鉄器が生んだ「十六大国」の時代とは?
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ムガール帝国編の第5回は、前2回のインド哲学とカースト制の話から離れ、インドの歴史の流れに戻るところから始まります。深井さんによると、ここまでの話はまだアーリア人のヴェーダ時代にとどまっていて、1500年代に登場するムガール帝国はまだかなり先です。
(ムガール帝国は)今日の夕方ぐらいに出てくるかな。
深井さんは、インドの大きな流れがわかるとムガールの時代がより鮮やかに見えるとして、紀元前6世紀、ちょうどブッダが生まれた頃から話を始めます。この時代のインドで起きた大きな変化が、鉄器の本格的な使用です。
鉄器の普及によって、ガンジス川流域の深い森林を切り開き、粘土質の硬い土壌も耕せるようになりました。その結果、稲を中心とした農業生産が増え、余剰生産物が生まれます。
深井さんは、余剰生産物が出てくると政治権力が強まるのは「当たり前の現象」だと説明します。余剰をどう分配するかを決める人が必要になり、そこからヒエラルキーが生まれるからです。
鉄器の普及
ガンジス川流域の森林や硬い土壌を開墾できるようになる
農業生産の増大
稲を中心とした生産が増え、余剰生産物が出る
分配の必要
余剰をどう分けるかを決める人が必要になる
階層と権力
ヒエラルキーが生まれ、政治権力が強まる
それまでのインドでは、来訪したアーリア人同士が部族間で争い、「王の王」のような人物が乱立するだけで、統一はされていませんでした。同時期にインド哲学が勃興し、ブッダも現れる、混沌とした時代だったといいます。
だけどさ、中国のキングダムの時代にそっくりじゃないかい。あの時も諸子百家が出てきてさ、(中略しない)有名な思想家が出てきて。で、秦が統一するじゃん。
中国の戦国時代に「戦国七雄」の7カ国があったように、インドには「十六大国」がありました。アーリア人の末裔が、現地の人々と混血しながら作った16の有力国です。
なぜマガダ国が勝ち残ったのか
十六大国の中で特に有力だったのが、ガンジス川中流域の新興国であるマガダ国とコーサラ国です。両国には王のもとに官僚制が敷かれ、常備軍もありました。
深井さんは、官僚制を作れること自体が豊かさの証拠だと強調します。官僚を育てるには教育機関が必要で、農業に直接携わらない人々を養える余剰生産がなければ成り立たないからです。
相当余剰生産物ができて、大学とか作れて、やっと官僚が作れるんで。あと常備軍もだよね。
マガダ国とコーサラ国は周辺国の征服を進め、最終的にマガダ、コーサラと他の2国の4カ国に絞られます。そこからマガダ国が統一王朝を作りました。深井さんは、これを中国の秦にあたる存在だと位置づけています。
マガダ国が最も強かった理由について、深井さんはポイントを絞って説明します。交通の便がよく、肥沃で雨量も多く、森林さえ切り開けば豊かな農業が約束された土地にあったうえ、鉄資源も近くにありました。要は資源が多く「運が良かった」ということです。
このマガダ国の王たちはブッダとも関係がありました。ブッダはマガダ国が台頭する頃に各国を遊説して回り、クシャトリヤであるマガダ国の王の支援も受けていたといいます。
手塚治虫の漫画『ブッダ』にも登場するエピソードとして、マガダ国の王子アジャータシャトルが父ビンビサーラを幽閉して殺してしまい、それを悔いてブッダに帰依した話が紹介されます。アジャータシャトルはブッダの死後、遺骨をもらって仏塔を建てていきました。
マガダ国が北インドをおおむね統一した後、紀元前326年にはアケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス3世がインダス川を渡って侵入してきます。ただし、アレクサンドロスが戦ったポロスはマガダ国ではなく、周縁にいた諸勢力の1つにすぎませんでした。
四天王倒したら上には上がいるみたいな。
一方で、アレクサンドロスの遠征によって南アジアとギリシア世界の直接交流が始まります。イラン方面からギリシア系の人々がやってきてインドに国を持ち、仏教に改宗した例もあったと深井さんは話します。
だからその辺のね、その境界線を今の感覚ではっきりと定めない方がいいですよね。もっと流動的。
アショーカ王のマウリヤ朝はどれほど巨大だったか
マガダ国では、国名は同じまま王朝が何度も交代しています。深井さんは、「マガダ国」がマガダを中心とした国という呼び名で、中国のように王朝が変われば国名も変わる捉え方とは違うのだろうと説明します。
王朝はシャイシュナーガ朝からナンダ朝へと移り、アレクサンドロスが来た頃にはチャンドラグプタが作ったマウリヤ朝が現れます。チャンドラグプタは、アレクサンドロスの侵攻で疲弊していた西北インドを征服し直し、ナンダ朝よりも強固な統一国家を築きました。
マウリヤ朝で最も有名なのが、チャンドラグプタの孫であるアショーカ王です。北インドだけだった支配を広げ、インド亜大陸の南側もほぼ領土に入れて、非常に大きな国を作りました。
アショーカ王はもう1つ、仏教を保護したことでも知られています。アショーカ王は仏塔を数多く建て、その一部は今も残っているといいます。
あんだけ広いところ、じゃあ一旦統一したってことは、マジで始皇帝みたいなことやってるってことですよね。
深井さんはこの問いに「まあ始皇帝みたいなことやってますね」と答えています。アショーカ王の仏教保護もあって、この後の数百年は仏教が優勢で、バラモン教にとっては「しんどい時代」になっていきます。
ブッダ以外にもいた「思想戦国時代」の論者たち
ここで楊さんが、本筋からは少し外れる話題として、ブッダと同時代の思想家たちを紹介します。仏教以外にもおよそ6つの思想グループがあり、シャモン ── 沙門。古代インドで、ヴェーダの権威やバラモンの祭祀に従わずに出家・修行した思想家や修行者の総称です。仏教やジャイナ教の開祖もこの流れに属しますなどと呼ばれていたといいます。
楊さんが挙げた1人目はプーラナカッサパです。プーラナカッサパはカルマや輪廻を否定し、善い行いをしても悪い行いをしても、何の報いも受けないと説きました。
楊さんが「爆笑した」というのが、パクダカッチャーヤナの主張です。人は変わることのない7つの元素でできていて、剣で首を切っても刃は元素の裂け目を通るだけなので、生命を奪ったことにはならないという理屈でした。
へー、ちょっとじゃあ一回やってみればいいのにね。
さらにマッカリゴーサーラは、輪廻の回数や感じる苦楽の量はあらかじめ決まっていて、カルマとは関係がなく、修行しても意味がないと主張したといいます。楊さんは、諸子百家の時代のように飛び抜けた思想が次々に出てきた時代だったとまとめます。
みんながこういうこと言ってるから俺はこういうこと言うみたいな感じもあるよね。
楊さんはこれを「逆張り」と呼び、みんなの意見の逆を強い意見として出す手法は、今のYouTuberにもあると笑います。深井さんは、こうした思想家が出てきやすいのは余剰生産が多く、社会に余裕がある時だと付け加えます。
多くの思想の中でも特に強かったのが仏教とジャイナ教でした。深井さんはその理由として、思想の説得力に加え、政治権力との結びつきを挙げます。
やっぱりそのバラモン教ってさ、バラモンが一番上じゃん。王様からしたらさ、嫌じゃん。
クシャトリヤやヴァイシャからすれば、バラモンを頂点とするバラモン教より仏教を推したほうが希望がある、と深井さんは考えます。王侯貴族や商人が力を持つ時代に、仏教は広まっていきました。
では同じ時期のヒンドゥー教はどうだったのか、と樋口さんが尋ねます。深井さんによると、民間の信仰はシュードラ階級の人々と結びつきながら続いていました。仏教優勢の時代とは、クシャトリヤがスポンサーする先をバラモンから仏教に変えただけの状態だったといいます。
バラモンが困って新しいスポンサー先を探してるっていう状態。
マウリヤ朝はなぜ急速に崩れたのか
マウリヤ朝の国の姿は、ギリシア人メガステネスの『インド史』や、チャンドラグプタの宰相チャーナキヤが書いたとされる『実理論』から、ある程度わかっているといいます。
マウリヤ朝は、ガンジス川流域の直轄領と、統治をある程度委ねた遠方の州で構成されていました。深井さんは、馬を走らせて何日もかかるほど広い国なので、すべてを直轄するのは難しかったのだろうと話します。
中央政府には顧問官、宮廷祭官、軍司令官、大臣などがいて、その下に膨大な官僚群がいました。地方には徴税、土地測量、水利施設の管理を担う官吏が置かれ、軍隊は歩兵・騎兵・戦車・象軍の4部隊で構成されていました。
一方で、社会にはバラモン教的な4つのヴァルナがそのまま維持されていました。王は仏教を信じていても、ヴァルナ制はある。深井さんは、当時の人々はヴァルナを「宗教」とは受け取っていなかったのだろうと話し、楊さんも前回見た文化基盤やプラットフォームのようなものだと応じます。
しかし、この大帝国もアショーカ王の死後に急速に衰え、紀元前1世紀、約2000年前に滅びます。深井さんが挙げる理由は、官僚機構と軍隊を維持するお金を捻出できなかったことです。
巨大な官僚と軍隊
広大な領土を治めるため、大規模な官僚機構と4部隊の軍を抱える
維持費の重さ
重税か、周縁国の軍事的な服属と搾取なしでは維持できない
不満の高まり
搾取が民衆などの不満を高める
バラモンの反発
仏教・ジャイナ教の保護とヴェーダ祭祀の不実施に、バラモンが反発する
なんでめちゃくちゃ税金が高くなっていくか、ないしは周縁の国とかを軍事で服属させて搾取してないと、多分(官僚組織は)維持できないんだよ。
社会にはバラモンが大勢いたため、ヴェーダの祭祀を行わず仏教やジャイナ教を保護したことへのバラモンの反発も、崩壊の大きな要因になったと話されています。
クシャーナ朝と漢はどこで出会ったのか
マウリヤ朝の次にインドに王朝を建てたのは、イラン系の人々でした。約2000年前に成立したクシャーナ朝で、中央アジアからスキタイ族に押されて南下してきた人々だといいます。
クシャーナ朝で有名なのが3代目のカニシュカ王で、深井さんによると在位は紀元後130年から170年、この時期に最盛期を迎えます。楊さんは、カニシュカ王が保護した仏教は大乗仏教 ── 出家者だけでなく広く人々の救済を目指す仏教の潮流。紀元前後に成立したとされ、中国・朝鮮・日本へ伝わった仏教の多くはこの系統ですだったと補足します。
深井さんは、漫画『ベルセルク』に登場する「クシャーンのガニシュカ王」は明らかにこのカニシュカ王がモデルだろうと話し、歴史に詳しいと漫画を読みながらニヤニヤできると笑います。
クシャーナ朝の領土はインドの北半分に加え、今のアフガニスタンなど中央アジアにつながる地域にも及んでいました。深井さんは、これは広く統治したというより、そのあたりまで同じ文化圏だったと理解するとよいと説明します。
この頃の中国は漢で、西へ進出していたため、インドと中国が直接接することになります。クシャーナ朝と漢の間で文化や経済の交流が行われ、楊さんによると、クシャーナの人々が中国に仏教を伝える役割を果たしたと本に書かれていたそうです。
山脈の西の方に唯一入り口と出口があるんだけど、あそこら辺まで中国もインドも伸長してるんで、接してるっていう状態ですね。
クシャーナ朝は南インドまでは勢力が及ばず、マウリヤ朝ほど大きくはならないまま、イランのササン朝ペルシアに滅ぼされます。樋口さんが「ややこしい」と言うと、深井さんは逆に、インドにはインド人がいるという思い込みを外せばややこしくないと返します。
インドはインド人とか思ってるとややこしいです。そのロックを外さないといけない。特にユーラシア大陸の歴史は全部そうなんで。
この時代には大乗仏教が誕生して保護され、中国へも渡っていきます。少し後にはナーガールジュナ ── 龍樹。2〜3世紀ごろのインドの仏教思想家で、「空」の思想を体系化し、大乗仏教の理論的な基礎を築いた人物とされますが現れ、空の概念が体系化されていきました。
グプタ朝が作った「インドの基本フォーマット」
クシャーナ朝の次に登場するのがグプタ朝です。深井さんは受験生向けに、マウリヤ朝、クシャーナ朝、グプタ朝を「三大国」として覚えておくとよいと話します。
グプタ朝を建てたのもチャンドラグプタという人物で、マウリヤ朝の創始者と同じ名前ですが、つながりはないといいます。三大国のうち最初と最後の国をどちらもチャンドラグプタが作ったことから、深井さんは覚え方を提案します。
チャンドラグプタって名前を付けたら国作っちゃいがち。
いいね、使い回しできない格言。
グプタ朝は、息子のサムドラグプタ、孫のチャンドラグプタ2世の3代で北インドを統一し、大きな帝国を作ります。ただしマウリヤ朝ほどの規模ではなく、深井さんによると、マウリヤ朝並みの領土はムガール帝国まで待たなければなりません。
イラン系の国で、中国とも交易するコスモポリタン的でグローバルな国。大乗仏教を保護した
インドアーリア人の国。仏教を弾圧はしないが、王権の権威付けにヴェーダの宗教へ戻った
グプタ朝の時代には、ヴァルナ制の規定を明文化したマヌ法典 ── 古代インドの法典で、ヴァルナごとの義務や生活規範、王の務めなどを定めたものです。成立は紀元前後から数世紀にわたるとされ、後世の社会規範に大きな影響を与えましたが編纂されます。グプタ朝の王たちは、そこに書かれた理想の王権を体現し、ヴァルナの秩序を守ることで自らを権威付けしました。
サンスクリット語が公用語とされ、ヴェーダの宗教の延長線上にある「サンスクリット王権」が確立されていきます。一方、インドの仏教は衰退し、バラモン教や、後に入ってくるイスラムに吸収されていったといいます。
グプタ朝の後半には、氏族共同体が小家族に分かれ、土地は共有しながら小家族ごとに耕作するようになります。いくつかの小家族が集まった村落共同体が、ジャーティになっていきました。
深井さんは、生活単位としてのジャーティに、グプタ朝がサンスクリット王権で参考にしていたヴァルナの概念が導入され、2つが組み合わさってカースト制になったと説明します。
この時作られたサンスクリット王権下によるジャーティ運営っていうのがインドの基本運営フォーマットなんですよ。
ここから、仏教が生まれたインドがなぜ仏教の国にならなかったのかという問いにも答えが示されます。深井さんは、ブッダも諸子百家の1人のような存在で、中国が老子や孔子の国にならなかったのと同じく、インドでもハイブリッドが起きただけだと話します。
深井さんによると、仏教はもともと融和性が高く、他の宗教を受け入れて共存し、要素を取り入れながら生きてきたため、だんだん一体化していったといいます。ただし、仏教には仏教と非仏教を区別する排他性があったと考える学者もいると、両方の見方を紹介しています。
バクティ信仰でヒンドゥー教はどう生まれたか
グプタ朝が滅びた直後ごろから起こるのがバクティ信仰 ── 特定の神への献身的な愛と帰依によって救いを得ようとする信仰の形。複雑な祭祀や厳しい修行よりも、神への信愛を重視する点が特徴ですです。深井さんは、これを一言でいえば「ヒンドゥー教の誕生」だと説明します。
バラモン教は、祭祀を暗唱できるバラモンなど特権階層が独占する祭祀宗教でした。バクティ信仰によって、特権階級を介さなくてもよい宗教へと変わり、民間信仰と結びつきながら一般民衆に広まっていきます。
あの感覚から町の神殿に行って祈りゃいいみたいな方になっていくってこと。
神々はヴェーダの神をそのまま使いながら、インドラやルドラなどをシヴァ神やヴィシュヌ神と同じ神とみなして吸収していきました。シヴァ神の像や、男性器を模したリンガを建てて拝むことで、一般の人々も崇拝しやすくなったといいます。
修行のハードルも下がりました。ブッダのように苦行や瞑想をしなくても、神々を崇拝し絆を結べば救われるという感覚が広がります。深井さんは「しなくていい」というと語弊があり、ハードルが下がったと考えるのがわかりやすいと補足しています。
バラモンが祭祀を独占し、正確な暗唱で自然が運行されると考える。解脱には厳しい修行が必要
町の神殿で神像に祈ればよい。満足した生活や子孫繁栄、来世の幸福を願う偶像崇拝の宗教に
楊さんによると、この変化によって、仏教やジャイナ教に流れていた信者をヒンドゥー教が再び引きつけていきました。深井さんは、正確に言葉を唱えなければ夏が来ないとされた当初の宗教とは「全然違う宗教」になったとまとめ、グプタ朝期に今のインドの原型ができあがったと話します。
ラージプートの戦国時代と「インド」というくくり
グプタ朝が滅びる6世紀ごろから、イスラム王朝が成立する13世紀初めまで、インドの歴史は王国が目まぐるしく交代し、強力な統一国家が生まれない時代になります。深井さんはこの時代をスーパーダイジェストで紹介します。
中心となるのはラージプート小王朝です。深井さんはラージプート ── 「王の子」を意味する語に由来し、クシャトリヤの子孫を名乗った北インド・西インドの戦士集団や諸王家を指しますを、日本でいえば武士のような、クシャトリヤを自称する実力者たちだと説明します。
素性もうわかんないよねみたいな人が、いや俺ラージプートだしとか言って誇りを持って戦ってるみたいな状態。
8世紀から12世紀にかけて割拠したラージプートたちは、グプタ朝期のサンスクリット王権モデルを使い、ヴァルナ秩序に基づいて王国を作っていました。深井さんは、このばらばらな状態は今のインドとあまり変わらず、それを無理やり「インド」と呼んでいるのが今の姿だと話します。
楊さんも、今のインドは近代の国民国家の枠組みを無理やり当てはめて作っていると補足します。深井さんは、マウリヤ朝の時代でも言語はばらばらで、中国のような言語統一は起こらなかったと指摘します。
ヨーロッパもさ、中世ぐっちゃぐっちゃって言ったらぐっちゃぐっちゃじゃん。
深井さんによると、中世ヨーロッパを1つの国とみなすと混乱しているように見えますが、フランスはフランス、ドイツはドイツです。インドでもベンガルはずっとベンガルで、「インド」でまとめようとするから混沌として見えるだけだといいます。
おもろ、これ(インドのぐちゃぐちゃさは)ただの認識の違いやな。
楊さんは、見方を変えれば多様性が今日まで保存されてきたともいえると話します。パーラ王国やプラティハーラ王国、ラーシュトラクータ王国、南インドのチョーラ王国などが一時的に広い範囲をまとめることもありましたが、深井さんは戦国時代に徳川家康が5カ国を領有したのと大差ないと例えます。
ばらばらな諸国をゆるやかにつないでいたのは、ヒンドゥー教という共通基盤でした。楊さんは、政治力ではなく宗教を通じた文化力によって、インドの精神的な一体性があったとする学者もいると紹介します。
樋口さんが整理したように、ヴァルナとジャーティ、そして民間に広まり柔らかくなったヒンドゥー教が、インドという同一文化圏のくくりを作っています。そこに、一神教のイスラームという全く別の文化圏がやってきます。
日本でいう上杉謙信とか武田信玄とかが、織田信長とかがガガガガンとかってやってる時に、マジでわけわかんない人来るんすよ。
深井さんは、これを元寇でモンゴルがそのまま日本に居座ったような出来事だと例え、イスラーム王朝の成立は次回に語られます。
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まとめ
鉄器による余剰生産から始まったインドの王朝史は、マウリヤ朝やクシャーナ朝の仏教保護を経て、グプタ朝のサンスクリット王権とヒンドゥー教の誕生へと向かいました。ばらばらな諸王国を文化でつなぐ「インド」という枠組みが、ムガール帝国の前提になっていきます。
- 鉄器の普及が余剰生産と政治権力を生み、十六大国からマガダ国の統一へとつながった
- マウリヤ朝は巨大な官僚と軍隊を維持できず、搾取への不満とバラモンの反発もあって崩れた
- グプタ朝はヴァルナとジャーティを組み合わせたサンスクリット王権を確立し、今のインドの原型を作った
- バクティ信仰によって、バラモン教は民衆に開かれたヒンドゥー教へと姿を変えた
- インドはもともと多様な地域の集まりで、ヒンドゥー教などの文化が共通基盤としてそれらをつないでいた







