45歳で帰国したガンディーは、まず何をした?
ガンディー編の第5回は、ガンディーが約20年過ごした南アフリカからインドへ帰国するところから始まります。深井さんによると、帰国は第一次世界大戦が勃発した頃で、ガンディーは45歳でした。
南アフリカでのガンディーは、何度か帰国を考えながらも、現地の人に熱望され、不当な法律をなんとかするまでは帰らないと覚悟していたといいます。ある程度の目処がついたことで、ようやくインドに戻ります。
マハトマっていうのは偉大なる魂っていう意味で、ガンディーが名前ですよね。ここからついにマハトマガンディーになっていきます。
深井さんは、第一次世界大戦の頃から10年ほどで、ガンディーが肩書きなしにインドの指導者になっていくと説明します。南アフリカでの経験から、ガンディーはインドの独立も非暴力で成し遂げられると確信していました。
ガンディーにとって植民地支配は、互いにメリットのない不当なものであり、彼の考えでいう「真理」ではありません。インドでもサティヤグラハ・アシュラム ── ガンディーがインドで作った共同生活の拠点。サティヤグラハは「真理の把握」を意味し、ガンディーの非暴力不服従運動の理念を表す言葉ですを作り、南アフリカのフェニックス農場に近い、カーストや宗教にとらわれない共同体を築いていきます。
この頃のガンディーは、よく知られる白い半裸の質素な服をすでに着ていて、貧しい人々と同じ生活をしていました。南アフリカで一等車から貨物車に移されて怒ったガンディーが、インドでは自ら3等列車に乗り、各地を見て回ったといいます。
すぐに行動に走らないのがすごいよね。すごいね。まずは見て回るところから。
インドは広く、民族も状況もさまざまです。深井さんは、すでに有名人だったガンディーには指導者になる感覚があり、その準備としてのインプットだったと見ています。
服を燃やし、裁判官に辞職を勧める非協力運動
インドに戻ったガンディーは、南アフリカと同じく、不正だと考える法をあえて破る市民的不服従を展開します。逮捕や財産没収はあえて受け入れ、必要なら刑務所にも入りました。民衆が暴動を起こしたときは、断食で止めようとしたといいます。
ガンディーの運動の柱は、イギリスによる支配への「非協力」でした。3億人を超えるインドをイギリスが統治するにはインド人の協力が不可欠であり、その協力をやめるという発想です。服従も協力もしないが、絶対に攻撃はしないというスタイルでした。
深井さんが挙げた非協力の具体策は、次のようなものです。
イギリス製の服を燃やす運動には背景がありました。当時のイギリスは、インドの綿をいったん本国に運んで服にし、それをインドに売っていました。雇用も利益もイギリスに落ち、インドにとってはたまったものではない仕組みだったと深井さんは説明します。
ガンディーが自分と同じ服装を勧めたことで、インド製の服は流行し、樋口さんは「ファッションリーダーにもなってる」と驚きます。
逮捕されて裁判にかけられたガンディーは、裁判官にまで仕事を辞めるよう勧めたといいます。
あなたが本当に正義だと思うんだったら、本当に一番重い罪を科してほしいし、あなたがそう思わないんだったら、今すぐ裁判官を辞めた方がいいですよっていう話を裁判の場で言って、裁判官も困る。
ネルーはなぜ短時間でガンディー派になったのか
インドでの活動の中で、ガンディーは重要な人物と出会います。後にインド独立後の初代首相となるネルー ── ジャワハルラール・ネルー。インド独立運動の指導者の一人で、1947年の独立後に初代首相を務めましたです。
当時のネルーは、インドで最も尊敬される法律家の一人で、政治コミュニティの議員でもあるエリートでした。父も弁護士で、子どもの頃からイギリス式の生活をしていましたが、やがてイギリスの統治にいら立ちを覚えるようになります。
ネルーから見ると、ガンディーの非暴力のやり方は悠長に映りました。戦ったほうが早いと考えたネルーは、ガンディーと議論しに行きます。ところが深井さんによると、ネルーは話してすぐにガンディー派になって帰ってきたといいます。
本人から聞いちゃったら確変するんですよ。こういうことすごく起こってるわけ。ガンディーの周りで。
イギリス式の裕福な生活。ガンディーのやり方は悠長で、戦ったほうが早いと考えていた
ガンディーと直接話してガンディー派に。高価な服や贅沢な生活習慣をやめていく
息子の変わりようにネルーの父は驚き、ガンディーに会いに行きます。お金を出すから息子と関わらないでほしいと頼む父に、ガンディーは息子だけでなく父も家族も全員巻き込むと答え、実際に巻き込んでしまったといいます。
ガンディーに人がなびく理由について、深井さんはこう解釈します。ガンディーはサティヤグラハを、重力のような物理法則に近い一般法則として捉えていて、そこに私心がまったくありません。
この人は全く自分のためにも動いてないし、人のためにも動いてないことがわかるんだと思います。
深井さんによれば、ガンディーは派閥のためでも、インド人のためでさえなく動いていました。だからイギリス人までもガンディーに巻き込まれていったと深井さんは考えています。
独立への一手が「塩拾い」?
ネルーらを巻き込んだガンディーは、インド人のコミュニティから次の一手を任されます。ガンディーが決めたことなら皆でやる、という状態でした。
ガンディーは、独立するまで絶対にやめないと決めたうえで、暴力も暴動も起こさずに確実に独立へつなげる方法を考えます。どの地域で誰にどう行動させるかを戦略的に練り始めたのは、ガンディーが61歳のときでした。
そうして生まれたのが「塩の行進」です。行進して砂浜の塩を拾う、という活動でした。当時のインドでは塩の製造と販売が禁止されていて、砂浜の塩をつまんで掲げること自体が法律違反でした。
それ自体が実はもう犯罪ではあるんですよね。法律に反してるんですよ。
独立のための活動を期待していた人々は、ネルーも含めて戸惑いました。楊さんによると、離れていった人もいたといいます。行進の距離について、深井さんは話の途中で約400キロだったと言い直しています。
深井さんは、塩の行進をサティヤグラハの精神を体現する活動だったと説明します。樋口さんはそれを「アート活動」「パフォーマンス」と言い換え、腑に落ちた様子でした。
イギリスは塩の専売権を握り、インドの依存を高めていました。塩はイギリスの植民地支配の典型であり、インド人が抗えずに従ってきた仕組みの象徴でした。
さらに、塩を掲げる場面が世界に放映されることまで計算されていました。深井さんが語った戦略の連鎖は、次のように整理できます。
塩を拾う
植民地支配の象徴である塩の専売に、非暴力で違反する
報道
ガンディーが塩を掲げる姿が全世界に放映される
世界の印象
メディアを通じて世界がこの活動を目にする
イギリスへの圧力
世界の印象がイギリスへの圧力になる
参加者78人と工程表、どこまで準備したのか
塩の行進の参加者は78人から始まりました。深井さんは最初74人と言い、その後78人と訂正しています。参加希望者は大勢いましたが、ガンディーはその中から吟味して選び抜きました。
選考では、誰をどのタイミングで加えると暴力沙汰になりかねないかまで考慮したといいます。選ばれたのは、暴力を受けて殺されても反撃しない人たちで、実際に何人かが殺されました。
行進は最終的に数千人に膨れ上がりますが、それも最初からの前提でした。何週間もかけて、塩の行進はサティヤグラハをインド全体に広げる象徴的な活動になっていきます。
準備の細かさについて、深井さんは、行進する各地域の人口、宗教分布、貧しい人々の経済状況をデータとして調べ、地域ごとに取ってもらう行動まで定めていたと説明します。
集団が移動した時に、この日はここまで移動して、泊まるところをどうするのか、ご飯どうするのかっていうのを事前に全部こう工程表に入れて作ってるんですよね。
楊さんは、一見ばかばかしい塩拾いだからこそインパクトにつながったのではないかと話します。深井さんも、逮捕されたときの罪状まで計算したうえで、一番バランスのいい手段として塩を選んだのだろうと見ています。
逮捕に来た警察まで感化されたのはなぜか
塩の行進では周りの人が次々と逮捕されましたが、ガンディー自身はなかなか逮捕されませんでした。ガンディーが逮捕された場合に誰が活動を引き継ぐかも、あらかじめ決められていたといいます。
やがてガンディーも逮捕されます。30人の警察が逮捕に来たとき、ガンディーは怒りも不安も見せず、普段どおりだったといいます。荷物をまとめるよう言われると、手提げ袋を1つ出して、これしかないと答えたそうです。
なんかそのめっちゃ普通の人見たことなかったんでしょうね。そのシチュエーションにおけるめっちゃ普通な人、なんか感動してしまったらしいですよ、警察が。
刑務所でも、刑務官たちはガンディーの生活スタイルや威厳に感化されました。深井さんは、会った瞬間に尊敬されるというブッダのエピソードを思い出し、そういう人は実在しうるのだと感じたと語ります。
ガンディーの言葉は簡潔でした。逮捕後にイギリスの高官と話したときも、不正には服従しない、この不正は自分たちだけでなくあなたたちも破滅させている、という同じ主張を繰り返していたといいます。
地方ではガンディーはヒンドゥー教の神の1人のように拝まれ、現人神のような扱いを受けていました。深井さんは、宗教はこういうふうに生まれるのかもしれない、と話します。刑務所の中でも、ガンディーは病人の看病などのボランティアを続けていました。
総督との会談で何が認められ、何が残ったのか
深井さんによると、塩の行進はインド全体に影響を与え、直接ではないものの、間接的に独立へとつながっていきます。
サティヤグラハが広がって事態が収まらなくなり、インド総督の側からガンディーを呼んで会談が実現します。会談で認められたのは、次の内容でした。
- 逮捕者の刑事訴追をやめる
- 暴行以外の政治犯を釈放する(ガンディーも釈放)
- 酒と外国産の布のボイコットを認める
- 没収された土地と財産を返還する
- 天然の塩を取ることを認める
樋口さんは「もうほぼ許されてるじゃないですか」と反応しますが、深井さんは、植民地支配そのものは続いていて独立はしていないと指摘します。塩は一事例にすぎず、そこだけ許されても困る、というわけです。
この着地点にはさまざまな意見が出ました。深井さんは、後にガンディーを暗殺したヒンドゥー教徒が、このときのガンディーに反感を持っていたと紹介しています。
その後ガンディーは、国王に呼ばれてロンドンの格式高い会議に出席し、いつもの質素な服装で現れます。チャーチル ── ウィンストン・チャーチル。イギリスの政治家で、後に首相として第二次世界大戦を指導しました。インドの独立には強く反対していましたは乞食のような格好だと怒ったといいますが、イギリス人の間でもガンディーは人気で、多くの味方ができたそうです。
いるだけで影響を与えるとか、なんかそういうのがマジでやっと理解できるようになってきましたね、ガンディー。
次回は、いよいよガンディーが暗殺される回だと予告されて、この回は終わります。
まとめ
インドに戻ったガンディーは、非協力運動で支配への協力を断ち、ネルーのようなエリートまで味方に変えていきました。そして独立への一手として選んだ塩の行進は、象徴の選択から参加者の選考、工程、報道まで緻密に計算された非暴力の行動でした。
- ガンディーは45歳で帰国し、まず3等列車でインド各地を見て回った
- 非協力運動では、不買、公職辞任、納税拒否、イギリス製の服を燃やすことなどを具体的に呼びかけた
- ネルーはガンディーと直接話してすぐにガンディー派になり、その父までも巻き込まれた
- 塩の行進は、植民地支配の象徴である塩の専売への「非暴力の象徴的犯行」として、報道の効果まで計算されていた
- 総督との会談で多くの譲歩を得たが独立には至らず、その着地点には反発も生まれた





