五箇条の御誓文は何を宣言したのか
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戊辰戦争は終わりましたが、西郷隆盛の物語はまだ続きます。深井さんによれば、この後も西郷さんには「二悶着、三悶着ぐらい」の出来事が待っています。
まだ明治政府作んないといけないからね。
戊辰戦争と並行して、新政府は現代日本の礎となる社会制度を整えていきます。西郷隆盛と勝海舟が江戸開城の談判をしていた頃、明治天皇が五箇条の御誓文 ── 1868年に明治天皇が神々に誓う形で示した新政府の基本方針。5つの条文から成り、近代日本の出発点とされますを発表しました。
深井さんは結論として、五箇条の御誓文は幕府が専制していたそれまでの世の中を否定する内容だと説明します。1つ目の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」は、将軍が勝手に決めるのをやめ、公の議論で決めようという宣言です。
楊さんは、この条文の背景に、尊王や攘夷と並んで明治維新の原動力となった「公議」という概念があると補足します。徳川政権だけで決めるなという、政治参加の拡大を求める考え方です。
広く国民に政治参加の権利が分配されてるっていう意味合いではなくて、どっちかというと広く議論を行って正しい考えに至る、(そういう)ニュアンスだったみたい。
ほかの条文も、上下が心を一つにして国を治めること、役人も武士も庶民もやる気を失わないようにすること、古いしきたりにとらわれないこと、知識を世界に求めて国を発展させることを掲げています。深井さんは、全体として「新しいフェーズに入ったぞ」と宣言したものだとまとめます。
楊さんは、官吏・武士・庶民の志を遂げさせるという条文に、人材を広く登用したい政府の目標が反映されていると指摘します。ただし当時はどの藩も先行きが不透明で、自藩から新政府へ人材を送り出すことはためらわれていました。
さらに、藩士と藩主の主従関係もまだ生きていました。この関係を引き剥がして人材を新政府に入れることが、これからの課題として意識されていたと言われています。
めちゃむずくないですか、ここから武士いなくさすの。
憲法のない「赤ちゃん政府」はどう試行錯誤したのか
この時点の明治政府は憲法を持たず、民主主義でもありませんでした。有力藩の藩主、西郷隆盛や大久保利通、岩倉具視らが話し合う合議制で国を動かしており、深井さんはこれを「赤ちゃん政府」と表現します。
憲法がないぶん制度変更も簡単で、明治政府の制度は数年単位で目まぐるしく変わっていきました。深井さんは「本当に手探りで新しい国家作ってる感」がすごいと語ります。
議会的な機関の移り変わりを見ると、公議所には各藩の家老クラスが参加し、翌年できた集議院は藩の代表や士族層から人を集める諮問機関でした。その後の元老院には藩閥の有力者や旧公家が参加し、武士が入り込む余地は徐々に狭まっていきます。
公議所
明治2年に設置。各藩の重臣・家老クラスの武士が参加
集議院
翌年に設置。藩の代表や士族層から人を集めた中央政府の諮問機関
元老院
その後に設置。藩閥の有力者や旧公家が参加し、法律草案などを審議
行政の仕組みも同様です。1868年の政体書 ── 1868年に出された新政府の組織法。権力を分ける考え方を取り入れた政府の仕組みを定めましたで王政復古の大号令の三職に変更が加えられ、太政官制がつくられます。1871年には正院・左院・右院の三院制が導入され、1885年に内閣制度が発足するまで、中央政府の変更が繰り返されました。
まあでもトライアンドエラーするしかないもんな。新しくいきなり国作ったみたいなことやから、それは難しいですわな。
なぜ江戸は「東京」になり、元号は一世一元になったのか
五箇条の御誓文の発布から4か月後、江戸は東京と改称されます。新政府は京都の公家から距離をとるため、江戸への遷都を計画していました。
当然、公家は反発します。そこで「東の京」、つまり本拠地はあくまで京都だという意味を公家にもわかるように込めて、東京という名前にしたと深井さんは説明します。新政府の思惑とは違う名付けだったといいます。
改元も行われます。孝明天皇の崩御後、明治天皇が正式に即位したのは1868年で、楊さんによれば戊辰戦争のごたごたで即位が遅れていました。このとき元号が明治となり、天皇1人に元号1つという一世一元の制 ── 天皇1代につき元号を1つに定める制度。明治改元のときに定められ、現在の元号制度にも引き継がれていますが定まります。
明治以前は、事件や災害が起こると縁起が悪いとして、1人の天皇の世でも何度も改元していた
明治以降は一世一元の制となり、天皇1人に元号1つになった
深井さんは、明治以前の改元を「呪術的なこと」と表現し、新政府がそれをやめようとしたと語ります。
楊さんは、戊辰戦争中の西洋列強の立場にも触れます。列強は新政府と旧幕府を対等な交戦団体とみなし、どちらも支援しないスタンスでした。新政府が本州を制圧したところで、新政府を唯一の日本政府として認めたといいます。
フランスが旧幕府軍に軍事教練のサポートをしたことなどはありましたが、研究ではどちらかに大きく肩入れした状態ではなかったとされています。
活躍した西郷隆盛はなぜ鹿児島にこもったのか
新政府が体制づくりを進める一方、主人公の西郷隆盛は戊辰戦争の終盤に鹿児島へ帰り、そのまま帰りっぱなしになります。陸軍の責任者として活躍した西郷さんなら新政府の要職に就くのが当然ですが、要職には就きませんでした。
で、鹿児島で何してるかって言ったら、狩りしたり温泉に入ったりしてるの。
楊さんは、西郷さんが中央に行かなかった理由として、いくつかの考察を紹介します。1つ目は体調で、もともと腹痛や胸の痛みがあり、戊辰戦争後には下血もあったといいます。痔や大腸の病気などの可能性が言われていますが、カルテは残っていないため原因は不明です。
2つ目は、窮屈な役人生活を嫌う性格です。3つ目は政府内の雰囲気で、主導権を握りすぎた薩摩藩に対し、ほかの勢力から「調子に乗りすぎじゃない」という反発がありました。
すでに大久保利通が政府の中枢にいるなかで西郷さんまで加われば、薩摩藩が政府を乗っ取るつもりだという疑いを招きかねません。西郷さんはそう判断したのではないかと言われています。
凱旋した下級藩士と島津久光の対立とは
楊さんが挙げる4つ目の理由は、薩摩藩の情勢安定です。戊辰戦争で西郷さんの部下として東日本を転戦した中級・下級藩士たちは、薩摩に戻ると自分たちの活躍を理由に地位向上を求めました。
実際に彼らには優遇策が施されましたが、これに怒ったのが島津久光 ── 薩摩藩主島津忠義の父で、藩の実権を握った人物。幕末の政局で大きな影響力を持ち、西郷隆盛とは長く確執がありましたです。久光は、戦争に勝って調子づいた者たちが周りを見下していると書き残しています。
島津久光からすれば、あいつら下剋上すんの?みたいな、なんか嫌な感じなんですよね。
久光は、下級・中級藩士の背後に西郷さんがいるのではないかと疑います。西郷さんはこの空気を察し、自分が戻って藩士たちの要求を抑えなければ暴発しかねないと考えて鹿児島に帰ったのではないか、とも言われています。
楊さんによれば、久光の懸念にも根拠がなかったわけではありません。政府内でも、薩摩の兵たちの盛り上がりが制御不能になるかもしれないと懸念する声が出ていました。
結局暴発しますけどね。
楊さんは、その暴発が後の西南戦争だと付け加えます。
一方で深井さんは、弟を亡くして以降の西郷さんがずっとふさぎ込んでいると指摘します。島から呼び戻されたのは島津斉彬の意思を実現するためで、戊辰戦争が終わって新政府ができたことで、その目的が一段落したとも言えます。体調不良も重なり、西郷さんは「なんか元気ない」状態が続いていきます。
版籍奉還はなぜ「名目上」だったのか
中央では大久保利通や木戸孝允が着々と政府の基盤を構築していきます。そして1869年、版籍奉還 ── 各藩が土地(版図)と人民(戸籍)を天皇に返上したこと。1869年に行われ、廃藩置県への前段階となりましたが行われます。
深井さんによれば、版籍奉還は名目上、各藩が土地と人民を天皇に返上するものでした。徴税権などはまだ残っており、実質的にはあまり変わっていません。
薩長土肥の4藩主が率先して版籍奉還を行ったため、ほかの藩は乗り遅れれば会津のように攻められるのではと恐れ、次々に追従しました。
版籍奉還の意味は、改革を段階的に進めることにあります。まずは名目上の返上を行い、藩は温存して旧藩主に旧領地を任せる。一気に藩を廃止せず徐々に進めるという、大久保利通の考え方でした。
中央集権国家にするなら藩は不要です。しかし、島津久光のような人物をどうするかという問題が大きく残っていました。楊さんは、久光は一定の改革は認めるものの、正しい武士として身分はあってしかるべきだと考え、特権が削られるたびに怒っていくと説明します。
藩主は「通勤する知事」へ、なぜ西郷が呼び戻されたのか
版籍奉還の後も、西郷さんは狩りをして温泉に入る日々を送っていました。その間、凱旋将兵たちの声はますます大きくなり、薩摩の家老を辞職させるほどになっていたといいます。
銃弾をかいくぐった奴が偉くて。
深井さんによれば、凱旋将兵から見れば、薩摩藩の偉い武士たちは戊辰戦争で何をしたのかという話になっていました。久光の側近まで左遷されるなど、上級武士の地位が落ちていく動きが薩摩でも起こっていました。
同時に、藩政と家政の分離が断行されます。封建制のもとでは薩摩藩は島津家のものでしたが、藩政と島津家は別だとされたのです。
なんか福岡県知事がのものじゃないじゃん、福岡県って。だけど、元々の封建制っていうのは、薩摩藩っていうのは島津家のものなんですよ。
藩主の島津忠義は、薩摩藩政庁に通勤する知事のような存在になります。家格による秩序も崩れ、勲功と実績に基づく人員配置が行われていきました。
こうした抜本的改革を進めるには、「もっとやれ」と言いかねない凱旋将兵を抑える必要があります。上級武士が怒らないスピードで進めるためにも、将兵から圧倒的な声望を得ていた西郷さんの存在が不可欠でした。
藩主の忠義は、温泉で療養する西郷さんのもとを自ら訪ね、副知事のような役職である参政への就任を頼みます。忠誠心を教え込まれてきた西郷さんは、殿様からの依頼を受けて藩政に戻りました。
年6億円の褒賞はなぜ辞退されたのか
西郷さんは戊辰戦争で第一等の活躍をしたと見なされ、毎年2000石を死ぬまで受け取れる論功行賞を得ていました。深井さんによれば、今の日本円で年6億円ほどです。
さらに正三位という高い官位も与えられましたが、西郷さんは最終的にこれらを辞退します。楊さんの答えは「久光がキレたから」です。
久光は、自分も政府から与えられた褒賞と官位を拒否するので、藩士の分も同様に取り消してほしいと政府に申し出ます。西郷さんの正三位は藩主の忠義より高く、久光はこれにも自分の承諾を得ていないと抗議しました。
もうこれはね、明らかにですね、本の中に書いてあった言葉なんですけれども、西郷に対する嫌がらせです。
西郷さんは心身にストレスを抱え、藩政の役職を辞任します。深井さんは、勝海舟と渡り合っていた頃とは態度がまったく違うと指摘します。弟の死後はふさぎ込み、戦闘でもさほど活躍せず、嫌っている久光の下で働いて疲弊していきました。
一方で、この時期は西郷さんにとって家族と暮らせる大事な時期でもありました。褒賞は一部しか返せませんでしたが、そのお金をほとんど使わず、暮らしは質素だったといいます。
妻イトの証言では、西郷さんは酒を飲まず、女遊びもせず、唯一の贅沢は宇治茶を取り寄せて飲むことでした。新政府の人々が酒や遊びにふけっているという噂を聞き、批判的だったそうです。
大久保と木戸はなぜ西郷と久光を必要としたのか
辞任しても、時代は西郷さんに何もしないことを許しません。内乱は終わったものの、偽札の氾濫や記録的な凶作で国は疲弊し、中央政府はまだ不安定でした。
政府内では、大隈重信や木戸孝允のような急進的な開化政策を訴える人々と、漸進的にしか進められないとする大久保利通との対立が起こります。深井さんは、方向性は一致していても、スピードで対立していたと説明します。
大隈重信や木戸孝允ら。急進的な開化政策を訴える
大久保利通ら。改革は段階的にしか進められないと考える
政府の行き詰まりを打開するため、最大の軍事力を持つ薩摩藩の西郷隆盛と島津久光を中央に迎え入れる動きが出てきます。大久保さんと木戸さんは、久光、長州藩の毛利敬親、西郷さんを上京させて政府を強化しようとしました。
大久保さんはひと月ほど鹿児島に帰り、久光に何度も上京を頼みます。しかし久光は、凱旋兵たちの振る舞いや新しい政府の作り方、武士の権限が弱まることに不満を抱き、首を縦に振りませんでした。
久光と西郷さんの関係はさらに険悪になり、西郷さんは東京へ行けず、藩の大参事に任命されます。深井さんによれば、この頃の西郷さんは2、3回辞めてはそのたびに呼び戻されていました。
なんか休ませてやろうやみんなで。
横山安武の割腹は何を訴えたのか
国内が不安定ななか、朝鮮との関係も問題になっていました。新政府ができた直後に送った国書に「皇」や「勅」の字が入っていたことが、冊封体制 ── 中国皇帝を頂点に、周辺国の王が臣下として位置づけられる東アジアの国際秩序。朝鮮はこの秩序を重んじていましたを引き継ぐ朝鮮にとって非礼にあたり、受け取りを拒否されていたのです。
深井さんによれば、木戸孝允は朝鮮に攻め入ることで国内の不満を外に向けようと構想していました。後の征韓論の始まりにあたる考えです。
これに対し、鹿児島藩士の横山安武が、国内がこれほど混乱し庶民が飢えているのに、細かい法律ばかり作っている、維新の恩恵とは何なのかと訴え、割腹自殺します。
で、もし日本に勢いがあったら、朝鮮が非礼なことするわけないじゃんと。朝鮮攻める力なんかないでしょ。
横山安武の行動は、西郷さんや大久保さん、島津忠義からも称賛されました。深井さんは、ここに西郷さんが新政府に好意的でなかったことが表れていると指摘します。
楊さんは、大久保さんや木戸さんが現実的な仕事をしながら嫌われる構図は、幕末の幕府に似ていると語ります。深井さんも、法治国家にするには細かい法律が必要だったはずで、新政府の人々は大変だったと述べます。
岩倉具視の説得と、西郷の漢詩に込められた思い
政府を強化するには西郷さんの協力が不可欠だとして、岩倉具視が自ら志願し、勅使として鹿児島へ向かいます。大久保さんと木戸さんも同行しました。
フルメンバーで説得しに行ってるよ。
折衝を重ねた末、1870年12月24日、久光は西郷さんの上京を承諾し、自分も後から上京すると回答します。28日、岩倉と大久保は西郷さんを伴って鹿児島を出発しました。
このときの西郷さんの気持ちを表す七言絶句が残っています。深井さんの訳によれば、名誉を求める気はなく、自分は生贄の牛にされて食われてしまうだろうという内容です。
めっちゃ切ないやんなんか。
深井さんは、生贄の牛という表現に、中央政府で働けば自分の美学も貫けず犠牲にされるだろうという観念が表れていると読み解きます。
楊さんは、創業期の中央政府はままならないことばかりで、西郷さんは理想が純粋すぎて、それを評価できなかったのだろうと語ります。
全てがままならないぐちゃぐちゃのぐだぐだのまんま、それでも前に進まないといけないじゃん。
深井さんは、現実主義者として泥をかぶりながら国家を作る大久保利通を「めっちゃ立派」と評価します。
御親兵の設置が廃藩置県を可能にしたのか
西郷さんを迎えた木戸、西郷、大久保の3人は、集権化を一気に進めるには政府直轄軍が必要だと話し合います。版籍奉還は名目上のもので、軍事動員権はまだ藩にありました。
深井さんは、近代国家の条件の1つは軍事力の一元化だと説明します。政府は薩長土の3藩に藩兵の一部を差し出させ、御親兵を設置しました。このとき西郷さんは、大久保さんや木戸さんとともに、合議制で国の方針を決める参議になっています。
続いて、長州藩出身で御親兵のトップだった山縣有朋が、廃藩置県を実行すべきだと提案します。反対を覚悟していた山縣に対し、西郷さんはすぐに賛成しました。
楊さんによれば、西郷さんは流れを止められないと考え、乗り遅れれば影響力が下がることを懸念したのではないかと言われています。
深井さんは、廃藩置県によって鎌倉時代から続いた封建制が崩壊したと語り、成功した理由として御親兵という軍事力を持っていたことを挙げます。
藩主の収入はどうなり、西郷の一言は何を変えたのか
廃藩置県は電撃的に断行され、藩は独自の政令と軍事力を失います。ただし、藩主には政府からの給料や公債の利子が出ており、生活水準は維持できたといいます。
楊さんは、新政府の手腕は、武士と藩の特権を削りながら不平不満をどうマネジメントするかにあったと語ります。それでも廃藩置県はクーデターとも呼ばれ、議論は紛糾しました。
議論の場に遅れて現れた西郷さんは、各藩で異論が起これば兵をもって鎮圧すると大声で言い放ちます。
それがね、西郷さんが言うからパワーがあるんですよね。現実変更のパワーがあるんですよ。
陸軍大将でもあった西郷さんの言葉に、逆らえる人はいませんでした。
激怒した久光は花火を打ち上げた?
廃藩置県を聞いた島津久光は激怒し、花火を打ち上げたといいます。医者や女中にも当たり散らしました。
いやいやいや、独特やな、キレ方。
久光は西郷さんに詰問状を送り、主人がいるのに高い官職を受け取っていることや、兵隊の暴行の後ろ盾になっていることを責めます。さらに、西郷らが廃藩の話に乗らなければ廃藩は避けられたと語りました。
久光の不満が広まると、鹿児島が反政府的だと見られかねず、西郷さんの心労はさらに増していきます。深井さんは、他藩には強く出られても久光には反論できない西郷さんの苦しさを指摘します。
もう本人はね、死にてえって多分思ってます。
鹿児島県令志願と、改革が生む割を食う人々
久光は廃藩置県の直後、自分を鹿児島県令にしてほしいと政府に建白書を出そうとします。これを認めれば他県からも同じ要求が出て、改革は崩れてしまいます。
西郷さんは「あきれ切りたること」と批判する手紙をアメリカにいる大久保利通に送り、手を回して建白書の提出を断念させました。
樋口さんは、全国の藩主も同じ不満を抱いていたはずで、久光だけが大きな声で言えたと指摘します。深井さんは、殿様制度をなくすつもりで上洛したわけではないという久光の言い分にも一理あると語ります。
システムが変わったら誰かが絶対に割を食うっていうことかもしれないですね。
廃藩置県の後も、西郷さんや大久保さんと久光との主従関係がすぐに消えるわけではありません。改革の重圧はこの後さらに大きくなると予告され、物語は次回へ続きます。
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まとめ
戊辰戦争後の明治政府は、五箇条の御誓文から版籍奉還、御親兵、廃藩置県へと段階的に中央集権化を進めました。その陰で西郷隆盛は、心身の不調と島津久光の憎悪に苦しみながら、改革を支える重い役割を背負わされていきます。
- 五箇条の御誓文は幕府の専制を否定したが、民主主義ではなく「広く議論する」という公議の考え方だった
- 憲法のない明治政府は、議会や行政の制度を数年単位で試行錯誤した
- 版籍奉還は名目上の改革で、御親兵の設置によって廃藩置県が可能になった
- 西郷隆盛は凱旋将兵を抑えられる唯一の存在として何度も呼び戻され、久光の嫌がらせに疲弊した
- 廃藩置県に激怒した久光は花火を打ち上げ、改革で割を食う人々の不満を象徴した




