神様・手塚治虫から、なぜ電話が来たのか?
やなせたかしの人生には3つの転機があった、というのがこのシリーズの見立てです。1つ目はラジオドラマから絵本へと広がった『やさしいライオン』でした。
2つ目の転機は、48歳のやなせたかしにかかってきた1本の電話です。電話の主は手塚治虫で、長編アニメ『千夜一夜物語』のキャラクターデザインを頼みたいという依頼でした。
『千夜一夜物語』は、アラビアンナイトを題材に、虫プロ ── 手塚治虫が設立したアニメ制作会社「虫プロダクション」の通称。日本初の本格的な連続テレビアニメ『鉄腕アトム』を制作したことで知られますが世界に通用するアニメとして取り組んでいた作品です。二人は顔見知りではあったものの、依頼は突然でした。
やなせたかし自身は、当時の漫画家としての身分の差を「神様と毛虫」と表現していたと楊さんは紹介します。手塚治虫は『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』で人気絶頂の、漫画業界の最前線にいました。
そこまで。毛虫って。でも毛虫だってみんな生きてるんだから友達なんだから。
仕事の中身もよくわからないまま、やなせたかしは依頼を引き受けます。来る者拒まずの姿勢だったからです。
虫プロでの最初の打ち合わせで、やなせたかしは「イメージボードを描いてください」と言われ、「イメージボードって何ですか?」と聞き返したそうです。シナリオを読んで場面を絵にすることだと教わるところから始まり、楊さんは「アニメ学校の生徒が給料をもらっていたような状態」と表現しています。
虫プロがやなせたかしに求めたのは、大人向けアニメのための大人向けキャラクターでした。『鉄腕アトム』の印象が強い虫プロのスタッフは、子ども向けのキャラクターに慣れていたからです。
「虫プロに朝はない」。修羅場の現場で見た超人
やなせたかしが衝撃を受けたのは、虫プロの現場の熱気でした。スタッフは泊まり込みが当たり前で、徹夜が標準だったといいます。
虫プロのトイレには「虫プロに朝はない」という落書きがあったそうです。楊さんは、寝て起きて迎える朝がない、という意味ではないかと推測しています。
怖。すげえな。ブラック企業やん。
手塚治虫本人の働きぶりは、さらに桁外れでした。あちらのデスクで漫画を描いたかと思えば、こちらのデスクでアニメを描き、しかもものすごい速さで仕上げていきます。
手塚治虫には「アイデアだけはバーゲンセールしてもいいくらいある」という言葉があり、そのアイデアを次々と形にしていきました。ようやく休憩して寝たかと思えば、3時間後には起き出して仕事を再開し、アニメーターたちを驚かせたそうです。
やなせたかしは手塚治虫を「100年に1人しか現れない超人」「本人が百万馬力の鉄腕アトム」と評し、自分はとてもあんなふうにはなれないと思ったといいます。
『千夜一夜物語』の制作は、締め切りを何度も延ばし、みんなの体重が半減するほどの修羅場の末に完成し、大ヒットしました。制作には800人ほどが関わっていたそうです。
ところが手塚治虫は、映画の公開後にも作品を手直ししていました。そのこだわりの結果、利益はゼロになったと楊さんは話しています。
ちょっとね、ちょっともうそういう人なんですよね。
手塚治虫のお礼が、才能に気づかせた?
『千夜一夜物語』が終わったあと、手塚治虫はやなせたかしに「手伝ってくれたお礼に、短編アニメを1本自由に作ってください。お金は僕のポケットマネーから出します」と申し出ました。
すごいお礼の仕方だよね。
やなせたかしは迷わず『やさしいライオン』をアニメ化しました。演出や絵コンテの要領は、手塚治虫の横で見てつかんでいたといいます。虫プロの一角を借りて完成させた作品は評判になり、アニメ部門の賞も受賞しました。
ただ、楊さんが強調するのは受賞そのものではありません。手塚治虫と仕事をしたことで、やなせたかしが自分の才能を信じてみようという気になったという内面の変化です。
虫プロでシナリオを読んでいると、キャラクターが心の中で動き出し、命のあるイメージに変わっていく。自分の才能には絶望していたやなせたかしが、キャラクターならすらすら描けると気づき、虫プロに行くのが楽しみになったそうです。
楊さんは、アンパンマンのキャラクターがあれほど多いのも、この才能が発揮された結果の1つだと話し、キャラクター数でギネス記録を持っていることにも触れました。
死ぬまで気付かないとかもあるんですよ。めちゃくちゃいっぱい。
この仕事したからトップクラスの人を見て、トップクラスその人とも遜色ないっていうのをわかったから、キャラ作るのだけはすごいかもってなったわけでしょ。
楊さんも、トップクラスの手塚治虫の作品に自分のキャラクターが採用されたことは、自信にも客観的な評価にもなったはずだと応じています。極限の現場を体験したことも大きかったのではないか、という見方です。
手塚治虫の漫画には勝てないと思いつつ、キャラクターという領域では別の道が開けた。深井さんはこの点に注目し、やなせたかしの到達点を次のように表現しました。
樋口さんは、アニメーションやシナリオの訓練を超短期間でスパルタ式に積んだ体験の大きさを挙げます。深井さんと楊さんも、いろいろな業界で身につけたスキルを要領よく組み合わせられる力が、ここでも生きたと話しています。
サンリオ創業者・辻信太郎は、なぜ出版部を作ったのか?
3つ目の転機は、実業家の辻信太郎との出会いです。やなせたかしが陶器屋とのコラボで自作の詩と絵を陶器に描いて売っていたころ、その展示会でたまたま名刺交換した相手が辻信太郎でした。
辻信太郎が創業・経営していた山梨シルクセンターは、生活グッズやお菓子のパッケージなどを手がける会社で、これが現在のサンリオです。
詩を書くことはやなせたかしのアイデンティティの1つで、書きためた詩を自費出版したいと考えていました。その相談を受けた辻信太郎は「じゃあ詩集はうちの会社で出しましょう」と答えます。
出版の経験もない会社です。やなせたかしが「詩集は売れないし、出版部も編集者もないですよね」と返すと、辻信太郎は「出版部作ります」と言ったといいます。
そんなナイトに作れるんや出版部って。
やなせたかしはこの話を聞いて「辻さん、頭が変になったのかな」と思ったそうです。楊さんによれば、辻信太郎自身も詩や文学、メルヘンを愛する文芸青年で、二人はフィーリングが合ったのだろうとのことです。
本当にできた出版部から、やなせたかしは最初の詩集『愛する歌』を出します。世に知られていなくても、僕にとっては愛する歌なんだ、という意味を込めたタイトルでした。
楊さんは、このタイトルに「自分が愛してやればそれでいい」という自己完結的な信念が表れていると見ています。やなせたかしは、ここから徐々に振り切っていくといいます。
詩集『愛する歌』は意外にも売れ、若い女性からファンレターが大量に届くようになりました。イベントでは、作者をハンサムな20代の若者だと思い込んでいたファンが、47歳のやなせたかしに会って泣き出すこともあったそうです。
まだ1960年代ぐらいだもんな、これ。ググれないですからね。
『詩とメルヘン』で手に入れた「自分の城」
初の詩集から7年後、サンリオから詩の雑誌『詩とメルヘン』が創刊され、やなせたかしが編集長を務めます。やなせたかしが「売れないでしょうからお金は要りません。迷惑はかけません」と相談すると、辻信太郎は「いいよ」と答え、予算まで出したそうです。
辻さんそんな人なの?チャラくない?わかんないよ。どんな人。
『詩とメルヘン』は、やなせたかしが好きなものを100%注ぎ込んだ雑誌でした。詩・俳句・短歌を募集し、無名のイラストレーターを起用して育てる狙いもありました。
やなせたかしは連載の童話・エッセイ・コラムを執筆し、自らイラストも描き、投稿作品の選定もすべて自分で行いました。『詩とメルヘン』は売れ行きもよく、30年間続いたそうです。
楊さんは、この雑誌によってやなせたかしが人生で初めて自分の城を持てたと表現します。漠然としていた仕事の中に、やなせたかしという軸が立ち、詩人・イラストレーターとしての足場を固めていきました。
受注した仕事で人の作品を作る便利屋的な働き方。仕事に自分の軸がない
好きなものを注ぎ込む自分の雑誌を持ち、詩人・イラストレーターとしての足場ができる
要は今まで受注して、人の作品をずっと作ってきてた中で、ついに自分のものができたんですね。作品というかプロジェクトか。
『詩とメルヘン』には、亡き父の思いを受け継ぎたいという気持ちも込められていました。本が好きだった父が、絵を描き詩を書くことを一緒にやりたいと日記のようなものに書き残しており、やなせたかしはその夢を自分が継がなければと考えたそうです。
やなせたかしの見方では、『詩とメルヘン』はサンリオにとってもプラスでした。就活生に知られにくかった会社が、この雑誌を出す会社として学生に人気になり、優秀な学生が応募するようになったといいます。
やなせたかしは、詩と童話とメルヘンがサンリオの精神的なコアになり、後のハローキティの大ヒットにつながったと語っています。実際、ハローキティは雑誌創刊の翌年に誕生しています。
辻信太郎が96歳で存命だという話題から、樋口さんは天才の裏には必ず支える人が現れると語ります。楊さんは、樋口さんも深井さんと楊さんに対して「ラジオやろうよ」と言い、ない事業部を作った同じような存在だったと振り返りました。
3つの転機がそろい、ついにアンパンマン登場へ
楊さんは、ここまでの3つの転機を改めて整理しています。それぞれが、のちのアンパンマンにつながる土台になっています。
これマジで物語やんこれ。
ようやくアンパンマンが登場する段になり、樋口さんは出てくるまでの長さに驚きます。40代で引退したつもりになる人も多い年齢から、ここで始まるのかという反応です。
楊さんによれば、アンパンマンはやなせたかしの人生の集大成で、正義とは何か、生きるとは何かといった考えが作品の根底に込められています。楊さんは、その思想がすべて正しいとは思わないとしつつも、アンパンマンを理解することはやなせたかしを理解することだと話しています。
アンパンマンには大人向けと子ども向けの2系統があります。最初に登場した大人向けはサンリオや雑誌PHPで発表されましたが、あまり評判になりませんでした。
その後に登場した子ども向けは、フレーベル館の絵本から徐々に人気を得て、アニメ化で大ヒットします。今よく知られているアンパンマンはこちらで、当時は2系統が並行して描かれていました。
初代アンパンマンは、焦げたマントのおじさんだった
大人向けアンパンマンの起源は、またしてもラジオドラマでした。やなせたかしが40代のころに文化放送で書いたラジオコントの中に原型が登場していたようですが、便利屋として多くの仕事をこなしていた時期で、本人も内容を覚えていないそうです。
絵として初めて描かれたのは、やなせたかしが50代になってからです。雑誌PHPに掲載した『やさしいライオン』が評判となり、続けて依頼された大人向けの童話シリーズ『十二の真珠』の1編に、元祖アンパンマンが登場します。
初代アンパンマンは人間のおじさんでした。自分でパンを焼いて配り回り、全身焦げ茶色の服に、パンを焼くときの焼け焦げがついたボロボロのマントを着ています。
初代アンパンマンの見た目は、髪の生えた太ったおじさんで、顔は丸く、目は小さく、団子鼻です。汗だくでよたよたと飛び、スーパーマンのように颯爽とはしていません。
物語の中で初代アンパンマンは少年に「かっこ悪い」とばかにされ、アンパンを渡そうとしても「アイスクリームが欲しい」と文句を言われます。楊さんは、やなせたかしが意図してかっこ悪いヒーローを作ったと説明します。
確かにごちそうを配ってるわけでもないもんね。
話の中にはスーパーマンやバットマンのような正統派ヒーローも登場し、「偽物落っこちろ」とアンパンマンをばかにします。それでもアンパンマンは、戦争で飢えた子どもたちにアンパンを配り続けました。
「しっかりするんだ、死んじゃいけない」と空からアンパンを落とした瞬間、アンパンマンは飛行機と間違われ、高射砲で撃ち落とされてしまいます。楊さんはこの結末を「やなせムーブ」と呼び、『やさしいライオン』や『チリンの鈴』と同じ系統だと話しました。
なんそのオチ。
このシリーズは後に短編メルヘン集としてサンリオから出版され、現在は復刊されています。
人間からアンパンへ。今のアンパンマンにつながる変化
次にサンリオから出た短編童話集『アリスのさくらんぼ』の中の「飛べアンパンマン」で、アンパンマンは人間からパンそのものになります。アンパン自体が空を飛ぶほうが面白いと考えたそうです。
アンパンを配るおじさんではなく、ヒーローの顔をアンパンにして、困っている人に自分の顔を食べさせるというアイデアです。この版のアンパンマンは一人称が「俺」の兄貴分で、「俺のほっぺかじれよ、がぶりといけ」と話します。
壁ドン系なのか。何なんかそれは。俺のほっぺかじれ。
ただ、この大人向けアンパンマンも特に評判にはなりませんでした。一方で、絵本『やさしいライオン』がよく売れたことから、フレーベル館で新しい絵本を出す話が進み、子ども向けのアンパンマンが生まれます。
子ども向けの絵本では、ジャムおじさんが登場します。初代アンパンマンが担っていたパンを焼く役割を、ジャムおじさんが引き受けた形です。
ラジオコント
40代のころに書いた脚本に原型が登場。内容は本人も覚えていない
人間のおじさん
雑誌PHPの大人向け童話で、パンを焼いて配る焦げたマントのおじさんとして描かれる
顔がアンパン
『アリスのさくらんぼ』で、自分の顔を食べさせる兄貴分のヒーローに
子ども向け絵本
フレーベル館の絵本でジャムおじさんが登場し、パンを焼く役割を担う
樋口さんは、評判にならなかったキャラクターを捨てずに作り直し続けた点に驚きます。深井さんも、話題にならなくても子ども向けでもう一度挑んだことを指摘しました。
普通に考えたら違うキャラバンバンバンって出した方が効率。
楊さんは次回以降の予告として、やなせたかしが「ニーズを無視し始めた」ことに触れます。子ども向けアンパンマンの評価や込められた思いは、次回で語られる予定です。
まとめ
やなせたかしは、手塚治虫との仕事でキャラクターデザインの才能に気づき、辻信太郎との出会いで『詩とメルヘン』という自分の城を得ました。その土台の上で、かっこ悪い人間のおじさんから始まったアンパンマンが、少しずつ今の姿へ近づいていきます。
- 48歳で手塚治虫から依頼を受け、虫プロの修羅場でキャラクターを生み出す自分の才能に気づいた
- 手塚治虫のお礼として『やさしいライオン』をアニメ化し、賞を受けるほど評判になった
- サンリオ創業者の辻信太郎は出版部を作り、詩集『愛する歌』と雑誌『詩とメルヘン』の場を与えた
- 初代アンパンマンは焦げたマントの人間のおじさんで、撃ち落とされる大人向けの物語だった
- 顔がアンパンになり、ジャムおじさんが登場して、子ども向けのアンパンマンへつながった



