将軍こそが朝敵だ!戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いで明暗を分けた「覚悟の差」
歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO)の西郷隆盛編第8回では、深井龍之介さん、楊睿之さん、樋口聖典さんが、ついに勃発した戊辰戦争1868年(慶応4年)から1869年にかけて、新政府軍と旧幕府軍の間で行われた日本最後の内戦。鳥羽伏見の戦いに始まり、箱館戦争で終結した。の緒戦「鳥羽伏見の戦い」を詳しく解説します。数で圧倒していたはずの旧幕府軍がなぜ敗れたのか、そして慶喜はなぜ江戸へ逃げたのか──覚悟と意志の差が歴史を動かす様をたどります。その内容をまとめます。
開戦前夜──覚悟が決まらない慶喜軍
1868年(慶応4年)1月、まだ正式に認められていない新政府軍と、朝廷からパージされた旧幕府軍が京都で対峙していました。旧幕府軍は大阪から京都へと攻め上がる体勢をとっていましたが、その総大将である徳川慶喜江戸幕府第15代将軍。水戸藩出身で、母は公家の出。幼少期から尊王思想の影響を受けて育った。大政奉還を行ったことでも知られる。の態度は極めて中途半端でした。
慶喜は「攻めに行くぞ」と号令をかけつつも、本心では話し合いで解決しようと考えていたといいます。そのため軽装のまま進軍し、行軍隊形も整えていませんでした。隊列を組めば「戦うつもりだ」と見なされてしまうからです。
一方の薩摩・長州側は、慶喜軍が来た瞬間に叩き潰すつもりで待ち構えていました。話し合いに応じるつもりなど一切ありません。この「覚悟の差」が、戦いの行方を大きく左右することになります。
慶喜は戦うつもりないって言いながら来てる。方や薩摩の方は、来た瞬間ボコボコにしてやるって思ってる。この違いがまた出ちゃうんですよね
鳥羽伏見の戦い──近代兵器と白兵戦の悲劇
大阪から京都への道は、鳥羽京都市南部の地名。大阪から京都へ向かう街道の一つが通る要衝。方面と伏見京都市南部の地名。伏見奉行所が置かれ、旧幕府軍の拠点となっていた。方面の二つに分かれていました。戦闘はこの両方面で同時に始まります。これが「鳥羽伏見の戦い」です。
鳥羽方面では、通行を巡る押し問答の末に交渉が決裂。それでも動き出した慶喜軍に対して、すでに小銃で照準を構えていた薩長の藩兵が二方向から十字砲火を浴びせました。街道上を行列で進んでいた慶喜軍は、銃の格好の的になってしまいます。
伏見方面でも同様の構図でした。伏見奉行所にこもっていた会津藩現在の福島県西部を領した藩。藩主松平容保は京都守護職を務め、幕府に最も忠実な藩の一つだった。兵や新選組に対し、薩摩が大砲を打ち込みます。新選組は銃を持たずに突撃しますが、近代兵器の前には為す術がありません。さらに長州藩兵は、蛤御門の変1864年(元治元年)、長州藩が京都御所を攻撃した事件。会津藩・薩摩藩などに撃退され、長州は「朝敵」とされた。禁門の変とも呼ばれる。で会津藩に仲間を殺された恨みを抱いており、復讐心に燃えていました。会津兵約800名のうち、500名が死傷するという凄惨な結果となります。
約1万5千の兵力
刀・槍中心の白兵戦
各藩バラバラの指揮系統
戦闘態勢が整っていない
約4千の兵力
最新式の銃・大砲を装備
統一的な全軍指揮
先制攻撃を準備万端で実行
旧幕府側の兵士たちは白兵戦にこだわり、「侍は正々堂々と戦うのだ」という信念で刀を振るいました。長州側が畳を盾にしながら銃を撃ってくるのを「卑怯だ」と叫びながら斬りかかったといいます。勇敢さの裏に、時代についていけていない悲しさがありました。
錦の御旗と「朝敵」の衝撃
戦況をさらに決定づけたのが、錦の御旗天皇の軍(官軍)であることを示す旗。赤地に金の日輪と銀の月輪が描かれた。これを掲げる軍に逆らえば「朝敵」(天皇の敵)とされた。の存在でした。仁和寺宮嘉彰親王皇族の一人で、戊辰戦争では征討大将軍に任命された。錦旗を掲げて新政府軍を率い、官軍の正統性を示す象徴的存在だった。が大将軍として掲げたこの旗は、新政府軍が「官軍」──すなわち天皇の代理であることを意味していました。
この旗に盾突くことは、すなわち「朝敵」になることを意味します。これを目の当たりにした会津藩兵の衝撃は計り知れないものがあったでしょう。彼らはつい数年前まで京都守護職幕末に設置された役職。京都の治安維持を担い、会津藩主松平容保が就任した。天皇と朝廷を守る名誉ある任務とされた。として天皇を守り、蛤御門の変では「朝敵」長州藩を撃退する側だったのです。
京都守護職として天皇を守護。蛤御門の変では「朝敵」長州を撃退した官軍側
錦の御旗を掲げた新政府軍(薩長土)と対峙し、自らが「朝敵」とされる側に
天皇を守ってて、長州が攻めてきた時も朝敵長州を倒したのが、今度は自分が全く逆の立場で、自分たちが朝敵になってるっていう。たった数年でこういうことが起こって、何これって思いながら戦ってるわけだよね
楊さんはこの状況を「尊王という物語がどれだけ当時の人たちの中で重かったかを示している」と指摘します。天皇への忠誠心が深かったからこそ、その天皇の旗を敵に掲げられることの絶望感は、現代の私たちの想像を超えるものだったのかもしれません。
裏切りの連鎖──味方が次々と寝返る
軍事的劣勢に加え、慶喜軍を追い詰めたのが「味方の裏切り」でした。京都から大阪方面に撤退した慶喜軍は、淀藩京都府南部の藩。藩主は稲葉家で、徳川譜代の名門。老中を輩出するほど幕府に近い存在だった。の淀城に助けを求めます。徳川譜代の名門で、老中も輩出してきた藩ですから、当然味方してくれると思っていました。
ところが、淀藩の家臣団は主君・稲葉家を見捨てて新政府軍側につき、入城を拒否したのです。
裏切りはこれだけではありません。桑名藩現在の三重県桑名市を領した藩。藩主松平定敬は会津藩主松平容保の実弟で、京都所司代を務めた。会津と並ぶ佐幕派の中核。でも留守中の家臣団が城を新政府軍に開いて投降。尾張徳川家徳川御三家の筆頭。名古屋を拠点とした。当時の藩主徳川慶勝は、旧幕府支持派の家臣を処断して新政府支持を表明した。の当主・徳川慶勝に至っては、旧幕府軍支持にこだわる家臣十数名を殺害してまで新政府支持を固めました。
「絶対味方してくれると思っていた味方が普通に裏切る」──この衝撃が連鎖反応を起こし、わずか1〜2日で旧幕府軍の完全な敗北が確定しました。一度トレンドが「負けムード」に傾くと、様子見をしていた諸藩が次々と新政府側につき、流れはもう止められなくなっていたのです。
勝利の歓喜と「意志の力」
鳥羽伏見の戦いに勝利した西郷隆盛は、大いに興奮したといいます。「敵軍を追いまくり候」「少しの負けもなく勝ち通し」「いまだかつてこれあらざるの戦いにてござ候」──5倍の敵を相手にここまで完勝したのだから、その喜びは当然のことでしょう。大久保利通薩摩藩出身の政治家。西郷隆盛とともに明治維新の立役者。維新後は内務卿として近代国家建設を主導した。も日記に「大愉快に堪えざる次第なり」と記しています。
深井さんはこの勝利の構造について、重要な指摘をしています。もともと西郷たちの強硬路線は周囲から白い目で見られていました。しかし、挑発して開戦に持ち込み、圧勝したことで、もはや誰も旧幕府軍を救えない状況を作り出してしまった。これは「世論を見て動く人間には絶対に起こせない現象」だと深井さんは言います。
「今こんな市場がホットだからそこ攻める」──現代でもてはやされるような状況適応型のアプローチでは、こうした歴史の大転換は起こせなかったのではないか。力があり、現状を正しく認識し、意志を貫き、運にも恵まれた人間だけが、「そんなこと起こらないでしょ」という変化を次々と生み出していった。それが幕末の面白さだと深井さんは語ります。
慶喜、江戸へ逃亡──決断できなかった将軍
鳥羽伏見の敗戦後、慶喜は大阪城に戻り、役人や隊長たちを大広間に集めて対策を尋ねました。「まだ戦いたい」という意見が出ると、慶喜は「よし、これから出馬しよう。みんな用意しろ」と号令をかけます。将兵たちは「戦える!」と沸き立ち、それぞれの持ち場に散っていきました。
ところがその夜、深夜のこと。慶喜は会津藩主・松平容保会津藩第9代藩主。京都守護職を務め、幕府への忠義を貫いた。戊辰戦争では会津戦争で徹底抗戦し、最終的に降伏。と桑名藩主を連れて、密かに江戸へ逃げてしまったのです。
命かけて全滅してでも守れ、戦えみたいなこと言ってるのにもかかわらず、よし戦うぞって言って夜中に勝手に逃げるみたいな。みんなやる気なくなるよね
深井さんは慶喜について、「一生を通じて朝敵になりたくなかった」人物だと解説します。公家の血を引き、水戸藩で尊王攘夷天皇を敬い(尊王)、外国勢力を排除する(攘夷)という幕末の政治思想。水戸学から発展し、倒幕運動の理論的支柱となった。思想を学んで育った彼にとって、朝廷に歯向かうという構図は耐えられないものでした。その気持ちは理解できるとしながらも、「決断するとは他の選択肢を捨てること」であり、慶喜はそれができなかったと指摘します。
楊さんは「慶喜はただ単に命が惜しかったのではないか」と率直な見解を述べます。西郷や大久保が自分の命を捨てる覚悟で決断したのに対し、慶喜はそこまでの覚悟を持てなかった。それは人間として弱いということではなく、ある意味で「武士というより人間だった」のかもしれないと。
深井さんは徳川家康江戸幕府の初代将軍。関ヶ原の戦いなどで凄まじいスピードの決断力を見せた。コテンラジオでも別シリーズで取り上げられている。と対比しながら、「家康だったら絶対にこの決断はしていない」と語ります。関ヶ原の戦いで息子・秀忠の遅参を聞いた瞬間に「じゃあ俺が行く」と即断した家康のような一瞬の決断力が、慶喜にはなかったということです。
こうして慶喜は江戸に逃亡し、正式に朝敵認定を受けることになります。朝敵になることを何より恐れた彼が、結局は朝敵になってしまったという皮肉な結末でした。新政府は諸侯に対して徳川慶喜追討令鳥羽伏見の戦い後に新政府が発令した、慶喜討伐の命令。これにより慶喜は正式に朝敵とされ、旧幕府軍全体が賊軍扱いとなった。を正式に発令し、江戸へ向けて軍を進めることになります。
まとめ
1868年1月、戊辰戦争の緒戦となった鳥羽伏見の戦いは、わずか数日で旧幕府軍の完全な敗北に終わりました。数で3倍以上の優位にありながら敗れた要因は、近代装備の差、統一指揮の欠如、そして何より「覚悟の差」にあったと言えるでしょう。
話し合いの余地を残しながら進軍した慶喜軍に対し、薩長は「ここで負ければすべてが終わる」という決死の覚悟で戦いました。錦の御旗による正統性の演出、味方の裏切りの連鎖、そして慶喜の夜逃げ──すべてが「意志を貫く者」と「選択肢を捨てきれない者」の差として表れた戦いでした。
次回は、江戸に逃げ帰った慶喜と、追撃する新政府軍がどう対峙するのかが語られます。
- 鳥羽伏見の戦いでは、約1万5千の旧幕府軍が約4千の新政府軍に敗北した
- 慶喜は話し合いのつもりで進軍し、薩長は最初から殲滅する覚悟で待ち構えていた
- 旧幕府側は刀と槍の白兵戦、薩長は最新式の銃と大砲という「近代対封建」の構図だった
- 錦の御旗により新政府軍が「官軍」となり、旧幕府軍は「朝敵」の立場に追い込まれた
- 淀藩・桑名藩・尾張徳川家など、味方だったはずの藩が次々と新政府側に寝返った
- 慶喜は「戦うぞ」と号令をかけた夜に密かに江戸へ逃亡し、正式に朝敵認定された
- 「決断とは他の選択肢を捨てること」──選択肢を残し続けた慶喜と、命を捨てて意志を貫いた薩長の差が歴史を動かした

