七年戦争は「世界大戦の前哨戦」だった?
この回の主題は、1756年から1763年にかけて行われた七年戦争です。前回まではシュレージエン戦争と、マリア・テレジアの有能さが語られてきました。
楊さんによると、七年戦争は欧州列強のすべてが参加した世界的規模の戦争です。フリードリヒにとっては、40代から50代にかけて戦った戦争にあたります。
七年戦争の戦場はヨーロッパ大陸だけではありませんでした。アメリカ大陸ではフレンチ・インディアン戦争 ── 北米でイギリスとフランスが植民地の覇権を争った戦争。先住民の多くがフランス側についたことからこう呼ばれますとして戦われ、インドでも戦闘があったと紹介されています。
へー、え、もうなんか世界大戦みたいな感じ。
深井さんの感想に対し、楊さんは七年戦争が世界大戦の前哨戦と言われていると応じます。そして、この戦争を語るうえで新しいプレイヤーとしてロシアが登場すると続けます。
辺境から列強へ。ロシア帝国と「女帝の時代」
樋口さんは、今では強国のイメージがあるロシアも、ヨーロッパの国際政治に登場するのは17世紀以降だと説明します。それまで西ヨーロッパの国々にとって、ロシアは存在感の弱い辺境でした。
17世紀以降にロシアは台頭し、ヨーロッパ諸国はロシアとどう付き合い、どう連携するかを決めなければならなくなります。そのロシア帝国が、フリードリヒとマリア・テレジアのドラマに絡んできます。
ロシア帝国の台頭を担ったのが、初代ロシア皇帝ピョートル1世です。中央集権体制の整備、交易ルートの確保、海軍の創設、宗教の国家管理など、近代化を強力に推し進めた人物として紹介されています。
フリードリヒが生きた18世紀のロシアには、女性がクーデターを起こして皇帝になる出来事が相次いだという特徴がありました。樋口さんは、他のヨーロッパ諸国では類を見ない現象だと話します。
ロシアで女帝が生まれた背景として、樋口さんは2つの「法の隙間」を挙げています。
フランク族の法である[[サリカ法典]]を根拠に、フランク王国の後継を自負する地域では女性を王位から排除した
フランク族とは民族的にも領域的にも関係が薄く、ピョートル1世の帝位継承の勅令にも性別の制限がなかったため、女性の即位を理論づける運用ができた
エリザヴェータを怒らせたフリードリヒの悪口とは?
七年戦争でフリードリヒが相手にしたロシアの女帝が、エリザヴェータ・ペトロヴナです。エリザヴェータはピョートル1世の娘で、2歳で即位していたイヴァン6世に対してクーデターを起こし、廃位・幽閉させて帝位につきました。
2歳に対してクーデター起こした。
樋口さんによると、エリザヴェータはフリードリヒを嫌っていました。理由は、フリードリヒがエリザヴェータの悪口を言っていたからです。シュレージエンでの勝利で浮かれていたのかもしれない、と樋口さんは補足しています。
フリードリヒは宮廷で重臣を相手に、エリザヴェータについて「聖水よりもウォッカの方がお好き」と言ったとされます。さらに、下僕や御者や教会の歌うたいを慰みの相手にしているから「女帝が国民と深く通じているのは確かである」と皮肉りました。
「寝間着一つで歩き回っているのに、なぜ1万5000着もの衣装を持っているのか」という言葉も紹介されています。樋口さんは、内容自体は本当のことだったらしいとしつつ、他国の王に言われて良い気持ちはしないだろうと話します。
普通にあの下僕や御者や教会の歌うたいをお慰みの相手にしているから、女帝が国民と深く通じているのは確かであるはかなりひどい。
出演者たちは、フリードリヒの皮肉のセンスが父親譲りだと笑います。楊さんは、自分がやられて嫌だったから、こう言えば相手が嫌がるとわかっているのだろうと指摘します。樋口さんは、この悪口がフリードリヒの危機を生む要因の一つになっていくと話を進めます。
アーヘンの和約後、なぜ宿敵同士が手を組んだのか?
七年戦争前のヨーロッパ情勢の起点は、1748年のアーヘンの和約 ── オーストリア継承戦争を終わらせた講和条約。プロイセンによるシュレージエン領有が認められましたです。シュレージエン戦争後も3年続いた戦いを終わらせたものの、オーストリア対プロイセン、イギリス対フランスといった対立は残ったままでした。
楊さんによると、マリア・テレジアはシュレージエンを奪われたことでフリードリヒを強く恨んでいました。和約から七年戦争までの8年間、国力の充実と軍備増強を図り、外交工作でプロイセンを孤立させようとします。
当時のヨーロッパでは、ハプスブルク家とブルボン家の長年の不仲は動かないと誰もが思っていました。ところが、フリードリヒがロシアの女帝とマリア・テレジアの両方に嫌われた結果、フランスとオーストリア、ロシアとオーストリアが結びつき、「プロイセン対ヨーロッパ」の構図が生まれます。
樋口さんは、フランス王ルイ15世が政治に興味がなく、政治を妾のポンパドール夫人が取り仕切っていたと補足します。つまりフリードリヒは、3人の女性権力者を同時に敵に回したことになります。
フリードリヒはポンパドール夫人に対しても、肉屋の娘という出自をあげつらって娼婦と呼んでいました。樋口さんはこれを「口は災いの元でしかない」とまとめています。
シュレージエン奪取
マリア・テレジアが奪還を目指し、8年かけて国力と軍備を強化する
口の悪さ
エリザヴェータとポンパドール夫人への悪口で、ロシアとフランスの恨みを買う
外交工作
マリア・テレジアがプロイセンの孤立を図る
包囲網の完成
ハプスブルクとブルボンが手を結び、ロシアも加わってプロイセン対ヨーロッパになる
なぜフリードリヒはわざわざ悪口を言ったのか?
フリードリヒがなぜ悪口を言ったのかについて、楊さんは、歴史家の間では女性をなめていたとよく言われると紹介します。ただ、祖母を尊敬していたこともあり、女性嫌いだけでは説明できないと考えています。
必ずしもそれだけではなくて、やっぱりその敵だからみたいな感覚もあるんじゃないかなと思う。
楊さんは、敵として牽制する意識に加えて、女性だからなめていた面も確実にあると話します。出演者の間では、「言えば恨みを買う」とあまり考えずに言ってしまう、昔ながらのおじさん像に重ねる声も上がりました。
楊さんは、政治の才能があればプロイセンに何のメリットもない悪口を言うはずがないと続けます。一方で、フリードリヒは王様業そのものが嫌いだったのでは、という見方も出ます。平和な期間は勉強に時間を使い、政治は上の空だったのではないか、という読みです。
楊さんはこれを「メンタルリソース」の問題として説明します。危機や課題がある間は義務感で集中できても、それが去ると好きではない仕事に注意が向かなくなり、その間に周囲で物事が進んでしまうという考え方です。
出演者の一人は、啓蒙君主として「王とはどういうものか」を語っていたフリードリヒにとって、エリザヴェータやポンパドール夫人は正しい君主ではなく、侮りがあったのではという私見も述べています。
1つずつでもプロイセンより強い国が、まとめて敵に?
楊さんは、理由はどうあれ悪口は確実な悪手だったと話します。プロイセンの台頭に対抗しようとする力も働き、外交革命 ── 七年戦争前に、長く対立していたハプスブルク家とブルボン家が同盟を結んだ、ヨーロッパの同盟関係の大転換を指す呼び名ですと呼ばれる事態が起こりました。
200年にわたって争ってきたブルボン家とハプスブルク家が手を結び、ロシアも加わります。マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンが神聖ローマ皇帝だったため、神聖ローマ帝国もこの陣営に加わりました。
この一つ一つの国、全部プロイセンより強いんです。一つ一つがプロイセンより大国なんです。が、全部まとまってプロイセンと戦ってくるっていう構図。詰んでる。
楊さんは、この包囲網はマリア・テレジアがシュレージエン奪還のために主導したもので、口の悪さだけが原因ではないとも補足します。ただ、口の悪さが影響したのは確かだという立場です。
楊さんは、春秋戦国時代なら「こういう王は滅ぶ」と諫言される例に使われそうだと語ります。オーストリア、フランス、ロシア、スウェーデン、神聖ローマ帝国のドイツ諸侯を合わせた人口は約8000万人で、プロイセンは400万人でした。
味方はイギリスでした。フリードリヒの母がイギリス王家と同じハノーファー家の出身だったことに加え、イギリスはアメリカ大陸でフランスと植民地戦争をしていました。イギリスはフランスをヨーロッパで揺さぶるため、兵は出さずにプロイセンへ資金援助をします。
軍事的には、実質的にプロイセン対ヨーロッパの状態でした。楊さんは開戦時の兵力も紹介しています。
| 国 | 兵力 |
|---|---|
| プロイセン | 15万3000 |
| オーストリア | 17万7500 |
| ロシア | 20万5000 |
| フランス | 21万 |
同盟に動揺したフリードリヒは、なぜ奇襲を選んだのか?
オーストリアとフランスの同盟を知ったフリードリヒは、大きなショックを受けました。楊さんは、なめてはいたものの賢い人なので、この段階でファクトを認識し、読みが甘かったと気づいたと話します。
フリードリヒは手紙に、イギリスとウェストミンスター協定を結んだのはオーストリアだけに対抗するためで、ハプスブルク家とブルボン家が歴史的な仇敵関係を解くとは到底考えていなかった、という趣旨を書いています。
同盟を結んだだけの段階で戦争が始まった理由は、フリードリヒがまたも宣戦布告なしに奇襲攻撃をかけたからです。ロシアとオーストリアが国境付近に兵力を集めているという情報も伝わっていました。
もうこの期に及んでは、相手が攻めてくるのを待ったら百パー滅ぶよねって。
楊さんの説明では、連合軍に一度に攻め込まれれば、4倍近い戦力差で勝ち目がありません。敵を1つずつ撃破するために先手を打ったことが、七年戦争の勃発につながりました。
謝ればよかったのでは、という声に対し、楊さんは謝っても滅んだかもしれないと答えます。オーストリアの目的はシュレージエン奪還で、シュレージエンを渡せばプロイセンは小国に戻り、さらに次々と要求されかねないからです。楊さんは、シュレージエンを奪った時点でここまで想像するべきだったと話しています。
ロボジッツとプラハで勝っても安心できなかった理由
フリードリヒはロボジッツの会戦でオーストリアにまず勝利します。しかしフリードリヒはこの戦いで、オーストリア軍がめっちゃ強くなっていたことに驚きます。
数は多いが弱く、よく訓練されたプロイセン軍に劣っていた
マリア・テレジアの努力で、プロイセン軍と遜色ない水準まで練度が上がっていた
次のプラハの会戦は、プロイセン軍6万7000とオーストリア軍6万の、ヨーロッパでもかなり大規模な戦いでした。フリードリヒは、オーストリアに打撃を与えることでフランスとロシアをひるませ、同盟解消につながればと考えていました。
5時間の激闘の末にプロイセン軍は勝ちますが、死傷者は1万4500人に上りました。15万ほどの軍にとって大きな損失です。さらに、フリードリヒが「1人で1万の兵に値する」と後年語ったシュヴェリーン元帥が戦死します。
フリードリヒは、プラハに閉じ込めた敵軍5万を降伏させれば戦争は終わると楽観していました。しかし使者が持ち帰った城内の返事は、「徹底抗戦によってプロイセン王から敬意を勝ち得んとする」というものでした。
コリンの会戦で初めての大敗
プラハを包囲するプロイセン軍に、包囲を解こうとオーストリアのダウン元帥が迫ります。楊さんは、ダウン元帥をすごく優秀な人物だと紹介しています。
プロイセン軍3万4000とオーストリア軍5万4000が戦ったコリンの会戦で、プロイセン軍は大敗します。序盤はプロイセンの砲兵隊が先手を取りましたが、オーストリア軍のベンケンドルフベンケンドルフ中佐が騎兵を集めて反撃し、1度の突撃で19個の大隊を蹴散らしたとされます。
プロイセン軍の戦死は将校392人、兵士1万3000人、オーストリア軍の戦死は900人でした。楊さんは、ダウン元帥やベンケンドルフ中佐の指揮力を見くびったことが敗因だと説明しています。
それまでフリードリヒは戦いに勝ち続けていました。しかしこの大敗で、フリードリヒの軍事的才能に対する評判も悪くなっていきます。
母の死とシュリーフェン・プランに重なる作戦の失敗
コリンの敗戦の直後、フリードリヒのもとに母ゾフィー・ドロテアの死の知らせが届きます。フリードリヒが姉ヴィルヘルミーネに宛てた手紙が残っています。
フリードリヒは手紙の中で、「大抵の損失は補えるが、死によって生じたものは永久に回復できない」「失望した心を慰めるのは哲学以外にない」と書いています。そのうえで、苦しみが自分だけのものなら耐えられるが、託された人民の幸福を守る義務がある、と続けています。
序盤の勝利で一気に戦争を終わらせるというフリードリヒの戦略は、ここで失敗します。楊さんは、この戦略が第1次世界大戦のドイツ軍の作戦とまったく同じだと指摘します。
あれと一緒だよね。早めに終わらすっていう。はい。で、どちらも失敗するって。
ベルリン陥落とアヘンのカプセル、そして詩
コリンの敗戦後、プロイセンは四方から攻め込まれます。ダウン元帥の部隊にシュレージエンの主要部分を奪還され、ロシア軍は東プロイセンを制圧し、スウェーデン軍はポンメルンに侵入しました。楊さんはこの状況を「ガチ四面楚歌 ── 周りをすべて敵に囲まれ、孤立無援になること。項羽が包囲された際、四方から楚の歌が聞こえた故事に由来します」と表現します。
さらに軽騎兵を中心とするオーストリア軍が首都ベルリンを急襲し、一時陥落させます。ベルリンは1日で取り返したものの、王妃エリーザベト・クリスティーネは避難しています。
このころのフリードリヒは、酒で悩みを紛らわすのは卑怯だと考え、肌身離さず持っていたアヘンのカプセルのことも考えた、と書き残しています。そのカプセルには死ぬのに十分な量が入っていましたが、それはもっと卑怯だと退けています。
姉への手紙では、「不運に耐えられる者は幸運にも恵まれない」の後に、人は起こりうるすべてより強く、義務を果たして不安を乗り越えなければならない、という趣旨の言葉が続きます。楊さんは、絶望と、希望を持たなければという理性の間で揺れていたのだろうと読んでいます。
楊さんが象徴的だと語るのは、この時期のフリードリヒが詩をたくさん書いていたことです。心の内を詩で吐き出し、手紙を書くことで、ネガティブな気持ちを整理していました。楊さんは自分の強みを生かして乗り越えていると評価しています。
ちゃんと本人も絶望しますから。けど一応その奮い立たせて理性で奮い立たせてるっていう状況なんですが、
絶望の淵にいたプロイセンは、ここから謎の持ち直しを見せるといいます。七年戦争の続きは次回に語られます。
まとめ
七年戦争は、シュレージエンを奪われたマリア・テレジアの執念と、フリードリヒの口の悪さが重なって生まれた「プロイセン対ヨーロッパ」の戦いとして描かれました。圧倒的な戦力差の中で敗北と喪失を重ねたフリードリヒは、詩と手紙で心を整理し、理性で自分を奮い立たせようとします。
- 18世紀のロシアは、法の隙間を背景に女帝が相次いで即位し、ヨーロッパの重要なプレイヤーになっていた
- エリザヴェータとポンパドール夫人への悪口が、マリア・テレジア主導の反プロイセン同盟を後押しした
- 人口で約20倍の差がある包囲網に対し、フリードリヒは奇襲による各個撃破を選んだ
- 強化されたオーストリア軍にプラハで辛勝し、コリンで大敗して、短期決戦の構想は崩れた
- 母の死とベルリン陥落の中で、フリードリヒは詩と手紙によって絶望から持ち直そうとした





