記念すべき第1シリーズの主役、ペリーとは何者か
コテンラジオがアメリカをテーマに選んだ背景には、収録直前の2024年のアメリカ大統領選がありました。パーソナリティの深井龍之介さんは、次はアメリカのことをやろうと考えたと話しています。
アメリカの建国史は本編ですでに扱われています。今回のショートシリーズで取り上げるのは、日本の歴史にアメリカというプレーヤーが本格的に登場するイベント、ペリー来航です。
楊睿之さんは、現代では「黒船が来た」という言い回しがビジネスの比喩として一般に使われていると指摘します。国内サービスに海外の巨大資本が突然入ってくる状況を指す表現です。
だからもう比喩で一般的に使われてるくらいの出来事だから。
楊睿之さんの言う通り、ペリー来航は日本人の認知の中で「一大事」として確定している出来事です。しかし深井さんは、詳しい経緯や目的まではあまり語られてこなかったと話します。
「幕府が無能だった」という理解は誰が広めたのか
一般的なペリー来航のイメージは、黒船が大砲で脅して不平等条約を結ばせ、開国させたというものです。深井さんもその理解は誤りではないと言います。
ただし深井さんは、その見方だけでは実像を捉えきれず、もったいないと話します。特に「無能な幕府が軍事的圧力に屈した」というロジックには、後世の意図が絡んでいると指摘しました。
明治政府にとって、西洋列強と結ばされた不平等条約の是正は国家的な課題でした。深井さんは、その改正を後押しする世論を作るために、明治政府がこのロジックでキャンペーンを打ったと説明します。
無能だったせいで不平等条約を結ばされた。だから明治政府が頑張ってこれを改正していくんだっていう、自分たちの正当性を訴えたためという意図もあったんでしょうけれども。
つまり、前政権である幕府の経営が悪かったという物語は、明治政府が自らの正当性を訴えるうえでも都合がよかったわけです。この政治的な意図が、無能な幕府というイメージが定着した一因になったとされています。
その一方で深井さんは、幕府がペリーに脅されて震えながら条約を結んだというのも実像から離れていると話します。脅されていたのは事実だが、それだけでビビり散らかしていたわけではないという整理です。
なぜアメリカとペリーの側から日本攻略を見るのか
今回のシリーズで深井さんが選んだのは、アメリカとペリー、つまり列強の側から日本攻略を見るという切り口です。
深井さんは、これまでの本編やショート編で西洋列強は何度も登場したものの、西洋列強を主人公にした構成はあまりなかったと振り返ります。日本側から見た「攻められている」視点に偏りがちだったという自覚がありました。
そのうえで、新しくライジングしてきた新興国アメリカと、ペリーその人を主人公に据えます。アメリカがなぜ日本に目を付けたのか、ペリーがどこで生まれどう育ったのか、いわば「Youは何しに日本へ」を掘り下げるという方針です。
じゃあアメリカはなんで日本に目を付けたっていう。で、しかもペリーですよ。誰なん、何した人なん?
さらに、ペリー側のチームと幕府側の外交担当役人が言葉を交わして交渉する、そのドラマの一部も紹介するとしています。深井さんは、双方が真剣で唾競り合いのようなわちゃわちゃした感じを伝えたいと話しました。
412日間の日本周辺遠征と、見落とされがちな琉球
深井さんが強調するのは、ペリーが日本の本土に来ただけではないという点です。今の沖縄にあたる琉球王国にも立ち寄っていました。
一般にペリー来航は、艦隊が浦賀沖に来て一度帰り、再来航して日米和親条約を結んだ出来事として理解されがちです。深井さんは、その裏でペリーが琉球王国との条約交渉という別プロジェクトを同時進行させていたと説明します。
その規模は大きく、琉球と列島本土を含めてペリーは日本周辺を計412日間ぐるぐるしていました。本土へは2回、琉球には5回も来航しています。
めっちゃ忙しいですね。
深井さんは、現在の沖縄とアメリカの縁の深さにも触れ、その関係の始まりであるペリーと琉球王国の出会いについても、このシリーズで扱いたいと話しました。
今回は導入回ながら、深井さんはいつもと構成を変え、時代背景より先に主人公を登場させると宣言します。「たまにはいきなり人物をぶっ込もう」という試みです。
海賊から海軍大佐へ、ペリー一族の血筋
マシュー・カルブレイス・ペリーは1794年、アメリカのロードアイランド州ニューポートで生まれました。アメリカ独立戦争から約10年後のことです。
ニューポートは東海岸、ボストンの南にある港町です。深井さんは、海に生きる人たちの街であり、雰囲気はワンピースのようだと表現しました。
ペリー一族は代々この地で地位を築いてきました。祖父のフリーマン・ペリーは医者や裁判所の判事、土地の監督官など公的な仕事に就き、地元の名士として地位と財産を築きます。
ところが、ペリーの父クリストファー・ペリーは深井さんいわく「突然変異」でした。独立戦争が始まると、父の反対を押し切って14歳で独立軍に参加し、戦争反対を唱えた父の友人を射殺して故郷を追われます。そして海へ出ました。
当時のアメリカはまだ国家として成立しておらず、大陸植民地という位置づけでイギリスと戦っていました。正規の海軍がなかったため、商船を改造して武装させ、強大なイギリス海軍相手にゲリラ戦を挑んだのです。
クリストファーが働いていたのは、こうした自治政府公認の海賊船でした。イギリス船を襲って武器弾薬や補給物資を奪う、いわば弱者の戦略です。
えー、マジでワンピースやってるやん。
深井さんは、この公認の海賊船が後のアメリカ海軍のプロトタイプだと説明します。戦後、クリストファーは商船の船長として貿易で財を築き、正式に成立したアメリカ海軍に入って大佐に任官されました。
その年に生まれたのがマシュー・ペリーです。つまりペリーは、海賊も船長も海軍大佐も経験した父を持つ、誇り高い海軍の血筋として生を受けたことになります。
教養と海の伝統に育まれた少年ペリーの出世
ペリーは港町の海の伝統文化の中で育ちました。小さい頃からキャットボートと呼ばれる小さな帆船を自分で操って遊び、遠洋航海から帰る父の海外の土産話を聞いて過ごしたと深井さんは語ります。
一方でペリー家の教育は行き届いていました。イギリス文学やギリシャの古典、聖書の知識まで、当時としては高度な教養を身につけさせています。深井さんは、肉体だけでなく知識や教養も育てられた環境だったと整理します。
ペリーには2人の兄がいて、いずれも海軍に進みました。中でも兄のオリバー・ハザードは、アメリカでは弟のマシューより有名な国民的英雄だと深井さんは紹介します。
オリバー・ハザードは米英戦争で、攻めてきたイギリス軍艦にわずかな艦隊で挑んで打ち破った若き司令官でした。黄熱病で若くして亡くなりますが、ペリー一家の誇りであり続けます。
尊敬する兄に憧れた少年ペリーは、海軍入りを父に頼みます。貿易は好不況に左右されて不安定だと考えた父はこれを許し、ペリーは士官候補生として活動を始めました。
ペリーはその後、堅実に出世を重ねます。商船の護衛、戦艦での前線戦闘、海賊狩り、外国との外交折衝、人材教育制度の構築など、幅広い任務をこなしていきました。
43歳のとき、当時のアメリカ海軍の最高位である大佐に昇格し、さらにブルックリンネイビーヤードの司令官になります。ニューヨークの港内の全軍艦を統括する艦隊司令官の立場です。
この海軍総合基地は、海域の防衛だけでなく外国との交流実務や組織運営も担っていました。楊睿之さんはここで、海軍が戦闘だけでなく外交も担っていたのだと確認しています。
熊おやじと呼ばれた指揮官の意外なマネジメント
ペリーには「熊おやじ」というあだ名がありました。オールドブリュインと呼ばれていたそうです。
深井さんは、これは前線での勇猛さを示す褒め言葉だろうと話します。ペリーは激しい戦闘の第一線で指揮を執り、船上で部下に飛ばす指示の声のボリュームが凄まじかったといいます。
ところが一方で、ペリーには細やかなマネジメントセンスもありました。兄が黄熱病で亡くなった経験もあり、船員たちの衛生環境や健康維持に細かく気を配っていたのです。
具体的には、炭で火をおこして湿気を除くこと、体を冷やさないよう肌着を着ること、壊血病を防ぐためにライムの果汁を飲むことなどを徹底させました。
深井さんによれば、この徹底のおかげでペリーの艦隊の健康衛生状況は、当時の海軍全体でも飛び抜けて良かったといいます。激しさと細やかさを両立させた指揮官でした。
前線での勇猛果敢な指揮。船上に響く大声で部下に指示を飛ばした
衛生・健康管理を徹底し、艦隊のパフォーマンスを底上げした
余談として深井さんは、ペリーの孫カルブレイス・ペリー・ロジャースが、初のアメリカ大陸横断飛行に成功した飛行機のパイロットだったと紹介します。海から空へと続く冒険者の系譜です。
さらにその操縦を教えたのがライト兄弟の弟でした。楊睿之さんは、吉田松陰から始まったコテンラジオがライト兄弟までつながる縁を面白がっています。
アメリカ蒸気船海軍の父、ペリーが賭けた技術
ここから深井さんは、ペリー来航に直結するトピックに絞ります。まず一つ目が、ペリー艦隊の特徴である蒸気戦艦です。
帆船ではなく蒸気戦艦を自らの艦隊に編成して日本にやってきた、その導入の張本人がペリーでした。今日でもペリーは「アメリカ蒸気船海軍の父」として知られています。
当時のアメリカは列強の一員とはいえ新興国でした。すでに強大なイギリスやフランスに競争で勝つため、海軍でも蒸気軍艦という最先端技術を導入する必要があると、ペリーは考えたのです。
遅れは数字にも表れていました。ペリー来航の4年前にあたる1836年時点で、イギリス海軍は蒸気軍艦を21隻、フランスは23隻持っていたのに対し、アメリカはゼロでした。
深井さんは、蒸気船の強みを推進力と機動力、攻撃力の面から整理します。風向きや気象条件に左右されず、狭い水域でも自由に動け、スピードも速いのが特徴です。
攻撃面では、風に左右されず常に攻撃的な体勢を取れ、大砲が並ぶ側面を敵に向けられます。船体が大きく鉄製で頑丈なため、大型の武器を積め、転覆しにくい安定性もあります。
しかし最先端技術ゆえに、導入はスムーズには進みませんでした。深井さんは、新しい技術への不信感がアメリカ国内にあったと説明します。機械に支配される不確実な道具として嫌う人もいたそうです。
深井さんは、これをインターネット上の買い物が登場した頃の反応にたとえます。当時は「ネットで買い物などできるわけがない」という見方があったのと同じだという整理です。
抵抗の理由はほかにもありました。蒸気船は建造費が高額でコストが高く、その批判も多かったのです。そして最大のネックが補給体制でした。
石炭がないと、単なる海の上で浮かんでいる粗大ゴミに過ぎません。
帆船は風力という自然エネルギーで走れますが、蒸気船は石炭がなければ動きません。海に進出するのが遅れたアメリカは、海外での補給ネットワークの整備でもイギリスに後れを取っていました。
そのため、敵国であるイギリスの港を使わせてもらうこともあったといいます。深井さんは、イギリスが石炭補給を断ればそこで詰む、という構造的なリスクを指摘します。
それでもペリーは、この技術を導入しなければ列強に勝てないと考え、論文を発表し、海軍省に根気強く提言を続けました。多くの反対を押し切って、蒸気船の導入に成功します。
海軍初の本格的な蒸気軍艦フルトン号が建造され、その初代艦長にペリーが任命されました。批判をかわすため、大統領や政府要人を試乗させて理解を求める努力もしています。
翌年には3隻の最新鋭蒸気艦の建造にも成功します。深井さんは、ペリーは黒船艦隊の生みの親であり育ての親だと位置づけました。日本に現れた黒船は、ペリーが育てた艦隊そのものだったのです。
弱者の戦術・波状戦術と、57歳での日本遠征
ペリー来航に関わるトピックの二つ目が、波状戦術です。ペリーが日本本土に2回来なければならなかった理由の一つが、これでした。
波状戦術とは、力による威嚇を繰り返し、時間差で相手にプレッシャーをかける戦い方です。ペリーはこれをアメリカ海軍の海賊退治の中で若い頃から実地で学んでいました。
当時アメリカは地中海への貿易ルートを開拓しようとしていましたが、イスラム海賊の被害に手を焼いていました。護衛艦隊で海賊を捕らえて和平協定を結ばせても、艦隊が去ると海賊は態勢を立て直します。
そのいたちごっこへの対策が波状戦術でした。最初の艦隊が威嚇し、一度帰って第二艦隊が再び威嚇する。執拗に繰り返すことで、海賊側に「また来るかもしれない」という心理を植え付け、抑止力にしたのです。
第一艦隊が威嚇
武力を誇示して相手にプレッシャーをかける
一度撤退
相手に緊張を残したまま引き上げる
第二艦隊が再び威嚇
反復で「また来る」という心理を植え付ける
抑止力になる
戦闘のコストをかけずに相手の態勢を折る
この戦術のポイントは、武力の誇示と反復行動にあります。深井さんは、アメリカ海軍は他の列強に比べて弱く、補給ネットワークも脆弱だったため、実際に武力で殴ること自体がリスクだったと説明します。
海外で戦闘になれば補給の弱さが必ず効いてきます。だからこそ、コストのかかる戦闘よりも、何度も現れて力を示すほうがコスパが良かったのです。深井さんはこれを弱者の戦術だと整理します。
武力で脅して外交する以外に、当時のアメリカは有効な手段がなかったわけですよね。苦肉の策。
ペリーはこの戦術を実地で学び、日本にも生かしました。楊睿之さんは「回数が大事という話」だとまとめています。
そして1852年、ペリーは日本遠征を任務とする東インド艦隊の指揮を任されます。このときペリーは57歳でした。
楊睿之さんは、成功して社会的地位も国民的英雄の名声もある人物が、そのいい年で得体の知れない侍の国へ向かうことに驚きます。深井さんはこれを「成功者のおじさんの最後の一踏ん張り」と表現しました。
なお、アメリカが日本に船を送るのはこれが初めてではなく、ペリー以前にも2回ほどあったといいます。なぜペリーでなければならなかったのか、なぜ日本だったのかは、次回以降のシリーズで掘り下げられます。
このシリーズの次のエピソードはこちら
まとめ
第1回は、日本側から語られがちなペリー来航を、新興国アメリカと船乗りペリーの視点から捉え直す導入回でした。海賊の血筋から海軍大佐へ、そして蒸気戦艦と波状戦術という二つの武器を携えて57歳で日本へ向かう、その前提が整理されました。
- 「無能な幕府が屈した」という理解には、明治政府が自らの正当性を訴えるための政治的意図が絡んでいた
- ペリーの父は公認の海賊船で戦い、その海賊船が後のアメリカ海軍のプロトタイプになった
- ペリーは激しい指揮官である一方、船員の衛生・健康管理に細やかなマネジメントを発揮した
- 新興国アメリカは蒸気軍艦でも列強に遅れており、ペリーは反対を押し切って黒船艦隊を育てた
- 補給と海軍力に劣るアメリカは、武力の誇示と反復で相手を折る波状戦術を弱者の戦術として用いた



