桓武天皇の死後、最澄に訪れた「冬の時代」とは?
唐から帰国した直後の最澄は、日本で密教を知る唯一の存在として、都市仏教の僧侶たちにも密教を教えていました。その立場によって、最澄は毎年2人の僧侶を出せる権利も得ています。
深井さんによると、最澄は桓武天皇という権力と結びついて地位を上げてきた人物でした。しかも最澄は南都六宗 ── 奈良時代に平城京を中心に栄えた三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の6つの仏教学派の総称。国家と結びついた学問仏教でしたを批判していたため、南都の僧侶たちにとって最澄はなおさら面白くない存在だったといいます。
(南都の側は)でも天皇が後ろ盾にいるんで、やっぱり下手なことできないわけですよね。けど、その天皇が亡くなっちゃったわけなんで、ついにその南都の方からの反撃が始まるわけだよね。
桓武天皇の死をきっかけに始まった逆風の時期を、深井さんは「最澄冬の時代」と呼んでいます。そのうえで、この時期に最澄が取った行動を立派だと評価しています。
帰国直後
日本で唯一密教を知る存在として、僧侶たちに教え、年2人の僧侶を出す権利を得る
反感の蓄積
権力と結びついた出世と南都への批判が、南都の僧侶たちの反感を買う
桓武天皇の死
後ろ盾がいなくなり、南都からの反撃が始まる
冬の時代の最澄がまず取り組んだのは、密教の勉強でした。空海から経典を借りて学ぶ一方で、天台教学を地方にも広め、盤石なものにする「守り」も固めていきます。
楊さんは、最澄が弟子の教育カリキュラムに密教を組み込み、そのカリキュラム作りの助言を空海に依頼したとされる点も紹介しています。
経典を借り続けた最澄に、空海はなぜキレたのか
最澄は何度も空海に手紙を書き、経典を借りていました。当初の空海は、地位が上の最澄からの依頼を断る理由もなく、経典を貸していたといいます。
で、その何回か貸していくんだけど、何か3回目ぐらいだったから、3回目ぐらいで空海キレるんですよ。
深井さんの説明では、密教は師匠から言語を超えて学び、修行を通じて真理に到達するものです。天台教学を本業としながら密教をかじり、経典を読んでわかったつもりになろうとする最澄の姿勢を、空海はひどく嫌ったのではないかと深井さんは見ています。
楊さんによると、最澄は懸命に密教を学んだものの、最澄にとってのトップはあくまで天台教学で、密教はその下に位置づけられていました。比叡山を抱える最澄には、空海に弟子入りして修行する時間もなかったといいます。
天台教学が第一で、密教は従。比叡山があるため弟子入りして修行する時間がなく、経典を借りて学ぶ
密教は師から言語を超えて、修行を通じて学ぶもの。本気で弟子入りできないなら中途半端な学び方はやめてほしい
空海は最澄に対して、本気で弟子入りすれば、最澄ほどの人なら3年ほどでかなり上達すると伝えます。空海自身はもっと短期間で習得していたことから、深井さんはこの見立てを非常に冷静だと評しています。
だってね、お経だけ借りて文章読んで、それ何になるの?言葉とかカスだぜっていう風に(空海が)言ってて。
もう本当に密教勉強したいんだったらやる気100パーセントで来いよみたいな。
ただし最澄には、その申し出を受け入れる余地がありませんでした。結果として、最澄は空海からの指導を断られる形になります。
最愛の弟子・泰範をめぐる「昼ドラ」のような決裂
最澄は自分の弟子も空海のもとに送っていました。そのなかで最も可愛がっていた泰範 ── 最澄の高弟の一人。最澄の命で空海のもとで密教を学んだのち、比叡山に戻らず空海の弟子となった僧ですが、そのまま空海のもとにとどまってしまいます。
深井さんは、最澄から見れば弟子を取られた形でも、空海に奪ったつもりはあまりなかったのではないかと話します。楊さんも、泰範が単純に空海に魅了されたのかもしれないと見ています。
戻ってこない泰範に、最澄は切ない手紙を書いています。深井さんが紹介したその手紙には、人生の残りが少ないなかで、泰範が自分から離れたことが何より残念だと記されていました。
手紙ではさらに、この世でもあの世でも深い縁で結ばれた2人は生涯を共にして衆生救済に努めるべきだと訴え、来春に各地を旅して天台宗を広めるので一緒に来てほしいと結ばれていたといいます。
ラブレターだよね。
ところが空海は、この手紙の返事を泰範に書かせず、自分で書きます。樋口さんはその構図を「元カレに今彼が」返事をするようなものだとたとえています。
空海からしたらボロクソ書いてるつもり多分なくて、最澄がいかに筋の通ってないことを言ってるのかっていうことをちゃんと多分言っちゃうんだよね。
空海の返信によって、2人は絶縁状態になります。最澄と空海は決裂したまま、どちらも生涯を終えたと深井さんは語ります。
もう庇護者であったね、桓武天皇に死なれ、そして南都六宗から攻撃され、そして空海に拒絶され、そして最愛の弟子を奪われ。
後世への影響が大きかったのは、なぜ最澄なのか
楊さんは、当時も今も空海は華のあるカリスマとして人気がある一方で、その後の日本仏教に与えた実質的なインパクトは最澄のほうが圧倒的に大きいと話します。
深井さんはその根拠として、日蓮、親鸞、法然といった鎌倉仏教の担い手たちが比叡山から数多く出ていることを挙げています。
楊さんによると、最澄は比叡山で教育事業を始め、天台・戒律・禅・密教という4つの学部のようなものを学べる仕組みをつくりました。比叡山は総合大学のような場所だったといいます。
最澄の教育事業
比叡山で天台・戒律・禅・密教の4つを学べる総合大学のような仕組みをつくる
多様な人材の輩出
さまざまな教えを学んだ僧侶たちが比叡山から育つ
鎌倉仏教
浄土宗、日蓮宗、曹洞宗など、今の日本の主要な宗派が生まれる
深井さんによれば、最澄自身は天台が一番優れていると考えていたはずです。それでも最澄は、天台を学ぶにしても他の教えも学んでおくというバランスを重視していました。毎年2人の僧侶を出せる枠も、天台から1人、密教から1人というように分けていたといいます。
「国宝」を量産する、比叡山の人材育成の構想
深井さんによると、最澄が考えていたのは、どうすれば衆生救済を実現できるかということだけでした。そのためには人材が欠かせず、最澄は自分で考えて動ける人を「国宝」と呼び、たくさん育てる必要があると考えていました。
最澄の見立てでは、権力で腐敗した当時の仏教にはその役割は果たせません。そこで人里離れた山の中で修行し、さまざまな仏教を学んで悟りに近づいた人を増やし、その人たちが衆生救済を担うというビジョンを描いていました。
深井さんは、最澄の中には義務教育に近い発想があったと話します。一人の天才が出ればいいのではなく、みんなの底上げをしたいという考え方です。
でもその12年間もこもったら、どんだけダメなやつでもだいぶいくだろっていう考え方なわけ、最澄としても。
比叡山には今でも、3年間や12年間山にこもる修行が残っています。楊さんと深井さんによると、最澄は12年のうち前半6年を講義を聞くこと中心、後半6年を自ら実践して考えること中心にするなど、細かなカリキュラムまで定めていました。
樋口さんは、寝ずに歩き回ったり座り続けたりする比叡山の修行の厳しさにも触れ、限界に挑みながら学ぶ総合大学のような場だったと表現しています。
心が折れなかった最澄の「一隅を照らす」生き方
深井さんは、最澄を事業者のような人物だと評します。後ろ盾を失い、空海に拒まれ、最愛の弟子を奪われるなかで、最澄は冬の時代のうちに教育の仕組みを仕込んでいきました。
深井さんによると、最澄は南都六宗にもせっかく育てた弟子を奪われていました。その経緯は戒壇の話として後で語られる予定だといいます。それでも最澄は心折れずに衆生救済のために努力を続けたと、深井さんは感じています。
深井さんは中村哲さんの回にも触れながら、最澄の姿勢を、本気で考えた衆生救済の方法を積み上げ型で地道に、いいときも悪いときも続けるスタイルだとまとめています。
やろうと思えば何でもできた空海との対比
一方の空海について、深井さんと樋口さんは、ステップを飛ばして一点集中で極めるタイプだと話します。空海は南都六宗も時の権力者も味方につけ、エリートだった最澄を批判し、弟子さえ奪おうと思えば奪えてしまう人物でした。
すごいなんかやろうと思ったことできちゃう人なんだよね。
深井さんは、空海が唯識 ── あらゆる存在は心の認識のはたらきによって成り立つとする仏教の教え。法相宗の中心的な思想ですを極めた結果、自分の認識で世界が動く感覚を実際に生かしていたのではないかと推測しています。空海自身はかなり謙遜していたものの、ある程度の境地に達したという自負はあったはずだと深井さんは見ています。
それでも、後世に大きな影響を与えたのは最澄のほうでした。比叡山から生まれた鎌倉仏教は、荒れた時代の中で「今救われるかどうか」や来世を求める人々に応える教えとなり、日本人に深く浸透していきます。
空海みたいな天才にみんな追従できないっていうことですよね。真言宗。
クローズドな密教とオープンな比叡山、何が違ったのか
樋口さんは、空海がスーパースターすぎたことや、以前の回で紹介した10段階の密教があまりに高度だったことも理由かもしれないと話します。
深井さんは、2つの教えの性格の違いを挙げます。天台宗は多様な教えを最初からオープンに取り入れたのに対し、密教は秘密の教えの名のとおりクローズドに純度を高めるやり方でした。深井さんは、どちらが良い悪いではないと付け加えています。
多様な教えをオープンに取り入れ、弟子が新しい宗派を作ることも受け入れる
秘密の教えとしてクローズドに純度を高め、密教を第一とする
深井さんは、比叡山でさまざまな宗派を学べたことが一番の理由だろうと話します。親鸞のように新しい宗派を作る弟子が出ても、比叡山としては受け入れていたからです。
自分が言ってることを、ある意味ちょっと違うこと言ってる人たちが弟子から出てきて、その人たちに対してフラットに接してるわけですよ。
ある意味否定されてると言っても過言ではないけど、否定されてるなんて思わないってことだよね。
樋口さんが「社内ベンチャーをいっぱい作っていいようなもの」とたとえると、深井さんはそれ以上のマインドセットだと応じています。そして、この姿勢は空海にはないものだと語ります。
深井さんは、最澄が緩くせざるを得なかった結果としてそうなったのだろうと見ています。歴史は死んだ後でさえどうなるかわからない、と深井さんはこの回を締めくくり、次回がシリーズ最終回になると告げています。
まとめ
桓武天皇の死後、最澄は南都六宗からの反撃、空海との決裂、最愛の弟子・泰範の離反という逆風に見舞われました。それでも最澄は比叡山で多様な教えを学べる教育の仕組みを築き、そこから鎌倉仏教の担い手たちが育っていきます。
- 桓武天皇の死後、権力と結びついて地位を上げた最澄に南都六宗の反撃が始まった
- 経典を借りて密教を学ぼうとした最澄に対し、修行を重んじる空海は中途半端な学び方を拒んだ
- 弟子・泰範をめぐる手紙のやり取りを経て、最澄と空海は決裂したまま生涯を終えた
- 最澄は比叡山を総合大学のような学びの場にし、自分で考えて動ける人材の底上げを目指した
- 多様性を受け入れた比叡山から鎌倉仏教が生まれ、後世への影響は最澄のほうが大きくなった




