飢餓封鎖に対抗したドイツの無制限潜水艦作戦
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深井さんによると、イギリスはドイツに面した海に機雷を大量に設置し、海上からドイツへ物資が運べないようにしました。これは海洋法やロンドン宣言 ── 1909年に列強が海戦時の封鎖や中立国の貿易の扱いを定めた宣言。批准されず正式には発効しませんでしたに違反する、かなり違法性の高い手段だったといいます。
このときのイギリスの海軍大臣はチャーチルでした。この封鎖はドイツにとって致命的で、物資不足から幼児の死亡率が50パーセントほどまで上がったと語られています。
飢餓になるからね。これ飢餓封鎖って呼ばれてんだけど、飢餓と関連するような病気っていうのもどんどん蔓延していくわけです。
ドイツは飢餓封鎖に対抗し、1915年ごろに戦闘海域を設定しました。その海域に入った船は、軍艦でも商船でも無警告で潜水艦が攻撃するという方針で、これが無制限潜水艦作戦です。
無制限潜水艦作戦はイギリスだけでなくアメリカからも非難されました。アメリカが非難した最初の理由は、貿易ができなくなり経済的損失が出るからだったといいます。ドイツは国際的な非難を受け、作戦をいったん停止します。
その後、ドイツは「作戦を続ければアメリカが参戦するかもしれない」というデメリットと、「イギリスを速攻で脱落させられる」という効果を天秤にかけます。結果として、ドイツは無制限潜水艦作戦の続行を決めました。
あと6日で戦争は終わっていたかもしれない?
ヴィルヘルム2世は精神的に消耗して和平を望んでおり、もともと無制限潜水艦作戦には強く反対していました。ところが自分の和平提案が退けられると激怒し、ベルギーやフランスを征服するといった逆の方向の発言を始め、作戦の再開に飛びつきます。
深井さんが「悲哀に満ちている」と語るのは、その直後の話です。作戦を再開する6日前、ドイツ宰相のベートマンは、アメリカを調停者としたイギリスとの和平交渉をひそかに準備できていました。
ちょっと待ってください。え?
アメリカを調停者として、仲介者として、イギリスと和平調停をできるっていうところまで持っていってたんです、もう。ドイツの宰相は。
深井さんによると、このアメリカによる和平調停にはイギリスもドイツも同意していました。一方で、ヒンデンブルクら戦いを続けたいドイツ軍部はこの調停に強く反対していたといいます。
和平の提案
精神的に消耗したヴィルヘルム2世が和平を求めるが、イギリスが拒否する
皇帝の激怒
ヴィルヘルム2世が無制限潜水艦作戦の再開に飛びつく
秘密の調停
宰相ベートマンのもとで、アメリカ仲介の和平にイギリスもドイツも同意していた
交渉の破綻
作戦再開で調停はご破算になり、アメリカとドイツは国交を断絶する
あと6日、6日だったんだよね。たったこの差は。これもなんか悲哀に満ちてるなと思った。
ツィンメルマン電報はなぜアメリカを怒らせたのか
アメリカは当初、なるべく参戦したくないと考えていました。しかし無制限潜水艦作戦によってアメリカの商船が撃沈され、イギリス商船に乗っていたアメリカ人が亡くなると、アメリカの世論は激高します。深井さんは、真珠湾攻撃のときの日本への世論の激高とそっくりだと話します。
さらにツィンメルマン電報 ── 1917年にドイツ外相ツィンメルマンがメキシコに送った暗号電報。イギリスの情報機関が解読し、アメリカに伝えましたの事件がありました。ドイツはメキシコに対し、アメリカを攻撃して味方になってくれれば、テキサスやニューメキシコなどもともとメキシコの土地だった地域を取り返させると、ひそかに同盟を持ちかけていたのです。
ドイツとメキシコのやり取りの暗号をイギリスが解読し、その内容をアメリカに伝えます。アメリカがドイツに確認すると、ドイツはなぜか「本当だ」と認めてしまったといいます。
なんかそこ正直に言った方がいいってドイツは思ったらしい。なんかちょっとよくわかんないんだけど、そこ、なんでそう言っちゃったのか。
樋口さんは、暗号解読という情報戦の要素まで絡んでくることに驚いています。こうした出来事が重なり、1917年4月にアメリカの参戦が決まりました。
経済的損失
無制限潜水艦作戦で貿易が妨げられ、アメリカがドイツを非難する
人的被害
アメリカの商船が撃沈され、アメリカ人も亡くなり世論が激高する
ツィンメルマン電報
ドイツがメキシコにアメリカへの攻撃を持ちかけていたことが判明する
1917年4月
アメリカが参戦し、ドイツはアメリカも敵に回す
樋口さんは、当時のアメリカはイギリスと同じかそれ以上のポテンシャルを持つ国で、参戦した時点でドイツは「ある意味詰んだ」と感じたと話します。深井さんも、この時点でアメリカはすでにイギリスより経済力が強かったと補足しています。
ロシア革命でロマノフ朝はどう崩れたのか
アメリカ参戦とほぼ同じ時期に、ロシア革命が起こります。深井さんによると、民主主義を広めることを大義名分とするアメリカにとって、皇帝が治める専制主義の国は受け入れがたい存在でした。そのため、皇帝のいるロシアの味方として参戦することを国民に説明しづらかったといいます。
つまり、ロシアが革命で戦線を離脱したことは、アメリカが参戦しやすくなるという側面も持っていました。
ロシアでは東部戦線の戦局が膠着する間に、政府が崩れていきます。1917年3月にロシア革命が起こり、約300年続いたロマノフ朝 ── 1613年から1917年まで続いたロシアの王朝。ロシア帝国を治め、ニコライ2世が最後の皇帝となりましたが滅亡し、皇帝ニコライ2世が退位させられました。
ロマノフ朝が倒れた後、ロシアはロシア共和国として生まれ変わります。この共和国は8か月ほどしか続かず、その後ソビエト連邦へとつながっていきます。
ロシア政府の崩壊は、東西の両側から攻められていたドイツにとって大きな朗報でした。ところがロシア共和国は戦争の続行を選びます。しかし新政府軍はとても弱く総崩れとなり、新しい政府は発足直後から信頼を失ってしまいました。
レーニンの登場と、格差と貧困を混同しないという注意
ロシア共和国が信頼を失った局面で登場したのが、レーニンです。レーニンはマルクスらの思想を受け継ぎ、社会主義国家をつくることを目指して、この瞬間を狙って社会主義国家の形成を成功させた人物だと紹介されます。
深井さんによると、社会主義思想には、これまでの戦争の流れとは別のルーツがあります。資本主義の発展やグローバリゼーションで国内の格差が広がり、その反発として反資本家的な思想が勃興してきたという流れです。
深井さんはここで脱線し、格差と貧困問題を同一視しないよう注意を促します。
徐々に解決されており、極端に貧しい人の数は減っている
グローバリゼーションで超富裕層が生まれ、中産階級との富の差が大きく開いていく
別に飯が食えない人がそれによって、その資本家によって生まれてるわけじゃないんで、そういう勘違いすごい多分多いと思うんだけど。
ロシア革命が起きたとき、レーニンは亡命先のスイス・チューリヒにいました。当時のレーニンは、まだ多くの賛同者を得ていたわけではなかったといいます。ロシアに戻るにはドイツ国内を通るのが都合がよいものの、交戦中のドイツをロシア人が通るのは本来無理な話でした。
一方のドイツにとっては、ロシアに戻れば戦争をやめるというレーニンを送り込むのは好都合でした。レーニンが成功しても失敗しても損はないため、ドイツは誰にも会わせない封印列車 ── レーニンら亡命者をスイスからドイツを経由してロシア方面へ運んだ列車。途中で乗り降りや接触ができないよう管理されましたでレーニンをロシアへ送り返します。
マジであれ、時限爆弾みたいなやつね。
ロシアに戻ったレーニンは四月テーゼを発表し、労働者代表の評議会であるソビエトにすべての権力を移すという指針を示しました。レーニンはボリシェヴィキ ── ロシア社会民主労働党の中でレーニンが率いた一派。のちにロシア共産党となり、ソビエト政権を担いましたの指導者で、当初は孤立していたものの、短期間のうちに味方を増やしていきます。
レーニンは戦争継続に反対するデモを組織し、スパイとして逮捕されかけてフィンランドへ逃れます。その後、変装してペトログラードに戻り、武装蜂起で政府を倒しました。レーニンは評議会の議長に、トロツキーは外務大臣にあたる役職に就き、ソビエトが出来上がります。
皇帝一家の最期と、ブレスト=リトフスク条約
深井さんは、ロシアは日露戦争で負け、ドイツとの戦争でも良いところを出せなかったと振り返ります。国内に反政府・反皇帝の人々を抱えていたロシアでは、戦争のグダグダ感の中で不満がついに爆発しました。
退位させられた皇帝ニコライ2世は、皇后アレクサンドラ、4人の皇女とともに処刑されます。深井さんは「王女まで殺さなくていいのに」と話しています。また、皇后に取り入っていたラスプーチンという人物の存在も、民衆の反感を強めていたといいます。
日本人はやっぱり天皇を殺さないじゃん。
樋口さんは、日本の天皇はあまり政治に踏み込んでいなかったため、ある意味良かったのかもしれないと応じています。
政権を握ったレーニンは、約束どおり戦争を終わらせる方向に動きます。ソビエト側に有利な条件を求めて一度もめ、ドイツが戦争を少し続けたものの、最終的にはロシアが大きく折れて領土を大幅に失いました。
この講和で成立したのがブレスト=リトフスク ── 1918年3月にドイツなどの同盟国とソビエト・ロシアが結んだ講和条約。ロシアは広大な領土を手放しましたの講和です。ドイツはようやく東部戦線を片付け、ドイツの勝利ともいえる内容でした。
そうね。だけど、このわずか8ヶ月後にドイツは敗戦するんで、全てを失う。
アメリカが来る前にイギリスを叩く、春季大攻勢
この時期のドイツでは、ヴィルヘルム2世はかなり軽視され、ルーデンドルフやヒンデンブルクなど限られたメンバーが重要な決定をしていたといいます。深井さんは、迅速に決められるという意味で、それ自体は悪いことではないと見ています。
アメリカの参戦が迫る中、ドイツは東部にいた兵力を西部に回し、1918年春から夏にかけて春季大攻勢を準備しました。深井さんは、ドイツが過去の成功を過信せず、敵からも学んで戦術を積極的に改善していた点を高く評価しています。
ところが、ブレスト=リトフスクの講和交渉をめぐってドイツ国内で意見が割れ、政治争いの火種も生まれていきます。
ドイツが春季大攻勢の相手にイギリス軍を選んだのには理由がありました。イギリス軍は撃破されても退却できる土地が少ない一方、フランス軍はさまざまな方面へ逃げられます。そのため、イギリス軍を叩けば講和を受け入れさせやすいと考えたのです。
春季大攻勢は、アメリカ軍が来る前にイギリスを講和に持ち込むための、まさに最後のカードでした。攻勢は最初こそ成功し、ドイツ軍は快進撃を続けます。
物量の限界、兵士の逃亡、そしてスペイン風邪
しかしドイツは、イギリスとフランスの2国を相手に、ほぼ一国で損害を受け止めなければなりませんでした。樋口さんは、戦争は物量で決まるので、相手が2国の合計ではそもそも厳しいと指摘します。
ドイツの軍事資源は、人員も物資も限界に達していました。その限界がドイツ軍の士気を下げ、戦闘を回避して戦場から逃げる兵士も出てきたといいます。
さらにドイツ帝国は新興国で、もとは別々の国だったプロイセンとバイエルンの軍の仲が悪いというセクショナリズムも抱えていました。徴兵は割合として農村部や地方小都市に偏っていたため、地方のコミュニティが大きく衰弱していきます。
同じ時期、オスマン帝国やオーストリアといったドイツの同盟国も限界を迎え、講和に動き始めます。そこにアメリカ軍が参戦してきました。
これはね、もう無理だよね、ドイツ。
追い打ちをかけたのがスペイン風邪です。深井さんによると、死者は1億人ほどともいわれ、アメリカ軍の大移動でヨーロッパに持ち込まれたとされています。
スペイン風邪という名前は、中立国で報道規制がなかったスペインが、最初に前線での流行を報じたことから付いたといいます。感染は連合軍も直撃しましたが、飢餓封鎖で栄養失調の人が多かったドイツ軍の方が被害は大きかったと語られます。
アミアンの戦いから休戦交渉へ
1918年8月8日、アミアンの戦いでイギリス軍が奇襲を成功させ、ドイツ軍の戦線を突破しました。この戦いで2万7000人のドイツ兵が戦死や投降によって戦線を離れたといいます。
このとき、ドイツ軍の参謀次長ルーデンドルフはすでに精神的に追い詰められており、アミアンの戦いの結果を聞いてパニックに陥りました。指揮官の混乱で、ドイツ軍は大混乱に陥ります。
同盟国のオスマン帝国やオーストリアも食料不足に悩み、休戦を申し出ていきます。深井さんは、総力戦で多くの人を戦闘に回せば、誰がご飯を作るのかということになると話します。
9月26日ごろに連合軍が再び全面攻撃を仕掛け、10月にはドイツの敗北が見えてきました。ドイツはアメリカのウィルソン大統領と休戦交渉を始めますが、ドイツの内部ではさらにさまざまなことが起こっていき、その話と終戦後の各国の動きは次回へ続きます。
最後に、なぜもっと早く戦争を切り上げられなかったのかという問いが出されます。深井さんは、戦争は始まると簡単にはやめられず、世論の問題もあって難しいと答えています。
殴り始めたらなかなか言葉って機能しづらいですよね。世論もあるしね。
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まとめ
第一次世界大戦の終盤、ドイツは飢餓封鎖への対抗策だった無制限潜水艦作戦を再開し、目前に迫っていた和平の機会を自ら失いました。アメリカ参戦とロシア革命で戦局は大きく動き、ドイツは東部戦線を終わらせた後に春季大攻勢へ賭けます。しかし物量の限界、士気の低下、スペイン風邪、同盟国の離脱が重なり、アミアンの戦いを経て敗北へ向かっていきました。
- 無制限潜水艦作戦の再開で、アメリカ仲介の和平はわずか6日の差でついえた
- 潜水艦による被害とツィンメルマン電報が、1917年4月のアメリカ参戦を決定づけた
- ロシア革命とレーニンの登場でロシアが戦線を離脱し、ドイツは東部戦線を片付けた
- 春季大攻勢はアメリカ軍が来る前にイギリスを叩く最後のカードだったが、物量の限界で失敗した
- スペイン風邪と同盟国の離脱が重なり、アミアンの戦いを境にドイツの敗北は決定的になった







