腹に真心が宿るという意味付けはなぜ変えられないのか
切腹シリーズ第3回の冒頭で、樋口聖典さんは前回の「腹に真心がある」という話を振り返ります。休憩中に考えたのは、人間は物事に勝手に意味を付けて、その意味に勝手に従っているということでした。
腹の中に真心があるって誰かが言って。で、確かにってなって。本当にその通りの挙動を取ってるなっていうのが、いろんなところで起こってるなって。
楊睿之さんは、「文化の問題」という言い方をすると文化は簡単に変えられるように感じるものの、実際には人間はそれをコントロールできないと応じます。
ものすごくアプリっぽいっていうか、ソフトウェアっぽい感覚を受けると思うんだけれども、僕たち全然それ(文化を)コントロールできないみたいなのがすごく感じますよね。
樋口さんは握手の例も挙げます。握手が友好の印なのは、人間がそう決めたからにすぎません。この「意味付けに縛られる人間」という視点が、今回の切腹の話全体の下敷きになっています。
刑罰としての自害は奈良時代からあった
楊さんによると、切腹が刑罰として採用され始めるのはおおむね室町時代からです。その背景には、古代の「自尽」、つまり自分で命を絶つことを刑罰として許す考え方があったといわれます。
奈良時代の律令 ── 古代日本の基本法典。律は刑法、令は行政法にあたり、中国の制度を手本に整えられましたには刑法にあたる定めがあり、一定以上の役人や貴族は、重い罪でなければ自宅で自尽することを許されていました。
罰として死刑を与えるけれども、誰かに殺されるんじゃなくて、自分で自分の命を終わらせるっていう、名誉ある死を賜るっていうふうな意味合いなんですね。
古代の自尽は切腹ではなく、執行方法も服毒や首つりなどさまざまでした。刑罰としての自害という土台の上に、室町時代以降、切腹が刑罰の性格を帯びていったという流れです。
奈良時代
律令で、一定以上の役人・貴族に自宅での自尽を許す名誉刑があった
方法は多様
服毒や首つりなど、執行方法は定まっていなかった
室町時代
主君や将軍が「切腹しろ」と命じる形で、切腹が死刑の一環になる
江戸時代
切腹は武士だけに許された名誉刑として定着する
室町時代の切腹は、目上の人から死を賜る形をとりました。樋口さんはこれを、懲罰の中に最後のプライドを保たせる情けがある仕組みと受け止めます。
なぜ切腹は武士だけの特権だったのか
江戸時代には特に、武士は自分で自分のけじめをつけられる存在だという認識が強くありました。だから罪を犯した武士には、自分で切腹することが許されたと楊さんは説明します。
一方で農民などの民衆は、自分でけじめをつけられない人間とされ、武士によって首を切られるものと捉えられていました。自主的に腹を切る民衆はいても、オフィシャルな刑罰としての切腹は武士にしか与えられませんでした。
自分のことを決められるのは武士だけで、武士以外の身分の人たちは自分のことを決められない、自分の死さえも決められないみたいな状況になってる
自分でけじめをつけられる存在とされ、名誉刑として切腹が許された
けじめをつけられない存在とされ、武士によって首を切られた
楊さんは、武士は支配階級として気高く、道徳的にも優れているという建前の上にいたと補足します。樋口さんは、切腹の特権がその武士の立場を社会的に担保していたのだと整理しています。
武士の切腹理由で最も多かったのは「喧嘩」
楊さんが次に紹介するのは、武士と喧嘩の関係です。武士はとにかく喧嘩をよくし、道ですれ違ってぶつかっただけで始まり、最後は殺し合いになる事例も珍しくなかったといいます。
室町幕府は、喧嘩で相手を殺したら理由を問わず切腹という喧嘩両成敗 ── 争いの当事者双方を、理非を問わず同等に処罰する原則。中世から近世の武家社会で紛争を抑える方法として用いられましたの決着を導入しました。不始末の責任を取る切腹は、室町幕府以前には見られなかったそうです。
そして、武士が切腹に追い込まれる事例で最も多いのは、喧嘩で相手を斬り殺したものでした。武士は個人の戦闘力を基盤に主君に仕える戦闘者であり、喧嘩は彼らにとって小規模な戦だったからです。
武士同士の喧嘩っていうのは小規模な戦なんですよね、彼らにとっては。
切腹を採用した理由について、楊さんは加害者の背後にある家や主君への配慮を挙げます。加害者だけを罰すれば、その武士集団を敵に回してしまうため、「誇り高い死闘だった」という体裁を保てる切腹が選ばれたという説明です。
中国みたいな中央集権国家だと、多分やった方、加害者側を皆殺しにするみたいなオプションが取れると思うんですけど、多分室町幕府みたいな権力が分散している組織だとそれができないからバランスを取るしかない
樋口さんは、喧嘩を売られた側の立場に注目します。負ければ死、勝っても切腹で死、戦わなければ弱い奴として恥の中で生きることになります。
マジで地雷がそこら中に埋まってるのと同じですね。
伊達政宗が小姓に命じた切腹の意味は?
楊さんは、切腹の事例として伊達政宗 ── 戦国時代から江戸時代初期の仙台藩主。片目を失っていたことから「独眼竜」と呼ばれ、派手な振る舞いでも知られますの逸話を紹介します。江戸時代、幕府直属の家臣である若松又七郎若松又七郎が政宗を訪ね、扇で政宗の頬を叩いたという出来事です。
政宗は来客をからかって困らせるのを楽しむ人物で、又七郎は我慢できなくなったのではないかと楊さんは推測します。ところが政宗は怒らず、この行動を褒めて褒美まで与えました。
問題はその後です。又七郎が帰ると、政宗はそばにいた小姓を呼び、主君が目の前で頬を打たれたのに何もしなかったとして切腹を命じました。
お前、主がお前の目の前で頬を打たれたんだぜ。お前何もしなかったよね、切腹なみたいな。こんな世界です。
小姓が動かなかったのは、相手が旗本 ── 江戸幕府の将軍直属の家臣のうち、将軍に直接会う資格を持つ者。大名の家臣とは格が異なりましたであり、斬れば伊達家に幕府の処罰が及ぶと合理的に判断したからだろうと楊さんは見ています。しかし政宗から見れば、それは腰抜けの振る舞いでした。
楊さんによれば、正解は旗本を斬り捨て、その責任を取ってその場で切腹することでした。つまり小姓は、頬を打たれた時点で死ぬしかなかったことになります。
責任を取ってその場で切腹し、主君に褒められながら名誉ある死を迎える
主君に腰抜けとされ、名誉のない切腹を命じられる
ちょっと待って、じゃあ結局どうせ死ぬやん。
深井さんは、「もっと選択肢があるはず」と感じるのは、文化は変えられるという現代の考え方だと指摘します。どちらを選んでも結果は同じでも、そこに決定権があるという感覚に近いといいます。
実は僕たちも結構避けようがない世界で生きてるんだっていうことは同じなのかなと僕は思うんですけどね。
禁止されながら求められた江戸の喧嘩
江戸時代に入ると、喧嘩は武士が戦闘者としてのアイデンティティを発揮できる数少ない機会になりました。平和な時代には、勝手に戦をすることが許されないからです。
江戸時代の武士は、戦闘者であると同時に政治を担う為政者でもありました。為政者の立場からは喧嘩は禁止で、公認も黙認もされていませんでした。
しかし戦闘者の立場からは、喧嘩すべきときに喧嘩しなければ、追放や激しい誹謗中傷など、社会的に抹殺されてしまいます。楊さんはこの状態を「アンビバレント」と表現しています。
武士の喧嘩は禁止。公認も黙認もされない
喧嘩すべきときに喧嘩しないと、武士としての存在証明ができない
そのため喧嘩で切腹する武士は、喧嘩という間違いを犯しても、武士としては正しいことをしたとみなされ、必ずしも犯罪とはされなかったといいます。
囲碁の口論から始まった16歳の切腹
楊さんがもう1つ紹介する事例は、1708年の加賀藩・金沢の城下町で起きた出来事です。下級武士の子である杉本九十郎杉本九十郎が知人と囲碁を打っていると、同じく下級武士の子の太郎三郎が横から繰り返し助言をしてきました。
九十郎は助言を断りましたが、太郎三郎はやめず、九十郎は対局に負けて口げんかになります。いったん収まって九十郎が帰ろうとしたところ、太郎三郎に「絶対帰さねえよ」と絡まれ、九十郎は太郎三郎を斬り倒しました。
九十郎の弟が止めに入り、その場では太郎三郎は一命を取り留めましたが、後日亡くなります。喧嘩両成敗により、九十郎も切腹しなければなりませんでした。
この時九十郎は16歳、太郎三郎は13歳ですよ。
興味深いのは、九十郎の武力行使が上司たちから高く評価されたことです。加賀藩の家老 ── 大名家の家臣のなかで最上位にあたる重臣。藩の政治を取りしきる立場でしたも、九十郎の行動を間違いとは捉えていませんでした。
周囲は九十郎を犯罪者として死なせるのではなく、武士として立派に切腹できるよう細かく取り計らいました。切腹はあくまで本人の自主的な行動という建前を作ったのです。
切腹はあくまで九十郎の自主的な行動っていう建前を、周りが頑張って作ろうとしたんですよね。この建前が彼らの武士としての名誉なんですよ。
九十郎の切腹は評判になり、報告を受けた家老たちは感激して涙を流したと伝わります。樋口さんは、刀を持って日常的に歩くこと自体が今から見れば狂っていると言いつつ、今の価値観で裁いてはいけないと受け止めています。
死に場所を失った武士と殉死ブーム
楊さんは、江戸時代に切腹が武士だけの名誉刑となったことで、中世には各自の意思で行われていた切腹が、統一政権の手続きの中に押し込められ、制度化されていったと整理します。
切腹が公式な刑罰として取り入れられた背景には、主君の後を追って腹を切る殉死 ── 主君や夫などの死を追って自ら命を絶つこと。江戸時代初期には武士の間で盛んに行われましたのブームがありました。
戦国時代は下剋上が珍しくなく、武士は自分を高く評価する主君を求めて国を渡り歩いていました。しかし太平の世ではその実力主義は危険な価値観になり、官僚的な事務能力が重宝されるようになります。
楊さんは、江戸時代初期は武士が自分たちの死に場所を失った時代だったといいます。喧嘩も禁じられ、名誉をどこで発揮すればいいのかという悩みが大きかったそうです。
天下統一
江戸幕府が体制の安定を重視し、下剋上や実力主義を抑える
行き場の喪失
戦で名を上げることも喧嘩もできなくなる
衝動の反転
外の敵に向けられない攻撃的な衝動が、自分自身に向かう
殉死の急増
17世紀前半、主君の後を追う切腹が急上昇する
樋口さんは、強さを示すことが名誉だと思っていたのに、なぜ殉死に向かうのかとピンとこない様子でした。楊さんは、そこでの名誉は主君への忠義に接続していたと答えます。
深井さんは、武士のアイデンティティを保つ行為が平和によってほとんどできなくなり、その少ない隙間を埋めたのが殉死と切腹だったとまとめます。
なんかね、もうちょっと写経をするとかにすればよかったですよね。
内面化された価値観は一朝一夕に変わらない
楊さんは、江戸幕府ができても武士のマインドはすぐには変わらなかったと話します。戦国時代を生きてきた人たちは、喧嘩はダメだと言われても納得できず、その古いマインドを保った人々がかぶき者 ── 江戸時代初期に、派手な身なりや常識外れの振る舞いをした者たち。戦国の荒々しい気風を引きずった若者が多かったとされますになっていったといいます。
深井さんは、この状況を現代の自分たちの世代に重ねます。昭和の頃の男らしさや父親像と、今の父親に求められることは、この30年ほどでかなり違っているというのです。
社会からの要請が変わったからといって、すぐに自分の中に内面化された価値観を変えられるかっていったら、別にそこはすごく難しい。
楊さんも、変えられないことで起きる揉め事やつらさは世の中に多く、価値観は一朝一夕には変わらないのだろうと応じています。
下級武士の殉死と、幕府による禁止
殉死に走ったのは、特に武士社会の最下層にいる下級武士でした。戦国時代なら豊臣秀吉のように百姓から関白になる道もありましたが、江戸幕府では家の格によってヒエラルキーが厳密に決まっていました。
楊さんは、出世できない下級武士の失望感がフラストレーションとして殉死に向かったという見方も紹介しています。
幕府はこの殉死を問題視し、1663年に公式に禁止しました。主人は自分の死後に家来が殉死しないよう、命令や説得をすることを求められたのです。
江戸時代初期、下級武士を中心に殉死がブームになり、幕藩体制の秩序を認めない反体制的行為とみなされる
1663年に殉死を禁止。領地削減や処刑などの処罰例も出て、殉死はしだいに減っていく
ただし殉死は武士の名誉感情の根本に関わるデリケートな問題でした。そこで幕府はうまくいなしながら、死刑の種類など詳細な規則を定めていく方向に動きます。
法令集に書かれない「刑罰であって刑罰ではない」切腹
江戸時代の死刑のうち、武士に適用されたのは切腹と斬罪 ── 罪人の首をはねる死刑。江戸時代には武士に適用される刑罰として定められていましたでした。ところが、切腹は江戸時代の刑法に正式には書かれていなかったと楊さんは話します。
8代将軍の徳川吉宗は刑罰制度を改革し、法令集の公事方御定書 ── 徳川吉宗の時代に編まれた江戸幕府の基本法典。裁判や刑罰の基準を定めたもので、上下2巻からなりますを作りました。そこでは武士以上に適用されるのは斬罪とされ、切腹については特段の定めがありません。
切腹は法令集に記載されてないので、厳密には刑罰であって刑罰ではないんですよ。
切腹が刑罰として法令に書かれていれば、武士は法令に従って腹を切ることになり、刑罰に見えてしまいます。楊さんによれば、切腹には刑罰と名誉の両方の重心があり、どちらを多く見せるかはケースバイケースで判断されていました。
体裁上、お前が自分で決めろ。ただ死んでもらうけどな。括弧書きで書いてるわけですよね。
実際、裁きにかけられること自体が恥なので、最終的に名誉ある切腹を命じられるとわかっていても、先に自分で切腹する事例も多くあったといいます。樋口さんは、そのほうが「自分で決めている感」が出ると受け止めています。
切腹が守った「武士」という大きな主語
武士は自分の行動の良し悪しを判断し、自分でけじめをつけられるという前提がありました。ふさわしくない武士がいれば、武士階級全体の威信が損なわれると強く意識されていたそうです。
支配階級である武士は、建前上は犯罪をせず、道徳も人格も高い人たちです。それでも間違いは起きるため、刑罰でありながら自分の手で決着をつけた形を取れる切腹が必要だったと楊さんは説明します。
本音と建前、実態と形式みたいなものが全然違うのになーってみんな思ってるのに、なんか全部守ってんすよね、それを。
深井さんは、切腹しない武士が武士全体の威信を下げるという観念が、想像上の「世間」を保つのに大きな役割を果たしていたと指摘します。その世間が崩れれば、今の人から見て何を言っているのかわからない話になっていくといいます。
楊さんは、潔く切腹する姿が民衆に対して「武士は支配階級にふさわしい」と見せる効果もあったと補足します。
介錯人の登場と、地方ごとの切腹作法
切腹が江戸時代の刑罰として取り入れられるなかで、形式化も進みました。実際には腹を切らない儀礼としての切腹が行われるようになり、首を落とす役目を担う介錯人が定着していきます。
江戸時代には切腹のマニュアルも各地で出回り、武家の人たちは自分が切腹するときや介錯をするときに備えて保管していたようです。そこには地方ごとの特色もありました。
たとえば現在の岩手県・青森県・秋田県にまたがる南部藩では、首を落とした際に目や口が開いて舌が出ていると、遺体の足の裏を十文字に切っていたといいます。
楊さんの説明では、そうした表情は怨恨を抱いて死んだしるしと考えられていました。霊が出て祟らないよう、歩けなくするためのおまじないだったのではないかということです。
もう誰が考えついたの?こんなの。
実は少なかった切腹の目撃者
楊さんによれば、江戸時代の武士でさえ、切腹を実地で見た人は少数でした。ドラマのように大勢が庭で見届ける光景とは違い、立ち会う関係者は10人前後だったそうです。
罪の中身を公開すると武士全体の格が下がると判断された場合は、関係者をほとんど入れず極秘に切腹させ、原因不明の死として処理することもありました。そのため実地の観察記録はあまり残っていないといいます。
樋口さんは、切腹を命じられた一個人が「武士」という大きな主語を背負い、全員でそれを守る状況に驚きます。楊さんは、作法どおりに切腹することが武士の格を保ち、民衆からも認められることにつながったと述べ、結婚式や葬式などの儀式にも通じると話しました。
でも僕が例えば犯罪を犯して惨めな姿をさらしたとして、全国の社長たちの価値下がらないじゃないですか。僕個人は下がるけど。
まとめ
今回のエピソードでは、刑罰としての切腹の起源から、喧嘩両成敗、伊達政宗の小姓の逸話、殉死ブーム、法令集に書かれない曖昧な位置づけまでがたどられました。切腹は、武士が自分でけじめをつけるという建前と、武士全体の名誉という「世間」を守るための仕組みだったことが見えてきます。
- 刑罰としての自害は奈良時代の律令にあり、切腹は室町時代から刑罰の性格を帯び、江戸時代に武士だけの名誉刑になった
- 武士の切腹理由で最も多かったのは喧嘩での斬殺で、喧嘩は禁止されつつ武士の存在証明として求められていた
- 死に場所を失った江戸初期の武士の名誉欲は殉死ブームに向かい、幕府は1663年に殉死を禁止した
- 切腹は公事方御定書に記載されず、「刑罰であって刑罰ではない」曖昧さが、自分で決めたという体裁を守った
- 切腹は一個人の問題ではなく、「武士」という階級全体の威信と世間を背負う儀礼として機能していた





