オスマン帝国はなぜ「超絶難易度」の戦争に挑んだのか
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ドイツの戦後はすでに前回までに語られており、今回はまずオスマン帝国のその後から話が始まります。オスマン帝国は1914年の開戦時点で、南下政策をとるロシアに対抗するため、ドイツ・オーストリア側で参戦していました。
深井さんによれば、オスマン帝国は広大な領土を抱え、国民国家モデルも導入できない状態でした。そのうえでロシアだけでなく、エジプトやアフリカではイギリス軍、中東ではイギリスの支援を受けたアラブ勢力と対峙しなければなりませんでした。
もう超絶難易度の戦争に挑んでしまってるわけですよね。なんかその近代化も難しいのに。
この戦争のなかで、当時イギリス海軍大臣だったチャーチルが、ダーダネルス海峡を臨むガリポリ ── 現在のトルコ北西部、ダーダネルス海峡に面した半島。黒海とエーゲ海を結ぶ海上交通の要衝で、首都防衛の要でもありましたを攻める作戦を立案します。オスマンにとっては、決して落とされてはいけない要地でした。
のちに第二次世界大戦でヒトラーと対峙するチャーチルを相手に、ガリポリの戦いでオスマン軍を勝利に導いたのがケマル・アタテュルクです。後のトルコ共和国の建国の父であり、初代大統領になる人物だと紹介されています。
首の皮一枚からの大逆転、ケマル・アタテュルク
ガリポリで勝利したものの、オスマン帝国は攻勢に耐えきれず、1918年にイギリスと停戦協定を結びます。首都コンスタンティノープルをはじめ主要都市は連合軍に占領されました。
それでもオスマン帝国の軍人たちは各地で抵抗を続け、ボロボロに負けたスルタン政府を批判し始めます。深井さんは、近代化に失敗した政府が先進国に屈し、国内が怒るという構図は、江戸幕府やロシアでも起きたことだと指摘します。
近代化に失敗した、その政府、現政府が先進国にボコボコにされる、ないしは脅されて弱腰だったりすることに国内が切れるという構図がここでも起こるわけですよね。
スルタン政府は連合国とセーブル条約 ── 1920年に連合国とオスマン帝国の間で結ばれた講和条約。オスマン領の大幅な分割を定めましたが、トルコ側の抵抗により発効しませんでしたを結び、領土は大きく削られます。この反発をまとめ上げ、トルコ大国民議会を開いて団結させたのがムスタファ・ケマルでした。
さらに、かつてオスマンから独立したギリシャが、弱ったオスマンにどさくさに紛れて攻め込んできます。ケマルは各地の外国軍を撃退し、ギリシャの侵攻も跳ね返しました。
ケマルはセーブル条約に代わるローザンヌ条約 ── 1923年に結ばれた講和条約。セーブル条約を置き換え、現在のトルコ共和国の領土の基礎を定めましたを結び、今のトルコとほぼ同じ領土を回復させます。トルコ共和国を成立させて大統領に就任し、オスマン帝国は消滅、カリフ制も廃止されました。
ケマルはその後、ローマ字の採用や「トルコ人」という概念づくりによって、トルコを一気に国民国家化していきます。深井さんは、消滅の危機から大逆転した人物なので英雄になるのは当然だと語り、楊さんはビジュアルも「超イケメン」だと付け加えます。
あ、でもかっこいいですね。
まあトルコ人からしたらかっこいいよね。
60年の皇帝を失ったオーストリアの分裂
次は、開戦のきっかけとなったオーストリアです。皇太子フランツ・フェルディナントが暗殺されたあと、帝国を支えていたのは、60年にわたって在位した皇帝フランツ・ヨーゼフ1世でした。
オーストリアの中にはゲルマン人だけでなく、マジャール人やセルビア人など、非常に多くの民族がいました。周囲の国が民族単位で団結していくなか、オーストリアだけは皇帝という存在によってかろうじてまとまっていた、と深井さんは説明します。
六十年間、この人がまとめ上げてたのがですね、この人の死によってですね、もう崩れていくし。
フランツ・ヨーゼフ1世は戦争の途中で亡くなり、敗戦国のような状態も重なって、オーストリア帝国は完全に瓦解します。アメリカのウィルソン大統領は、帝国内部の諸民族に民族自決 ── 各民族が自らの意思で帰属や政治のあり方を決め、独立した国家をつくってよいとする原則。ウィルソンの十四か条で掲げられましたを認める姿勢をとりました。
その結果、チェコスロバキアなどの国々が次々と生まれ、クロアチアやポーランドも帝国の枠から離れていきます。後を継いだカール1世はスイスに亡命し、ハンガリー王になろうとしますが、ハンガリーも民族自決にのっとって独立してしまいます。
皇帝のもとで、ゲルマン人、マジャール人、セルビア人など多数の民族をまとめる大帝国
ドイツ系の部分だけが残り、オーストリア共和国として民族自決の道を歩む
残ったオーストリア共和国はドイツ系民族でまとまる国になりましたが、深井さんは、そもそもドイツ系なのだからドイツと一緒でもよかったという矛盾があったと指摘します。実際、のちにナチスドイツがオーストリアを併合し、ナチスの敗北後に再び分かれ、カール・レンナーが初代大統領に選ばれて今のオーストリアにつながっていきます。
ロシア革命のおさらいと、失われた資源
ロシアについては、これまでの回の繰り返しになるとしつつ、深井さんが流れをおさらいします。ニコライ2世の皇帝制のもと、日露戦争の直後に皇帝と民衆が衝突した血の日曜日事件 ── 1905年、請願のために行進した民衆に軍が発砲した事件。第一次ロシア革命のきっかけとなりましたが起こり、皇帝は国会の開設や国家基本法の制定で譲歩します。
深井さんは、この流れをフランス革命で民衆が蜂起し、王が三部会を開いた流れに近いと例えます。ところが譲歩した状態のまま第一次世界大戦が始まり、戦果が振るわないうえに徴兵などの負担が重くのしかかり、国内ではストライキが相次ぎました。
さらに皇后アレクサンドラはドイツ系で、病弱な皇太子を治せると近づいた怪僧ラスプーチンに心酔していきます。民衆の不満は、敵国ドイツ系の皇后と怪しい僧侶への反感としても溜まっていきました。
はいはいはい。これはスピリチュアル系の。
スピリチュアル系の感じで、本当に治しちゃう。治ってないと思うんだけど、個人的には。
不満の蓄積
戦況悪化、厭戦感情、食糧難と飢餓、皇后とラスプーチンへの反感
1917年
王政が打倒され、臨時政府が戦争続行を決める
臨時政府の失敗
戦争がうまくいかず、民衆の信頼を失う
十月革命
ボリシェビキを率いるレーニンがソビエトをつくる
その後
内戦を経て一党独裁が確立し、スターリンが権力を握る
ソビエト政権はドイツと休戦協定を結びますが、その代償として膨大な領土と資源を手放しました。深井さんが挙げた数字は、次のとおりです。
うわぁ、89パー。
この数字を受けて深井さんは、第一次世界大戦には勝者がいない、いるとすればアメリカくらいではないかと語ります。そのうえで、それほどのものを失ってでも平和のほうがいいとロシアが判断したのがこのときだった、とまとめています。
ユーゴスラビアの民族対立はどこから来たのか
続いては、戦争のきっかけとなったセルビアです。セルビアを脅かしていたオスマン帝国もオーストリアも吹き飛んだことで、セルビアは南スラヴの人々をまとめ、セルビア・クロアチア・スロベニア王国をつくります。
なんかいっぱい、え、三姉妹?とりあえず全部くっつけたって感じだもんね。
この国はのちにユーゴスラビア王国と改称されます。深井さんによれば、ユーゴスラビアは「南スラヴ」という意味です。セルビア人が主導する国家でしたが、中身は多民族国家でした。
深井さんは、この地域に多様な民族がいた理由を、オスマン帝国の統治スタイルに求めます。オスマン帝国は主権は握りつつも、すべてをさらっていくようなガッツリした統治をせず、いろいろな民族が共存できる状態を保っていました。
それ(オスマンの統治で生まれた多民族の共存)が国民国家モデルとぶつかった時に、こういうような問題が発生したんです。
民族がモザイク状態で1つの国に存在していたユーゴスラビア王国は、世界恐慌の時期に国内の反乱が始まり、1934年ごろには民族対立から国王が暗殺されるなど、ガタガタになっていきます。第二次世界大戦ではナチスドイツに占領され、ティトーの抵抗活動を経て、戦後はユーゴスラビア連邦が成立しました。
楊さんは、1990年ごろに再び民族紛争が起こり、凄まじい虐殺が起きたと補足します。深井さんは、そのルーツがオスマン帝国の統治スタイルと国民国家モデルの衝突にある、と結びつけています。
勝ったのに「損なわれた勝利」、イタリアとファシズム
最後はイタリアです。イタリアはもともとドイツ、オーストリアと三国同盟を結んでいましたが、ドイツ側にはつかず、イギリス、フランス、ロシア側で参戦しました。
ロシアが戦線を離脱すると、ドイツがオーストリアを支援できるようになり、オーストリアと戦っていたイタリアは反撃を受けて大量の死傷者と捕虜を出します。それでも1918年のアメリカ参戦で戦局が変わり、イタリアはかろうじて勝者として終戦を迎えました。
深井さんが挙げたイタリアの損害は、動員した兵士600万人のうち死者65万人、負傷者100万人、捕虜60万人、民間人の死者60万人というものです。戦費は1570億リラにのぼり、国債は開戦前の4倍、アメリカへの負債20億ドル、イギリスへの負債4億ポンドを抱えました。
だからもうギリギリの状態で勝ってる状態ってことだよね。だから本当に勝者なのかどうかわかんないんだけど。
イタリアは、未回収のイタリア ── イタリア系住民が多いのにイタリア王国に含まれていなかった地域を指す言葉。トレンティーノやトリエステなどがその代表とされますと呼ばれる地域を、国民国家の考え方から取り戻したいと考えていました。そのためにドイツ側を裏切って参戦したのに、パリ講和会議では希望どおりになりませんでした。
期待
未回収のイタリアを取り戻すため、連合国側で参戦
失望
大損害を出したのに、パリ講和会議で希望が通らない
損なわれた勝利
不満が広がり、当時の内閣が辞任。ナショナリストがアメリカ大統領に激怒
前例
詩人ダヌンツィオが未回収の地域に勝手に進軍し、都市を占領
ファシズム
ムッソリーニがクーデターで国家を掌握し、ファシスト党ができあがる
深井さんは、ダヌンツィオを日本でいえば三島由紀夫のような人物だと例えます。さらにヒトラーはこのイタリアを真似てミュンヘン一揆を起こし、失敗したあと民主主義的な政権奪取に切り替えた、と過去の回とつなげています。
その悔しさが、第一次世界大戦の戦勝国と対立する第二次世界大戦への反動につながったと深井さんは語ります。ダヌンツィオは詩人、ムッソリーニは記者で、表現がうまかったのではないかという話から、当時は文章を書く人が今のハリウッドスターのような人気者だったという話題にも広がりました。
それ(文章)が一番の娯楽であり、一番の、なんていうか、その世論形成だから。
イギリス、アメリカ、フランス、日本のその後は、次回に続きます。
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まとめ
第一次世界大戦の後、敗れた帝国も勝ったはずの国も大きな損害と混乱を抱え、それぞれの動乱が新しい国家や体制、そして次の戦争の火種を生んでいきました。
- オスマン帝国は消滅の危機に陥ったが、ケマル・アタテュルクが領土を回復し、トルコ共和国を成立させた
- オーストリア帝国は皇帝の死と民族自決で分裂し、ドイツ系だけのオーストリア共和国が残った
- ロシアは革命と休戦で石炭の89%や人口の3分の1を失い、ソ連の一党独裁へ進んだ
- ユーゴスラビアの民族対立の根には、オスマン帝国の統治スタイルと国民国家モデルの衝突がある
- イタリアは「損なわれた勝利」への不満からファシズムへ向かい、第二次世界大戦への反動が生まれた







