『反マキャベリ論』の著者はなぜ侵攻を決めたのか
シュレージエンは、オーストリア国内で最も経済力の豊かな州でした。深井さんは、ハプスブルク家にとって「絶対に取られてはいけない場所」だったと説明します。そこへ突然、フリードリヒ率いるプロイセン軍が攻め込みます。
フリードリヒは王太子時代に反マキャベリ論 ── フリードリヒが王太子時代に著した書物。権謀術数を説くマキャヴェッリの『君主論』を批判し、君主の徳や道義を説いた内容ですを書いた人物です。今回のエピソードは、そのフリードリヒがなぜ侵攻を決断したのかを、フリードリヒ目線で追うところから始まります。
神聖ローマ皇帝カール6世の死の知らせが届いたのは10月26日で、フリードリヒはおそらくマラリアで倒れ、ラインスブルクで療養中でした。知らせを受けた瞬間に青ざめ、一言も発しなかったと伝えられています。
しばらくしてフリードリヒは「今や古い政治体制が完全に変化するべき時である」「熱病に解雇状を手渡そう」と語ったといいます。深井さんは、ここに父である軍人王との表現の違いが出ていると指摘します。
雅だね。
(軍人王の)唾を吐きたいに比べるとね。
フリードリヒは、皇帝の死を知った2日後に、この時代は自分の著書にとっては不幸だが、自分個人にとっては光り輝くものになるだろうと書いています。本に反すると見られるのを承知のうえで、プロイセンに必要な決断だと考えていたわけです。
背景には、女性であるマリア・テレジアが後を継いだことへの侮りがありました。さらに、父の軍人王がプラグマティック・サンクション ── カール6世が定めた、女子にもハプスブルク家の領土を継承させる相続法。各国に承認を求める過程で、軍人王も協力していましたをめぐってハプスブルク家に騙された、という恨みもプロイセンは抱えていたといいます。
フリードリヒはこの時点ではマリア・テレジアをバリバリで舐めてるんですよ。
楊さんは、さらに2つの理由を加えます。1つは、新興の小国プロイセンにとって、外交でイニシアティブを取る自主外交が曾祖父の代からの悲願だったことです。軍事力を強化し、財政を黒字にし、外国の援助金に頼らない軍隊を目指してきた流れの中で、シュレージエンという足がかりが目の前に現れました。
もう1つが、当時のヨーロッパ全体を覆っていた軍事財政危機です。グローバル化による利害対立の増加や軍事技術の進歩で、戦争がどんどんお金のかかるゲームになっていました。
戦争の火種が増える
貿易や植民地拡大で国家間の利害対立が増える
戦費が膨らむ
戦艦・要塞・銃などの軍事技術が進歩し、コストが上がる
軍隊が重荷になる
常備軍を抱えるプロイセンは、税を取っても軍事費が負担になる
領土拡大を迫られる
軍隊を維持するため、他国に進出して領土を広げるレースに乗せられる
戦争はしないといけない。軍隊も必要。でも軍隊めっちゃかかる。なので、この軍隊を維持するためにどんどん攻めていかないといけない。
「名誉とのランデヴー」と、ルビコン川を渡った王
プロイセンは、古い条約を持ち出してシュレージエンの領有権を主張するという建前も用意していました。ただ深井さんは、実際には利害で動いていたと話します。
プロイセンの大臣たちは、人口が大きく違うハプスブルク帝国を相手にするのはやめたほうがいいと反対します。それでもフリードリヒは、国力を高めるにはシュレージエンが必要だとして意思を曲げませんでした。
侵攻の名目は、ザクセンやバイエルン、フランス、スペインがオーストリアを狙っているのだから、シュレージエンをくれればオーストリアを守ってあげる、というものでした。深井さんは、マリア・テレジアからすれば非常に腹立たしい理屈だったはずだと話します。
フリードリヒは「名誉とのランデヴーに行く」と称して軍を率い、将校たちに祖先の名誉を思い起こせと呼びかけます。国境を越えたときには、大臣に「余はルビコン川を渡った」という手紙を書きました。
カエサルになぞらえたこの一文について、深井さんは教養があると同時に「調子乗ってる」「高揚してる」と評します。一方で楊さんは、若いフリードリヒが自分を奮い立たせていたようにも見えると話します。
俺は逆になんか(フリードリヒが)自分を奮い立たせているように。
あっという間の奪取と、侮辱的な「提案」
フリードリヒは、この戦争は簡単にいくと考えていました。父の軍人王が鍛え上げた軍隊を持っていたうえ、マリア・テレジアを侮っていたからです。
実際、オーストリアは領土が広いために兵員の配置が難しく、シュレージエンには十分な守備部隊がいませんでした。プロイセン軍は、たちまちのうちにシュレージエンを奪取してしまいます。
奪取したあと、フリードリヒはマリア・テレジアに条件を示します。「ハンガリー女王は孤立しておられる」と呼びかけ、守るために進軍している、お金を差し上げる、夫のフランツ・シュテファンが皇帝に選ばれるよう取り計らう、その代償はシュレージエンの譲渡だけだ、という内容でした。
深井さんによると、「ハンガリー女王」という呼び方自体が、それ以外の地位を認めていないようで侮辱的だといいます。また、神聖ローマ皇帝は男性しかなれないため、夫のフランツ・シュテファンを皇帝にすることはマリア・テレジアの望みでした。プロイセン王は選帝侯 ── 神聖ローマ皇帝を選ぶ選挙権を持つ有力諸侯。プロイセン王はブランデンブルク選帝侯を兼ねていましたとして投票権を持っていたため、こうした取引を持ちかけられたわけです。
ほんの数ヶ月ぐらい前までカール6世も生きてたし、軍人王も生きてたような時代では、プロイセンっていう小国の王がね、いきなりハプスブルクに攻めてきて、こんなこと言うなんて考えられなかったんですよ。
それほどオーストリアは追い込まれていました。バイエルン選帝侯カール・アルベルトが、フランスの援助を受けてウィーンへ向かっているという情報も入っていたのです。
老臣たちの前で、マリア・テレジアはどう立ったのか
窮地のマリア・テレジアを支えるはずの重臣たちは、60歳を超える白髪の老人ばかりでした。深井さんは、高給取りなのに自分の領地の心配ばかりで、自発的に女王を助けようとしなかったと語ります。
一方のマリア・テレジアは23歳で、妊娠6ヶ月、政治の経験もない状態でした。大臣たちは、シュレージエンを渡せばいいと進言します。
しかしマリア・テレジアは、絶対にシュレージエンを渡さないという鉄の意志を見せます。渡せばなし崩し的に他の領土も奪われるうえ、シュレージエンは経済の核となる土地だから、即位直後に奪われるわけにはいかない、という理由でした。
困った顔をするだけの大臣たちに、マリア・テレジアは「どうしてそんな顔をしてるのか。今は議論しないといけない時なのに。この哀れな女王を失望させないでください。私に助言してください」と迫ったといいます。
楊さんは、フリードリヒがこうしたオーストリアの制度疲労を知っていたからこそ、改革の必要を感じていたのだろうと話します。深井さんも、オーストリアでは中央官庁の機能不全や租税収入の不足など、行政がうまくいっていなかったと補足します。
宰相格のツィンツェンドルフも、夫のフランツ・シュテファンさえも、フリードリヒの要望に応じる意見でした。一冊の本にしか書かれておらず真偽は定かでないとしつつ、深井さんは、マリア・テレジアが真冬に窓を開けて冷たい風を入れ、空気を変えてから「シュレージエンを割譲することは決してなりません」と告げたという逸話を紹介します。
(マリア・テレジアは)何の経験もない23歳で妊娠してて、体調も普通じゃないのに、この雰囲気に流されないっていうのはすごいと思う。
プロパガンダとモルヴィッツの会戦、逃げた王の転機
占領されたシュレージエンの住民は、宗教的な自由のあるプロイセンに属したいと考えていました。プロイセン軍はチラシを大量に印刷して配り、宗教的に自由だと宣伝する、いわばCM効果による獲得も行っていたといいます。
やっぱずっと狙ってたんだよね、フリードリヒって。一瞬で思いつけないじゃん。準備してたんです、ずっと。
ほぼ無血で占領が進む一方、マリア・テレジアは徹底抗戦の構えを見せ、モルヴィッツの会戦が起こります。フリードリヒにとって初めての会戦で、実際の指揮はシュヴェリーン元帥が執りました。
国としては4倍大きいオーストリアのナイペルク将軍が巧妙な作戦を打ち、プロイセン軍は一時大混乱に陥ります。フリードリヒは死を恐れて戦場から逃げてしまい、その間にシュヴェリーン元帥が反撃して勝利しました。
深井さんは、自分がいない間に勝ったことがフリードリヒにはすごく嫌だったのではないかと推し量ります。この後フリードリヒは全戦に参加し、決して逃げない人になるといいます。
勝利が崩した「ブルボン対ハプスブルク」の構図
モルヴィッツの勝利で、プロイセンの国際的な評価は一気に上がります。軍備増強はしていても実戦で勝ったことのなかった国が、大国ハプスブルクを会戦で倒したからです。
深井さんによると、当時のヨーロッパはハプスブルク家とフランスのブルボン家という二大勢力の争いで説明できるほどでした。プロイセンの登場で、この秩序が崩れていきます。
宿敵ハプスブルクを弱らせたいフランスは、ハンガリー以外のオーストリア領をみんなで分割しようという極端な案まで出します。さらにフランツ・シュテファンの皇帝即位を阻み、バイエルン公がカール7世として皇帝になります。
神聖ローマ皇帝は選挙で選ばれるとはいえ、約300年間ハプスブルク家から出ると決まっていました。その慣例がここで崩れたのです。分割案こそ実現しませんでしたが、フランス・バイエルン・ザクセンの連合軍はプラハを占領し、オーストリアはコトゥジッツの会戦でも敗れます。
追い詰められたマリア・テレジアは、ブレスラウの和議でシュレージエンをプロイセンに渡し、その代わりに戦線を離脱させます。敵の数を減らすための苦渋の選択でした。シュレージエンを得たプロイセンの人口は急増しますが、フリードリヒも多くの兵とお金を失っていました。
乗馬の練習がひっくり返したヨーロッパの情勢
プロイセンが抜けても、マリア・テレジアの戦いは続きます。背後でさまざまな国を操るフランスがまだいたからです。そんな中、マリア・テレジアは乗馬の練習を始めます。
いやいやいやいやいやいや。乗馬の練習してるんすか?
狙いは、いつ反乱してもおかしくなかったハンガリーの貴族の協力でした。ハンガリーでは乗馬ができることが尊敬の対象になるのです。マリア・テレジアはハンガリーから兵や大金、馬の餌などを提供してもらう約束を取り付けます。
若い女王がハンガリーを味方につけたことは、他国にとって衝撃的な出来事でした。これを機に、イギリスとオランダもオーストリアの援助に回ります。
状況を動かせる力を持ってるのがマリア・テレジアなんですね。
オーストリアはプロイセンから学んだプロパガンダも使い、世論を喚起していきます。深井さんが語る巻き返しの流れは、次のように整理できます。
ハンガリーを味方に
乗馬を身につけ、ハンガリー貴族から兵と資金の協力を得る
世論と援助の獲得
プロパガンダ文書で世論を喚起し、イギリス・オランダの援助を取り付ける
同盟と中立
サルディーニャと同盟してプラハを奪還し、バイエルンとは中立条約を結ぶ
敵をフランスに絞る
連合軍でフランス軍を破るところまで押し返す
約束を破った再参戦と第二次シュレージエン戦争
オーストリアが巻き返すのを見たフリードリヒは、離脱の約束を破って再び参戦します。このままではシュレージエンを取り戻されてしまう、という危機感からでした。
フリードリヒもですね、自分のプロイセンが離れたことによって、戦況が急にオーストリア優位に変わるとやっぱ予想してなかったと思うんですよね。
皇帝カール7世はすぐに亡くなり、バイエルンはオーストリア寄りになり、プロイセンの背後にいるロシアも少しずつオーストリア側に傾いていました。気づけば、プロイセンとフランス以外がオーストリア側に回っていたのです。
マリア・テレジアが周囲の国々から一斉に攻められ、孤立している
プロイセンとフランス以外の多くがオーストリア側に回っている
もともとさ、オーストリアが全員から攻められてたはずだったの。気づいたらプロイセンとフランス以外オーストリア側に回ってるんです。
第二次シュレージエン戦争で、プロイセンはドレスデンに侵入し、オーストリア軍とザクセン軍に勝利します。ドレスデンの和約でシュレージエンの領有は認められ、その代わりにフランツ・シュテファンが神聖ローマ皇帝になることが決まりました。
この結果、プロイセンはヨーロッパの列強に並ぶ地位を得て、国際政治のメインプレイヤーとして認められます。深井さんはこれを「日露戦争後の日本みたいな感じ」とたとえます。
フリードリヒはなぜ「大王」と呼ばれたのか
一方のマリア・テレジアは、その後もフランスとの戦争を続けなければなりませんでした。その間も妊娠と出産を繰り返していたことに、深井さんと樋口さんは驚きを隠しません。
フリードリヒはプロイセンで英雄として迎えられます。即位してすぐ、軍人王が成し遂げられなかった功績を挙げたからです。このときからラテン語で「Vivat Fridericus Magnus」と称えられ、フリードリヒ大王と呼ばれるようになりました。
樋口さんが「王と大王は何が違うのか」と尋ねると、深井さんは、生涯を通じて非常に優秀だった人につく呼び名だと答えます。楊さんも、英語ではフレデリック・ザ・グレートとなる、あだ名のようなものだと補足します。
猫背のフリッツに比べると(大王は)相当いい。
「国家の機械」を自称した王の平和な時代
フリードリヒはシュレージエン戦争の中で、側近のジョルダンやカイザーリングを失いました。「分別も哲学も、この現実の苦しみを前にしては沈黙しなければならない」という言葉を残しています。
第二次シュレージエン戦争の後、七年戦争が始まるまでの期間は、フリードリヒにとって平和な時代でした。サンスーシ宮殿 ── フリードリヒ大王がポツダムに建てた宮殿。名前はフランス語で「憂いなし」を意味しますを建て、思想家や文学者、芸術家と交わりながら精神活動に打ち込みます。
それでもフリードリヒは、この時期に「自分は国家の機械に過ぎず、今や錆び始めた」「自分は大きな船に奴隷として鎖でつながれている」といった不満を繰り返し口にしていたといいます。自らの職務を「呪われた職務」とまで呼んでいました。
深井さんは、友人の命を自分の命より優先するような本来の人柄が変わったわけではないと話します。悲しい事件を経て国王になる覚悟を決めたからこそ、国益のために機械として働く道を選んだ、という見方です。
樋口さんは、役割を演じなければならないという責任感がプロイセンに脈々とあるのではないかと話し、ヒトラーにも触れます。深井さんは、ヒトラー自身がフリードリヒと自分を比べていたと応じ、国のために本気で頑張る空気がプロイセンにはあるのかもしれないと語ります。
そして次回、フリードリヒには人生最大の危機が訪れます。深井さんはそれを「高杉晋作の長州藩ぐらい」のやばさだと予告し、話は七年戦争へと続いていきます。
まとめ
今回のエピソードでは、自主外交の悲願と軍事財政危機を背景に、フリードリヒが『反マキャベリ論』に反してでもシュレージエンを奪った経緯と、孤立無援から情勢を逆転させたマリア・テレジアの執念が語られました。2度の戦争を経て、プロイセンは列強の一角となり、フリードリヒは「大王」と呼ばれるようになります。
- フリードリヒの侵攻は、父の恨み、自主外交の悲願、戦費が膨らむ時代の構造が重なった国家理性の決断でした
- マリア・テレジアは、老臣や夫までが譲歩を唱える中で、シュレージエンを渡さないと一人で言い切りました
- モルヴィッツで逃げた経験を経て、フリードリヒはその後の戦いから決して逃げない王になります
- 乗馬を足がかりにハンガリーを味方につけたことで、オーストリアをめぐる構図は大きく逆転しました
- 平和な時代にもフリードリヒは自らを「国家の機械」と呼び、王の職務を背負い続けていました





