戊辰戦争後の西郷隆盛と新政府の苦闘──版籍奉還から廃藩置県へ
歴史を面白く学ぶコテンラジオ(COTEN RADIO)では、深井龍之介さんと樋口聖典さんが西郷隆盛編を展開中です。今回は、戊辰戦争終結後の明治新政府が直面した激動の時代を描きます。五箇条の御誓文から版籍奉還、そして廃藩置県へ──新政府の苦闘と、心身ともに疲弊しながらも中央政界へ引き戻される西郷の姿を追います。その内容をまとめます。
五箇条の御誓文と新しい政治体制
戊辰戦争が終結し、新政府は本格的に国づくりを始めます。まず明治天皇が発表したのが五箇条の御誓文1868年に明治天皇が発表した新政府の基本方針。幕府による専制政治を否定し、公議や開国路線を打ち出しました。でした。
五箇条の内容を要約すると、次のようになります。
この御誓文は、幕府の専制を否定し、新しい時代への転換を宣言したものでした。ただし、ここで言う「公議」は現代的な民主主義や人権思想とは異なります。むしろ、広く議論を行って正しい考えに至ろうという意味合いが強かったようです。
同時に、江戸は「東京」と改称されました。京都の公家勢力から距離を取りたかった新政府ですが、公家の反発を抑えるため「東の京」という名前にしたのです。また、明治天皇の正式即位とともに元号が「明治」となり、一世一元の制天皇一人につき元号一つという制度。明治以前は、災害や事件のたびに元号を変える習慣がありましたが、明治から天皇の在位期間と元号を一致させるようになりました。が定められました。
この時期、新政府の統治体制は目まぐるしく変わります。憲法がないため、制度変更が容易だったのです。公議所1868年に設置された議会的な機関。各藩の重臣や家老クラスが参加しましたが、翌年には衆議院(集議院)に改組されました。から衆議院(集議院)公議所を改組した諮問機関。藩の代表や士族層から人を集め、中央政府の相談役として機能しました。現在の衆議院とは別物です。、さらに元老院1875年に設置された立法諮問機関。藩閥の有力者や旧公家が参加し、法律草案や政令案を審議しました。へと、わずか数年で組織が変わっていきました。手探りで国家の枠組みを作っている様子がよくわかります。
---西郷隆盛、鹿児島へ──戦後の心境
戊辰戦争が終わった後、西郷隆盛は鹿児島へ帰ります。弟の西郷従道西郷隆盛の弟。戊辰戦争で活躍しましたが、戦闘中に負傷し、後に亡くなりました。が戦死してから、西郷はふさぎ込んでいました。体調も優れず、肛門から出血する症状に悩まされていたといいます。
本来なら、新政府の要職に就くのが当然でした。しかし西郷は、狩りをしたり温泉に入ったりして過ごします。中央政界から距離を置いたのです。
普通はそうですよね(新政府の要職に就くのが)。
西郷が中央に行かなかった理由はいくつか考えられます。一つは体調不良。もう一つは、薩摩藩が新政府で主導権を握りすぎていることへの配慮でした。大久保利通がすでに中枢にいるため、西郷まで加わると薩摩の影響力が大きくなりすぎる──そう考えたのかもしれません。
さらに、薩摩藩内の事情もありました。戊辰戦争で活躍した中級・下級藩士たちが、帰郷後に地位向上を求めていたのです。彼らは「俺たちが戦って勝ったんだから、偉くなって当然だろう」と主張しました。これに対し、島津久光薩摩藩の実力者で、幕末の政局を動かした人物。西郷隆盛とは犬猿の仲で、明治維新後も対立が続きました。は激怒します。「下級武士が調子に乗るな」と。
久光は、この動きの裏に西郷がいると疑いました。西郷が地元にいれば、この血気盛んな兵士たちを抑えられる──そう考えた藩主島津忠義島津久光の息子で、薩摩藩の藩主。明治維新後は新政府の知事的な立場に就きました。は、自ら西郷のもとを訪れて参政(副知事的な役職)に就くよう依頼しました。
西郷は藩主からの頼みを断れず、鹿児島藩政に復帰します。しかし、久光からの嫌がらせは続きます。西郷が論功行賞で年間二千石(現在の価値で約六億円)を受け取ることになると、久光は「私は受け取らない。薩摩藩士の分も全て辞退する」と政府に申し出ました。西郷への嫌がらせでした。
これね、明らかにですね、本の中に書いてあった言葉なんですけれども、西郷に対する嫌がらせです。
西郷はストレスで藩政を辞任しますが、何度も呼び戻され、また重要役職に就けられるという繰り返しでした。体調も悪く、精神的にも追い詰められていたことがわかります。
---版籍奉還と武士の力の削減
1869年、版籍奉還各藩が名目上、土地(版)と人民(籍)を天皇に返上した政策。実際の徴税権や統治権はまだ藩に残っており、形式的な改革でした。が行われます。これは、各藩が名目上、土地と人民を天皇に返上するという政策でした。ただし、徴税権などの実権はまだ藩に残っており、形式的な改革にとどまっていました。
薩摩・長州・土佐・肥前の四藩が率先して版籍奉還を行ったため、他の藩も追従せざるを得なくなりました。会津のように反抗すればどうなるか、皆が知っていたからです。
各藩が土地と人民を支配し、独自の徴税権・統治権を持つ封建体制
土地と人民は天皇のものとなるが、藩主は知事として実務を継続
版籍奉還後も、藩は温存されました。旧藩主が旧領地の知事として任命され、実質的な統治を続けていたのです。新政府は一気に藩を廃止せず、徐々に改革を進める方針を取りました。大久保利通の現実主義的な判断でした。
同時に、藩政と家政の分離が断行されます。それまで薩摩藩は島津家のものでしたが、これが「薩摩藩は政府であり、島津家とは別」という考え方に変わりました。封建制の崩壊が始まっていたのです。
家格による秩序も崩れ始めます。功績や実績に基づく人員配置が行われるようになり、下級武士が上級武士を追い越すこともありました。こうした改革を進めるには、凱旋将兵たちを抑える必要があり、西郷の存在が不可欠だったのです。
---重い腰を上げた西郷、中央復帰へ
新政府は不安定でした。偽札が氾濫し、凶作が続き、庶民は疲弊していました。政府内では、木戸孝允長州藩出身の政治家。急進的な改革を主張し、開国路線を推進しました。の急進的な開化政策と、大久保利通の漸進的な改革路線が対立していました。
政府を安定させるには、薩摩藩という最大の軍事力を持つ組織と、そのリーダーである西郷隆盛、そして島津久光を中央に迎え入れる必要がありました。
岩倉具視公家出身の政治家。王政復古の大号令を主導し、明治政府の中枢を担いました。は自ら志願して鹿児島に向かい、大久保と木戸も同行します。天皇の使者として、久光と西郷に上京を依頼するためです。
折衝を重ねた結果、1870年12月24日、久光は西郷の上京を承諾し、自分も来週には上京すると答えました。岩倉と大久保は西郷を伴い、年末に鹿児島を出て東京に向かいます。
この時、西郷が詠んだ漢詩が残っています。
朝廷に仕えたり野に下ったりするのは、名誉を貪るようなものだ
流刑にされた後の余生、栄誉を求める気などない
この貧しい行いを草子は笑うに違いない
自分は生贄の牛にされて食われてしまうだろう
西郷は、中央政界に出て行けば自分は犠牲にされると考えていました。名誉欲はなく、ただ責任感から仕方なく引き受けたのです。体調も悪く、精神的にも疲弊していた彼にとって、これは苦渋の決断でした。
めっちゃ切ないやんなんか。
ネガティブ。切なすぎるわ。鬱的ですよ。
御親兵と廃藩置県──進む中央集権化
西郷が中央に戻ると、すぐに大きな改革が始まります。まず木戸、西郷、大久保が会談し、集権化を一気に進めることを決めました。そのために必要だったのが、政府直轄の軍隊です。
薩摩・長州・土佐の三藩に命じ、藩兵の一部を御親兵新政府が初めて組織した中央直轄の軍隊。各藩から兵士を集めて編成され、後の明治政府軍の基礎となりました。として差し出させました。これにより、初めて正式な官軍が誕生します。そして、山縣有朋長州藩出身の軍人・政治家。御親兵のトップを務め、後に日本陸軍の父と呼ばれるようになりました。が御親兵のトップに就きました。
そして、最も重要な改革が廃藩置県1871年に断行された、藩を廃止して県を設置する政策。これにより封建制が完全に崩壊し、中央集権国家への道が開かれました。です。山縣有朋が「廃藩置県を実行すべきだ」と提案すると、西郷は「それはよろしい」と即座に同意しました。
これ。で、山縣有朋からしても、さすがに廃藩置県は最後反対されるんじゃないかなって覚悟してたらしい。けど、西郷がそれはよろしいっていきなり言って。ってなったらしい。
廃藩置県は、鎌倉時代以来約700年続いた封建制を完全に崩壊させる大改革でした。藩はすべて廃止され、藩主は独自の政令施行権も軍事力も失いました。
各藩が独自の軍事力・徴税権・統治権を持ち、藩主が実質的な支配者として君臨
藩は廃止され、県が設置される。藩主は知事ではなくなり、中央政府が全国を直轄統治
この改革は電撃的に断行されました。御親兵という軍事力を背景に、「文句を言ったら殺す」という圧力があったからです。議論が紛糾した会議で、遅れて参加した西郷が大声で言い放ちました。
「この上、もし各藩にて異論が起こりそうあらば、兵を持って撃墜しますので」
この一言で、誰も逆らえなくなりました。西郷の威光と御親兵の存在が、この大改革を可能にしたのです。
島津久光の激怒と西郷のプレッシャー
廃藩置県の知らせを聞いた島津久光は、激怒しました。何をしたかといえば、花火を打ち上げたのです。
いやいやいや、独特やな、キレ方。
怒りを晴らすために花火を上げ、医者や女中にも当たり散らしました。そして、西郷に詰問状を送ります。
「お前は主人を持っているにも関わらず、高い官職を遠慮なく受け取っている。どういうつもりか」
「兵士を解散した後に兵隊が暴行を働いた。お前が鎮めるべきところなのに、かえって後ろ盾になっているのではないか」
「廃藩の議論を始めようとしていた時、その話に乗ることがなければ廃藩は避けられたのに」
久光は、西郷が廃藩置県に同意したことを責めました。さらに、西郷が凱旋将兵を裏で操っていると疑い続けていました。
この久光の不満は世間に広まり、鹿児島藩が反政府的なスタンスを取ろうとしているのではないかと疑われます。西郷は、久光の暴走を抑えつつ、鹿児島藩が全国の敵にならないよう奔走しなければなりませんでした。
さらに悪いことに、久光は廃藩置県の直後、鹿児島県令(知事)への就任を志願しました。これは封建社会的な発想であり、もし認められれば他の県からも同様の要求が出て、改革がおじゃんになります。西郷はなんとか手を回して、久光の建白書提出を断念させました。
なんかもう、なんかすごいストレスのかかり方がトリッキーだよね。なんていうか、ハメ技みたいなストレスのかかり方をさせられてるんで。
西郷は、久光を殺すこともできず、強く反論することもできません。ロイヤリティ教育を受けた彼にとって、藩主や斉彬の弟である久光に逆らうことは不可能でした。ただひたすらストレスを溜め込み、サンドバッグのように耐え続けるしかなかったのです。
---まとめ
戊辰戦争後の明治政府は、手探りで国づくりを進めました。五箇条の御誓文で新しい方針を示し、版籍奉還で形式的に藩の権限を削ぎ、そして廃藩置県で封建制を完全に崩壊させました。
この一連の改革を支えたのが、西郷隆盛の存在でした。凱旋将兵を抑え、藩主たちを説得し、時には「殺す」と脅して抵抗を封じました。しかし、その代償として西郷は心身ともに疲弊し、島津久光からの嫌がらせに耐え続けることになります。
一方、大久保利通は現実主義者として泥をすすりながら新政府を作り上げていきました。西郷が理想論に囚われていたのに対し、大久保は「全てがままならないぐちゃぐちゃのぐだぐだのまま、それでも前に進まないといけない」という現実を受け入れていたのです。
改革とは、誰かが割を食うものです。新しいシステムが生まれれば、旧来の権益を持つ者が損をします。久光のように花火を上げて怒りを晴らす者もいれば、西郷のようにサンドバッグになって耐える者もいました。そして、その先には西南戦争という悲劇が待っているのです。
- 五箇条の御誓文で新政府の基本方針が示され、政治体制が目まぐるしく変化した
- 西郷隆盛は戦後の疲弊と久光の嫌がらせで心身ともに追い詰められながらも、中央復帰を余儀なくされた
- 版籍奉還で形式的に藩の権限を削ぎ、廃藩置県で封建制を完全に崩壊させた
- 御親兵の組織と西郷の威光が、廃藩置県の断行を可能にした
- 島津久光は改革に激怒し、西郷に詰問状を送るなど抵抗を続けた
- 改革の裏では、誰かが割を食い、ストレスを抱え、耐え続けるという現実があった

