統一直後の劉邦が置かれた、それまでと全く違う状況
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項羽が自ら首を刎ね、劉邦が最後に残ったことで、劉邦は帝位につき皇帝になります。ただ、勝ったからといって安泰なわけではありません。
皇帝になるんだけれども、まあ実際さ、項羽に勝つことはできたんだけど、めちゃくちゃ大変なんだよ。不安定だよね。
韓信が各地を攻めて傘下に入れ、最後に残った項羽を倒したため、劉邦勢力が全てを倒したと言える状態になりました。秦、項羽、そして劉邦という順で天下がまとまっていったことになります。
ただし、項羽に勝った段階では国家統治システムがまだ走っておらず、ここで滅びればノーカウントになるような状態でした。実際にはこの後400年続く王朝になっていきます。
この劉邦が皇帝になった時の状況は、秦末期に旧立国が並び立っていた頃とは大きく違いました。戦国七雄の昔の王族が、楚漢戦争の過程でほぼ全員いなくなってしまったからです。
この楚漢戦争の過程で、ほぼ全員何らかの理由で死んでいったよ。
秦が統一した直後は、取り逃がした公子や各国の貴族が潜伏していて、秦が弱くなった時に立ち上がる構図でした。項羽や張良 ── 劉邦に仕えた参謀。もとは韓の名家の出身で、秦への復讐から反秦勢力に加わった軍師もその流れの人物です。
ところが楚漢戦争を経て、そうした旧勢力さえもほぼいなくなりました。加えて、封建制に戻ることはもうできないという理解も広がっていきました。
秦のシステムには経済優位と戦争優位があることがはっきりしたため、昔に戻したくても戻せない、と統治者の中で共有されていったと考えられます。
つまり劉邦が直面していたのは、似ているようで前段階までとは全く違う、古いパラダイムが解体された後のゼロベースの国づくりでした。
妥協の産物としての郡国制
秦のドラスティックすぎるやり方は反感を招きましたが、そのシステムは戦争にも経済にも強いものでした。過去には戻れない中で、この反感をどう吸収し、活躍した部下たちにどう報いながら新しい国を作るかが、劉邦の課題でした。
ここで採用されたのが郡国制です。秦の支配体制は郡県制と呼ばれ、郡と県を置いて官僚制で中央集権を運営するやり方で、封建制は一切ありませんでした。
劉邦は旧秦の支配領をほぼ自分で治め、それ以外の土地を諸将に分け与えました。最も大きく土地を分けたのが韓信で、斉や楚の土地を渡しています。
一方で、昔の漢・燕にあたる地域や、楚のさらに南の淮南、その西の長沙などは、それぞれ別の人物を王として封じました。
ただし劉邦自身は、戦国七雄時代の秦よりさらに広い領域を「漢」として持っています。漢という巨大な国と、それ以外の小さな国々という構図です。
なんか権力を分けていくのと、中央集権とのバランスを取った、ある意味妥協的なブランドデザインをやったっていうことですよね。
本音では全部を郡県制にしたいものの、韓信のように活躍して王になりたいと望む人物を王にしないと、戦争になってしまう。しかもそれには勝てない。そこで妥協として郡国制をとった、というのが実情です。
諸侯王国を仮想敵国とみなす法律
この状況について、劉邦が中華を統一したとは言えても、漢王朝と諸侯王国の間には緊張関係があったのではないか、と見る説があります。
その根拠の一つが、人と物の流通が法律で厳格に管理されていた点です。劉邦の首都圏から他の国へ、馬や黄金を許可なく持ち出せないルールがありました。
さらに、諸侯王国を仮想敵国と想定したように見える法律もありました。諸侯王国に投降したり、侵略や略奪を受けた際に城を捨てて守らない者を斬るといった規定です。
諸侯王国に対しては完全に心を許したわけではない、むしろまだその敵対リスクをはらんでいるっていうふうな前提に立ってるんですよね。
劉邦が直轄地と諸侯王国を一体とみなしていれば、こうした法律は不要なはずです。それがあるということは、まだ完全には心を許していなかったことを示します。
実際、韓信のような人物は独立性が高く、裏切る可能性があると劉邦は考えていたと見られます。助けてもらっていながらも、これまでの経緯から良い感情を持てていない状態でした。
匈奴に頭を下げた、初期の漢帝国
統治の話とあわせて、劉邦は北方の遊牧民である匈奴とも向き合わなければなりませんでした。匈奴はこの頃、冒頓単于という王のもとで全盛期を迎えていました。
劉邦は白登山の戦いで匈奴にボロ負けします。結論から言えば、この結果、漢は匈奴に臣従していると言っても過言ではない状態になりました。
実は強大な漢帝国ってイメージあると思うんだけど、匈奴の弟分みたいになっちゃってます、初期。
劉邦は娘を匈奴に嫁がせ、絹や酒、食事を毎年送るという和睦を結びます。相手に優位な内容でしたが、今は匈奴と戦っている場合ではないという判断があったと言われています。
勢力基盤が固まっていない中で、劉邦は人口不足という問題にも直面します。匈奴という脅威がありながら、経済的にも強化しなければなりませんでした。
そこで劉邦は、旧立国の豪傑や名家、富裕層を自分の土地へ強制移住させます。14万人を移住させたとされ、その権力の大きさがうかがえます。
移住しろって言われてするってさ。
富裕層を集めることで税収を上げると同時に、旧立国の勢力を削ぐ狙いもあったと考えられます。以前、ヌルハチの回でも似た政策が語られています。
儒者に頼って作った、皇帝の儀礼
民をきちんと統治する段階に入ったことで、劉邦は民衆統治の難しさを知っていきます。かつては始皇帝を「何もわかっていないバカ」と言えばよかったものが、自分がやる立場になると事情が見えてきました。
ただし秦のように法律を厳しくはせず、税を軽くし、民衆の生活や生産活動をなるべく乱さない方向をとります。民に干渉しすぎない、無為自然に近い方針です。
もう一つの課題が、宮廷の儀礼でした。劉邦集団は蕭何のような知識人もいる一方で、劉邦自身を含めチンピラ上がりの荒くれ者も多くいました。
劉邦は難しい儀礼を嫌い、簡略化しようとします。その結果、宴では規律なく酒を飲み交わし、酔って大声を出したり、剣を抜いて宮殿の柱に切りつける者まで現れました。
これはまずいと考えた劉邦は、儒家の叔孫通に儀礼のルールづくりを依頼します。叔孫通は学者や弟子を集め、外に縄を張り、藁人形を立てて、誰がどこに立ちどう歩くかの模擬演習まで行いました。
藁人形の使いどころ何なんだろうね。
あんだけ人の命ね、大切にしといて、ここは人を使わないんだね。
この取り組みで臣下を規律で束ねることができ、即位したばかりの宮廷の混乱が立て直されました。かつて儒家を馬鹿にし、その頭巾に小便をかけていた劉邦が、皇帝になって彼らの価値を理解したことになります。
この人たちにさ、皇帝になったら、なんでこの人たちが必要かってのが分かったってことだよね。
儀礼が実装され、厳粛な儀式が執り行われる光景を見て、劉邦は強く興奮したと言われています。皇帝であることの尊さを、平民出身の彼が初めて実感した場面です。
私は今日こそ皇帝であることの尊さを実感したって言って。
功臣の粛清はなぜ始まったのか
皇帝になろうとしていく中で、この後、劉邦は自分を支えて一緒に大きくなってきた部下たちを粛清していきます。ほぼ殺してしまうのです。
理由を先に言えば、国を安定させようとすると中央集権化するしかないからです。封建制を保てば自分が殺されるかもしれない。だから権力を強めるしかありません。
権力を強めようとすると、戦争が終わった今、戦争で功績を上げた人間は邪魔になります。こうして、その人たちを殺す方向へと意識が転換していきました。
利子の言う通りなわけです。で、属人性なんてあんまりないんですよね。これ家康もやってたし、秀吉もやってたし、部下の粛清って。
過去の中国皇帝で自分の功臣を殺していない人はほとんどいません。だからこれは、劉邦が優しいかどうかとは関係なく起こりうることだ、というのがこの回の学びのポイントです。
ここで重要なのは、その人の属人性だけで組織が動いていると思ってはいけないという視点です。システムやさまざまな力学が、本人に結果的に決断させてしまうことがあるという発想です。
どっちも口さんだけれども、その時の環境であったり、その時の人間関係であったりによって、その違うアウトプットが出ているだけで
劉邦の部下には、反乱初期から一緒に立ち上がった蕭何のような功臣と、終盤に仲間になった人たちがいました。終盤に加わった者ほど信頼関係は薄く、韓信もその一人でした。
韓信は大いに活躍したものの、王になりたいと望んだ経緯や、報奨を増やさないと援軍に来なかった経緯があり、劉邦は不信感を抱いていました。
もう劉邦からすれば自分が困ってる時にボーナスの交渉してきたりする火事場泥棒に映ったんですよね。
劉邦がまず切っていったのは、劉氏ではない、自分の親族でない王たちでした。皇帝暗殺や武装反乱を企てただろうという、こじつけの罪で死刑にするやり方が基本でした。
韓信を追い詰めた、疑いと恐怖の連鎖
最初に標的となったのが韓信です。最も脅威であり、最も功績を立ててしまったため、彼が反旗を翻せば納得されてしまうほどの名声を持っていました。
韓信はもともと項羽側からも誘われていました。項羽の使者・武渉は、劉邦は恩知らずで信用できず、項羽を倒せば次はお前が危ない、天下を三分せよと勧めています。
韓信の部下・蒯通からも自立を勧められていました。しかし韓信は、うだつが上がらない状態から蕭何に推薦され、劉邦が大将軍にしてくれた恩義から裏切りませんでした。
とはいえ、逡巡はあったと考えられます。そして劉邦の側から見れば、その逡巡が見えた時点で、いつか裏切るかもしれないと思わせてしまったのです。
関心はまさか劉邦がこんだけ功績を出して、劉邦のために戦った自分を殺すなんてことはないだろうって思ってたんですよ。
韓信は成果を出しているから大丈夫だろうと考えていましたが、それは幻想でした。先制君主となった劉邦の立場が持つ意味を、彼は想像できませんでした。
疑いは具体的な事件として表れます。項羽側の有名な武将・鍾離昧が生き延びて、韓信の領地となった楚に隠れていました。二人はもともと親しい仲でした。
韓信が兵を連れて領内を見回っていたところ、それを謀反の準備だと劉邦に密告する者が現れます。こうして劉邦の疑いが韓信に伝わっていきました。
韓信は、頭を下げて説明するか、いっそ挙兵するかで悩みました。裏切らずに項羽を倒したのに、直後から疑われている状況に、攻めてしまおうかという感情も湧いたと考えられます。
相談を受けた鍾離昧は、劉邦がまだ攻めてこないのは自分がいるからだと語り、韓信を罵りながら自ら命を絶ちます。自分の首があれば韓信の言い訳が立つと考えたのです。
自分について恐怖の挙動で動いちゃって、そんなつもり相手はないのに、こうするつもりなんだろうみたいな邪推をしてしまって、先にアクションしちゃう人って死ぬほどいっぱいいるじゃん。
韓信は鍾離昧の首を劉邦のところへ持参しました。ところが逮捕され、楚王から格下げされて、もっと小さな国の王に落とされてしまいます。首を差し出せば大丈夫だという読みは外れました。
この事件で韓信は劉邦を信じられなくなります。理由は何でもよく、まず韓信の力を削いで牽制することが劉邦の意向だったと見られます。
樊噲を見下した韓信の危うさ
格下げされた韓信には、慎重に振る舞えばよかったのに、それをしなかったというエピソードがあります。相手は、劉邦初期からの筋肉自慢の武将・樊噲です。
樊噲は強いやつや。筋肉がめっちゃある。
韓信が樊噲の家を訪ねると、樊噲は位を落とされた韓信を「大王様」と呼び、へりくだって丁寧にもてなしました。
ところが、もてなしを終えて家を出た韓信は嘆きます。自分ともあろう者が、樊噲ごときと同じ地位に落ちてしまったとは、というのです。丁寧に接した相手を見下す発言でした。
我、韓信ともあろうものが、まさか樊噲ごときの輩と同率に落ちてしまうとはっていう風に嘆いたそうなんですよね。
この嘆きは口に出されたと考えられます。誰かに聞かれ、劉邦の耳に入れば命に関わる、極めて危うい言動でした。実際、聞かれていたからこそ後世に伝わっています。
戦場では彼は国士無双かもしれない。でも政治の世界で、彼はこの専制君主の下で生き残るための術を彼は知らないんですよね。
やがて韓信は、辺境で起きた反乱の首謀者と内通していたとして、反乱の謀議で捕らえられます。今回は本当に加わろうとしていたようです。
この情報をつかんだのは蕭何と、劉邦の妻・呂后でした。韓信を見出し押し上げた蕭何本人が、韓信をマークしていたことになります。
捕らえる際、蕭何が韓信を呼び出します。恩人からの呼び出しに警戒せず出て行った韓信は、そこで捕まり、家族もろとも処刑されました。命じたのは遠征中の劉邦に代わり呂后だったと言われています。
ゲームルールが分かってなかったね。
サボった彭越、塩漬けの見せしめ
続いて標的となったのが彭越です。彼は項羽の補給線をゲリラ戦で撹乱し、勝利に大きく貢献した人物で、梁王に封じられていました。
ある反乱の際、彭越は病気と称して自ら出向かず、配下の将に兵をつけて派遣します。これに劉邦は怒ります。本人が行くべきところをサボった、謀反の気持ちがあるからだ、というわけです。
彭越が謝罪に出向こうとすると、部下は、行けば捕らえられて殺される、いっそ反乱しようと止めます。彭越は病気で押し通そうとしましたが、この会話を他人に聞かれ、劉邦に密告されてしまいます。
会話をね、気をつけた方がいいんです。本当に。
彭越は捕らえられ、平民に落とされて、山奥の蜀へ移住させられます。その途上で、彭越はたまたま呂后に出会いました。
彭越は涙ながらに無実を訴え、せめて故郷に住めるよう取りなしてほしいと頼みます。呂后は承知し、一緒に劉邦のもとへ向かいました。
ところが劉邦の前で呂后が告げたのは、正反対の内容でした。彭越のような勇者を蜀へ行かせれば厄介なことになる、今ここで殺すのが一番だ、というものです。
今ここで殺してしまうのが一番です。私はちょうど彼と出会ったので、ここまで連れてきましたって言うんですよね。
呂后は彭越が謀反したかのような証拠を捏造し、裁判の末に彭越を家族もろとも皆殺しにします。そして彭越の体を塩漬けにし、その一部を各地の諸侯へ届けました。
これは謀反への見せしめであると同時に、塩漬けには宗教的な意味もあったとされます。魂すらも復活できないようにする、地獄に落とすような感覚だと語られています。
黥布の誤算と、劉邦自らの出陣
次に動揺したのが黥布です。もとは項羽側にいた顔に入れ墨のある武将で、彼も大いに活躍していました。
元々項羽側にいた顔タトゥーですね。
韓信が殺され、彭越が塩漬けにされて送られてきたことで、黥布は次は自分かもしれないと怯えます。そこへ、自分が処刑しようとした部下が逃げ出し、黥布が反乱を準備中だと劉邦に訴えました。訴え自体は嘘でした。
追い詰められた黥布は、実際に反乱を起こします。韓信も彭越も死に、有名な将軍がいなくなった今、年老いた劉邦が自ら出てくることはないだろうと踏んだのです。
ところが、呂后に命じられた劉邦が直々に出陣します。相手が皇帝であり、自分に大義がないため、黥布の配下の兵はなかなか動きませんでした。
黥布は敗れ、4人の部下と逃亡した末に民家で殺されます。なお、劉邦はこの戦いで負った傷が原因で命を落とすことになります。
生き延びたブレーンたちの処世術
一方、蕭何や張良のような頭脳派は生き残ります。ただし彼らも、劉邦から裏切るのではないかと疑われ続けました。韓信をはめて殺したのも蕭何でしたが、それでも疑いは消えませんでした。
蕭何は褒賞を辞退し、受け取った分を国のために拠出しました。軍が出る時には自分の資金や兵を出し、親戚まで兵として差し出して忠誠心を示します。それでも劉邦は疑いをやめませんでした。
うんざりした蕭何が次にとった手が、高利貸しや土地の買い占めで、金の亡者だと劉邦に勘違いさせることでした。金で動く人物は、実は最もコントロールしやすいからです。
やっぱその君主にとってコントロールできる臣下だけが価値ある臣下なんです。
無欲で利益に興味がない臣下は、統制できない危険分子とみなされます。そこで蕭何は、あえて利益に目がないつまらない人間だとアピールし、疑念を払おうとしたのです。
さらに蕭何は庶民からの評判が良かったため、それがかえって妬みや謀反の疑いを招きます。そこで民の土地を買い占め、わざと世間の評判を下げました。
人気があると、なんか妬みの対象になったりとか、あいつ力つけてきてなんか謀反しようとしてると疑われるから、徹底的に自分の価値を下げていったような。
蕭何は逮捕されたこともありましたが、結果的には許されて生き残ります。晩年は重病に陥り、劉邦より長生きしました。
張良はさらに賢明で、わずかな領地しか受け取らず、早々に一線を引いて隠居生活に入りました。呂后の危険さを見抜き、彼女に嫌われれば死ぬと理解していたのです。
劉邦が、呂后との子である太子・劉盈を廃し、寵愛する戚夫人の子・劉如意を太子にしようと考えた時期がありました。張良はこれを止めます。
その止め方は巧みで、頭ごなしに反対するのではなく、伝説の賢人「商山四皓」の言葉として語りました。賢人がだめだと言うなら、と劉邦を諦めさせ、呂后から深く感謝されたのです。
戦場で要求されるスキルセットと異なるスキルセットが必要だよね。
生き残ったのが武人ではなく頭脳派だったのは象徴的です。政治の世界で生き残るには、戦場とは異なるスキルセットが必要だったと言えます。
役に立つほど殺される、という理不尽な構造
結局、劉邦を支えた功臣のほとんどが始末されていきました。天下統一後には軍縮という普遍的な課題が生じ、その中で家臣たちが邪魔になり、殺されていったのです。
これは劉邦がひどい人間だからではありません。中国史上、功臣を殺さなかった建国者は、後漢の光武帝と北宋の趙匡胤の二人だけだと語られています。
他の人たちはみんな殺してる。
これは中国に限った話でもありません。日本の徳川家康も、豊臣方の功臣たちを粛清していきました。中央集権化しようとすると、それが不可欠になる理不尽な構造があるのです。
こんなの知ってたら役立たないわと思うんですけど、それでもやっぱり殿様のために頑張るし
頭脳派の人物は、歴史をケーススタディとして学び、こうした構造を理解していた可能性があります。それでも粛清を避けられないことはあった、と樋口さんは補足しています。
こうして中央集権化は進み、途中で中断しつつも400年続く帝国へとつながっていきます。次回はいよいよ最終回、劉邦が亡くなる場面が語られます。
今までの十二回と世界観が変わって、ちょっとおえってなってました。なんか急に劉邦人変わったって、やっぱり。
変わったんだと思うよ、実際。だって彼は皇帝になったから。
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まとめ
項羽を破った劉邦は、ゼロベースの国づくりの中で郡国制という妥協をとり、匈奴には頭を下げ、儒者に頼って皇帝の儀礼を整えました。そして、自らを支えた功臣たちを次々に粛清していきます。その本質は個人の性格ではなく、中央集権化のために避けられない構造の力学にありました。
- 項羽の死後、旧勢力が消えた劉邦は、封建制に戻れないゼロベースの国づくりに直面した
- 郡国制は、全土を郡県制にしたい本音と、功臣を王にせざるを得ない現実の妥協だった
- 韓信・彭越・黥布らは大いに活躍したがゆえに脅威とみなされ、疑いと恐怖の連鎖の中で粛清された
- 蕭何や張良は、あえて評判や無欲さを手放す処世術で、専制君主のもとを生き延びた
- 功臣の粛清は劉邦個人の残虐さではなく、中央集権化に伴う普遍的な構造として理解すべきである







