塩の行進のあと、ガンディーはなぜ煙たがられたのか
塩の行進以後のインドは、まだ独立までに距離がありました。深井さんによると、ガンディーは65歳の時点で一度政界を引退しています。
政界を離れたガンディーは、独立をあきらめたわけではありません。肩書きのないまま有名な政治家たちと活動してきたガンディーは、人生の終盤に、一人で自分ができる最高のサティヤグラハ ── ガンディーが唱えた非暴力抵抗の理念。「真理の把握」を意味し、暴力に頼らず不正に抵抗する運動の中心的な考え方ですを完成させることに意識を向けていったと深井さんは見ています。
当時のインド独立運動では、エリート同士の話し合いが活発になっていました。独立後にイスラム教徒とヒンドゥー教徒が一緒の国になれるのか、といった議論も始まっていたといいます。
ガンディーとしてはそのエリートだけの世界じゃないから、民衆ともっと近くなりたいっていう感覚があって、彼はここからずっと民衆の方に寄っていく。
民衆に寄っていったガンディーは、その結果エリートから煙たがられるようになります。同じ時期に、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の亀裂も深まっていきました。
ガンディーはカーストも宗教も超えた融和を主張していました。しかし信徒が混ざって暮らす土地では、どちらの国にするかで対立が避けられません。結果的に、インドはパキスタンとインドに分かれることになります。
ただガンディーとしてはもう断じてそれ(分離)は別れさせてはいけない。インドは一つのインドとしてまとまる必要がある。
深井さんは、分離は後々に禍根を残すというガンディーの主張が「言った通りになりました」と話します。それでも当時のエリートや信徒は、その意見を受け入れられませんでした。
イギリスに対して何か言ってる時はいいけど、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の話され始めるともうイライラするわけですよ。
第二次世界大戦で、なぜガンディーは孤立したのか
第二次世界大戦が勃発すると、ガンディーはこの戦争に強く反対しました。それまでは自国の防衛に参加する義務を認めていたガンディーですが、この戦争は起こる必要がないと考えたのです。
ガンディーはヒトラーに戦争をやめるよう手紙を送りますが、無視されます。パールハーバー以後にはアメリカのルーズベルト大統領にも手紙を送り、丁寧な返事は来たものの、戦争は止まりませんでした。
深井さんによると、この頃は世界中が攻撃的になっていました。一時期はガンディーの一番弟子のようだったネルー ── インド独立運動の指導者で、独立後のインド初代首相。ガンディーの支持を受けて国民会議派の中心となりましたも、例外ではありません。
そのボロボロになったイギリスを見て、ネルーは今なら独立できるって思ったんです。
今なら戦えば独立できる、という空気に対して、ガンディーはあくまで反対しました。戦争もイギリスへの攻撃も、パキスタンとインドの分離もしてはいけないと主張したため、多くの人と意見が合わなくなっていきます。
悲しいな。なんか周りが変わってったんですね。
大戦が終わると、イギリスは抵抗運動と2度の世界大戦で疲弊し、脱植民地の機運が高まります。かつての「ドル箱」も統治できないだろうと手放す話が出て、インド独立へとつながっていきました。
この大戦後の流れは、深井さんの説明では次のような連鎖になっています。
イギリスの疲弊
第一次世界大戦に続き第二次世界大戦でも疲弊する
脱植民地の機運
独立運動も旺盛で、統治は難しいという世論が高まる
独立の決定
インドを手放す話が出て、独立が現実になる
体制の議論
独立後の体制をめぐり、イスラムとヒンドゥーの対立が表面化する
エリートたちはガンディーを尊敬して話は聞くものの、受け入れることはできませんでした。一方のガンディーは睡眠時間を削り、最下層の人々にまで融和の大切さを単独で説き続けていたといいます。
ガンディーを撃ったのは誰だったのか
ガンディーを暗殺したのは、ナトゥーラム・ゴードセ ── ヒンドゥー至上主義の団体と関わりのあった人物。1948年にガンディーを銃撃し、のちに死刑となりましたという30代後半の男性です。敬虔なヒンドゥー教徒で、原理主義者でした。
深井さんは、ゴードセから見たガンディー像を説明します。イスラム教徒との殺し合いでヒンドゥー教徒が多く殺されているのに、ガンディーは反撃もさせず、イスラム教徒のことしか考えていないように見えた、というものです。
レイプされたり殺人されたりしても報復させない。それによってさらなるレイプとか殺害っていうのが出てくる。それを止めるには、もうガンディーを殺すしかないっていう思考方法になっていって
同じ融和の主張でも、ガンディー本人と暗殺者では、まったく違って見えていました。
カーストも宗教も超えて融和し、インドは一つにまとまるべき
融和はイスラム教徒に有利なだけで、ヒンドゥーにメリットはない。影響力のあるガンディーは敵だ
ガンディーは銃で撃たれて亡くなります。深井さんは、イギリスではなく同じインド人に殺されたことを強調しました。
なんか人間の限界を感じる。なんかだってそこまでは相当、相当身近な人を説得できてきたのに、最後の最後はやっぱり説得できなかったっていうのが。
深井さんは、第二次世界大戦の影響が大きかったと見ています。ヒトラーもルーズベルトも、そしてネルーでさえ、ガンディーの話を聞いていませんでした。
戦争の時代って、人間の思考って、やっぱり自分のところに固まったりとか、原理主義になったりとか、ナショナリズムが高まったりとかするじゃないですか。
無力感の果てに選んだ、周囲がドン引きした修行
晩年のガンディーは強い無力感を抱えていたといいます。イスラム教の指導者ジンナー ── 全インド・ムスリム連盟の指導者で、パキスタン建国の父とされる人物。イスラム教徒の国家の分離独立を主張しましたの説得に失敗したことも、その一因でした。
ジンナーの説得失敗を、ガンディーは相手の問題ではなく自分の問題として捉えたと深井さんは話します。自分が人間的な高みに達していないから説得できないのだ、と考えたのです。
そこでヨガなんですね。
このときのヨガは、柔軟体操のようなものではなく、性欲を禁ずる修行でした。当時のガンディーは77歳ぐらいだったといいます。
性的禁欲の修行としてガンディーが行ったのは、19歳の孫娘と裸で一緒に寝て、自分は性的欲求を感じない、というものでした。深井さんは、性欲が生涯のテーマで、そのピースを埋めれば自分を高められると考えたのではないかと推測しています。
いやまあ何をもってうまくいったかって。まあ暗殺されちゃうんで。ちなみにこれ(修行)をやったことによって周りがドン引きして。何人か離れました。
一方で、別の説も紹介されます。宗教対立の中でレイプ被害にあった女性たちが、男性であるガンディーには話してくれず、ガンディーは性別による限界を感じていた。そこで性別を超えた存在を目指したのではないか、という説です。
いずれにせよ当時は全員がドン引きし、孫娘も1か月ほどで「おじいちゃんやめて」とやめることになりました。
1947年、インドとパキスタンはついに独立し、ネルーがインドの首相になります。しかしイスラム教徒、ヒンドゥー教徒、シーク教徒がいがみ合い、大量の難民や殺人、レイプが起き、カシミール紛争 ── インドとパキスタンが領有を争うカシミール地方をめぐる紛争。独立直後から続き、現在も解決していませんも発生しました。
人間のレベルがついていけなかったかもしれない。でもガンディーが次のレベルに行ってたら、もしかしたら本当にできてたのかもしれないし、それは僕はわからないですけどね。
長男ハリラールは、なぜ父と真逆を生きたのか
余談として深井さんが紹介したのが、ガンディーの家族の話です。修行の相手だった孫娘の父親は、ガンディーの長男ハリラールでした。
長男から見ると、父は自分が生まれてすぐロンドンへ行き、その後は南アフリカへ渡りました。南アフリカでも家族より周囲の人々を優先し、家族はないがしろにされる感覚を持っていたといいます。
妻のカストゥルバーは忍耐と理解のある人で、長男以外の子どもたちもガンディーとつながっていました。しかしハリラールは反発して家出し、放浪の人生を送ります。ガンディー暗殺の半年後、路上で遺体となって見つかりました。
そしたらお父さん、これで僕やっと留学できるよって言いに行ったら。そしたらね、ガンディーはね、何したかっていうとね、そのお金でね、違う人を留学に行かせるんですよ。
知人が出してくれた留学資金を、ガンディーは別の人の留学に回しました。深井さんは理由について、人類のためにはその人が行ったほうがいいと考えたのではないか、と推測にとどめています。
深く傷ついたハリラールは、父と真逆の生き方を選びます。肉を食べ、酒を飲み、13歳で結婚した父が反対した若い結婚と出産を重ね、女遊びや借金も重ねました。さらに、8歳の娘に性的虐待をしていたことも語られます。
非暴力不服従のガンディーの、この偉大なるガンディーの長男は娘をレイプしてるんですよ。これをどう解釈するかって難しくないですか?
平等を貫いた偉人の影をどう見るか
長男の話を受けて、樋口さんは偉人という存在の見え方を問い直します。
深井さんによると、ガンディーは家族を守ることも違うと主張していました。家族という単位にすると、どこかで必ず対立構造が生まれるため、家族も贔屓しないという考えです。
その期待を裏切ったお父さんとしてのやっぱり反動が長男に全部集約されちゃうんですよ。
深井さんは、ハリラールにとってそれは実際にひずみだったと応じます。樋口さんは、暗殺者のゴードセも同じで、ヒンドゥー教徒なのになぜヒンドゥーだけを大事にしないのかと感じたのだろうと続けました。
ガンディーの主張は立派である一方、別の視点から見ればそう見えるのも不自然ではない、と深井さんは話します。樋口さんは、絶対的なものはないのではないかと考えを巡らせ、深井さんはガンディー自身がそれをどう思っていたかはわからないと締めくくりました。
まとめ
塩の行進以後のガンディーは、民衆に寄り添う一方でエリートから距離を置かれ、第二次世界大戦の攻撃的な空気の中で孤立していきました。インドは独立を果たしたものの、ガンディーが恐れた分離と混乱が現実となり、本人は同じインド人に暗殺されます。その融和の理想は、暗殺者や長男の視点からはひずみにも見えるものでした。
- ガンディーはヒンドゥーとイスラムの分離に断固反対したが、エリートや信徒には受け入れられなかった
- 第二次世界大戦で世界が攻撃的になり、ヒトラー、ルーズベルト、ネルーにも声は届かなかった
- ジンナーの説得失敗を自分の問題と捉え、周囲がドン引きする禁欲の修行に取り組んだ
- 1947年に独立したが、ガンディーは原理主義者のヒンドゥー教徒ゴードセに銃撃された
- 家族も贔屓しない平等の姿勢は、長男ハリラールにとって深い傷となった





