軍隊から国家へ、ムラト1世は何を整えたのか
オスマンの3代目ムラト1世は、領土を広げるだけの王ではありませんでした。深井さんによると、ムラト1世は県・郡・村といった行政区を置き、それまで軍隊だけだったオスマンを国家としてまとめていきます。
ムラト1世は、支配するようになったキリスト教圏も州に分けて名前をつけました。その一つがルメリ州で、「ルメリ」はローマを意味する言葉だと深井さんは説明しています。
ムラト1世の統治制度の一つとして紹介されたのが、ティマール制 ── オスマン帝国の土地制度。軍事奉仕と引き換えに、特定の土地から税を取る権利を与える仕組みですです。村や町の徴税権を地元の有力なムスリム戦士に渡す代わりに、軍を出す義務を課す仕組みで、始まった時期は本によって違うそうです。
(徴税権は)誰に渡すんですか?
ムスリム戦士。
地元の強いやつ、力を持ってるやつ。
深井さんは、ティマール制が日本の幕藩体制や中国の封建制に近いと話します。ただ、日本の武士が徴税権以外の権力も持っていたのに対し、ティマール制で渡されるのは基本的に徴税権のみでした。
ティマール制のもう一つの特徴は、世襲ではないことです。深井さんは、権力が集中しないようにするための工夫だと考えられると話しています。
徴税権と治安維持を任されるが、渡されるのは基本的に徴税権のみ。世襲されない
幕藩体制などでは、徴税権以外の権力も持っていることがある
深井さんは余談として、似た制度が世界中にあることにも触れます。イギリスのフューダリズム、ドイツのレーエン、ビザンツ帝国のプロノイア ── ビザンツ帝国で、軍役などと引き換えに土地からの収入を与えた制度。オスマンのティマール制に影響を与えたとする見方もありますなど、中世によく使われた仕組みで、どれも少しずつ違うといいます。
ムラト1世は、中央政府の体制も整えました。それまで1人で担っていた運営を、大宰相・財務長官・大法官・国璽尚書の4人体制に分けたと深井さんは説明しています。
国璽尚書は、国の印章を管理し、行政処理を担う役職です。深井さんは、王が一日中印を押すわけにはいかないので、代わりに処理する人が必要になり、その人自身が判断する場面も多い重要なポジションだったと話しています。
戦争孤児から生まれたエリート軍団イェニチェリ
ムラト1世の時代のもう一つの大きな動きが、イェニチェリ ── オスマン帝国の常備歩兵軍団。キリスト教徒の子どもを集めてイスラームに改宗させ、スルタン直属の兵士として育てましたの創設です。この時期に創設されたとする説が一般的ですが、ほかの説もあるそうです。
深井さんによると、イェニチェリが必要になった背景には、国家として形を整えるなかで、もっと忠誠心の高い軍隊が求められたことがあったと考えられています。まだ帝国になる前の「オスマン侯国」は、強力な一地方政権に近い存在でした。
それまでのオスマン軍の中心は、辺境戦士のガージーやキリスト教徒の戦士であるアクリ隊でした。深井さんは、彼らは略奪をしたい人たちの集まりで、君主へのロイヤリティは高くなかったと説明します。
ただその国が大きくなっていくと、そのガージーとか(アクリ隊)たち自体がそもそも脅威になり得ますよね、自分に対しての。
忠誠心の高い軍隊をどう作るかという課題に対して、ムラト1世が目をつけたのが戦争孤児でした。バルカン半島のキリスト教徒の土地を攻めると、戦争で親を亡くした子どもが大勢生まれます。オスマンはこの子どもたちを引き取り、エリート戦士として育てました。
深井さんは、イェニチェリの仕組みを「専制君主国としてはすごく優秀なシステム」と評価します。戦争孤児には親戚がいないため、出世しても中国王朝の外戚のように親族が権力に介入してくる心配がないからです。
そう、だから奴隷なんで。スルタン、君主の個人の所有物なんですよ。
(イェニチェリが)普通の軍隊だったら、完全にスルタンがコントロールできるわけじゃないんですよね。
イェニチェリは常設軍でもありました。深井さんによると、この時期のヨーロッパにはほぼ常設軍がなく、戦争のたびに傭兵を集めていたため、招集に時間がかかったといいます。常設軍なら反乱にもすぐ対応できる一方で、戦争がない時期も維持しなければならず、コストは非常に高くなります。
イェニチェリの育成は、段階を踏んで行われました。深井さんの説明をまとめると、次のような流れです。
上書き保存してるじゃん。
深井さんは、親を失って傷つき、この先生きていけるかわからない子どもに、食事と住まいと新しい価値観を一気に与えるため、ある意味マインドコントロールの面もあったと話します。一方で楊さんは、助ける人がいなければ路頭に迷うかもしれない子どもたちにとっても救いになったと受け止めています。
オスマン帝国では、身分や出自に関係なく出世できました。深井さんによると、戦争孤児出身でも大宰相になることができ、途中からは奴隷身分出身の大宰相がほとんどになっていきます。
大宰相になっても、奴隷身分から解放されるわけではありませんでした。私有財産は認められず、反乱を起こせばスルタンがすべてを取り上げることができます。深井さんは、地位が高い奴隷というイスラーム世界独特の奴隷のあり方について、後の回で詳しく話すとしています。
イナズマ王バヤジッド1世はなぜ強かったのか
国家を整えたムラト1世は、コソボで暗殺されます。急いで即位したのが、息子のバヤジッド1世でした。
深井さんは、優秀な王が突然亡くなった時こそ国家の危機だと説明します。後継者も十分に定まっておらず、ムラト1世に抑え込まれていた周辺の国々にとっては反乱の好機になるからです。
バヤジッド1世は、その周辺国の反乱をすべて抑え込み、さらに勢力を広げました。深井さんによると、バヤジッド1世の母は奴隷で、ギリシャ系のキリスト教徒だった可能性があるギルチチェキという女性です。
全然お母さんが奴隷でもあまり関係なかった。
深井さんは、母親の出自で差別されない点は、中国王朝とは大きく違うと話します。楊さんはこの点に「夢があるな」と反応しています。
バヤジッド1世は「イナズマ王」や「雷帝」と呼ばれていました。即決断・即行動の電光石火の行動力から、この異名がついたといいます。
バヤジッド1世は、それまで手強いために後回しにしていたアナトリア、つまり小アジアをほぼ統一します。その過程で、オスマンのライバルだったトルコ系のカラマン侯国も征服しました。
深井さんによると、オスマンはそれまでカラマンと敵対しないよう同盟を結び、そのあいだにバルカン半島を攻めていました。バヤジッド1世が力をつけたことで、ようやくカラマンと戦って勝てる状況になったのです。
鉄壁のコンスタンティノープルを7年間包囲した結末は?
ライバルのカラマンを倒したバヤジッド1世が次に目を向けたのは、ビザンツ帝国の本拠地コンスタンティノープルでした。深井さんは、コンスタンティノープルを世界史上最高レベルの防御力を持つ都市と表現しています。
この国を何て言うか、正面突破したことがある国ってなくて、鉄壁の守りと言われてる。
深井さんによると、ビザンツ帝国は成立から1000年ほどが経ち、30回ほど攻められながらも、基本的には落とされたことがありませんでした。3重の城壁があり、多くの国が攻めあぐねていたといいます。
バヤジッド1世は、7年間ほどコンスタンティノープルを攻め続けます。正攻法では落とせないため、1万人以上の兵で周囲を囲み、補給線を断って兵糧攻めにする作戦を選びました。
ただし、もとは遊牧民であるオスマンは海軍が弱く、海からの補給船を止めることはできませんでした。深井さんは、モンゴルが日本を攻めきれなかったのも海を挟んでいたからだと思う、と重ねて説明しています。
それでもコンスタンティノープル市内では食料価格が高騰し、貧しい人々は飢えに苦しみました。栄養状態の悪化で伝染病が広がり、あちこちに遺体が積まれる悲惨な状況になったといいます。
追い詰められたビザンツ帝国は、同じキリスト教国のヨーロッパに助けを求めます。深井さんは、ビザンツ帝国はヨーロッパの入り口にあたり、ここが突破されればオスマンはヨーロッパまで一直線に進めるため、ヨーロッパにとっても見過ごせない問題だったと説明します。
この呼びかけに応じて十字軍が結成されます。ハンガリー王で後の神聖ローマ皇帝となるジギスムントを中心に、ポーランド、神聖ローマ帝国、ワラキア、ヴェネツィア、イギリス、フランスなど、さまざまなキリスト教国の兵が集まりました。
でもこの十字軍がね、速攻で負けるんだよね。バヤジード1世に。
十字軍が敗れた理由として、深井さんはヨーロッパ側がオスマンをなめていたことを挙げます。オスマンについての情報があまり入っておらず、ヨーロッパの内部も混乱していたため、外に意識を向ける余裕がなかったのかもしれないと話しています。
十字軍に勝ったことで、バヤジッド1世はそれまで自称していたスルタンの称号を正式に得たといいます。救援部隊も壊滅し、新たな援軍も来そうにないビザンツ帝国は、まさに絶体絶命の状況に陥りました。
無敵対無敵、アンカラの戦いでティムールはどう勝ったのか
ビザンツ帝国が追い詰められたところに現れたのが、モンゴル系勢力でした。深井さんが紹介するのは、チャガタイ・ハン国 ── モンゴル帝国が分裂してできた国の一つ。中央アジアを支配しましたの将軍から君主となったティムールです。
モンゴルね、やっぱ強えんだよ。そのオスマンも強いんよ。オスマンも強い。モンゴルもっと強いんだよ。
深井さんはティムールを、マンガ『キングダム』の桓騎将軍のような、元山賊で「バリクソ強え」人物にたとえます。世界史上の強い将軍でトップ10を作れば入るほどの軍事の天才だったといいます。
深井さんは、ビザンツ帝国にとっては棚ぼただったと話します。強い相手に攻められていたところに、その相手を倒す、さらに強い相手が後ろから現れたからです。楊さんは、アナトリアが遊牧に適した気候の土地だったため、遊牧地を求めて来た面もあったかもしれないと補足しています。
この時点で、ティムールもバヤジッド1世も無敗でした。こうして起きたのが、教科書にも載っているアンカラの戦い ── 1402年、アナトリア中央部のアンカラ近郊で、ティムール軍とオスマン軍が戦った戦い。オスマン側が大敗しましたです。
勝ったのはティムールなんですけど、ここでティムール負けてたらコンスタンティノープル落ちてたかもしんない。
深井さんは、ティムールの強さを戦闘指揮だけでなく、下準備の徹底にあると説明します。情報収集を徹底し、オスマンに臣従したばかりで忠誠心の低いカラマンなどに離間工作を仕掛けていました。
ティムールは、水の補給路も断っていたといいます。深井さんは、できることをすべてやったうえで戦闘指揮もうまいティムールに勝つのは、おそらく無理だったと話しています。
離間工作によって、オスマン側から裏切りが出ます。深井さんは、関ヶ原の戦いで小早川秀秋が寝返り、西軍が総崩れになった構図にたとえています。
徹底した情報収集
ティムールがオスマン側の状況を調べ上げる
離間工作
臣従したばかりで忠誠心の低い勢力に裏切りを働きかける
補給を断つ
水の補給路も断ち、オスマン軍を追い込む
総崩れ
裏切りが起き、オスマン軍が敗北する
戦いの後、ティムール軍は殺戮と破壊を繰り返します。首都ブルサは占領・略奪され、妃たちはティムールの酒を注ぐ役をさせられたうえで連れ去られました。
捕虜になったバヤジッド1世は、牢の中で亡くなります。深井さんによると、つらさのあまり自殺した説や、頭を打ち付けて亡くなったという説もあるそうです。
オスマンは一度滅び、30年の空白から再起した
アンカラの敗戦によって、オスマン侯国はいったん国家の体をなさなくなります。深井さんは、この時点でオスマンは一度滅亡したと表現しています。
ティムールは、オスマン領の町を次々に破壊して回りました。深井さんは、当時の記述として、ティムールが去った後の町では犬の声も、雌鶏が卵を産む声も、子どもの声も聞こえなかったという一節を紹介しています。
深井さんによると、ティムールは戦いの前、バヤジッド1世に「従わなければ呪い殺す」といった内容の文書を送っていました。深井さんは、結果的には呪い殺されたのに近い事態になったと話しています。
その後のオスマンには、30年間の空白の時代が続きます。戦場から逃げ延びた王子たちは生き残っていましたが、復興をめぐって互いに権力闘争を始めてしまいました。
この争いに勝ったのがメフメト1世です。メフメト1世は、アンカラの戦いで父バヤジッド1世を見捨てて逃げた人物でもありました。
ある意味正しい。
正しい正しい。これ(戦場から)で逃げてなかったら多分本当に滅亡してる。
メフメト1世とムラト2世の2代は、壊れた国家を立て直すことに力を注ぎました。深井さんはこの2代を、あまり注目されないものの非常に優秀だったと評価しています。
創業から再創業したって感じだよね。一回会社。もう一回創業。ギリギリです。
深井さんは、失った領地を取り戻すだけでなく、地に落ちた権威も回復させなければならなかったと強調します。一度こてんぱんに負けた後にもう一度人を集めることは、負けたことがない状態よりずっと難しいからです。
メフメト1世とムラト2世が国を立て直したからこそ、7代目のメフメト2世がコンスタンティノープルを陥落させることができました。深井さんは、この2代をゴールへバトンをつないだ存在と位置づけています。
モンゴルに勝った国は2つだけ?次はメフメト2世へ
深井さんは、ティムールの強さを伝えるために、最盛期のモンゴルに勝てた国は日本とマムルーク朝の2つしかないと話します。ただし日本に来たのはモンゴルの2軍・3軍で、船では馬を運べる数に限りがあり、本物の騎兵が来ていればすぐに負けていたと思うとも語っています。
深井さんは、日本もコンスタンティノープルも、天然の要害や城壁に守られた防御力の高い土地だと説明します。史上最高の防御力を誇る都市を落とそうとしたバヤジッド1世は、ティムールの出現という予想外の事態によって敗れました。
バヤジドもさ、ティムールじゃなかったら勝てたと思うんだよね。ティムールがちょっと多分反則級の強さなんですよ。
その結果、滅亡寸前だったビザンツ帝国は生き延びることになりました。再建を担ったメフメト1世は、まず生き残ることを優先した王だったと深井さんは説明しています。
メフメト1世の跡を継いだムラト2世は、あまり好戦的ではなく、学者肌の王だったという説があります。科学や文学を討論する集まりを毎週開いて優れた人に褒美を与えたり、ペルシア文学をトルコ語に訳させたりと、それまでの王とは違うタイプでした。
ムラト2世の息子が、オスマン帝国で1、2を争うほど有名なメフメト2世です。深井さんは、次回はメフメト2世を詳しく取り上げたいと予告しています。
ユーラシアのダイナミックな感じですもんね。ユーラシアの歴史。なんかリスク犯すよね、みんな。
3人は、強くなって攻め、攻められて落ち、また立ち上がるオスマンの浮き沈みに、リスクを取り続けるユーラシアの歴史のダイナミズムを見ています。
まとめ
今回の回では、ムラト1世が国家の形を整えてからバヤジッド1世がティムールに敗れ、オスマンが一度滅んで再起するまでの流れが語られました。強さを支えた制度と、さらに上の強者に出会った不運、そこから立て直した粘り強さが、メフメト2世の時代へとつながっていきます。
- ムラト1世は、行政区やティマール制、4人体制の中央政府を整え、軍隊中心だったオスマンを国家へと変えた
- 戦争孤児を改宗させて育てたイェニチェリは、スルタン直属で忠誠心の高い常設軍となった
- バヤジッド1世はアナトリアを統一し、十字軍を破ってコンスタンティノープルを追い詰めた
- 情報戦と離間工作を徹底したティムールにアンカラの戦いで敗れ、オスマンは一度滅亡した
- メフメト1世とムラト2世の2代が国を立て直し、メフメト2世によるコンスタンティノープル陥落へとつないだ




