北西の道からイスラームがやってくる
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前回までのムガール帝国編では、ラージプート ── 北インドを中心に割拠した武人集団や諸王家の総称。クシャトリヤ(武士階級)の子孫を名乗り、多くの小王国を建てましたと呼ばれる武士のような人たちが、いくつもの小王国を建てた時代が語られていました。
楊さんによると、11世紀ごろから、インドで唯一開けている北西の道を通って、ムスリムが侵入を繰り返すようになります。7世紀にムハンマドが現れて急拡大したイスラーム勢力が、ついにインドまで届いたという流れです。
うーん、イスラーム来た。
13世紀の初めには、デリーにムスリム王朝が建てられ、「イスラームインド」の時代が始まります。ムガール帝国もこの延長線上にあるムスリム王朝なので、今回はその前段階を整理する回になっています。
当時、今のアフガニスタンあたりにはガズナ朝 ── 10世紀末から12世紀にかけて、現在のアフガニスタン周辺を拠点としたイスラーム王朝。北インドへたびたび遠征したことで知られますがあり、11世紀からインドへの軍事侵攻を繰り返していました。インドの側は諸勢力が対立して分裂しており、侵入者から見れば攻めやすい状態だったといいます。
さらにガズナ朝の一将軍が建てたゴール朝が、1191年から92年のタラーインの戦いでラージプートの連合軍を破り、北インドを征服します。楊さんは、ちょうど日本で鎌倉幕府ができたころの出来事だと例えています。
なるほど。だからインド亜大陸にイスラームという要素がまた追加されていくっていうイメージです。
「奴隷王朝」はなぜ誤解を招く名前なのか
ゴール朝のあと、インドにはガズナ朝から生まれたゴール朝から、さらに生まれた「奴隷王朝」が登場します。ゴール朝の部将だったクトゥブッディーン・アイバクが、王の死後にデリーを都として建てた王国です。
なんかすごい名前や。
楊さんは、奴隷王朝という訳語は正しくないのではと考えています。英語の「スレイブダイナスティ」を訳した名前ですが、ここでいう奴隷は、監禁されて働かされる人のイメージとは大きく異なるからです。
オスマン帝国編で紹介されたデヴシルメ ── オスマン帝国で、キリスト教徒の少年を徴用してイスラームに改宗させ、官僚や常備軍に育てた制度。出身者から大宰相も出ましたのように、ムスリム社会の奴隷は宰相にまで出世でき、皇帝の母が奴隷出身ということも珍しくありませんでした。
覚えてます。アメリカでいうところの黒人奴隷みたいなものとだいぶ違う。
つまり奴隷王朝は、奴隷出身のエリート部将アイバクが建てた王朝という意味です。これがインドに作られた最初のムスリム王朝で、ここから18世紀まで、イスラーム王朝の時代が続いていきます。
樋口さんが「インド全部がイスラーム王朝に支配されていたわけではないですよね」と確認すると、楊さんは、奴隷王朝などは小さいものの、最後のムガール朝はマウリヤ朝より大きく、ほぼインド全土を支配すると答えています。
ただ、その支配下の民はみんながみんなムスリムに改宗したっていうわけじゃなくて、いろんな宗教とかの人たちがいる状態で、支配階層がムスリムによって形成されてるっていう構造です。
インドはなぜまとまれないのか。RRRのエンディングに見る州の感覚
楊さんは、ここからムガール朝までの王朝の並びを先に紹介します。日本でいう鎌倉時代・室町時代のように、別々の王朝が順番に続いたと考えるとわかりやすいといいます。
奴隷王朝
アイバクが建国した最初のムスリム王朝
ハルジー朝
奴隷王朝の王を殺害して成立
トゥグルク朝
ムハンマド・トゥグルクの失政とティムールの侵攻で滅亡
サイード朝・ローディー朝
ティムールの国の傀儡のような小王朝
ムガール朝
ティムールの子孫バーブルが建国
では、広大なインドのラージプートが、なぜムスリム勢力に負けたのか。楊さんは理由を2つ挙げています。1つは遊牧民である中央アジアの人たちが、とにかく強かったことです。
もう1つは、ラージプートにまとまりがなかったことです。楊さんは、一致団結して戦うことがほとんどないのはインドに通底する特徴だと話し、連合軍を作っても押し返すほどにはならなかったと説明します。
そう、なんかお互いが自分ところの家系って一番優秀正しいんだぜっていう風に譲らなかったそうです。
楊さんは、ある本に、バラモンがまとめ役を担わず、むしろ対立を煽っていたと書かれていたことも紹介します。インドのまとまりは「EUぐらい」で、この傾向はのちにイギリスが来たときも変わらなかったといいます。
その象徴として楊さんが挙げたのが、映画RRR ── イギリス統治下のインドを舞台にした2022年のインド映画。2人の男の友情と反英闘争を描き、世界的にヒットしましたです。対イギリスのナショナリズム的な作品なのに、エンディングでは「グジャラート州の英雄」のように、州ごとの英雄が次々に紹介されるといいます。
あと、僕が読んだ本の中でも、ある州に属しているインドの人が、自分の州の、多分上位のカーストの人たちが英語しか喋れないっていうことに対してすごく文句を言ってたっていう風なシーンとかも記述で残ってるんですよね。
帰属意識がどこまでの範囲かっていうのはね、国とは限らないですもんね。
話を王朝に戻すと、ムガール帝国の手前までの5王朝は、まとめてデリー・スルタン朝 ── 13世紀から16世紀前半にかけて、デリーを都に北インドを支配した5つのムスリム王朝の総称と呼ばれます。ムガール帝国はムスリムでもスルタンやカリフとは別の称号を使ったため、ここには含まれません。
また、デリー・スルタン朝のうちアフガン系はローディー朝だけで、ほかはトルコ系とされています。楊さんは、インド映画に出てくる玉ねぎ型の屋根の宮殿などもムスリム建築であり、私たちがイメージするインドには、イスラームの要素がかなり入っていると話します。
モンゴル軍を5回撃退したハルジー朝の強さと弱さ
奴隷王朝は、エジプトのマムルーク朝と区別して「インド・マムルーク朝」とも呼ばれます。マムルーク ── アラビア語で「所有された者」を意味し、主に軍人奴隷を指す言葉。イスラーム世界の各地で軍事・政治の中核を担いましたは軍人奴隷のことで、王朝は1206年から90年までの84年間続きました。
奴隷王朝の末期、第10代カイクバードは若くして即位し、統率力がなかったといいます。内紛が続くなか、ハルジー族の長ジャラールッディーン・ハルジーがカイクバードを殺害し、自らスルタンとなってハルジー朝を開きました。
激しいな。
ハルジー朝の初代も甥のアラーウッディーンに殺され、王朝自体も30年しか続きません。それでもアラーウッディーンは強く、チンギス・カンの次男が建てたチャガタイ・ハン国 ── チンギス・カンの次男チャガタイの系統が中央アジアに建てたモンゴル系の国家。14世紀に東西へ分裂しましたのモンゴル軍が5回攻めてきたのを、5回とも打ち破ったといいます。
アラーウッディーンは南のデカン高原まで略奪遠征を送り、多くの戦利品を得ます。その財宝で王権を強め、貴族に領地を与える代わりに給料をお金で払い、専制君主制を築こうとしました。
ところが商業が発達していなかったため、お金があっても物が買えず、インフレが起きてしまいます。楊さんは、この時期にインドに入ってきたムスリム王朝は、強いけれど政治力がないと評しています。
スキルセットが違うんだろうな。
ムハンマド・トゥグルクの「ピコーン」な大失政
ハルジー朝が倒れたあとのトゥグルク朝で、楊さんが「覚えておいてほしい」と挙げたのが、1325年から1350年ごろに在位した2代目のムハンマド・トゥグルクです。
ムハンマド・トゥグルクは、ペルシャに軍を出したり、中国へ10万の遠征軍を送ったりして失敗を重ねます。攻めてきたモンゴル軍には財宝を渡して帰ってもらい、お金はみるみる減っていきました。楊さんは、ヒマラヤ山脈で隔てられた中国をデリーからどう統治するつもりだったのかと疑問を投げかけます。
若干秀吉感があるよね。
財政難に陥ったムハンマド・トゥグルクが思いついたのが、銅の貨幣を発行して銀貨と同じ扱いにするという政策でした。
これ僕が小さい時に、あれ?お金ってそのコピー機で刷ったらめっちゃ増えるじゃんっていう同じレベルぐらいの発想かな。
楊さんの説明では、当時は中央銀行もなく、貨幣の価値は金属そのものの価値で担保されていました。担保する人がいないまま銅貨を銀貨扱いにした結果、次のような混乱が起きたといいます。
政策
銅貨を発行し、銀貨と同じ価値だと宣言する
外国商人
銅貨を受け取らず、支払いは銀貨でせざるを得なくなる
農民
銀貨をしまい込み、価値の下がった銅貨で税を納める
結果
価値を担保する者がおらず、財政はさらに混乱する
次にムハンマド・トゥグルクは、地図を碁盤の目のように区切り、森でも岩場でも必ず耕せと命じます。さらに豊かだったガンガ川とジュムナ川の間の地方に、20倍ほどの税をかけました。
結果として農民は土地を捨てて逃亡します。楊さんは、ほかの土地に行けば税が20分の1になるのだから当然だと話しています。
まあでもなんか周りもね、責任あるなとは思いますけどね。
楊さんが読んだ本には、ムハンマド・トゥグルクは「このようなめちゃくちゃなことをしたのち、1351年に死んだ」と書かれていたそうです。
いやいやいやちょっと待って、これ悪意あるやろ。
次の王フィールーズ・シャー・トゥグルクは、運河や灌漑、減税、道路や橋の整備に取り組み、デリー・スルタン朝で初めて政治らしい政治をしたと楊さんは評価します。しかしこの王の死後、貴族同士の争いで国が乱れたところへ、とんでもない出来事が起こります。
中央アジアリーグの無敗王者ティムールとは誰か
混乱するトゥグルク朝に突然やってきたのがティムール ── 14世紀後半に中央アジアで台頭し、イランからアナトリア、北インドまで遠征して大帝国を築いた君主。サマルカンドを都としましたです。楊さんは、あらゆる本で死ぬほど強いと書かれ、チンギス・カンと並ぶ軍事的天才とされる人物だと紹介します。
ユーラシア大陸ならではの現象。
当時、チャガタイ・ハン国は東西に分裂して戦国時代になっていました。ティムールは東の君主に引き立てられて出世したモンゴル系の人物で、トルコ化も進んでおり、テュルク系の言葉を話していたといいます。
ティムールはもともと、本によっては「盗賊団の首領のような存在」と書かれています。ただし、中央アジアの遊牧民にとって略奪は日常の仕事のようなものでした。
事業なんですよね、略奪って。だからそのチンピラたちが好き勝手にワーってやるイメージじゃなくて、もう組織的にやるんですよね。
略奪の参加者は事前登録したりとか、あと戦利品から税金取られたりとか。
ティムールの集団は5、6人から始まり、10人、40人、そして300人ほどの軍団に膨らみます。すると国の王から正式に仕えないかと誘われ、仕官しますが、その国が攻められると、今度は攻めてきた側につきました。
はい?おお、裏切るみたいな。
この過程の戦いで、ティムールは右手と右足が不自由になる矢傷を負い、「ティムール・イ・ラング」と呼ばれるようになります。この名はヨーロッパで「タメルラン」と訛って伝わるほど、強さの名声が広がっていたといいます。
首の塔と、チンギス・カンの再来と言われた強さ
国を持ったティムールは、イラン方面へ勢力を広げます。そこで作ったのが、敵の首を切って漆喰で固めた「首の塔」でした。楊さんによれば、1500人分の首で28個もの塔を作ったといいます。
戦いたくねえよ。
楊さんは、こうした塔を見れば戦意を失うはずで、まさにそれを狙った作戦だったと説明します。この文化圏では他にも行われていたものの、センセーショナルだったために歴史に残ったのだろうと話しています。
ちゃんと意図があってやってるんですね。
ティムールは、強国オスマン帝国とも戦い、スルタンのバヤズィト1世を捕虜にしています。バヤズィト1世は戻らないまま亡くなりました。
強さの理由について楊さんは、はっきりした記述は少ないとしつつ、右翼・左翼・中軍の3部隊を有機的に動かしていたことを挙げます。チンギス・カンと同じく情報収集と事前工作を徹底し、最後のダメ押しで攻めるやり方で、ティムールはその再来と言われる強さだったといいます。
ティムールは今のウズベキスタンにあるサマルカンドを都とする一大帝国を築き、征服した各地から人を連れてきて都を発展させました。
デリー陥落。略奪者か、英雄か
ティムールがインドに来たのは、先に送っていた孫のピール・ムハンマドが苦戦したためで、「じゃあ俺が行く」と自ら乗り込んできたといいます。デリーは徹底的に略奪されました。
そう。だからデリーがティムールによって攻略された後はもう数十年間廃墟のままだったっていう風に書かれてる本もありますね。
楊さんは、本には「略奪された」と一言で書かれていても、首の塔を作るような軍勢である以上、虐殺など想像もしたくないことが繰り広げられたはずだと強調します。
一方で深井さんは、評価は見る側によって変わると指摘します。インド側の資料では侵入してくるムスリムは凶悪に描かれがちですが、ムスリム側から見ればイスラーム文化を繁栄させた英雄と評されるといいます。
侵入してくるムスリムは凶悪な存在として描かれがち
イスラーム文化を繁栄させた英雄と評される
どう捉えるかですよね、略奪っていう行為をね。なんかね、仕事って捉えたら仕事頑張ってる人ってなりますもんね。
楊さんは、当時は人権という概念がなく、今はやってはいけないという合意が世界的に比較的取れているものの、同じようなことは今でも起きていると付け加えます。
トゥグルク朝はティムールにまったく歯が立たず滅亡し、その後のサイード朝とローディー朝はティムールの国の傀儡のようになります。楊さんは、ティムールは国を作るためではなく、財宝を奪い人を連れ去る略奪そのものを目的に来ていたのだろうと見ています。
同時代人が記録したティムールの人物像
楊さんは、ティムールの人物像を伝える記録も読み上げます。アラブ系の文人イブン・アラブシャーは、ティムールの精神は強固で肉体も剛健、冗談や嘘を好まず、都合が悪くても真実に感心する人物だったと書いています。
なんかティムティムとか冗談言ったらダメなんでしょうね。
同じ記録では、ティムールは失ったものを嘆かず、手に入れたものにも喜ばず、一度出した命令を取り消さなかったとされます。物事の核心を見抜き、忠告者といかさま者を見分けたとも書かれています。
著名な歴史家イブン・ハルドゥーン ── 14世紀の北アフリカ出身の歴史家・思想家。王朝の興亡を論じた『歴史序説』で知られ、ダマスカスでティムールと実際に会見していますも、ティムールをすこぶる知的で明敏な人だったと伝えています。
イブン・ハルドゥーンによると、ティムールは字が読めなかった一方、テュルク語、モンゴル語、ペルシア語を話し、歴史学・医学・天文学に関心を持っていました。移動中も年代記や伝記の朗読を熱心に聞き、特に歴史の知識はイブン・ハルドゥーンを驚かせるほどだったといいます。
すごい。ポッドキャスト聞きながら。
外見は背が高く肩幅が広く、声は太く力強い一方、目は「ロウソクのようだったが、輝きはなかった」と記されています。
輝きなくて首の塔建ててたらマジで怖いですね。
下で働く人どんな気持ちなんだろう。
ティムールの子孫がムガール帝国をつくる
楊さんによると、遺骨調査ではティムールはシベリア・タタール人に近い、アジア人らしい顔立ちだったそうです。そしてムガール帝国は、このティムールの子孫が建てることになります。
ティムールがあまりに強く有名だったため、ムガール帝国では「ティムールの子孫」というブランディングが効いていました。5代皇帝シャー・ジャハーンも、偉大な先祖としてティムールを意識していたといいます。
はぁ、なるほどね、権威が。
最盛期のティムール朝は、エジプトのマムルーク朝が持つダマスカスの近くから、デリーの近くまでを支配しました。楊さんは、こうした特別イベントのような出来事がユーラシア大陸では突然起こると話します。
陸続きだからな。だから日本は日本海あってよかったですね。ティムールが日本に来なくてよかった。
トゥグルク朝の後に続いたサイード朝は35年ほどで終わり、ローディー朝もデリー周辺しか支配できませんでした。インドの他の地域にはラージプート諸国家などが群雄割拠し、統一王朝は存在しない状態だったといいます。
そこへ再び中央アジアから、ティムールの子孫バーブルがやってきます。次回は、ムガール帝国を建てたバーブルがどんな人物で、どのような経緯でインドに来たのかが語られる予定です。
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まとめ
今回のエピソードは、11世紀から始まるイスラーム勢力のインド進出と、デリー・スルタン朝の興亡をたどり、ティムールの侵攻を経てムガール帝国の入り口までを描いた回でした。まとまれないインドと、強いのに政治が苦手な王朝の繰り返しが、ムガール帝国誕生の背景として浮かび上がります。
- インドのムスリム王朝は奴隷王朝から始まり、「奴隷」は出世も可能なエリート軍人奴隷を指していた
- ラージプートが敗れた背景には、遊牧民の強さと、インドに通底するまとまりのなさがあった
- ハルジー朝やトゥグルク朝は軍事的には強くても、貨幣や税の政策で失敗を重ねた
- ティムールは首の塔で恐怖を与えつつ、デリーを徹底的に略奪したが、ムスリム側からは英雄とも評される
- ムガール帝国はティムールの子孫バーブルが建て、ティムールの権威を受け継いでいった







