正式な僧侶でもない空海は、どうやって遣唐使に潜り込んだのか?
空海は「大日経」と出会い、その教えを極めるために唐へ渡りたいと考えます。ところがこの時点の空海は、国に認められた正式な僧侶ですらありませんでした。
深井さんによると、空海は大学を中退していきなり山にこもっていただけの人物で、基本的には唐へ行けるはずがない立場でした。しかも遣唐使そのものが長く途絶えていました。
空海にとって転機になったのは、最澄がまったく別の動きをするなかで遣唐使が再開されたことです。空海は「これは自分も行きたい」と考えます。
空海が遣唐使に加わった経緯には諸説あります。番組では、皇族の家庭教師をしていた叔父の阿刀大足のコネを使ったのではないかという説が紹介されます。資金については、親に土下座して頼んだのではないかとも言われています。
(親からすると)この子一族のためにエリートになってもらいたいって言って、地方大学から中央の大学の官僚エリートコースに入れたら、勝手に辞めて反対を押し切って山にこもり始めて。
そしたらある日いきなり来て、お金ください。
唐に行きたいです。
親の目線で見ると、エリートの道を勝手に捨てた息子が突然「留学したい」と言ってきたことになります。それでも親はお金を出したらしい、と深井さんは話しています。
空海は正式な僧侶ではなかったため、遣唐使として送り出すには僧侶にする必要がありました。そこで空海は、ギリギリのタイミングで急に僧侶にしてもらってから唐へ向かったとされます。
番組では、空海が相当先まで見越して計算して動いていたという説にも触れます。手紙を読むと、周りが動く前の時点ですべてを計算していたような動きが見えるといいます。楊さんは、のちの師となる恵果と事前に書面のやりとりがあったのではないかという説も紹介しています。
嵐で辺境の福州へ。空海の漢文が使節団を救った場面
空海は最澄と同じ船団に入り、4隻で出航します。ただし空海と最澄は別の船に乗っていました。最澄の船はなんとか到着しましたが、空海の船は嵐に遭い、本来の到着地とはまったく違う南方の福州に流れ着きます。
福州は辺境の地で、現地の役人は日本の一行を「誰だお前」と警戒しました。当時の空海は位が低く、20年間しっかり学んでから帰ってくるよう命じられた一留学生にすぎませんでした。
遣唐使の使節は、自分たちが日本の正式な使節だと必死に訴えます。けれど当時の中国人から見れば、海賊かどうかさえわからない一行でした。しかも使節の中国語が下手だったのです。
今で言ったら英語喋れないですよね。めちゃくちゃ下手くそな英語で何か言ってきても、英語喋れない時点で大したことないだろってなるんですよね。
深井さんによると、中国語がうまいかどうかは中国人にとって文明人かどうかを測る大切な基準でした。大使の立場にある人物は船から降ろされ、港の湿った砂の上で生活させられていたといいます。
ここで空海が「自分に代わりに文章を書かせてほしい」と申し出ます。空海が書いた文章は、古典を相当勉強しないと書けない引用が連打されたもので、当時は引用すること自体が教養の証でした。
役人は驚き、中国人でもなかなか書けない文章だと受け止めたといいます。空海の文章によって一行が正式な日本の使節だと証明され、ようやく上陸が許されました。楊さんはこの場面を「能力でねじ伏せた」と表現しています。
長安到着からサンスクリット語3ヶ月習得、恵果に近づく根回し
上陸を許された一行は、首都の長安まで移動しなければなりませんでした。船が出発したのは5月で、長安に着いたのは12月だったといいます。この時代に唐へ行くこと自体が、それほど大変なことでした。
長安に着いた空海は、密教を理解するためにサンスクリット語をわずか3ヶ月でマスターします。存在論や空の思想を扱うレベルの密教を、サンスクリット語で理解するための習得です。
さらに空海は、儒教、道教、キリスト教、ゾロアスター教、イスラム教、マニ教など、あらゆる宗教を学びました。深井さんは、言語を学んで準備した玄奘と近いとしつつ、空海の場合はその準備がわずか半年だったと強調します。
この半年の準備期間に、空海は密教のトップである恵果に向けて、少しずつ噂を広めていったとされます。「日本からすごい人物が来たらしい」という噂を、誰に伝えさせれば恵果に届くかまで計算していたというのです。
なんかすげえやつがいるぞっていう噂を恵果にちょっとずつ伝えたらしい。それができることをわかってんだよね、本人が。怖いよね。
実績を残す
長安で少しずつ実績を積み上げる
伝え手を選ぶ
恵果に話を届けられる人物を見極める
噂を醸成する
「すごい人物が日本から来た」と恵果に伝わるようにする
期待が最大の時に訪問
恵果の関心が高まりきったタイミングで会いに行く
空海が恵果を訪ねたとき、恵果は「あなたが来ることを私は知っていました」と言ったという記録が残っています。番組では、空海が噂を醸成していたからこその言葉だったのではないか、という説が紹介されます。
死期を悟った恵果は、なぜ空海にすべてを託したのか?
楊さんは恵果の側の事情も説明します。恵果はすでに高齢で死期を悟っており、自分の教えを本当に授けられる弟子を探していました。多くの弟子がいても、恵果が納得できる弟子はまだいなかったといいます。
そこへ外国から天才が現れました。恵果阿闍梨はこの人物ならすべてを伝えられると確信し、3ヶ月ほどで伝法灌頂 ── 密教で、師が弟子に教えを正式に授け、阿闍梨(師となる資格)を認める儀式。本来は長い修行を経て受けるものとされますを授けるなど、異例の短期間で空海に教えを渡していきます。
周りの弟子たちは、空海がすべてを吸収していく様子を見て驚いたといいます。深井さんは正確な表現は忘れたとしつつ、水差しから別の水差しへ水を移すように、教えがきれいに空海へ移っていったと描写されていると紹介しています。
教えを伝えきった恵果は急速に衰え、亡くなります。最期に恵果は空海を枕元に呼び、すべてを伝えたのだから一刻も早く祖国に戻ってこの教えを広めてほしいと告げました。
あら、もう卒業や。
卒業です。短期間にね、全ての弟子を差し置いてよ。
空海は、密教の奥義は言葉だけでは伝わらないと理解していました。そのため法具や経典を数多く取り寄せ、教えを伝えるための装置をできるだけ持ち帰ろうとします。
恵果も同じ考えから、宮廷の画家に命じて曼荼羅 ── 仏の世界観を図像で表したもの。日本の真言密教では胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の2つを合わせて「両界曼荼羅」と呼びますを描かせ、空海に持たせました。胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅という2種類の曼荼羅で、密教の世界観を表しています。樋口さんはこれを「ZIPファイル」とたとえています。
いかに天才だったかっていうのは、直接会ってないからわかんないけど、とりあえず周りの人の挙動がおかしいですよね。
20年の留学を2年で切り上げる、死罪覚悟の帰国
空海は20年の予定だった留学を、わずか2年で切り上げて帰国します。ただし、遣唐使の船が来なければ帰ることはできません。下手をすれば20〜30年帰れないこともあり得た時代でした。
空海にとって幸運だったのは、帰りたいと思ったタイミングで中国の皇帝が代わり、新皇帝の即位を祝う使節団が日本から来ていたことです。空海はその船に乗って帰国します。
けれど、天皇から20年学んでくるよう命じられていた空海にとって、早期帰国は明確な命令違反でした。深井さんによると、本来なら死罪にあたる行為です。
帰国時には桓武天皇はすでに亡くなり、平城天皇の時代になっていました。空海は平城天皇に宛てて、2年で帰ってきたことは死罪に値すると自ら認めたうえで、恵果から密教のすべてを受け継いだこと、その内容をリストにまとめたことを記したレポートと手紙を出します。
私は罪があるけど、めちゃくちゃ価値があると。
ストロングスタイルの交渉だよね。
ところが平城天皇の時代は政治が混乱しており、空海のレポートを読んでいる余裕はありませんでした。さらに朝廷には、すでに密教を持ち帰った最澄がいました。空海の密教を認めれば「では最澄の密教は何なのか」という話になり、桓武天皇に重用された最澄の顔を潰すことにもなります。
その結果、空海の扱いは判断保留となり、3年ほど大宰府に留め置かれます。楊さんは、空海が帰国後最初に建てたとされる博多の東長寺の近くに住んでいると話し、福岡ゆかりの話で盛り上がりました。
最澄が7歳下の空海に頭を下げた理由
大宰府で待たされていた空海は、死罪になるかもしれないと思いながらも、都の噂を集めていました。そこでわかったのは、密教のニーズが確かに高いこと、そして最澄が自分に興味を持っているらしいことでした。
最澄は天台を学び、最新の密教も少しだけ学んで帰国していました。ところが帰国してみると、密教のニーズは想像以上に高かったのです。そこへ空海のレポートが朝廷に届き、最澄は「勉強しておくべきだったものが山ほど書いてある」と焦ったといいます。
最澄は、空海が持ち帰った経典を借りて読まなければならないと考えます。深井さんは、空海がどこまで戦略的に動いたかはわからないとしつつ、かなり戦略的だっただろうという説が濃厚だと話しています。楊さんはこれを「ニーズとシーズが噛み合わさった」と表現しました。
こうして最澄は、ある意味で空海に弟子入りするような形になります。楊さんは、7歳年下の空海に教えを請う最澄の謙虚さを、すごく尊敬すべきところだと評価しています。
嵯峨天皇と薬子の変、空海が一気に「スーパーライジング」するまで
時系列は少し戻ります。平城天皇の時代に無視され続けていた空海にとって幸運だったのは、平城天皇が女性問題などのいざこざを抱え、3年で退位したことでした。代わって即位したのが嵯峨天皇です。
嵯峨天皇は書道や漢詩を好み、空海とは趣味がぴったり合いました。空海は中国で書道や漢詩も学んでおり、「弘法も筆の誤り」ということわざが生まれるほど書で認められていた人物です。楊さんは、ここで弘法大師が空海のことだと改めて確認しています。
空海は嵯峨天皇の文化顧問のような形で招かれ、入京を許されます。そのころ最澄が空海のもとを訪ね、経典を見せてほしいと低姿勢で頼みました。
ユニコーン企業みたいなのが、無名な地方のベンチャーみたいな人のところにめちゃくちゃ低姿勢で行くわけ。
周囲は「なぜあの最澄が空海に頭を下げて経典を借りているのか」と驚きます。すごい人物が認めた人物もすごいはずだという見方が広がり、空海の名声は一気に高まっていきました。
さらに嵯峨天皇の時代に、平城上皇が絡んだクーデターに近い薬子の変が起こり、失敗に終わります。首謀者が処刑されると怨霊が恐れられ、それを鎮める密教のニーズがさらに高まりました。
すでに嵯峨天皇と親しく、密教を極めた人物として知られていた空海は、ここで一気に存在感を高めます。一方の最澄は、桓武天皇に引き立てられた後、平城天皇・嵯峨天皇の時代にはそれほど重用されず、冬の時代を迎えます。
平城天皇の時代は大宰府で放置されるが、嵯峨天皇と趣味が合い入京。最澄が教えを請い、薬子の変後の密教ニーズで一気に台頭する
桓武天皇に重用された新勢力だったが、密教の学びが不足していたと痛感。平城・嵯峨天皇にはあまり引き立てられず冬の時代へ
政治闘争が血なまぐさい時代には、敵を呪ったり、殺した相手の霊を鎮めたりする呪術的な需要が生まれます。深井さんの言葉は、密教が求められた背景には現世の切実な問題があったことを示しています。
まとめ
空海は、正式な僧侶ですらない立場から、コネ、圧倒的な漢文力、周到な根回し、そして幸運を重ねて唐の密教を受け継ぎました。帰国後は死罪の危機と放置を経験しながらも、嵯峨天皇との縁と密教ニーズの高まりによって、最澄を逆転する存在になっていきます。
- 空海は叔父のコネや親の資金を頼り、ギリギリで僧侶となって遣唐使に加わったとされる
- 福州に漂着した使節団は、空海の書いた漢文によって正式な使節と認められ上陸できた
- 空海はサンスクリット語を3ヶ月で習得し、噂を醸成して恵果に近づき、短期間で密教のすべてを継承したとされる
- 20年の留学を2年で切り上げた空海は死罪にもあたる立場だったが、最澄の弟子入りと嵯峨天皇の重用で台頭した
- 怨霊を鎮めるといった現世の切実な問題が、密教の需要を押し上げた





