4〜5年通い続けた深井が、龍源さんに仏教を聞く理由
番外編の冒頭で紹介されたのは、実験寺院・寳幢寺の僧院長、松波龍源さんです。学生時代に武道と仏教に出会い、中国・北京での5年間の武術修行を経て、真言律宗総本山・西大寺で得度し、正式に僧侶となった経歴を持ちます。
龍源さんは日本仏教にとどまらず、ミャンマーやチベットの高僧にも師事し、密教の瞑想法を探求してきました。現代社会に生きる仏教を模索し、京都に実験寺院・寳幢寺を設立した人物です。
深井が龍源さんと出会ったのは、4年ほど前に空海と最澄のシリーズを制作していた頃でした。仏教哲学に初めて触れ、本で読んで素晴らしいと思ったものの、それ以上の理解が本では無理だと確信したことがきっかけだったと話します。
これは絶対に本では無理だという確信を得て、そのお坊さん(を教えてくれる方)を探してた時に、本当に当時高校生だった方から紹介していただきまして。
その後、ここ3年ほどは毎月京都に通い、あらゆるビジネスパーソンを龍源さんに紹介してきたといいます。深井が「ビジネスパーソン」と言うのは、この哲学が特に彼らに必要だと感じているからです。
お金持ってるけど苦しんでる人たちいっぱいいるんで。自分ではすごい幸せだと思ってめちゃくちゃ苦しんでんなみたいな人たちがたくさんいて。
深井は現在、COTENの社内でイスラーム、キリスト教、仏教という三大宗教すべての勉強会を開いていると語ります。今の世界を理解するために、宗教は避けて通れないという認識からです。
なぜ「学者ではない実践者」から学ぶのか
深井が龍源さんに学ぶ理由は、龍源さんが学者ではなく実践者・修行者だという点にあります。学者は研究者としての立場から答えるのに対し、龍源さんは仏教哲学をベースに、身に染みる形で問答に答えてくれると話します。
在家として日常では経営などの俗事にまみれている深井が、「これって仏教から見たらどうなんですか」と問いかけると、実践者として答えが返ってくる。深井はこのやり取りに大きな価値を感じているといいます。
(学者は)それをされる立場でもないじゃないですか。なので、その先生として、いろいろ学んでいるし、問答もさせていただいてるっていう。
龍源さん自身も、本題に入る前に自分の立場を丁寧に前置きします。全仏教を代表する立場にはなく、そもそも全仏教がひとまとまりになるのかという問題もある、と断ります。
僕は学者じゃないんですね。当然そのオカルト思考でもないですし、いわゆるなんかそのビリーバーでもないんですね。
龍源さんは仏教を哲学体系・思想体系と捉え、それを世界や自分自身にどう生かすかが自分の役割だと語ります。だからこそ、龍源さんの語りは「一修行者・一実践者の解釈」であり、一次資料として扱ってほしいと述べます。
仏教を使いこなしてなんぼのものと捉える龍源さんにとって、宗派が分かれてきたこと自体が、各時代に多様な解釈が生まれてきた証だといいます。
「仏教」という言葉に含まれる3プラス1の立場
龍源さんによれば、「仏教」という言葉そのものが厄介です。龍源さんの分類では、普段私たちが使う「仏教」という言葉には、3プラス1、4つの仏教が含まれているといいます。
この前提を理解しておくと混乱が少ない、と龍源さんは説明します。よく「仏教は欲望を否定する」と言われますが、経営者が欲をすべて捨てたら会社は潰れてしまう。しかし欲を捨てるというのは4種類のうちの一部にすぎない、というのが龍源さんの見立てです。
4つの起点となるのが、根源としての「1」、つまりお釈迦様の教えです。2500年前の北部インドにいたゴータマ・シッダールタの時代には、お経も宗派もありませんでした。
お釈迦様もジャズセッションのようにライブだったわけですね。王様だったり、商人だったり、村人だったりと対話をして問答をして、このように考えるんだと教えてくださった。
お釈迦様の言葉は、弟子たちが亡くなった後に忘れないよう書き記したものが経典になりました。この時代を原始仏教と呼びます。サンスクリットに戻すと、仏教は「ブッダバーダ」、つまり悟った人(ブッダ)が語った言葉(バーダ)を意味します。
この「ブッダバーダ」が仏教の根本のソースであり、3プラス1の「1」にあたる別格の存在だと龍源さんは位置づけます。
上座部・大乗・密教はどう枝分かれしたのか
問題は、ソースであるお釈迦様が人間である以上、亡くなってしまうことでした。経典を見ても解釈がわからないとき、人々は高い地位にいた長老たちに聞きに行くようになります。
この長老をサンスクリット・パーリ語で「テーラ」と言い、テーラが語った教えから「テーラワーダ」という新しい仏教が生まれます。今の東南アジアに広がる、いわゆる上座部仏教です。
さらに歴史が下ると、僧院の奥で身分を保障された人向けの解釈では、出家していない普通の人には役立たないのでは、という疑問が生まれます。あらゆる人に適用できる教えこそお釈迦様の本意だと考えた人々が現れました。
彼らは自分たちを、あらゆる人を乗せて海を渡れる偉大な乗り物「マハーヤーナ(大乗)」と称しました。これに対し長老たちの教えを「小さい乗り物」と呼んだのが小乗ですが、差別的な言い方のため近年は使わないようにする考え方だと龍源さんは補足します。
ブッダバーダ
お釈迦様が語った言葉。原始仏教であり、別格の根本ソース
テーラワーダ(上座部)
長老たちがブッダに代わって解釈した教え。東南アジアに広がる
マハーヤーナ(大乗)
特殊条件を外し、あらゆる人に適用できる普遍的な教えを目指す
密教
大乗の論理をベースに、身体を使って実際に実践していく立場
最後に、大乗の中から「理念だけでなく、実際に体を使って悟りを自分にインストールし、社会で使いこなそう」という人々が現れます。これが龍源さんの立場である密教です。
密教が「秘密の密」と呼ばれるのは、身体性が関わることで個人の問題になるからだと龍源さんは説明します。あなたのやり方が10万人に等しい価値を持つとは限らず、他の人はむしろ見ない方がいい、というわけです。
大谷選手がああいうバッティングするからって、みんな大谷さんの言う通りにすればいいのかっていうと、そんなわけないわけですからね。なので一人一人の問題だよねっていう、普遍化されないっていう意味で秘密っていう言葉を使う。
こうして龍源さんは、根本ソースを別格として、上座部・大乗・密教という3つの立場を整理します。「仏教」と言うときに、どの立場を指しているのかを明確にしないと話が噛み合わないというわけです。
深井は3つの違いを、上座部は自らが悟ることに専念する、大乗は自分に加えて衆生の悟りも対象にする、密教はそれをさらに自分にカスタマイズして実践する、と整理します。龍源さんはこの回を密教の立場から語ると明言します。
悟り・解脱・涅槃・成仏はどう違うのか
龍源さんは、仏教の目的とされる言葉の曖昧さにも切り込みます。「悟りを開く」「解脱する」「涅槃に至る」「成仏する」という4つの言葉は、意味の違いを明確に言える人があまりいないといいます。
うわぁ、なんかほぼニアリーイコールで使ってた。
龍源さんは、これらを「崖を登る」という例え話で整理します。目標を崖の頂上に立つことだと仮定して、4つの言葉の位置づけを説明していきます。
この4つのうち、成仏こそが大乗と上座部の違いを表しています。上座部の目標は自分が崖を登り切って涅槃に至ることであり、大乗はそこからさらに、まだ登れない人に力を与えて導けるようになった状態を目指します。
龍源さんが強調するのは、成仏は「引っ張り上げる」のではなく「登る力を付与する」点です。引っ張り上げるなら一神教的になるが、仏教の救いは自分でやる力を与えることだといいます。
この考え方を龍源さんは、あなた自身でもできるはずだが、私がアドバイスすることでもっと楽になる、やり方がわからなければフルサポートする、というポジションだと表現します。深井は、空海や最澄がまさにこの成仏を目指していた感覚があると振り返ります。
仏教が向き合う「苦」とは何か
崖を登るという例えが指しているのは、「苦からの脱却」です。龍源さんは、仏教の根本目的をここに置きます。あらゆる生きとし生けるものは苦から逃れ、楽を得ようとする性質を持つ、というお釈迦様の前提から出発します。
龍源さんによれば、お釈迦様は西洋のカントのように「幸せとは何か」を延々と考えることはしませんでした。苦から離れ楽を得るのは当たり前で、そうでないものを見たことがない、という立場だといいます。
では「苦」とは何か。龍源さんはここに明確な定義があると言います。それは、認識力があるもの、つまり生命が何かを望み、それが叶わない・得られないことによって発生する心理作用です。
この定義の重要な点は、規模の大小を問わないことです。深井は、昼食を食べたいのに収録があって食べられない小さな苦も、毎日死にたいほどの深い苦も、どちらも同じ「苦」だと確認します。
つねられたくもないのに急にちょっとつねられて、あ、痛ってなったら、これでさえ苦。
蚊に刺されて痒い、部屋が少し暑い・寒いといったものまで、望まないのに生じるものはすべて苦にあたります。深井はこれを「一切皆苦とはそういうこと」だと受け止めます。
龍源さんは、お釈迦様は「全てが苦だ」とは言っていないと注意を促します。正確には、全ての物事の中に、苦につながる可能性がゼロになることはありえないということです。
苦の「完成」が絶望と暴力を生む
苦は生きている以上、不可避です。望み欲することがゼロになれば苦はなくなるかもしれませんが、それはもう生命ではない、と龍源さんは言います。
ただしお釈迦様が避けようとしたのは「苦の成就」、つまり苦が満ちて絶望へ向かうことでした。少しお腹が減った程度の苦はどうでもいいが、人生を左右する局面での失敗は絶望につながります。
龍源さんが問題視するのは、絶望が暴力につながる点です。自分に向かえばうつや引きこもり、最悪の場合は自死になり、他者に向かえば暴力や、最悪はテロにまで至ると説明します。
深井は、雨の日にタクシーが捕まらないという一点でさえ、心理次第で暴力レベルまで発展させられると指摘します。そして自分がイライラしやすいタイプで、しょうもないことでストレスを溜めてしまうと打ち明けます。
僕本当メタ認知能力は高いけど、高い結果、自分がいかにしょうもない人間かすごい理解してるなと思ってるんですけど。
深井は、そのストレスが脳科学でいう神経の炎症であり、起こす必要のない炎症を起こし続けることは自分への暴力だと語ります。同じ現象が起きても、苦という悪い心理作用に持っていくかどうかは人によって違う、というのが出発点だと整理します。
「楽」とは満たされた状態から生じる心理
苦の対概念が「楽」です。ただしこれも、楽しい・嬉しい・楽ちんという意味ではないと龍源さんは念を押します。リゾートでのんびりするようなイメージとは違うのです。
苦が「求めて望んで得られないことから発生する心理作用」なら、楽はその逆です。つまり、これ以上求めるものがない、満ち足りて満たされている状態から発生する心理作用を指します。
本当に満足の中で、これが毎日永遠に続けばいいよねっていうようなことを感受し続けて、そこからそういう心理が立ち現れてるっていうのが楽の状態。
この定義に立つと、あらゆる生きとし生けるものが苦から離れ楽を得ようとするのは自然だといえます。昆虫やバクテリア、ウイルスでさえ、能動的に動くベクトルを持つ以上、そこに楽というジャンルが存在すると深井は受け止めます。
一方で人間は高等さゆえに「よじれる」ことが可能です。成長のためにストレスを求めたり、筋トレのように痛みを求めたりする。ボディビルダーに筋トレを禁止すれば、それはよほどの苦になります。
楽すぎて苦になるわけですね。仏教は苦を否定するって言って、そんなことしたら成長がないから俺その考え方やだって言う人いらっしゃるんだけど、じゃあそういうことなんですよっていう話。
龍源さんは、成長のためにストレスが欲しいのにそれが与えられないのが嫌なら、仏教を適用するなら適切なストレスが得られるよう手伝う、という原則を示します。楽の対象はSMのような倒錯した欲求まで含め、人や状況でコロコロ変わるからです。
苦を抜き楽を与える「慈悲」の正体
楽はバリエーションが無限にあり、追求してもキリがありません。そこで仏教は、楽そのものより、楽を妨げている苦にフォーカスした方がわかりやすい、という発想を取ります。
龍源さんは、これはペシミズム(悲観論)ではないと強調します。苦にフォーカスすることで、万物の生物が本来持っているベクトルの方に進めるのではないか、というのがお釈迦様の考えだといいます。
漢訳経典では、これが「抜苦与楽」「離苦得楽」という言葉になります。抜苦与楽は自分から他者へ、その人の苦を抜き、楽を与えること。離苦得楽は自分自身が苦から離れ、楽を得ることです。
自分から他者へ。あなたの苦を抜き、あなたに楽を付与する
自分自身について。私に今ある苦から離れ、私にない楽を得る
この抜苦与楽と離苦得楽が一致した境涯・願い・祈りのことを「慈悲」と呼びます。龍源さんによれば、慈と悲は本来まったく違う概念です。
龍源さんの説明では、楽を与えようとする心が「慈」、そこにある苦しみを取り去ろうとする心が「悲」です。悲はマイナスをゼロに戻すこと、慈はゼロからプラスに積み増すこと。方向が同じため、翻訳した人が「慈悲」と1語にまとめたが、それで輪郭がぼやけてしまったといいます。
深井が、成長したい人へのアドバイスと、執着を取り除くという話の関係を問うと、龍源さんはそれが次の段階だと応じます。どうやって苦から離れるのか、という問いは次回に持ち越されました。
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まとめ
この回は、松波龍源さんが仏教の輪郭を実践者の立場から描き出す前提編でした。「仏教」という言葉に含まれる複数の立場と、苦・楽・慈悲の定義を押さえることで、次回以降の「苦からの離れ方」の話が理解しやすくなります。
- 龍源さんは仏教を哲学・思想体系と捉える実践者であり、その語りは一次資料としての一解釈だと自ら位置づける
- 「仏教」には根本ソースのブッダバーダに加え、上座部・大乗・密教の3つの立場が含まれる
- 悟り・解脱・涅槃・成仏は、崖を登る例えで整理でき、成仏は他者に登る力を与える大乗の到達点を指す
- 苦とは、望みが叶わないことから生じる心理作用で、規模を問わずあらゆる物事に苦の種が潜む
- 仏教は楽より苦にフォーカスし、苦を抜き楽を与える「抜苦与楽」「離苦得楽」が一致した願いを慈悲と呼ぶ



