天下分け目の決戦は、なぜ始まる前から危うかったのか
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前回、戊辰戦争 ── 1868年から1869年にかけて、新政府軍と旧幕府勢力のあいだで戦われた一連の内戦。鳥羽伏見の戦いに始まり、箱館戦争で終わりますが始まったところで話は終わっていました。深井さんは、この戦争を、まだ正式に認められていない新政府軍と、朝廷から一度外された旧幕府軍の戦いだと整理します。
旧幕府軍は名目上は地位を失っています。それでも、それを認めない人たちからすれば、この戦争に勝てばすべてを取り戻せます。深井さんは、戊辰戦争を「ほんと普通に天下分け目の決戦」だと表現しています。
大阪から京都へ攻め上がる旧幕府軍は、会津藩が挑発に乗り、慶喜から「勝手にせえ」と言われて動き出したものでした。ところが慶喜本人は軽装で、まずは話し合いから始めるつもりで来ていたといいます。
(慶喜は)会津藩士とかね、自分たちの部下の人たちに攻めに行くぞとは言ってるんだけど、直ちに戦おうと思ってないっていう、すごく中途半端な心境で来てます。
深井さんは、この慶喜の態度を「覚悟が決まっていない」ように見えると話します。一方の薩摩は、旧幕府軍が来た瞬間に叩くつもりで待ち構えていました。
1868年1月2日、幕府大目付の滝川具挙が、慶喜からの「薩摩を討て」という命令書を持って先鋒として京都に入ります。旧幕府軍は京都の伏見と淀に分かれて宿営しました。
淀より北の旧幕府軍は約1万で、伏見奉行所にいた幕府歩兵や新選組、会津・桑名・高松・伊予松山などの藩兵から成っていました。深井さんは、いろいろな藩の兵が集まる構成を「ザ・幕府って感じ」だと評し、幕府にまだ招集力があったことを示すと話します。
淀の南には大阪防衛の兵が5000いて、旧幕府軍は合計1万5000になります。対する新政府軍は薩摩3000、長州1000の約4000で、兵力は旧幕府軍の3分の1以下でした。
鳥羽と伏見、2本の道で撃たれた「話し合い」の行列
大阪から京都へ攻め上がる道は、伏見方面と鳥羽方面の2つに分かれていました。それぞれで戦闘が起きたことから、この戦いは鳥羽伏見の戦いと呼ばれます。
伏見方面では、薩摩・長州に、後藤象二郎が参加を決めた土佐の兵も加わり、旧幕府軍の本陣である伏見奉行所を包囲するように布陣しました。鳥羽方面には彦根藩などの兵が派遣され、そこへ薩摩の増援部隊が駆けつけます。
深井さんが注目するのは彦根藩の立ち位置です。井伊直弼がかつて藩主だった彦根藩が、このときには反幕府側にいました。幕府に付く人もいれば見限る人もいる、それぞれの決断が分かれていく局面だったといいます。
深井さんは分かりやすさのため、ここから旧幕府軍を「慶喜軍」と呼びます。慶喜軍の主力は京都近郊の上鳥羽に迫り、薩摩兵の警戒線と通行を巡って押し問答になりました。
(慶喜の)この見込みが甘すぎるんだよね。話し合うつもりなんて一切ないわけ、薩長土は。
交渉が決裂し、それでも進もうとした慶喜軍に対して、銃を構えていた薩長の藩兵が二方向から十字砲火を浴びせ、戦いが始まりました。
若干だまし討ち感があるけどね。
慶喜軍は戦う意思を見せないよう、行軍隊形を整えず、兵を散開させないまま街道上を行列で進んでいました。この隊形が包囲しやすく、鉄砲のいい的になってしまったと深井さんは説明します。
新選組に近い組織である見回り組の大将たちは、和装に兜、刀と槍という武装で薩摩軍に突進しました。銃を持たない彼らは、外国から新しい銃を買い揃えていた薩長に勝てず、慶喜軍は多数にもかかわらず大損害を受けます。
刀で挑んだ会津と新選組、その誇りは時代遅れだったのか
伏見方面でも、状況は鳥羽方面と似ていました。上鳥羽で戦闘が始まった声が聞こえるやいなや、薩摩が伏見奉行所に大砲を撃ち込み、中にいた新選組が銃を持たずに突撃します。
楊さんは、浅田次郎の作品で中井貴一さんや佐藤浩市さんが出演した映画も、このあたりがモデルだろうと話します。深井さんは、負けた側を主人公にした悲劇として描かれる一方で、長州側は新選組を池田屋事件の恨みから目の敵にしていたと補足します。
目の敵にしてるんで、ある意味ここで復讐されてる状態なんですよね。
伏見奉行所にこもる会津藩兵に対しては、長州藩兵が向かいました。長州は蛤御門の変 ── 1864年、長州藩が京都に攻め上り、御所を守る会津・薩摩などの兵と戦った事件。長州は敗れて朝敵とされましたで会津藩士に多くの仲間を殺されていたため、復讐心に燃えていたといいます。
会津兵800人のうち、死傷者は500人に達しました。旧幕府側の兵士はあくまで刀による白兵戦にこだわり、畳を盾にして隙間から銃を撃つ長州側を「卑怯だ」と言いながら戦ったとされます。
将軍の兵、侍として正々堂々と刀で戦う白兵戦にこだわった
近代化された装備で、畳を盾にしながら銃を撃ち続けた
深井さんは、会津が京都守護職を務めた将軍に近い藩だったからこそ、将軍の立場が危うい瞬間に「侍ムーブ」を選んだのだと解釈します。
勇敢だとも言えるし、ただ時代についていけてないだけですよねとも言える。
ほんとプライドが高いことはいいことなんだけど、一方でそれが時代遅れであることってあるよね。
錦の御旗が突きつけた、会津の「なんでこうなった」
戦況に決定的に効いたのは錦の御旗 ── 天皇の軍、つまり官軍であることを示す旗。これに刃向かう側は朝廷の敵である「朝敵」とみなされましたでした。仁和寺宮嘉彰親王が大将軍として出陣し、新政府軍は天皇の代理人であることを示します。
錦の御旗に刃向かうことは、朝敵になることを意味しました。深井さんは、これを知ったときの会津の気持ちは計り知れないと話します。
会津はもともと京都を守護する立場で、それは天皇を守ることでした。長州が攻めてきたときは、朝敵となった長州を退けていた側です。たった数年で、立場が完全に逆転してしまいました。
会津は京都守護で天皇を守り、朝敵となった長州を退けていた
長州が官軍となり、会津は朝敵として戦う側になった
この状況があるっていうことは、尊王という物語がどれだけ当時の人たちの中で重いかだよね。
現代人には想像しにくいこの感覚を、楊さんはワールドカップにたとえます。日本で生まれ育った自分が、日本代表と戦う側に回ったら混乱する、その感覚の「超強いやつ」かもしれないという話です。
あれなんか俺なんで日本人で日本で生まれ育ったのに日本と戦ってんの?ってなるかも。
錦の御旗で攻めきれず、近代的な軍隊と封建的な軍隊の戦いになり、初動でも崩れた結果、慶喜軍は数で圧倒しながら京都から大阪方面へ撤退していきます。
淀藩・津藩の寝返りで折れた旧幕府軍の心
慶喜軍が陣を構えた淀には、徳川の譜代で老中も出す稲葉家の淀藩がありました。慶喜軍は当然協力してもらえると思い助けを求めますが、入城を拒否されます。
楊さんによると、淀藩では家臣団が主君の稲葉家を見捨てて新政府軍側についたといいます。深井さんは、相手が官軍になり、慶喜軍が退却を始めていたことで、味方してはいけないという空気に変わったと説明します。
マジで?ってなるんですよね。絶対味方してくれると思ってた味方が普通に裏切る。
楊さんはほかの例も挙げます。桑名藩では主君不在の中で家臣団が城を開いて投降し、尾張藩の徳川慶勝は旧幕府支持にこだわる家臣十数名を殺して新政府支持を固めました。
備中松山藩、姫路藩、伊予松山藩、高松藩なども直ちに開城し投降します。深井さんは、様子見をしていた人たちが、グダグダに負けていく旧幕府軍を見て寝返っていく構図だと整理します。
(寝返りが)2、3個そういうあっち側についたぞってなったら、大丈夫なの?こっち側にってみんな不安になるとこもあって。
さらに三重の津藩も新政府軍に寝返って砲撃を始め、旧幕府軍はわずか1、2日でメンタル的に折れてしまいました。
余談として、この戦いに出陣した西郷さんの弟、西郷従道は首を銃弾が貫通しながら一命を取り留めています。楊さんは、溺れても生き残った西郷さんと合わせて「西郷家はHPが多い」と笑います。
フランス式の軍隊がいても勝てなかった理由と、西郷の歓喜
鳥羽伏見の戦いは、旧幕府軍の完全な敗北で終わりました。慶喜の代にフランス式の軍隊は作られていたものの、ほかの軍隊も多く、初動で攻めきる形にならなかったといいます。
深井さんは、全軍を統一的に指揮する指揮官がいなかったことも敗因に挙げます。各藩が兵を出してそれぞれ指揮する封建制の戦い方が、まとまって動く薩長土の軍に勝てなかったという説明です。
| 項目 | 慶喜軍(旧幕府軍) | 新政府軍(薩長土) |
|---|---|---|
| 兵力 | 約1万5000 | 約4000 |
| 指揮 | 各藩がそれぞれ指揮する封建的な形 | 全軍が統一的に動く |
| 装備・戦い方 | 刀による白兵戦にこだわる兵が多い | 新しい銃による近代的な戦い |
| 構え | 戦うつもりが曖昧で初動が崩れる | 開戦を狙い待ち構えていた |
慶喜軍が薩摩軍を侮っていたことも影響したようです。薩長はここで負ければすべてが終わると思って戦っていた一方、旧幕府軍には江戸城という逃げ場があり、それが心の甘えになったのではないかという学者の指摘もあると深井さんは紹介します。
勝利に西郷さんは大興奮しました。残された手紙では、3日から6日まで一歩も引かず勝ち通した戦いは「いまだかつてこれあらざるの戦いにてござ候」と書き、賊軍は5倍ほどの人数だったと喜んでいます。
楊さんは、島流しで中央の政局に参加できなかった鬱屈が、西郷さんの喜びをいっそう爆発させたのではないかと話します。大久保さんも日記に「実に大愉快に堪えざる次第なり」と記していました。
様子見の人間には起こせない変化とは何か
西郷さんたちの幕府への強硬な態度は、それまで「やりすぎでは」と白い目で見られていました。しかし挑発して戦いに持ち込み、勝ったことで、誰も旧幕府軍を救えなくなったと深井さんは語ります。
深井さんは、状況にアジャストしてうまく生きることは現代でももてはやされるものの、「今この市場がホットだから攻める」ような人には起こせない変化だと話します。過去の成功例をなぞる人にもできないといいます。
リスク高いからね。逆に言うとリスクを取らないと状況は作れないから。
深井さんにとって、意志の強い人たちが集まって起きるありえない変化こそが幕末の面白さです。高杉晋作の行動や今回の薩摩のゴリ押しのように、数か月のあいだに「そんなこと起こらないでしょ」ということが次々と起きていきます。
一方で深井さんは、意志を貫いて負けた人もたくさんいると付け加えます。力があり、現状を認識でき、意志を貫き、運もよい人がこうした現象を起こすのだと整理しています。
「出馬する」と言った夜、慶喜はなぜ江戸へ逃げたのか
鳥羽伏見の敗北で、日和見をしていた諸侯や商人たちは新政府支持を固めていきます。慶喜は大阪城に戻り、役人や隊長を大広間に集めて対策を尋ねました。
上がってきた意見は「まだ戦いたい」でした。慶喜も「これから出馬する」と応じ、将兵は喜んで持ち場に散っていきます。ところがその深夜、慶喜は会津と桑名の藩主を連れて密かに江戸へ逃げました。
これは逃げてどうなるん?でもこの状況で誰もついてこんよ、そんなことしたら。
深井さんは慶喜の弁明もします。母が公家で、尊王攘夷の水戸藩に生まれ、父は藤田東湖 ── 水戸藩の学者。尊王攘夷思想を広め、幕末の志士たちに大きな影響を与えましたの主君でした。そんな慶喜にとって、朝廷に歯向かう構図は耐えられなかったといいます。
ただ、幕臣たちはそうではなく、慶喜には彼らを抑えきれない感覚があったのだろうと深井さんは推測します。楊さんは、本心を伝えることもできたはずで、何もコミュニケーションを取らずに帰るのはどうかと疑問を示しました。
マジで覚悟決まってないんだなって感じと、あとなんか人に向き合う真摯さがないよね。
会津藩主の松平容保も、本当は逃げたくなかったといいます。深井さんは、いきなり連れ出された容保も、嘘をつかれた幕臣たちもかわいそうだと話します。
決断とは選ぶことではなく捨てること
樋口さんは、朝敵になりたくないのが本心なら、「我は朝敵ならざるなり」と宣言して戦わない意志を貫く道もあったはずだと指摘します。深井さんも同意し、決断についての持論を語ります。
深井さんによれば、慶喜は戦わないかもしれない、でも戦うかもしれないという選択肢を残したまま動いたため、中途半端な行動を繰り返しました。一方の薩摩は、失敗したら死ねばいいという覚悟で選択肢を捨てていたといいます。
戦う・戦わないの両方を残し、話し合いのつもりで進軍し、出馬を宣言した夜に逃げた
失敗したら死ぬ覚悟で選択肢を捨て、来た瞬間に叩くつもりで待ち構えた
楊さんは別の見方を示します。西郷さんや大久保さんが捨てたのは自分の命であり、慶喜はそこまでして何かを決断する人ではなかった、単に命が惜しかったのではないかという解釈です。楊さん自身もそういうタイプだと話しています。
深井さんは、それは現代人的な感覚だとしつつ、封建社会の武士の頭領としては微妙だと話します。慶喜は会津藩士に、たとえ最後の1騎になっても引くなと命じていたのに、自分は夜中に逃げたからです。
ある意味武士っていうか人間。
朝敵となった慶喜、戦いの舞台は江戸へ
慶喜が逃げた後、慶喜は正式に朝敵と認定されます。深井さんは、これこそ慶喜が最も恐れていたことであり、本当は天皇を武力で奪い取るしかなかったのではないかと話します。
深井さんは徳川家康と比べます。家康編で語られたように、家康は息子の秀忠が遅れていると聞けば自ら出陣するような即断をする人でした。慶喜にはそうした命を懸けた決断がまったくないといいます。
樋口さんが、現代人が真似すべきかはわからないと返すと、深井さんは、命を懸ける点まで真似る必要はないとしたうえで、意志を持ち、決断するとはどういうことかが伝わればいいと話します。慶喜の評価は自分たちの感想であり、違う感想を持ってかまわないとも付け加えています。
こうして幕府、会津、桑名が朝敵となり、新政府は諸侯に徳川慶喜追討令を出しました。鳥羽伏見の戦いは終わったものの戊辰戦争はまだ続き、新政府軍が江戸へ向かう次回へとつながります。
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まとめ
鳥羽伏見の戦いでは、兵力で3倍以上だった旧幕府軍が、中途半端な構え、封建的な指揮、旧式の戦い方、そして錦の御旗によって敗れました。敗北は寝返りを呼び、出馬を宣言した夜に江戸へ逃げた慶喜は朝敵となります。出演者たちは、その結末を覚悟と決断の差として読み解いています。
- 旧幕府軍約1万5000に対し新政府軍は約4000だったが、話し合いのつもりで行列のまま進んだ慶喜軍は銃撃で崩れた
- 会津や新選組は刀による白兵戦にこだわり、近代装備の薩長に大きな損害を受けた
- 錦の御旗で会津は数年前と逆の朝敵の立場になり、淀藩や津藩などの寝返りが相次いだ
- 慶喜は出馬を宣言した夜に江戸へ逃げ、最も恐れていた朝敵に正式に認定された
- 深井さんは、決断とは選択肢を捨てることであり、様子見の人間には社会を動かす変化は起こせないと語った




