楊さんは、自分たちのセキュリティが世界最強でも、これを前にすればだいぶ怯えたはずだと話します。
深井さんによると、メフメト2世の軍はイェニチェリだけで1万ほど、海軍も苦手ながら140隻とも160隻ともいわれる船をそろえていました。数には記録によって表記の揺れがあるといいます。
さらにメフメト2世は事前にスパイを送り込み、西欧からの救援が来ないことを、この時点でほぼ確定させていたと説明されています。
寝ても覚めてもコンスタンティノープル
当時のメフメト2世を見た人の記述には、21歳のメフメト2世が、寝ても起きてもコンスタンティノープルをどう攻略するかだけを考えていたと書かれているそうです。
紙とインキを使って要塞の図面を描いて、どこへどのように大砲をつけるとかね。あと防御施設とか地下道の建設どうするかとか。
深井さんの話では、メフメト2世はトンネルを掘って攻める方法や、どの壁に梯子をかけるかまで、専門家と一緒にずっと相談していました。攻める途中で築いた要塞では、資材の運び出しを自ら手伝っていたともいわれます。
楊さんは、周辺のキリスト教徒が置かれた状況も補足します。ビザンツと運命を共にするか、オスマンの支配下に入るかという選択を迫られ、オスマンに味方する人や、中立を保つ人が出たことが、結果的にオスマンに有利に働いたといいます。
メフメト2世は包囲の前から補給を断ち、援軍を出しそうな要塞を先に潰して、コンスタンティノープルを孤立させる戦略をとっていました。
なぜビザンツ帝国は最後まで揉めていたのか
大軍に囲まれたコンスタンティノープルの城壁内は茫然自失の状態でした。深井さんは逃げる人も多く出たはずだと推測しつつ、この期に及んでもビザンツ帝国の内部では仲間同士で揉め続けていたと話します。
深井さんが挙げる理由は、内部の利害が一致していなかったことです。
歴史って常にこうなんですけど、利害が一致してる組織ってほんと強いんですよ。チンギスカンたちみたいな。
コンスタンティノープルの中には、自分たちが儲かればよいベネチア ── イタリア北東部の海洋都市国家ヴェネツィア。地中海交易で栄え、東地中海に多くの商業拠点を持っていました人やジェノヴァ ── イタリア北西部の海洋都市国家。ヴェネツィアと地中海交易を争い、コンスタンティノープル対岸にも居留地を持っていました人がいて、カトリックと仲の悪い人たちもいました。楊さんは、皇帝にもそれらを治める力がなかったと補足します。
ビザンツ帝国が戦える人数は、12万を超える軍勢に対してわずかでした。後の場面で深井さんは、城内の兵員を7000人と表現しています。御前会議は何度も開かれましたが、意見は一致せず、ジェノヴァ人やベネチア人がかき回していたといいます。
12万〜16万の兵、140〜160隻の船、事前の孤立化戦略、メフメト2世のもとで目標が一つにまとまっていた
戦える兵は7000人ほど、ベネチア人・ジェノヴァ人・反カトリック派など利害がばらばらで、御前会議でも意見がまとまらない
ウルバンの巨砲は何がすごかったのか
メフメト2世は主力を陸上に集め、大城壁に集中させます。その目玉兵器が、ハンガリー人技術者ウルバンに特注して作らせた巨砲でした。
深井さんによると、砲身の厚さは25.4センチ。石や鉄の球を撃ち出しますが、精度はかなり悪かったそうです。運搬には30台の車と60頭の牛を使い、エディルネかどこかで作らせたものを、はるばる戦場まで運びました。
このウルバンは、もともとビザンツ帝国に「防御にこんな大砲はいかがですか」と売り込みに行った人物でした。ところがビザンツ帝国はウルバンを牢屋に入れてしまいます。理由は文献にもよく残っていないそうです。
ウルバン怒ったからオスマン行ったんですよ。
メフメト2世はウルバンに大量の開発資金を渡し、じゃんじゃん使えと大盤振る舞いをしました。前例のない大砲を作れると言う素性のわからない人物に、お金を託したことになります。
新兵器に大金を投じた21歳の判断
深井さんは、オスマン帝国はもともと新兵器を取り入れる感覚が鋭く、メフメト2世はその中でもさらに積極的だったと話します。ヨーロッパについても勉強していたそうです。
でもこれは成功してるから、僕たちは簡単に見えるけど、この決断は結構難しいですよ。かなり反対されてますから。
深井さんが強調するのは、周りから「そんなことに金を使うな」と言われる中で、メフメト2世が誰が正しいかを自分の頭で判断した点です。効果を信じ切っていたかどうかは別として、多額の資金を割くことを決めていました。
樋口さんは「VCとしては優秀」と表現し、モンゴル帝国が新しい攻城兵器をすぐ取り入れたことや、織田信長 ── 戦国時代の武将。鉄砲をいち早く大量に導入したことで知られ、天下統一の土台を築きましたが鉄砲を取り入れたことと重ねます。
深井さんによれば、オスマン帝国はその後、世界でも先進的に銃を取り入れます。イェニチェリ ── オスマン帝国の常備歩兵軍団。君主直属の精鋭で、のちに銃で武装した歩兵として知られますは銃を持つ歩兵として、初めて騎兵に対抗できる存在になりました。銃が出てくるまでは騎馬が最強で、最強のモンゴル軍も銃の前には戦えなかったといいます。
深井さんは、メフメト2世のリスクのとり方や新しいものを取り入れるバランス感覚を、学んで真似できるものというより、特別な才能だと見ています。まだ実績のない若い王だったことも、判断の難しさを増していました。
鉄の鎖と大城壁、二方面作戦の狙い
メフメト2世の戦略は、陸の大城壁を正面突破するだけでなく、海からも攻め、もともと少ないビザンツ側の人手を分散させることでした。
コンスタンティノープルの北側は、海に面していながら川のように細い湾になっていて、対岸にはジェノヴァ人の自治区のような地区がありました。メフメト2世はこの湾に入り、北側の壁を攻めたいと考えていました。
ところが湾の入り口には長い鉄の鎖がピンと張られていて、船が越えられないようになっていました。オスマン海軍の任務は、この鎖を切って湾に侵入し、敵の人員を分散させることでした。
一方、6.5キロの大城壁には、ウルバンの巨砲をはじめ多くの大砲で集中砲火を浴びせ、城壁を崩しながら人海戦術で押す作戦です。
陸
大城壁にウルバンの巨砲などで集中砲火を浴びせる
海
湾の入り口の鉄の鎖を切って北側の壁を攻める
狙い
少ない守備兵を二方面に分散させ、城壁の修復を追いつかなくする
深井さんによると、これまでのオスマン軍は包囲して補給路を断つ長期戦をとってきました。城壁が強すぎて、誰も本気で壊そうとは思わなかったのです。メフメト2世は初めて、本当にぶっ潰そうとした点で特異でした。
巨砲も総攻撃も通じなかった序盤戦
いよいよ戦闘が始まりますが、ウルバンの巨砲は致命傷を与えられませんでした。装填に時間がかかり、1回撃つと何時間も冷やす必要があったため、1日に撃てる数はごくわずかだったといいます。
巨砲が当たると城壁は少しへこみますが、夜のうちにビザンツ軍に修復されてしまいます。城壁は重なっているので、一番外側以外は外に出て簡単に直せたのです。壊すスピードが修復スピードに追いつかない状態でした。
オスマン軍は木の塔を作って城壁に寄せ、乗り移ろうとしましたが、それも燃やされてしまいます。そこでメフメト2世は総攻撃を決め、ある月の18日の未明に、大声とともに攻めかかりました。日付の月は書き起こしからは確認できません。
堀を埋めて梯子をかけましたが、上から激しく攻撃され、総攻撃は失敗に終わります。数で押しても突破できませんでした。
たった4隻の補給船を止められなかったオスマン海軍
陸がだめなら海から、とメフメト2世は鎖を攻撃させますが、オスマン海軍は未熟で、大敗して帰ってきます。メフメト2世は海軍の将軍に、次は本当にないぞと激しく怒りました。
その後、ビザンツ帝国への補給船がたった4隻だけやって来ます。百数十隻を持つオスマン海軍にとって、メフメト2世は「さすがにこれはできるだろう」と考えていました。
ところがこれも倒せません。楊さんは、補給船はベネチアの人が操る船などで技術が高く、船の作りも違っていたのだろうと見ています。深井さんによると、船の大きさも4隻のほうが圧倒的に大きかったそうです。
命がけで攻めたオスマン軍が、あと一息で乗り込めるところまで迫ったとき、ビザンツ側にとって運よく風が吹きます。補給船は帆船で、一気に進んでしまい、オールで漕ぐオスマンの船は追いつけませんでした。
もうガチギレ、ガチギレで、もうみんなの前にこうやって引きずり出して、もう自ら俺の手でお前の首を切ってあげるよみたいな感じで。
メフメト2世は周りに止められ、将軍を殺さずに終わりますが、かなり取り乱していたといいます。樋口さんは、12万から16万を連れてきて4隻を取り逃せば、面目にも影響力にも傷がつくと話します。
反対派の声が強まる中で、メフメト2世はどう切り替えたか
失敗が続くと、オスマン軍の中で内紛が起こり始めます。出陣前から反対していた重臣チャンダルル・ハリル・パシャ ── オスマン帝国の大宰相。先代から仕えた重臣で、コンスタンティノープル攻略には慎重な立場をとっていましたが、十字軍が来たら全員死ぬのではないかと言い出したのです。
メフメト2世の気持ちまでは記録に残っていませんが、深井さんは、これまで一度も落ちたことのない城を前に、絶対に焦っていたはずだと推測します。
メフメト二世は、の、僕がすごいなと思ってるところは、めっちゃここでちゃんと切り替えするんですよ。なんかネガティブになったりしないんですよ。
ここで深井さんは樋口さんに「自分ならどうするか」を問いかけます。樋口さんは大砲をひたすら頑張る、深井さんはトンネルを頑張ると答えましたが、メフメト2世が思いついたのは、まったく別の奇策でした。
船に山を越えさせた一夜の奇策
メフメト2世の発想はこうです。船が湾に入れば城内の兵を分散できるのに、鎖があって入れない。それなら、鎖と関係のない陸路から、山を越えて船を湾に運んでしまえばいいと考えたのです。
どうしてもこの鎖が切れない。この鎖さえなければ百四十隻も持ってるから中に入れる。
オスマン軍はコンスタンティノープルの北の森を切り開き、丸太を並べて油を塗りました。準備には時間をかけ、気づかれないうちに70隻もの船を一夜にして、海抜60メートルとされる丘を越えさせます。
樋口さんは「マジ源義経 ── 平安時代末期の武将。一ノ谷の戦いで険しい崖を騎馬で駆け下りる奇襲を行ったと伝えられていますだね」と反応し、深井さんは崖を下りた義経の超スケールが大きいバージョンだと表現しました。
ある朝、壁の前に70隻が現れた城内の絶望
深井さんは、この戦いをコンスタンティノープル側から見てみます。ウルバンの巨砲は壊れはしないものの、聞いたことのない大きな音がずっと鳴り続け、補給路も少しずつ断たれて食料は減っていきました。
そこへ4隻の補給船が届き、城内は「まだ勝機があるかも」と前向きになります。その矢先、一夜にして70隻の船が湾内の壁の前に現れました。
なんで?ってなるんですよ。船の幽霊から越えたみたいな。そんなことあるかみたいな。
樋口さんは「ワープしたと思うでしょうね」と話し、コンスタンティノープル側が理解できないまま絶望したであろう様子を想像します。
最後の皇帝コンスタンティヌス11世はなぜ逃げなかったのか
ビザンツ帝国最後の皇帝はコンスタンティヌス11世です。奇しくも、都市の名前の由来となったコンスタンティヌス1世と同じ名前で、深井さんは「コンスタンティヌスで始まり、コンスタンティヌスで終わった」と話します。
コンスタンティヌス11世には逃げる選択肢もありました。オスマン側からはイスラム法に基づいて降伏を勧められましたが、すべてはねのけ、和平交渉もせず、最後まで徹底抗戦して死ぬことを選びます。
深井さんは、その背景に「もう疲れたのだろう」という思いも想像しています。樋口さんは「武士だね」と受け止めました。
確信がないのに意志を貫けたのはなぜか
深井さんは改めて、反対されている時のトップの気持ちに注目します。確信がない限り気持ちは絶対に揺れるはずなのに、21歳ほどのメフメト2世には、確信を得られるほどの戦争経験がありませんでした。
根拠もなく非合理的に俺はできるとか思ってやって吹っ飛んでるやつたくさんいるんですよ、歴史上。
深井さんによれば、メフメト2世はそうした人物とは違い、超準備をしてリスクをしっかり冒すことをしていました。樋口さんは、最初の作戦が失敗した後に現場で考え直した点を「ピボット」と表現します。
深井さんは、反対派のチャンダルル・ハリル・パシャの存在にも触れます。ここで引き返せば、一生チャンダルルに頭が上がらなかったはずです。若い頃に2度も王位をチャンダルルに阻まれた蓄積もあり、もしかすると全人生をここに賭けていたのかもしれない、と深井さんは完全な想像だと断ったうえで語りました。
コンスタンティヌス11世の最期と「城の守りは人」
コンスタンティヌス11世は、命乞いをせず、攻め込まれた城壁に自ら向かって死んだとされます。誰が皇帝かわからず、遺体も見つからなかったそうです。
樋口さんは、皇帝の服や装飾を外し、一兵士として敵陣に突っ込んだと話します。一方で深井さんは、逃げる途中だったのか突撃したのかはわからず、どちらにしてもそうした形で亡くなったために行方不明とされている、と補足しました。
船の山越えによって、オスマン軍はついに二方面から壁を攻められるようになります。7000人しかいない守備兵は分散せざるを得ず、壁の補修が間に合わなくなり、ウルバンの巨砲が生きてきました。
二方面攻撃
湾内の船と陸の大城壁の両方から攻める
兵の分散
7000人ほどの守備兵が分かれる
補修の遅れ
巨砲の被害を夜のうちに直せなくなる
心が折れる
イェニチェリが壁を越え、城内の兵の心が折れる
深井さんは、最後に勝負を決めたのは城内の兵の心が折れたことだったと見ています。武田信玄 ── 戦国時代の甲斐の武将。「人は城、人は石垣、人は堀」という言葉が伝えられていますも、城の守りはハードウェアではなく人間だと言っていた、と深井さんは自分なりの言い方で紹介しました。
3日間の略奪とメフメト2世の入城
3回目の総攻撃の前、メフメト2世は兵士たちに演説をしました。栄華を極めたこの都市にどれだけの財宝が眠っているかを想像してみろ、略奪し放題だ、君たちの名前は歴史に残る、という内容だったといいます。
深井さんによると、イスラム法では兵士に3日間の略奪を許す必要がありました。生きている人間は男女ともに捕らえられて奴隷にされ、教会のものや銀の食器も奪われ、墓まで掘り起こされたと伝えられています。
3日間の略奪の後、メフメト2世は白馬に乗って入城します。4日目以降の略奪は禁じており、入城時にまだ略奪していた者を剣で突き刺したそうです。
メフメト2世はアヤソフィア ── イスタンブールにある大聖堂。ビザンツ時代はキリスト教の中心的な聖堂で、オスマン時代にモスクとされましたに入って祈り、コンスタンティノープルは完全に陥落しました。
ローマから続いた千年の歴史が途切れた衝撃
深井さんは、ローマ帝国から続いてきた千年ほどの歴史が、ここで一旦潰されたと語ります。キリスト教のものだった都市がイスラムのものになったのです。
深井さんは、この陥落はヨーロッパの人々にとって、バチカン市国が落とされたのとインパクトはそれほど変わらなかったのではないかと見ています。
この戦いはベネチア人など多くの人が記録を残しており、さまざまな目線で描かれています。樋口さんが「戦場がありありと目に見える」と感じたのも、その記録の豊かさによるものでした。シリーズは、陥落後のメフメト2世の動きを話して一区切りとする予定です。
まとめ
メフメト2世のコンスタンティノープル包囲戦は、緻密な準備、新兵器への大胆な投資、失敗の後の切り替えが重なって成功しました。一方のビザンツ帝国は、利害がまとまらないまま、最後の皇帝の抗戦とともに千年の歴史を閉じます。
- メフメト2世は12万〜16万の軍で包囲し、事前に補給や援軍を断ってコンスタンティノープルを孤立させた
- 反対を押し切って投資したウルバンの巨砲は、単独では城壁の修復に追いつけなかった
- 海軍の敗北や補給船の取り逃しで焦りながらも、70隻の船に丘を越えさせる奇策で二方面攻撃を実現した
- 守備兵の分散と心の折れが陥落につながり、最後の皇帝コンスタンティヌス11世は逃げずに最期を迎えた
- 3日間の略奪の後にメフメト2世が入城し、ヨーロッパに大きな衝撃を与えた




