モンゴル高原からアナトリアへ。トルコ系の人々はどこから来たのか
オスマン帝国編の第3回は、いよいよオスマン帝国そのもののルーツに迫る回です。深井さんはまず、オスマン帝国を作ったのは確実にトルコ系の人々であり、そのルーツはモンゴル高原にあると説明します。
深井さんによると、トルコ系の人々が歴史上に初めて姿を見せたのは紀元前3世紀頃です。9世紀頃には軍事力としてイスラム世界に流入しており、奴隷軍人だったという説があります。ただし、ここでいう奴隷は現代人が想像する奴隷とはまったく違うもので、詳しくは別の回で説明するとしています。
10世紀ぐらいになると、トルコ人を王とするムスリム王朝が現れます。群雄割拠の時代に生まれたさまざまな政権の中に、トルコ人の国も含まれていたということです。その後、強大なモンゴルを避けるようにトルコ系の人々は西へ移動し、もともと住んでいたわけではないアナトリア ── 現在のトルコの国土の大部分を占める半島地域。小アジアとも呼ばれ、黒海・エーゲ海・地中海に囲まれています、つまり小アジアへとやってきました。
戦国時代のような混乱が続くアナトリアの勢力の1つとして登場するのが、オスマン一家です。深井さんは、オスマン集団の起源は伝説に包まれていると話します。王朝ができてから1世紀ほど後に書かれた書物しか史料がなく、かなり脚色されていると言われているためです。
それでも確かなのは、13世紀末、つまり1200年代の終わりごろに、北西アナトリアのソユトという小さな町を根拠地として活動を始めたことです。深井さんは、ソユトは当時めちゃくちゃ辺境の土地だったと強調します。
帝国って大抵辺境から出てくること多いよね。
そうだね。ほとんど辺境です。中心にいる人が帝国を作ることっていうのもある、あるっちゃあるけど、あんまりないです。
キリスト教徒も一緒に戦う? ガージーという寄り合い集団
初期のオスマン集団はトルコ系の人々でしたが、深井さんによると、かなり早い段階でトルコ系ではない人々がどんどん加わっていきます。遊牧民的な生活を送っていたのも最初だけで、途中で遊牧をやめてしまいました。
深井さんは、この点がチンギス・カンたちとの違いだと指摘します。遊牧民らしい部族的な紐帯 ── 人と人、集団と集団を結びつけるつながりや連帯のこと。「ちゅうたい」とも読みますは、オスマン集団ではごく初期を除いてなくなっていたようです。
部族意識に代わってオスマン集団を結びつけたのが、ガージーと呼ばれる戦士たちの連帯感です。深井さんは、日本の武士が武士としての連帯感を持っていたのと似た感覚だとたとえます。ガージーは辺境戦士や信仰戦士とも呼ばれ、さまざまな出自の戦士が集まっていました。
統一王朝がなく混乱が続くアナトリアでは、食べ物にも困る状態でした。ガージーたちは生きていくために略奪を繰り返しながら勢力を伸ばしていったと、深井さんは説明します。
深井さんが驚きとして挙げるのは、この時点のオスマン集団に、アクリタイと呼ばれるキリスト教の戦士もいたことです。教科書で習うイスラームの理解からは外れる話だといいます。
(教科書では)キリスト教とイスラームがずっと反目し合いながら世界を作ってきたみたいな習い方を結構してるんですけど、実はね、そうじゃないんだよね。
キリスト教とイスラームって意外ともうめちゃくちゃ交流してるし、仲もいいし。こうやって最初ね、キリスト教かどうかも気にしてないんだよ。
聖戦の名のもとに、ムスリムもキリスト教徒もいる集団が略奪をしていたという姿は、教科書的なイメージと現実の違いをはっきり示しています。
十字軍とイスラームが戦い、キリスト教とイスラームが反目し合いながら世界を作ってきた
宗教の境界線は今ほどはっきりせず、ムスリムとキリスト教徒が同じガージー集団として戦っていた
樋口さんは、宗教ごとにフォルダでまとまっているようなイメージを持っていたと話します。深井さんは、当時はまだそのフォルダの境界線が今ほどはっきりしていなかったと言われている、と応じつつ、自分でも意味がわからないと率直に語っています。樋口さんがドラえもんの声優交代にたとえて場を和ませる場面もありました。
都市すら持たなかった国が、ビザンツ帝国を削り始める
オスマン集団は、最初から多様な人々が混ざった状態でスタートしています。深井さんはこれを「多様性スタート」と表現します。その集団の中にいたのが、初代のオスマンです。
オスマンは、アナトリアにある小規模な町を次々と征服して徐々に勢力を広げ、ただの集団から一応の国としてまとまる段階まで作り上げます。この国は、諸侯の「侯」の字を使ってオスマン侯国と呼ばれます。
意外なことに、オスマン侯国はブルサという都市を攻略するまで、都市を持っていませんでした。集落はあっても、根拠地となる都市がなかったのです。深井さんは、ブルサを攻略して首都にしたことで、オスマン帝国はやっと国らしくなっていったと説明します。初代オスマンは、このブルサ攻略の途中で亡くなりました。
ブルサはもともとビザンツ帝国 ── 東ローマ帝国とも呼ばれる、ローマ帝国の東半分を受け継いだ国家。首都はコンスタンティノープルで、1453年にオスマン帝国に滅ぼされますの領土でした。つまり初代オスマンの時点で、ビザンツ帝国の侵食がすでに始まっていたことになります。
深井さんは、ビザンツ帝国がこのシリーズのクライマックスで、オスマン帝国の君主メフメト2世と戦って滅びることを予告します。その国が、この時代からすでに削られていたことを覚えておいてほしいと話しています。
新参のそのオスマンとかと比べて、もう圧倒的な伝統と圧倒的な権威を持ってるわけです。
深井さんによると、ビザンツ帝国はキリスト教世界の宗主国のような位置にあり、連綿と続く歴史を持つヨーロッパの起源のような存在でした。そんな国が新興のオスマンに削られていく「悲哀」を伝えたい、と深井さんは語ります。
2代オルハンはなぜバルカン半島を先に攻めたのか
初代オスマンの死後、2代目となったのがオルハンです。オルハンはブルサを首都として、アナトリア一帯を勢力下に置くために各地を攻め、領土を一気に広げました。
深井さんが挙げるのは、イズニクとも呼ばれるニケアや、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル、つまり現在のイスタンブールに近いニコメディア(現在のイズミト)といった町の攻略です。オルハンの時代に、オスマンはアナトリアの戦国時代の勢力の中でナンバー2ぐらいまで上がったといいます。
ところが、オルハンはこの時期にビザンツ帝国と同盟を結んでいました。削っている相手と同盟を組むことに楊さんは驚きますが、深井さんは、戦ったり同盟を結んだりするのは戦国時代によくあることだと説明します。
ビザンツ帝国ってずっと継承問題でいざこざを起こしてるんですよ。次皇帝誰になるかっていうので、もう常にいざこざを起こしてまして、この国は。
オスマンはビザンツ帝国の継承問題に介入しながら関係を保つという、複雑な付き合い方をしていました。
オスマンが治めたかったのは、アナトリアと、海を挟んだ対岸にあるバルカン半島 ── ヨーロッパ南東部の半島。現在のギリシャ、ブルガリア、セルビアなどがある地域ですの2つです。アナトリアにはトルコ系遊牧民などが作ったイスラムの国が多く、バルカン半島にはキリスト教国が多くありました。
自分たちがいるアナトリアから攻めるのが普通に思えますが、深井さんによると、アナトリアの国々は遊牧民出身者が多くて強く、キリスト教国のほうが弱かったといいます。そのためオルハンはバルカン半島を先に攻め、結果としてビザンツ帝国の領土をさらに削ることになりました。
アイデンティティの歴史が削られる感じだもんね。
伝統あるキリスト教の中心的な国がイスラム勢力に削られていくことは、キリスト教国にとって大きな恐怖だったと深井さんは語ります。
国家統治のテンプレ。イスラム法は何がすごかったのか
領土が広がると、小さな集団だったころの統治の仕組みでは追いつかなくなります。深井さんは、ベンチャー企業と同じように、国家統治システムもステージに応じて変えていかなければならないと話します。
この場面でイスラムの国々が強かった理由として、深井さんはイスラム法という「テンプレ」があったことを挙げます。イスラム法をベースにすれば、人々は「それはイスラム法だから」と納得してくれます。そのうえで自分たちのカスタマイズを載せればよいのです。
ERP導入しますみたいな。スクラッチ開発必要ありませんみたいな。セールスフォース使えばいいですみたいなね。そんな感じなんです。
深井さんのこのたとえは、ERP ── 企業の会計・人事・生産などの業務を一元管理するシステム。一から作るのではなく、既製のパッケージを導入して使うのが一般的ですのように既製の仕組みを導入すれば、国家の仕組みを一から作る必要がないという意味です。樋口さんはAndroidにもたとえています。
オルハンの時代には、このイスラム法を土台に、軍事・行政・司法の3つの機関が初めて作られます。軍事は信頼できる人にしか任せられないため、嫡男のスレイマンに任せました。
深井さんがとくに強調するのが、イスラム法を学んだ知識人であるウラマーの存在です。イスラム世界ではイスラム法が共有されているため、自分の国の出身者でなくても、教育を受けたウラマーを他の国から呼んでくることができました。
(イスラム世界の人たちは)その基盤で生きてるじゃん。自分の国から偉い人を出す必要がないんだよ。
人種で区切らないもんね。
実際にオスマンは、チャンダルル家という名家を招いて宰相、つまり総理大臣にし、国の政務をつかさどらせます。イスラム法には民法・商法・刑法が含まれ、法廷の仕組みもセットになっているため、最初からこのテンプレを使えたのです。
共有された法
イスラム世界の人々がイスラム法を共通の基盤として生きている
人材の招へい
国籍を問わず、イスラム法に通じたウラマーや名家を他国から呼べる
制度の導入
民法・商法・刑法や法廷の仕組みをそのまま使え、反発も少ない
急速な国家化
人材育成のステップを飛ばして、国を一気に強くできる
議論の中では、キリスト教がほぼ理念や思想であるのに対し、イスラームはルールの部分までコーランに収められているという違いも語られます。それがイスラームが広まった理由の1つかもしれない、という話に対し、深井さんは「それだけではないだろうけど、それで強かったっていうのはあるでしょうね」と応じています。
ワクフと貨幣。一代で整えた国の仕組み
ウラマーやチャンダルル家はもともと名家で、各地にネットワークを持っていました。深井さんによると、オスマンはそのネットワークを政権内に取り込み、人材採用や地方統治に生かしていきます。
オルハンが一代で整えた制度として、深井さんはまず宰相制度を挙げます。さらにモスクの建設、教育制度としてのイスラム学院の設立、そしてワクフ制度の整備が進みました。
ワクフ制度は、イスラム法で定められた宗教的な寄進制度で、収入の一部を公共的な事業に寄進するものです。深井さんは、これによって最初から税金の徴収方法の一部が決まっていて、インフラを整えられることが強みだったと話します。
源泉徴収されてるじゃないですか。
(ワクフは)要はインフラ開発に全部強制的に回され、一部回されていくんですよ。だから自然と都市がどんどんでかくなるっていう。
深井さんによると、ワクフで集めたものは、モスクや学校の建設、奨学金制度、社会的弱者や孤児・寡婦の救済、水路や井戸といった共有財産の維持管理などに使われていました。ただし、私腹を肥やすために使う人が少なかったという点については、ちゃんと調べたわけではないと断っています。
オルハンはこの時代に貨幣を作り、スルタンを自称します。楊さんは、貨幣は今でいうメディアのような役割も果たしたと補足します。
今俺たちのいるこの国はこの人が治めてるんだっていう、ある種プロモーションになるんですよね。
3代ムラト1世の拡大と、セルビア軍の「なめプ」
オルハンの次に登場するのが、3代目のムラト1世です。ムラト1世は、バルカン半島にあるキリスト教国のセルビアやブルガリアに宗主権を認めさせ、支配下に置きました。この時代にオスマンの領土は3倍に膨れ上がり、ビザンツ帝国はさらに削られていきます。
ムラト1世は、ビザンツ帝国でアドリアノープルと呼ばれていた重要都市を占領し、エディルネと改名して第2の首都のような拠点にします。オスマンはここを進軍基地として、バルカン半島へ本格的に踏み込む段階に入りました。
これを強く恐れたのが、セルビアとブルガリアです。明日は我が身と考えたセルビア軍などは、5万ほどの大軍でエディルネに攻め込みます。ムラト1世はブルサに行っていて不在で、エディルネには800人しかいなかったといいます。
そのセルビア軍総攻撃のね、前の日にですね、なぜか祝宴をあげたんですよ、セルビア軍が。もう俺ら勝ったぞみたいな。余裕余裕みたいな。
酒に酔ったセルビア軍に夜襲を仕掛けたオスマン側が勝ち、セルビアの国王も死んだと深井さんは話します。
その後、ムラト1世はブルガリアのイヴァン・シシュマンを臣下にします。どんな宗教の勢力でも吸収できるオスマンは、こうした勢力を自分の軍隊として使うことができました。ただし深井さんによると、この時点のバルカン半島攻略は、まだ探りを入れながらの段階だったといいます。
勢いに乗っていたムラト1世は、セルビアやボスニアと戦っていたコソボで暗殺されます。次の君主はバヤジト1世で、次回はこのバヤジト1世と、オスマン帝国を理解するうえで重要な軍隊イェニチェリが取り上げられる予定です。
深井さんは、歴史を学ぶと油断して全てを失う人たちがちょいちょい出てくると振り返ります。一方で、オスマンのすごさは初代から3代まで全員が優秀だったことだといいます。
でもすごいのはみんな優秀なこと。一代、二代、三代全員。
運がいいです。運だと思います、正直。
まとめ
オスマン帝国は、辺境の多様な戦士集団から始まり、イスラム法という国家統治のパッケージを使って人材と制度を一気にそろえました。そこに優秀な君主が3代続く運も重なり、ビザンツ帝国を削りながら急成長していきます。
- オスマン集団はモンゴル高原にルーツを持つトルコ系の人々が起こし、早い段階で遊牧生活をやめた
- 初期のガージー集団にはキリスト教徒の戦士もいて、宗教の境界は今ほどはっきりしていなかった
- イスラム法を共有していたため、他国のウラマーや名家を招き、法や制度をそのまま使えた
- ワクフ制度や貨幣の発行によって、インフラ整備と君主の宣伝が進んだ
- ムラト1世の時代には、セルビア軍の油断を突いた夜襲もあり、バルカン半島への進出が本格化した





