なぜ会津の視点で戊辰戦争を見るのか
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前回の江戸無血開城で戦いが終わったように見えましたが、戊辰戦争はまだ続きます。深井さんは今回、会津藩を中心に話を進めると宣言します。
薩摩の話とか幕末の話とかをすると、あんまり会津視点ってないんだよね。
深井さんは、同じ日本人として会津の側から一度見ておいたほうがいいと考えています。無血開城のあと、戦いの舞台は江戸より北の北日本へ移っていきます。
会津藩松平家の初代は保科正之 ── 江戸時代前期の大名。2代将軍徳川秀忠の庶子で、のちに会津藩主となり、4代将軍家綱を補佐して幕政の安定に尽くしましたです。保科正之は2代将軍秀忠の子で、3代将軍家光の兄弟にあたりますが、隠し子として育てられ、高遠3万石の保科家へ養子に出されていました。
のちに家光に存在を知られて中央へ呼ばれた保科正之は、その恩に深く感謝し、家光と4代家綱を支えて江戸幕府の基礎を固めたと語られます。
保科正之は遺言で、将軍家に忠勤を尽くすことだけを考え、他藩を見て身の振り方を決めてはならないと言い残しました。将軍家への忠誠がない藩主が出れば、それは自分の子孫ではなく、家臣も従うなとまで言っています。
この誓い、言葉っていうものを100年近く守り続けてきたのが会津藩だったんですよね。彼らのアイデンティティはここなんです。
幕末の藩主・松平容保は養子で、初代との血のつながりはありません。深井さんによれば、だからこそ容保は家訓を死守しようという思いがひときわ強かったといいます。
容保はペリー来航の頃に18歳で家督を継ぎ、幕府防衛の中枢を担いました。孝明天皇 ── 幕末の天皇。攘夷を強く望む一方で公武合体を支持し、京都守護職を務めた松平容保を深く信頼したとされますへの拝謁も果たし、天皇の衣を賜るほど期待された、エース級の藩だったわけです。
将軍に戦う気がないとき、忠臣はどうするのか
鳥羽・伏見の戦いに敗れた松平容保は、慶喜とともに大坂を脱出して江戸に上陸します。容保は江戸で立て直しを図るつもりでしたが、将軍・慶喜には戦う気がありませんでした。
慶喜は徹底抗戦派だった小栗上野介を罷免し、容保や弟の桑名藩主・松平定敬ら24名に登城を禁じて江戸からの退去を命じます。そして慶喜自身は寺に謹慎しました。
命を捨てろと言われれば喜んで捨てて戦うのに、その将軍が全く戦う気がないっていう状態に置かれてるわけですよね。
さらに新政府は会津を朝敵とみなし、仙台藩主の伊達慶邦に会津追討令を出します。同じ日に米沢藩、盛岡藩、久保田藩にも同様の命令書が届き、東北の諸藩に同じ東北の会津を討たせる構図が生まれました。
容保は恭順の姿勢を見せ、藩主の地位を子に譲って謝罪の嘆願を試みます。尾張、紀州、肥後、土佐など22藩に和平の仲立ちを頼みましたが、どの藩からも返事はありませんでした。
火の粉かぶりたくないですよね。
その一方で、容保は交戦準備も始めます。主戦派の佐川官兵衛を中隊司令官に任じてフランス式訓練を受けさせ、藩兵を集めて、慶喜に従って逃げたことを謝罪しました。
殿様が謝るってないんだって、やっぱ家臣に。なんか謝られたことにびっくりしたらしい。家臣が。
容保は帰国する藩士たちに、鳥羽・伏見の戦いは敵の発砲に応戦しただけで朝廷への逆心はなく、朝敵の汚名は意外だと語りました。そのうえで、攻めてくる敵には武士として防戦すべきだと訴えます。
会津藩も本来は尊王の藩でした。樋口さんによれば、容保は孝明天皇から賜った直筆の文書を筒に入れ、肌身離さず持ち歩いていたといいます。それだけに、朝敵扱いは相当つらいものだったと考えられます。
7000人をかき集めた会津藩の軍制改革
会津藩は7年間の京都守護職を自前の資金で務めたため、財政は厳しい状態でした。それでも会津藩は伝統の長沼流軍制を捨てて洋式化し、部隊を年齢別に再編します。
| 部隊名 | 年齢 | 役割 |
|---|---|---|
| 朱雀隊 | 18〜35歳 | 主力部隊 |
| 青龍隊 | 36〜49歳 | 国境守備隊 |
| 玄武隊 | 50歳以上 | 予備 |
| 白虎隊 | 16〜17歳 | 予備 |
この年齢別の部隊に砲兵隊や遊撃隊を加えて、約3000人の正規軍が組織されました。町民や農民から約3080人、さらに猟師、修験者、力士なども加わり、全体で7000人ほどになったといいます。
けどまあほら、薩摩が3000とかだったから、めっちゃ集めてるよね。
まあね。ただ結構寄せ集め感が。
会津藩は小銃を買い入れ、幕府の大砲を持ち帰って日夜フランス式の調練を重ねました。しかし深井さんは、その訓練は結局間に合わなかったと語ります。
仙台藩士はなぜ世良修蔵を斬ったのか
東北の諸藩は会津を救おうと奔走します。庄内藩は会津藩と同盟を結び、仙台藩と米沢藩は会津への寛大な処置を求める嘆願書を新政府に出しました。
東北諸藩はこの段階では、朝廷にも自分たちの思いを理解する人がいると考えていました。しかし新政府は嘆願を拒否し、東北諸藩が動かないため、薩摩と長州が江戸から直接会津を攻めることを決めます。
この会津藩とかに全ての鬱屈とした恨みが集中する感じになってきます、この後。
深井さんの見立てでは、慶喜と徳川家を許した分だけ、新政府の恨みが会津に向かっていったということです。
そんな中、東北方面の管理を任された奥羽鎮撫総督府 ── 戊辰戦争で新政府が東北地方の平定のために置いた組織。総督の下に参謀が置かれ、東北諸藩に会津攻撃を命じる役割を担いましたの参謀で長州藩士の世良修蔵が、仙台藩士に殺される事件が起きます。
世良修蔵は、仙台藩の家紋「竹に雀」を袋に入れてしまうという侮辱的な歌を詠み、花見の席でも早く戦をしろという歌を詠んだといいます。さらに配下の部隊が仙台で乱暴を働いたことが、仙台藩士の怒りに火をつけました。
武士にそれしたら殺されるだろうなって感じじゃないですか。
この世良修蔵の殺害事件によって、東北諸藩と新政府の戦争は避けられないものになっていきます。
奥羽越列藩同盟はなぜ白河で敗れたのか
世良修蔵の事件のあと、仙台藩と米沢藩を盟主に25藩が参加する奥羽列藩同盟が結成されます。のちに越後の6藩が加わり、会津も含めた奥羽越列藩同盟という大きな勢力になりました。
奥羽越列藩同盟の主張は、朝廷には逆らっていないが薩長は許さない、というものでした。楊さんはこれを彼らの大義名分の立て方だと指摘し、深井さんも本当にそう思っていただろうと応じます。
新政府軍が会津へ向かうには、東北の入口である白河の関 ── 古代に置かれた奥州への関所。和歌の名所として知られ、東北地方の玄関口を象徴する場所ですを通る必要がありました。ここを落とされると、新政府軍が一気に東北へ流れ込む要衝です。
多くは火縄銃で戦い、諸藩の寄せ集めで統一的な訓練や作戦計画も不十分
連発できる銃を持ち、射程は東北軍の倍ほどあった
届かないところから撃たれたら死ぬわけだからさ。
白河城は陥落し、東北軍は大敗します。数か月にわたって奪還を試みても取り返せず、新政府軍の優勢が明らかになると、同盟を裏切る藩が続出しました。盟主の仙台藩でも恭順派が強まり、兵を引き上げてしまいます。
意思が強いからこそ孤立していくと。
温泉で休む西郷隆盛と、弟・吉次郎の死
この時期の西郷隆盛は、鹿児島・霧島の温泉(日向山温泉)で2か月ほど休養していました。その後に船で新潟へ向かいますが、北越の平定はほぼ終わっていたといいます。
北越での戦いのさなか、西郷の弟・吉次郎が戦死します。吉次郎は、貧しい時代や島流しの時期に西郷を支え、食事や衣類を送ってくれた弟で、西郷は自分よりも立派な人間だと語るほど信頼していました。
西郷さんね、どうなるかって言ったら、鬱状態になります。
西郷は部屋にこもり、好きだった酒も肉も口にできなくなりました。弟には「お前たちも死ね」と言って戦場へ送り出していたものの、実際に死なれると体を丸めて寝込み、周囲が呼びに行っても起き上がれなかったといいます。
妊娠中だった吉次郎の妻は、西郷からの手紙で夫の戦死を知って産気づき、男の子を産んだあとに亡くなりました。生き残った子は西郷が引き取り、下男の熊吉に養育させて可愛がったと伝えられています。
感情の総量が強いから、なんか落ち込んでる時の落ち込み方がなんか凄まじいんだよね。
西郷を語るうえでは、メンタルの側面が大事だと話されます。強い人という一般的な印象とは違い、西郷は明治維新後もストレスを重ね、それが体調や理不尽な行動に表れていくといいます。
母成峠と十六橋はなぜ突破されたのか
薩摩藩兵は会津、米沢、鶴岡を目指して順調に進撃し、ついに会津領の入口である母成峠 ── 福島県郡山市と猪苗代町の境にある峠。標高972メートルで、会津戦争では会津若松への進路をめぐる激戦地となりましたに迫ります。
攻める側は薩摩、長州、土佐、佐土原、大村、大垣の6藩で約2000人です。対して母成峠を守っていたのは、慶喜がつくったフランス式の伝習隊を中心とする約800人の旧幕府軍でした。
会津は全体で7000人を集めていたのに、指揮系統がうまく機能せず、兵を他藩の応援などに分散させていました。広い陣地を守るには最低でも1600人ほど必要だったといい、母成峠は連戦の疲労も重なって落ちてしまいます。
次の要衝は猪苗代湖の北岸にある十六橋でした。会津は十六橋を壊して侵入を防ぐつもりでしたが、新政府軍の進軍は予想よりも速く、橋は占拠されてしまいます。
まあそれを整える時間もなかっただろうしね。
白虎隊の少年たちはなぜ飯盛山で自刃したのか
十六橋が突破されると、新政府軍は会津若松の城下まで一気に迫ります。主力の朱雀隊や青龍隊は国境の守りに出払っていたため、松平容保は予備の白虎隊に出撃を命じました。
若いですね。もうまだ少年で16、7ですね。
白虎隊の少年たちは、急な出撃のため食料を持たずに雨の中を進み、空腹と寒さに苦しみます。隊長の日向内記は食料を調達しに引き返しましたが、そのまま戻りませんでした。
指揮官を失った少年たちは新政府軍の攻撃を受けて敗走します。白虎隊が持っていた中古のヤーゲル銃は、弾がどこへ飛ぶかもわからない質の悪いものだったといいます。
急な出撃
食料を持たずに雨の中を戦場へ向かう
指揮官の不在
隊長が食料調達に引き返し、戻らなかった
敗走
質の悪い銃で応戦するも敗れ、山中へ逃れる
誤認
飯盛山から城下の黒煙を見て、落城したと思い込む
自刃
山頂で約20名の少年が命を絶つ
飯盛山の山頂から見えた黒煙は、実際には城ではなく城下町が燃えていたものでした。しかし絶望の中にあった少年たちは落城したと思い込み、約20名がその場で自刃します。
林八十治と永瀬雄次は互いに刺し違えようとし、死にきれなかった林を野村という隊士が介錯して、自らも腹を切ったといいます。
16歳の飯沼貞吉は喉を刺しても骨に当たって死にきれず、奇跡的に蘇生しました。飯沼の証言によって、白虎隊の最期の光景が今に伝わっています。
深井さんは、少年たちが会津藩の子どもの掟である什の掟 ── 会津藩士の子どもたちが守った心得。「ならぬことはならぬものです」の一文で知られ、戸外で物を食べないことなども定められていましたを守り抜いた結果だと語ります。戸外で物を食べてはいけないという教えも、少年たちは守っていたようです。
もういいやろ、それは。
ってなるはずなんだけど、やっぱならぬものはならぬって書いてあったからさ。
城下の惨劇と、柴五郎が書き残したもの
新政府軍は早朝に会津若松の城下へなだれ込みます。逃げ惑う市民の多くが小舟で川を渡ろうとしましたが、大雨で船が次々と転覆し、数百名が溺れたといいます。
武家の女性や子どもたちも次々と自ら命を絶ちました。乱暴されることへの恐れと、籠城戦で食料を消費するだけの足手まといになりたくないという思いが理由だったと話されます。
樋口さんは、会津藩士の子で当時10歳だった柴五郎 ── 会津藩士の家に生まれた軍人。のちに陸軍大将となり、晩年の回顧録が『ある明治人の記録』として出版されましたの回顧録『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』を紹介します。
柴五郎の兄(茂四郎)は白虎隊に編入されていましたが、熱を出して寝込んでいました。母親は兄を無理やり起こして刀を差させ、「柴家の男子なるぞ」と叱って城へ送り出したといいます。
その後、柴五郎の母や祖母、7歳の妹を含む女性たちは全員自決し、柴五郎だけが生き残りました。深井さんは、兄を送り出した母の涙には、もう二度と会えないという意味もあったのかもしれないと語ります。
えてしてさ、その死ぬことの美学っていう風に言いがちですけれども、僕もそれ好きですよ。ただ、こういうリアルな話に接すると、そう簡単には言えないですよ。
そういうリアルを知らずに言うというのはやっぱダメだよね。
1か月の籠城戦はどれほど過酷だったのか
国境に出ていた兵士たちも戻り、会津藩は会津若松城に籠城して戦うことになります。しかし城内の兵力が増えることはなく、新政府軍には援軍が続々と到着しました。
特に恐れられたのが、佐賀藩のアームストロング砲 ── イギリスで開発された後装式の大砲。射程と命中精度に優れ、戊辰戦争では佐賀藩が保有して威力を発揮しましたです。近くの小田山から城に届く射程を持ち、会津若松城は砲撃でボコボコになりました。
新政府軍は3万人ほどに膨れ上がり、50門の大砲が昼夜を問わず城に撃ち込まれます。医薬品は足りず、女性たちは看護や炊事、弾丸づくりに追われ、不発弾の処理中に命を落とす人もいました。
樋口さんは、砲撃の衝撃で陣痛を起こし籠城中に出産した妊婦がいたことや、便所があふれて道端まで汚物が広がったことなど、文献に残る籠城の様子を紹介します。
米沢藩が降伏し、米沢藩の働きかけで仙台藩も降伏すると、会津藩は完全に孤立しました。会津藩は白旗を立てて開城します。開城時の会津軍は4956人で、約3割は非戦闘員だったとされます。
一ヶ月間、ほんとプライドだけで何とかしてたみたいな感じですね。
籠城中の城からは、薩長の兵による略奪や乱暴が見えたといいます。開城後、会津藩の人々は犯罪者として死体の埋葬まで禁じられ、白虎隊の少年たちの遺体も放置されました。
無血で開城しないってこういうことなんだよ。だからただの美談じゃないよってことだよね。
西郷隆盛の寛大な処分が残したもの
西郷隆盛は、奥羽越列藩同盟の中でも激しく抵抗した鶴岡藩、つまり庄内藩の処分を担当しました。庄内藩は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしたこともあり、徳川家の重臣・酒井家が藩主を務める藩です。
重い処分を覚悟していた庄内藩に対し、西郷は非常に寛大な処置をとりました。これに感銘を受けた庄内藩の人々は、のちに西郷の言行録である西郷南洲遺訓 ── 西郷隆盛の言葉や教えをまとめた書物。旧庄内藩士が西郷から聞いた話をもとに編み、明治期に刊行されましたを出版しています。
深井さんは、西郷級の人物が会津攻めにいたり、世良修蔵のような人物を送らずに済んでいたりすれば、会津の事態は違ったかもしれないと語ります。ただ、その時期の西郷は弟の死で寝込んでいました。
もしそこで弟が亡くなってなくて、元気でここにいたら、まあまあまあつってここまで悲惨なことになってないかもしれないとかなるんですよね。
鶴岡藩の降伏を見届けた西郷は、東京、京都を経て鹿児島へ戻り、体調を崩して再び温泉で静養します。翌年の箱館戦争 ── 戊辰戦争最後の戦い。榎本武揚や土方歳三ら旧幕府軍が箱館五稜郭に拠り、1869年に降伏しましたにも向かいますが、到着時には戦闘は終わっていました。
西郷は榎本武揚にも寛大な措置をとります。榎本はのちに新政府の要職に就きました。一方で深井さんは、その西郷でさえ会津には厳しかったと指摘します。
やっぱなんか最後に許されなかったというか、恨みを一身に背負わされてしまったっていう感じはね、したあるね。
会津藩だけが取り潰された戦後処分
戊辰戦争を終えた新政府は、敵対した藩の領地を接収して直轄地にします。まだ藩が残る中で近代政府をつくるには財源が足りず、倒した藩の領地は新政府の重要な財源になりました。
1868年の4月には、箱館、江戸、神奈川、越後、甲斐、京都、大坂などを府、その他の直轄地を県と定めました。廃藩置県の前に、藩と府と県が並び立つ移行期があったわけです。
朝敵の処分は罪の重さで分けられました。会津藩は領地を没収され、藩主の子に下北半島3万石が与えられます。石高だけ見れば徳川家と同じ約10分の1ですが、下北半島は火山灰地で作物が育たない土地でした。
| 区分 | 対象 | 処分 |
|---|---|---|
| 罪一等 | 徳川家 | 70万石に減らし駿府へ |
| 罪二等 | 会津藩 | 28万石を没収し、下北半島3万石へ |
| 罪二等 | 桑名藩 | 11万石から5万石減じて6万石 |
| 罪三等 | 伊予松山藩・姫路藩・備中松山藩 | 藩主更迭、重臣の死刑、軍資金の上納 |
| 罪四等 | 奥羽列藩同盟の諸藩 | 仙台藩62万石→28万石など減封 |
前藩主の松平容保と子の松平喜徳は永禁固とされました。死罪を免じたのは、明治政府が寛大さを示すための措置だったと語られます。
この処分で新政府は徳川家を除いて合計108万石を得ましたが、死刑になった藩主はいませんでした。取り潰しになったのは、会津藩と小さな請西藩だけです。
会津めっちゃ厳しいですね。
めっちゃ厳しいです。本当に会津だけ超厳しいです。
斗南藩の飢えと、松平容保の晩年
会津藩は斗南藩として下北半島へ移されました。表向きは3万石でしたが、やせた土地のため実際の収入は7000石ほどしかなかったといいます。
会津若松28万石
斗南藩は表向き3万石、実質7000石ほど(約97%減)
旧会津藩士たちは、餓死や凍死と隣り合わせの日々を送ります。栄養不足で脚気になり、髪が抜け、死んだ犬の肉まで食べなければなりませんでした。
犬の肉を吐き出しそうになった少年を、父親が「武士の子たることを忘れたのか」と叱り、薩長の下郎どもに笑われるぞ、会津の国辱を雪ぐまではここは戦場だと言い聞かせた記録が残っています。
ちなみにここの少年とお父さんの話は柴五郎なんです。
柴五郎は、犬の肉を無理にでも食べさせようとする父の心中を思い、気の毒すぎて何も言えなかったという気持ちも書き残しています。
松平容保は生かされ、のちに日光東照宮の宮司を務めました。容保の口癖は「往事のことは茫々として何も覚えておらぬ」だったといいます。
まあこれ嘘だと思うけどね。覚えてると思うけど、もう言えないんだろうね。悔しすぎて。
容保は明治26年、59歳で亡くなりました。
戊辰戦争はなぜ武士の終わりになったのか
戊辰戦争の規模は、同時代の戦争と比べると小さいものでした。深井さんは、アメリカの南北戦争や普仏戦争の死者数と並べて説明します。
規模は小さくても、戊辰戦争の政治的・歴史的な意味は非常に大きいと深井さんは語ります。一番大きいのは、世襲身分である武士がこの戦争で活躍できなかったことです。
武家がこの戦争で活躍できなかったんだよね。
近代軍をつくるには新たな投資が必要で、諸藩は結局、上級武士の給料を大きく削ることになりました。新政府も諸藩に小銃と大砲を備えた部隊だけを求め、刀だけの兵はいらないとしたのです。
近代兵器の戦争
銃と大砲の部隊が中心になり、刀の兵は不要とされる
新しい指揮官
家柄ではなく、新しい訓練と知識を持つ者が指揮官になる
財源の捻出
近代軍への投資のため、上級武士の給料が削られる
武士の弱体化
のちの廃藩置県や廃刀令へつながっていく
家柄の良い武士がそのまま偉くなることはなく、身分の低い武士の中から活躍する人が多く出ました。深井さんによれば、戊辰戦争は武士の身分的な優位を崩す大きな転機だったということです。
戊辰戦争によって、薩長を中心とする新政府は日本の政府としての地位を固めます。しかし深井さんは、戦争が終わっても、まだ殿様が大勢いる侍の国をどう近代化するかという問題が残っていると語ります。
戦争が終わったら、今度統治フェーズになった時に、またね、プレイヤーは同じだけど必要となるスキルが違うみたいなことが多くて。
特に武士の比率が高いのは薩摩でした。平和な世で武士たちをどうするかという問題が、西郷隆盛編の後半のテーマになっていきます。
樋口さんは、明治維新はフランス革命と比べれば血が流れずに行われた改革として知られるものの、一つひとつ見ていくと壮絶だと振り返ります。
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まとめ
会津藩は将軍家への忠誠を藩の誇りとしてきたからこそ、将軍に見放されたあとも戦う道を選び、孤立していきました。白虎隊の自刃、城下の惨劇、1か月の籠城、下北半島への移封と、無血開城の裏で会津が背負ったものは非常に重く、戊辰戦争は武士の時代の終わりも決定づけました。
- 会津藩は保科正之の遺言を守り、将軍家への忠誠をアイデンティティにしていた
- 兵器と指揮系統の差で奥羽越列藩同盟は敗れ、会津は孤立して籠城の末に開城した
- 白虎隊や柴五郎の記録は、死の美学を簡単に語れない戦争の現実を伝えている
- 戦後処分では会津藩だけが大藩として取り潰され、斗南藩として飢えに苦しんだ
- 戊辰戦争は小規模な内乱だったが、武士の身分的な優位を崩し、近代化の課題を残した




