リンカーン登場前夜──対立と妥協で生まれた人工国家アメリカ
歴史を面白く学ぶコテンラジオの深井龍之介さん、楊睿之さん、樋口聖典さんが、リンカーン大統領と南北戦争を語るシリーズをスタートしました。初回は、リンカーンが登場する前のアメリカ独立から建国期の構造を丁寧に解説。十三植民地がなぜイギリスと戦い、どんな思想で新しい国を作ったのか、その理念と矛盾を追います。その内容をまとめます。
独立戦争の始まり──「代表なくして課税なし」
1770年代、イギリスの十三植民地北米大陸の東海岸に成立したイギリスの植民地。ニューイングランド地方、中部、南部に分かれ、独立戦争後に最初の13州となる。は経済的にも文化的にも成熟していました。しかしイギリス本国はフレンチ・インディアン戦争1754〜1763年、北米大陸でイギリスとフランスが争った植民地戦争。ヨーロッパの七年戦争と連動。イギリスが勝利し、広大な領土を獲得した。やヨーロッパでの戦争で財政が逼迫し、植民地に次々と税を課し始めます。
印紙法(1765年)、タウンゼンド諸法(1767年)──新聞、出版物、輸入品に税金がかけられました。十三植民地の人々は「イギリス議会に議席もないのに税を取られるのはおかしい」と反発し、「代表なくして課税なし」をスローガンに独立の機運が高まります。
深井さんは、植民地の人々の感覚をこう説明します。
命をかけて植民地を作ったのに、成熟してきたら急に親が仕送りくれと言ってきた。なんだこの毒親は、と。
ネイティブアメリカンとの戦い、疫病、巨大な動物──過酷な環境で築いた暮らしを守りたいという自立心が、彼らを独立戦争へと突き動かしました。
ジョン・ロックと抵抗権──思想が武器になった
独立戦争の理論的支柱となったのが、イギリスの哲学者ジョン・ロック1632〜1704年、イギリスの哲学者。自然権思想を提唱し、人間は生まれながらに生命・自由・財産を守る権利(自然権)を持つと主張。近代民主主義の基礎を築いた。の思想でした。ロックは、人間は生まれながらに**生命・自由・財産**を守る権利(自然権)を持ち、政府はこれを保護するためだけに存在すると説きました。そして、もし政府がこれらの権利を侵害する場合、**抵抗していい**(抵抗権)と主張したのです。
番組では、この抵抗権の概念が現代アメリカにも影響を与えていると指摘します。
トランプ支持者が議事堂占拠しようとした事件も、根っこにはこの抵抗権の感覚があるんじゃないか。
政府が自分たちの自由や財産を脅かすなら、武力を使ってでも打倒していい──この発想が、建国時から現代まで続くアメリカのメンタリティの核にあるのです。
コモンセンスと独立宣言──王なき国家の誕生
1776年、トマス・ペイン1737〜1809年、イギリス生まれの思想家・作家。『コモンセンス』でアメリカ独立を感情的に訴え、世論を動かした。後にフランス革命にも参加。のパンフレット『コモンセンス』が爆発的に売れます。数ヶ月で15万部──当時としては驚異的な数字です。ペインは、感情に訴えるエモい文体で「今こそイギリスと永久に別れるべきだ」と主張しました。
この熱狂を背景に、同じ年に独立宣言1776年7月4日、大陸会議で採択。起草者はトマス・ジェファソン。「全ての人間は平等に作られ、生命・自由・幸福追求の権利を持つ」と宣言し、イギリスからの独立を正当化した。が採択されます。起草したのはトマス・ジェファソン1743〜1826年、アメリカ第3代大統領。独立宣言の主要起草者。自然権思想を信奉し、州権限を重視する反連邦主義者だったが、自身も奴隷を所有していた。。彼はロックの思想を色濃く反映させ、「全ての人間は平等に作られ、創造主によって生命・自由・幸福追求の不可侵の権利を与えられている」と宣言しました。
興味深いのは、ジョン・ロックもトマス・ペインも、そしてホッブズもハリントンも、**全員イギリス人**だという点です。イギリス生まれの先進的思想が、皮肉にも**イギリスから離れるための理論**として使われたのです。
新しい理論や技術を気兼ねなく使えるのは新しい組織。古い組織には古い組織の強みがあるが、やっぱり新しいものを採り入れやすいのは若い組織なんですよ。
1781年、ヨークタウンの戦い1781年9月〜10月、バージニア州ヨークタウンで行われた独立戦争の最終決戦。アメリカ・フランス連合軍がイギリス軍を包囲し、降伏させた。この勝利で独立が事実上確定した。でイギリスを破り、独立戦争は事実上の終結を迎えます。1783年のパリ条約1783年、アメリカ独立戦争の講和条約。イギリスがアメリカの独立を正式に承認し、ミシシッピ川以東の広大な領土をアメリカに割譲した。で国際的にも独立が承認されました。**中央集権国家を前提としない国家**──それが、人類史上初めて誕生した瞬間でした。
合衆国憲法の成立──妥協の産物としての民主主義
独立は果たしましたが、十三植民地はバラバラでした。宗教も、出身地域も、産業構造も、文化も違う。彼らは自分たちを「一つの国」とは思っていませんでした。
感覚としては「ちょっと強めのEU」みたいな。対外的にはまとまってるけど、内部では「お前らと俺らは違う」って思ってる状態。
1787年、フィラデルフィアペンシルベニア州の都市。1787年に憲法制定会議が開かれた場所。当時のアメリカで最も重要な政治的中心地の一つ。で憲法制定会議が開かれました。深井さんは現地の建物を訪れた印象をこう語ります。
小学校の体育館ぐらいの大きさでした。そこで憲法が作られたんですよ。
会議では、**連邦主義者**(中央集権を志向、ハミルトン、マディソンら)と**反連邦主義者**(州の独立を重視、ジェファソンら)が激しく対立しました。結論は妥協の連続です。
中央集権を志向。国家として統一された強い政府が必要だと主張。
代表者:ハミルトン、マディソン
州の独立権限を重視。連邦政府の権力を警戒し、州の自治を守ろうとした。
代表者:ジェファソン
この対立が生んだのが、三権分立立法・行政・司法の三権を分離し、相互に監視・牽制させる仕組み。モンテスキューが提唱。一つの権力が暴走しないようにするための民主主義の基本構造。、連邦制、個人の自由の保障といった仕組みです。上院は人口に関わらず各州同数、下院は人口比例──これも妥協の産物でした。
楊さんは、日本人との感覚の違いをこう指摘します。
日本だとぶつかったらダメみたいな空気がある。でもアメリカは、バチバチにお互いの意見を主張し合って、妥協点を見つけるのがポジティブに評価されるんですよね。
憲法批准は最後の最後まで予断を許さず、ザ・フェデラリスト1787〜1788年、ハミルトン、マディソン、ジェイが新聞に発表した論文集。連邦制の必要性を説き、憲法批准のための世論形成を図った。アメリカ政治思想の古典とされる。という論文集で世論を説得する必要がありました。結果として、1789年に**合衆国憲法**が発効し、アメリカ合衆国が正式に誕生します。
5分の3条項──建国時から抱えた矛盾
合衆国憲法には、初めから大きな矛盾が埋め込まれていました。その一つが**5分の3条項奴隷を人口カウントする際、1人を5分の3人として計算する規定。南部州が下院議席を増やすために主張し、北部州との妥協で成立。黒人に市民権は与えず、政治的影響力だけを抽出する仕組み。**です。
下院議席は州の人口に比例して配分されます。奴隷を多く抱える南部の州は、「奴隷の人口も数えてくれ」と主張しました。しかし奴隷に市民権は与えない。結局、**黒人奴隷1人を5分の3人として数える**という妥協が成立しました。
人権を5分の3人分としたんですよね。すごい妥協の仕方だよね。
独立宣言は「全ての人間は平等に作られた」と謳いました。しかし、その起草者トマス・ジェファソン自身が奴隷を所有していました。トマス・ペインは矛盾を指摘しましたが、制度として残されたのです。
自由と平等を掲げながら奴隷制を容認する──この矛盾は、やがて国を二つに引き裂く**南北戦争**へとつながっていきます。
まとめ
アメリカという国は、ジョン・ロックの自然権思想を実装した**人工国家**でした。王なき統治、三権分立、連邦制──すべてが妥協の産物であり、思想の実験でした。
しかしその理念には、初めから矛盾が孕まれていました。自由を求めてイギリスから離れたはずが、黒人奴隷は所有する。州の独立を重視するあまり、国としてのまとまりは弱い。中央集権への警戒心は強く、対立と妥協を繰り返す──この構造が、現代アメリカの行動原理にまで影響を与えています。
次回は、アメリカ建国に深く影響した**宗教**の観点から、この国のメンタリティをさらに掘り下げます。
- 十三植民地は「代表なくして課税なし」をスローガンに、イギリスに反発し独立戦争を起こした
- ジョン・ロックの自然権思想と抵抗権が、独立の理論的支柱となった
- トマス・ペインの『コモンセンス』が世論を動かし、独立宣言へとつながった
- 合衆国憲法は連邦主義者と反連邦主義者の激しい対立と妥協の末に成立した
- 5分の3条項に象徴されるように、自由と平等を謳いながら奴隷制を容認する矛盾を抱えていた
- アメリカは中央集権への強い警戒心と、対立・妥協を繰り返す構造を初期設定として持つ

