源義経の最期はなぜ「理想の死に方」とされたのか
コテンラジオの切腹編は、全4回のうちこの回が最終回です。楊睿之さんは、切腹の具体的な事例を順に紹介していくと予告します。
樋口聖典さんは、切腹という言葉を何度も聞くうちに、その言葉がすっかり身近に感じられるようになったと打ち明けます。
最初聞いた時は、いや、言うてもこれは人の命やからなと思ってたんですけど、今すげえライトに切腹っていうのがパンって入ってくるようになってきてますね。
楊さんは「それは望ましくない」と苦笑いしつつ、最初の事例として源義経の切腹を取り上げます。義経の最期を伝えるのは軍記物語 ── 合戦を中心に武士の活躍を描いた物語文学。『平家物語』や『義経記』などがあり、史実に脚色や誇張が加えられていることが多いですなので、誇張が含まれている可能性があります。
楊さんによると、それでも当時の人々が理想とした武士の死に方は読み取れます。義経は左の乳の下に刀を突き立て、刃を回して傷口を三方に掻き破り、腸をえぐり出したと伝えられています。
さらに義経は、血のついた刀を袖で拭って膝の下に隠し、衣服を羽織ってから台にもたれたとされます。楊さんは、腸を長時間さらしたままにするこの形を、切腹の「プロトタイプ」と呼びました。
だからこれ見せるというか、なんかメッセージ性を込めた切腹ですね、これは。
楊さんは、このような激しい切腹は江戸時代にはほとんど見られなくなると補足します。江戸時代には、腸をえぐり出すこと自体が作法の上でNGになっていたからです。
敵も味方も感動した? 土岐持頼の切腹
2つ目の事例は、室町時代の守護大名 ── 室町時代に、幕府から任命された守護が国内の武士や土地を支配し、大名のような力を持つようになったもので、伊勢の守護だった土岐持頼です。持頼は室町幕府3代将軍の足利義満に攻め滅ぼされたときに切腹したと紹介されます。
持頼の切腹も激しいものでした。腹を十字に切り、腸を手に巻いて掴み出して敵に投げつけ、刀を口に含んで前に倒れて絶命したといいます。その姿を見て、敵も味方も感動の声を上げたと伝えられています。
楊さんは、この事例のポイントを2つ挙げます。1つは、腸を長時間さらす原型の形をとらず、刀で喉を突く補助手段を使って、さっと死ぬ形に変わっていることです。
もう1つは、周りの人々が持頼の切腹に感動していることです。楊さんは、切腹を感動をもって眺める感覚が、この時代にはすでに共有されていたと指摘します。
義経と持頼の2つの事例を比べると、切腹の作法に変化が見えてきます。
刀で腹を掻き破り腸をえぐり出し、長時間さらしたまま。切腹のプロトタイプとされる形
腹を十字に切り腸を敵に投げつけたあと、刀を口に含んで倒れ、さっと死ぬ。敵味方から感動の声が上がった
政策の失敗も切腹に 会津藩・永井九八郎のケース
時代は江戸に移ります。会津藩の永井九八郎は、財務大臣のような役職に就いた人物です。学問好きの秀才で文武両道、自分の才覚だけで重要なポジションを得た「期待のエース」だったと楊さんは紹介します。
会津藩は当時、財政がひっ迫していました。藩は財政改革のために永井を抜擢し、永井は渾身の改革案を出して、上層部と藩主に認められます。
ところが、永井の改革は実行すると失敗し、インフレを起こして状況をさらに悪くしてしまいます。永井は責任を取らされ、切腹を命じられました。
財政ひっ迫
会津藩が財政改革の必要に迫られる
抜擢と改革案
永井が改革案を出し、藩主と上層部に認められる
改革の失敗
インフレを招き、藩主・藩士・民衆に不利益が出る
切腹
不正も犯罪もないまま、結果責任で切腹を命じられる
樋口さんの「政治的な責任でも切腹するのか」という問いに、楊さんはそうだと答えます。永井の政策は藩主や藩士、民衆に現実の不利益を与えたため、けじめとしてスケープゴート ── 集団の不満や責任を、特定の誰かに負わせて身代わりにすること。もとは古代ユダヤの儀式で罪を負わせて荒野に放つヤギを指す言葉ですが必要だったといいます。
楊さんが強調するのは、永井本人は不正も犯罪もしていないという点です。結果責任だけで切腹を命じられたのが、このケースの特徴です。
フランス人が退席した堺事件の集団切腹
次の事例は、外国人を震え上がらせた切腹です。明治元年にあたる1868年、大阪の堺では土佐藩士たちが治安の取り締まりを担当していました。
楊さんによると、沖に停泊していたフランスの軍艦から水兵が上陸し、市中で乱暴を働きます。堺の人々は恐怖して泣き叫び、逃げ惑ったといいます。
土佐藩士は水兵たちに船へ帰るよう命じますが、言葉が通じません。やむなく捕縛しようとしたところ、水兵たちは土佐藩の旗を奪って逃げようとしました。怒った土佐藩士たちは追いかけて発砲し、13人もの死者が出ます。
フランス側は激しく怒り、謝罪と賠償金、そして関わった藩士の処刑を求めて政治的な圧力をかけてきます。基盤がまだ弱かった明治政府はこの要求をのまざるを得ず、土佐藩に20名の処刑を命じました。
処刑の場にはフランス側も人を派遣して同席します。藩士たちは順番に切腹し、介錯されていきました。6番目の藩士は「自分が死ぬのはお前らのためではなく、国のためである。日本男子の割腹を見よ」と叫び、腹を十文字に切って内臓をフランス人のほうへ投げたといいます。
2番目に切腹した藩士は、介錯の勢いが激しく、首が5メートルほど飛んだとも伝えられています。凄惨な光景に恐怖したフランス人たちは、12番目の藩士の番で席を立って退出しました。
残りの藩士たちも腹を切ることを強く主張しましたが、制止され、生き長らえることになりました。
深井龍之介さんは、フランス側の驚きを想像して語ります。あくまで想像だと断ったうえで、ギロチン刑の国から来た人々は首を切る処刑を思い描いていたのではないかと推測します。
そしたら本人が切るんかいみたいになる上に、切った後、なんか内臓を持ちながら何かいろいろ言ってくるみたいな感じじゃないですか。
噂を恐れた会津藩の冤罪切腹
楊さんが次に紹介するのは、冤罪で切腹させられた事例です。1652年、会津藩の藩内で藩士の殺害死体が見つかります。容疑者は挙がるものの決め手がなく、事件は迷宮入りしかけました。
会津藩の藩主は、何が何でも決着をつけるよう厳命します。事件の噂が隣国だけでなく江戸にまで広がっていたためです。藩主は、未解決のままでは会津藩の捜査がおざなりだと噂され、厳しい武士道で知られる会津藩の恥になると考えました。
会津藩の捜査は、やがて殺人事件そのものから容疑者の日常生活全体へと広がります。容疑者たちは歌舞伎者 ── 戦国末期から江戸初期に、派手な身なりや常識外れの振る舞いをした若者たち。「傾く(かぶく)」が語源ですと呼ばれる、やんちゃな藩士たちでした。
歌舞伎者の藩士たちは、博打をし、犬の肉を食べ、城の堀で勝手に魚を捕り、奇抜な格好をしていたといいます。藩は、殺害に関与していなくても普段の行動が処罰相当だとして、切腹を命じる判断を下しました。
うわ、ひどいな。
事件
藩士の殺害死体が見つかるが、決め手がない
噂
江戸にまで「会津藩は解決できていない」と噂が広がる
捜査の拡大
藩主の厳命で、容疑者の日常生活全体が調べられる
処分
殺害とは別の不法行為を理由に切腹、関係者の多くも追放
楊さんは、これまでのシリーズで何度も出てきた「世間」が、武士個人だけでなく藩全体の政治判断にも影響していたと指摘します。
楊さんによると、江戸時代の人々は「火のないところに煙は立たない」と本気で考えていました。SNSの情報にデマやフェイクが混じると知っている現代人と違い、世間の噂には真実が含まれていると信じ、為政者はそれを重視すべきだとされていたといいます。
そのため、江戸時代の藩は世間の噂を重視するだけでなく、噂になることを恐れるあまり、より厳しい処罰を与えることもありました。冤罪であっても、これだけ厳しく罰すれば世間も文句はないだろう、という発想です。
でもなんか、だからもう真実とかどうでもよくて、納得をするかどうかなんですよね。多分ね。
世間を騒がせたこと自体が罪? 日本型の責任の取り方
楊さんは、会津藩の冤罪事件のような処分を「日本型の責任の取り方」だと考えています。例に挙げるのが喧嘩両成敗 ── 喧嘩をした者を、理由や是非を問わず双方とも同じように処罰する原則。戦国大名の法などに見られますです。
自動車事故のように誰の責任が何割かを細かく考えるのではなく、喧嘩をして相手を切って死なせたなら、その人も切腹する。楊さんは、理由が問われない単純さに注目します。
ほら、今ってほら、なんか政治家とか、あと芸能人とかでさ、謝罪会見とかしますよね。こう世間を騒がせてすみませんみたいな。これですね、マジで江戸時代で世間を騒がせたこと自体がすでに罪なんですよ。
深井さんは、世間を騒がせてはいけないという感覚が今の日本にも残っていることに驚きます。
すでにこの世間というイマジナリーなものがあって、それを騒がしたらダメだっていうのは、当時もあるし、実は今もあって、その感覚の中でまだ僕たち生きてるみたいなのって恐ろしいことですよね。
話は現代の会社にも及びます。重役が不祥事を起こしたとき、責任の取り方は辞めることが当たり前になっています。本来の責任とはマイナスをプラスに戻すことのはずなのに、辞めるのは切腹と同じく「この世界からいなくさせる」形だ、という指摘です。
面白いな。確かにこれ普通に考えたらケツ拭かせる方がメリットあるわけですよね。
リカバーが許されない世界と、テープ録音の時代
なぜ死が責任の取り方になったのか。番組では、武士の職能が戦争だったことが大きいと語られます。織田信長回でも扱ったように、中世の武士にとって敗北は滅亡、つまり全員が死ぬことに近いものでした。
自分の勢力が終わるとき、命だけ生き延びても生産手段はすべて奪われてしまいます。そのため最終的な失敗は死を意味し、死を体現することだけが責任を取ることだという観念になった、と説明されます。
なるほど。リカバーが許されない世界が当たり前でずっと来てるんですね。
「リカバー」は、殺し合いではない世界だからこそ成り立つ現代的な概念だという話になります。60歳から何度失敗しても起き上がれたカーネル・サンダース ── ケンタッキーフライドチキンの創業者。60代で事業を始め、多くの挫折を経て成功したことで知られますのような話は勇気をくれますが、武士の世界はもっとシビアだったというわけです。
樋口さんは、武士はリカバーが許されないからこそヒリヒリと、あるいは生き生きと生きていたのかもしれないと考えます。そして、音楽制作の仕事をしていた経験から例えを出しました。
パソコン技術が発達した今は、Aメロのギターの2小節目のフレーズだけを録り直すことも簡単にできます。一方、テープで録っていた時代は一部だけの差し替えが難しく、そのぶんプレイヤーの能力が非常に高かったといいます。
テープ録音の時代。一部だけの差し替えが難しく、プレイヤーの能力が非常に高かった
デジタルの時代。間違えたらそこだけ録り直せばいいという感覚で弾ける
だからやっぱ昔の人の演奏とか聴くと、これ瞬間瞬間に魂込めて演奏してるなって感じる時があって。
殉死しなかった小姓・品川左門を追い詰めた風説
楊さんが紹介する次の事例は、まさに世間によって切腹させられたケースです。加賀藩2代藩主の前田利常は、小姓 ── 主君の身近に仕え、身の回りの世話をする若い武士。主君から特に目をかけられることが多い立場ですの品川左門をとても可愛がっていました。
前田利常は品川左門に、自分が死んでも殉死 ── 主君の死を追って家臣が自ら命を絶つこと。追い腹とも呼ばれ、江戸時代前期に盛んに行われましたせず、新しい当主に仕えるよう常々言っていました。そのため左門は、利常が亡くなっても殉死しませんでした。
ところが江戸では、「あれだけ愛されていたのに殉死しなかった、追い腹を切ったほうがいいのではないか」という風説が流れます。
楊さんによると、品川左門は主君に寵愛される小姓である前に武士でした。武士として名を惜しまなければならず、このような噂を受けたまま生きていては名折れになると考えたのでしょう。左門は殉死を決意します。
品川左門は大勢の人を集めて見物させ、その中で脇差を腹に突き立てて引き回し、亡くなりました。その堂々とした姿に、周りの人々は賞賛を送ったといいます。
門限破りの切腹を止めた旗本に起きた悲劇
最後の事例は、切腹を止めようとして起きた災難です。1834年、江戸の三田(今の東京都港区)で、幕府旗本 ── 将軍に直属する家臣のうち、将軍に直接会う資格を持つ者。社会的な立場が高い武士でしたの酒井という人物が、たまたま切腹の場面に出くわします。
お寺では、1人の薩摩藩士がまさに切腹しようとしていました。酒井は通り過ぎることもできましたが、介錯人に切腹の理由を尋ねます。介錯人は最初言葉を濁しましたが、酒井が旗本だと名乗ると、理由を明かしました。
切腹の理由は、江戸にある薩摩藩の藩邸の門限を破ったことでした。藩邸は、いわば各藩の江戸出張所のような場所です。
えー、女子高生?
酒井は、門限破りでの切腹はかわいそうだと考えます。自分は薩摩藩の先代藩主と茶飲み仲間だから助命を頼んでみると介錯人に伝え、介錯人も切腹を中止しました。
薩摩藩の先代藩主は助命を認めます。しかし藩全体の意思決定としては助命できないとされ、薩摩藩士は結局切腹させられました。
薩摩藩士はさらに、定められた日時に切腹しなかったことを「切腹をためらった不届き」とされ、門限破りに不名誉なお咎めが加わったうえで切腹させられます。介錯人も、切腹の執行を遅らせ任務を怠ったとして切腹させられました。
そして、声をかけなければ介錯人は死なずに済んだとして、酒井は介錯人の親族から恨まれ、命を狙われるようになります。
声かけ
旗本の酒井が切腹の理由を尋ね、門限破りと知る
助命嘆願
酒井の申し出で切腹が中止され、先代藩主も助命を認める
藩の判断
藩として助命は認めず、薩摩藩士は不名誉な咎めも加えられ切腹
連鎖
介錯人も任務を怠ったとして切腹し、酒井は親族に命を狙われる
最悪やん。全員損してますね。
楊さんは、酒井は優しい心から助命嘆願という合理的な選択をしたのに、最終的にはまったく合理的でない結果が出てきたとまとめます。
すべての事例に通底する原理とは
深井さんは、楊さんが紹介した事例に共通する原理があると考えます。それは、楊さんが最初に挙げていた「世間」との対面と、武士としてのアイデンティティです。
深井さんが例に挙げるのは堺事件です。条約を破って上陸し狼藉を働いたフランス兵を退去させようとして戦闘になったのなら、警備側に問題はないというのが現代の感覚であり、当時の武士も同じように思っていたはずだといいます。
それでも堺事件の土佐藩士たちには、ファクトとは別に「フランスとの外交関係を整えなければならない」という国や藩の思惑が課されました。深井さんは、その指示にコミットするかどうかが、その人が武士であるかどうかと強く結びついていたと語ります。
そうすると自分が武士であるためにはここで切腹しなきゃいけないみたいな。で、周りが切腹を命じるときも基本的に同じ原理ですよね。
切腹を命じる側も、「武士であるなら、世間を騒がせた、疑念を抱かせたという理由ですでにダメなのだ」という論理で動いています。切腹することで初めて武士として認められ、世間に対して武士とは何かを示すことができる、という原理です。
番組ではさらに、今とは価値観が違うことを強く意識しないと理解できないという話も出ます。堺事件で残りの藩士たちが「腹を切らせてくれ」と求めたように、あわよくば生き延びたいという様子が見えない点に、命の捉え方の違いが表れているといいます。
楊さんは、シリーズの初回で触れた武士の誇りに立ち返ります。伝統に従うか暴力で現状を変えるかを自分で決められる、貴族とは違うという自負です。楊さんは、その誇りを爆発的に表せたのが切腹だったのではないかと考えます。
切腹は秩序を保つシステムだったのか
番組では次に、切腹が結果的に秩序を保つ方向に働いていたのではないか、という見方が出ます。切腹を命じ、本人が切腹すれば、良いか悪いかは別にして丸く収まり、集団を残せるというわけです。
この見方の関連として、別番組で松谷龍玄松谷龍玄さんが、ブッダが輪廻転生を説いた理由をゲーム理論 ── 複数の主体が互いの行動を読み合いながら意思決定する状況を、数学的に分析する理論。協力や裏切りの損得を考える際に使われますで説明していた話が紹介されます。
自分の命の前と後を意識すると、目先の利己的な行動をとりにくくなり、全体の利益を考えるようになる。その結果、利益の総和が上がるという話です。世間や先祖、末代まで自分を拡張してけじめをつけることで、全体ではバランスが取れていたのではないか、と語られます。
楊さんもこの見方に同意し、極端に言えば切腹がなければずっと戦国時代だったかもしれないと述べます。武士は名誉に非常に敏感で、自分だけでなく家や武士階級の名誉が傷つくことにも反応したといいます。
楊さんによると、室町時代には小さな火花のような喧嘩が容易にエスカレートし、大規模な刃傷沙汰に発展することもありました。そこで誰かを定めて切腹させることは、紛争の解決手段としては非合理的でも、収め方としては合理的だったと楊さんは考えます。
「参りました」と切腹、将棋に見る自分で決めさせる文化
エンディングで樋口さんは、シリーズで最も面白かった点として、切腹が法律に記載されていないことを挙げます。実際には命じているのに、命じていないことにしているという話です。
楊さんは、自分でけじめをつけるという体裁を保つことがとても重要だったと応じます。樋口さんはそこから将棋を連想しました。
樋口さんによると、プロ棋士同士の対局で、詰み ── 将棋で、王将(玉将)がどう動いても取られる状態になること。チェスのチェックメイトにあたりますの一手まで指すことはまずありません。負けた側が必ず自分で「参りました」と言って終わります。
プロ棋士は負けを悟ると「形作り」をし、この形で負けるという美しい棋譜になるところまで指し進めます。その地点は、プロ同士だと感覚でわかるといいます。
そこでふーって一息ついて水を一杯飲むんです、グッて。それで水を置いて一息ついて、必ず負けた側が参りましたって言葉に出して言うっていう。
将棋のルールブックには、負けた側が「参りました」と言わなければならないとは書かれていません。それでも最後は本人に言わせる文化がある点に、樋口さんは切腹と通じるものを感じたといいます。
まあその最終的にこう殺しきるっていう手前で自分から参りましたよっていう風に、ある意味そのよくやったねとか、あっぱれだったねっていうふうな体面を保つための一つの儀式なんですね。
切腹は「自殺」と同じなのか
楊さんは、切腹が自殺かどうかは難しい問題だと考えています。たしかに切腹では自分で手を下しますが、世間との関係があり、将棋の比喩のように究極的な個の主体性の尊重という面もあるからです。
楊さんによると、ゾウや犬など社会性のある動物は群れの仲間の死を認識し、食欲をなくすなどの反応を見せるといいます。一方で、動物は自殺しないという見解のほうが有力そうだと楊さんは述べます。
檻のクマが壁にぶつかって死ぬ例もあるものの、自殺かストレスによる突発的な行動かは見解が分かれているそうです。楊さんは断定を避けつつ、自分の死をコントロールしようとするのは基本的に人間だけだと解釈しています。
楊さんは、キリスト教やイスラム教などのセム一神教 ── ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のように、セム系民族の間で生まれた唯一神を信仰する宗教の総称では自殺が強く禁じられていると説明します。人の生や肉体は神にとって大切なもので、個人が自分の死をコントロールする権利を持つとは考えないからです。
番組ではほかの文化の例も挙げられます。マヤ文明で生贄になることが名誉とされたり、戦死が名誉とされたりする例は古今東西にあります。ヨーロッパや中国には、屈辱を受けて怒って死ぬ「憤死」もありますが、自殺であること自体にはそれほど社会的意味が付与されていないといいます。
楊さんが挙げた死の捉え方を並べると、切腹の特異さが見えてきます。
| 対象 | 死の扱い | 番組での指摘 |
|---|---|---|
| 動物 | 仲間の死は認識する | 自殺はしないという見解が有力 |
| セム一神教 | 自殺を禁止 | 生や肉体は神にとって大切なもの |
| 憤死(欧州・中国) | 屈辱への怒りによる死 | 自殺かどうかには社会的意味が薄い |
| 切腹(日本の武士) | 自ら死ぬことが名誉 | 独特な意味づけをされた珍しい例 |
楊さんは、武士にとっては個体の生よりも家の名誉や公の仕事が大事だったと振り返ります。そのうえで、現代の自分たちは自分の生と死をどう考えているのか、思いを馳せさせられる内容だったと語りました。
日本の自殺率と切腹文化はつながっているのか
樋口さんは、デリケートな話題だと断ったうえで、日本は国の豊かさに対して自殺者が多いというデータに触れます。その話題は幸福度と結びつけて語られることが多いものの、切腹文化と合わせて語られるのは聞いたことがないといいます。
樋口さんは、誇りある死や、惨めな状態で生き長らえることへの日本独自の感覚がもしあるなら、幸福度と自殺率だけではない因子も踏まえて考える必要があるのではないかと問いかけました。
楊さんは、具体的な因果関係はわからないとしながら、近代の例を挙げます。日露戦争の英雄である乃木希典 ── 明治期の陸軍軍人。日露戦争で旅順攻略を指揮し、明治天皇の大葬の日に妻とともに自刃しましたは、明治天皇が亡くなったときに殉死という形で切腹しました。
さらに作家の三島由紀夫は、日本が平和ボケしていくことに危機感を抱き、警鐘を鳴らす意味で割腹したと楊さんは説明します。
楊さんは、武士の観念が社会から完全に消えたわけではないと認めます。ただし、現代人が武士としてのアイデンティティや武士としての世間を持っていないことは大きな違いであり、その関係は複雑だと述べました。
頭の中の「イマジナリー世間」とどう向き合うか
樋口さんは、切腹の価値観にどこか理解できるところがあったと話します。だからこそ、時代劇の切腹や華々しい戦死がコンテンツになるのではないかといいます。
樋口さんがもう1つ持ち帰ったのが、「イマジナリー世間」という考え方です。世間は自分の外にあるのではなく、一人ひとりの頭の中にあると考えると、少し楽になるかもしれないといいます。
一方で、殉死しなかった小姓・品川左門のエピソードのように、世間が実際の圧力としてのしかかることもあります。番組では、SNSでの芸能人への誹謗中傷のように、頭の中にしかない世間が実体を持った圧力になることは今もあると語られました。
楊さんは、中国出身の自分がなぜ切腹をここまで語るのか、と笑いつつ、海外では切腹が日本の特異な文化の代表として強い関心を集めていると話します。今回読んだ文献にも海外の研究者によるものが多く、鋭い指摘が得られたといいます。
なんか内側にいるとなんとなく受け入れてますけどね。なんか外から見るから、よりその異常性というか。
まとめ
切腹編の最終回では、義経や土岐持頼の激しい切腹から、政策の失敗、外交上の要求、冤罪、世間の風説、門限破りまで、さまざまな事例が紹介されました。どの事例にも、世間との関係と武士としてのアイデンティティという原理が通底しており、その感覚は形を変えて現代にも残っているのかもしれません。
- 中世の切腹は腸をさらす激しい形から、さっと死ぬ形へと変化し、切腹を感動して眺める感覚も共有されていた
- 江戸時代には政策の失敗や冤罪でも切腹が命じられ、世間の噂を恐れて処罰が厳しくなることもあった
- 切腹は武士が武士であることを示す行為であり、「最初で最後の自己決定」という誇りとも結びついていた
- 非合理に見える切腹は、争いの連鎖を止め集団の秩序を保つ収め方として働いた面がある
- 頭の中の「世間」が実際の圧力になる構図は、謝罪会見やSNSの誹謗中傷など現代にも通じている





