西郷隆盛の前に知るべき「薩摩藩」の凄み──借金250年払い・先生なしの近代化・武士率4倍の異端藩
歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO)の西郷隆盛シリーズが開幕。深井龍之介さんと樋口聖典さんが、主人公・西郷どんの登場前に「なぜ薩摩藩がここまで強かったのか」を徹底解説しています。ステレオタイプな西郷像の覆し方から、薩摩藩の財政・軍事・外交のすごさまで、幕末理解の土台が一気に築かれるその内容をまとめます。
西郷隆盛のイメージは本当に正しいのか
西郷隆盛といえば、太い眉にがっしりした体格、「おいどん」の鹿児島弁、そして豪放磊落で小さなことにこだわらない大人物──多くの人がそんなイメージを持っているのではないでしょうか。戦前・戦後を通じて「好きな歴史上の人物」アンケートで常にトップクラスに君臨し、国会議員を対象にした「理想の国家指導者」調査でも1位に選ばれたことがあるほどの国民的人気です。
しかし、研究者の家近良樹大阪経済大学名誉教授。幕末維新期の政治史が専門で、西郷隆盛や島津久光についての研究で知られます。氏が資料から読み解いた西郷像は、このステレオタイプとはかなり異なるといいます。深井さんによれば、家近氏の分析では西郷は以下のような人物だったとされています。
どっしり構えた豪放磊落な大人物。包容力があり、つかみどころのない風格
常に緊張感を持ち、心が安らぐ時がないと自覚。感情の振れ幅が大きく繊細で、好き嫌いが激しい策略家
西郷自身が「生まれつき心が安らぐ時間を持てない性格だ」と認めており、禅で心を静めようとしていたとのこと。さらに多情多感で、激しく怒り、激しく悲しみ、悲しいことに出会うと何度も死のうとしたという記録もあるそうです。
ずっと死にたがってる。ちなみに
何それ?そんなんも残されてるんや
敵味方をはっきり分けないと気が済まず、敵認定した相手は容易に信じない。部下への包容力はあったものの、島津久光薩摩藩11代藩主・島津斉彬の異母弟。斉彬の死後、藩の実権を握り「国父」と呼ばれました。西郷とは関係が悪かったことで知られます。のように西郷を激しく嫌う人もいたそうです。深井さんは「ステレオタイプは解像度が粗すぎてモザイクレベル」と指摘し、このシリーズで解像度を上げていきたいと語っています。
薩摩藩の広大な支配領域と意外に低い石高
ここからは西郷が生まれ育った薩摩藩の特徴に話が移ります。深井さんは開口一番、「一番すごいのは薩摩藩です」と断言しました。
薩摩藩の支配領域は、現在の鹿児島県・沖縄県の全域に加え、宮崎県の約3分の1を含む広大なもの。南北は約1,200kmにおよび、鹿児島から最南端の八重山諸島沖縄県の最南西部にある島々。石垣島や竹富島などを含み、台湾にも近い位置にあります。までを結んで円を描くと、江戸はもちろん朝鮮半島や中国の一部まで入ってしまうほどだったといいます。
注目すべきは、公称72万8千石という石高が精米すると35万石に半減してしまうという点です。加賀藩現在の石川県・富山県にあたる藩。「加賀百万石」と称され、江戸時代最大の石高を誇りました。の100万石と比べれば、広大な領土のわりに経済力は限られていました。
さらに、琉球王国15世紀に成立し、1879年まで存在した沖縄の独立王国。明・清に朝貢する一方、1609年以降は薩摩藩の支配下に置かれる「両属」状態にありました。という異国を支配下に置いていたのは全藩の中で薩摩だけ。広大な海域を支配する海洋国家的な性格を持つ、異例中の異例の藩だったわけです。
武士率25%──全国平均の4倍を抱えた理由
薩摩藩のもう一つの大きな特徴が、武士階級の異常な多さです。明治維新の頃、日本の総人口約3,300万人のうち士族は約190万人。そのうち約20万人──実に10人に1人が薩摩藩の武士だったのだそうです。
人口の約5%が武士階級
人口の約25%が武士階級(全国平均の約4倍)
なぜこれほど武士が多かったのか。深井さんによれば、関ヶ原の敗戦後、いつ徳川軍が攻めてくるかわからないという危機感から、薩摩は領内各地に城と武士を配置して防衛体制を維持していました。
幕府の一国一城令1615年発布。大名の軍事力を制限するため、1つの藩に1つの城しか認めない法令。によって城壁は取り壊されましたが、薩摩は武士だけはそのまま各地に残しました。その結果、領内全域に武士団が散らばり、半武半農の生活をしながら治安維持と地方行政を担う独特の体制ができあがったのです。
この高い武士率は、薩摩藩の「武」へのこだわり、決断力、そして「自分たちは徳川と同格だ」というプライドの源泉になった一方で、生産人口が減って石高や利益率を圧迫するという代償も伴いました。その穴を埋めるために琉球貿易などで稼ぐ必要があったわけです。
グローバルの玄関口だった辺境・南九州
日本地図で見ると辺境に見える鹿児島ですが、実はここが海外からの情報が最も早く流れ込む玄関口でした。深井さんはこの立地条件が薩摩藩の先進性の根幹だと強調しています。
フランシスコ・ザビエルスペイン出身のイエズス会宣教師。1549年に鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝えた最初の人物として知られます。が鹿児島に来航したこと、鉄砲伝来1543年、種子島にポルトガル人が漂着し、鉄砲が日本に初めてもたらされた出来事。戦国時代の戦術を一変させました。が種子島だったこと──これらは偶然ではなく、大航海時代の航路上で鹿児島が必然的な入口だったからだと深井さんは説明します。
ペリー来航の10年も前から、薩摩藩は琉球を通じて西洋列強の軍事的圧力を肌で感じていたのです。これに対して当時の藩主・島津斉興薩摩藩10代藩主(在任1809〜1851年)。財政改革を断行して藩の財政を立て直し、次代・斉彬による近代化投資の基盤を作りました。は、幕府から「琉球に兵を送れ」と命じられたものの、「戦闘になれば絶対に負ける。交渉で穏便に退去させるしかない」と冷静に判断。少人数だけ派遣して面目を保つという現実的な対応を取りました。
ペリーが来る10年前、明治維新から数えたら20年前の段階で、外国にかなわないので西洋列強の軍事力の差を認識し、その差を早く縮めないとやべえぞっていう認知に立ってたんだよね
深井さんはこの状況を「英語のブログやYouTubeを他の誰も見てなかった時代に、一足先にアクセスしていた人たち」にたとえます。辺境ゆえに中央の権力闘争に埋没せず、外の情報に敏感で、かつ行動に移すインセンティブがあった。この「辺境×グローバル接点」の掛け算こそがイノベーションの源泉だったというわけです。
先生不在の近代化が生んだ技術力
危機感を覚えた薩摩藩は、ペリー来航の10年以上前から近代化に着手します。洋式砲術の採用、大砲の鋳造、火打ち石式の水石銃の製造、沿岸への砲台建設、理化学薬品の研究施設の創設──。ところが当時の日本は鎖国中。外国人技術者に教えてもらうことはできません。
見たものを作るとか、書物を仕入れて作るとかっていう、先生不在の独学系でやらないといけないんです
オランダ経由で手に入れた西洋の書物を手探りで読み解きながら、部品の一つ一つがなぜ必要なのかを理解しなければ作れない。全部を分解し、「これがないとこう動かないのか」と試行錯誤を重ねて技術を習得していったのです。
深井さんによれば、この「先生がいなかったから」こそ、日本の近代化が成功したのではないかという指摘があるそうです。自分で全部理解しようとする態度が身についていたため、明治維新後に外国人技術者を招いた際の習得スピードが驚異的に速かったのだと。「技術大国日本のルーツはこういうところにある」と深井さんは語っています。
書物から学ぶ
オランダ経由の西洋書物を手探りで翻訳・読解
全部品を理解する
部品一つ一つの役割を分解して把握。「なぜ必要か」を徹底追究
何度も失敗して作る
試行錯誤の独学で大砲・火薬・銃弾などを製造
明治維新後の主力生産拠点に
集成館事業の施設が新政府軍の大砲製造所として活用。1875年時点で陸海軍の火薬は全量鹿児島製、スナイドル銃弾の国産7割が鹿児島製
借金250年払いと投資への覚悟
近代化には当然、莫大な資金が必要です。薩摩藩は他の藩と同様に多額の借金を抱えていました。その額、約500万両。1両を現在の約6万円と換算すると、およそ3,000億円。しかも藩の年間収入の約40倍にあたり、利子だけで収入を食いつぶしてしまうほどだったといいます。
年間売上100億円の企業
が4,000億円の借金を抱えている状態
利子だけで利益が全部飛ぶ
内部留保を作るには利子を払わないしかない
封建社会の「力」で解決
商人への借金を250年払いに一方的に切り替え、キャッシュフローを改善
ちなみに佐賀藩現在の佐賀県・長崎県の一部にあたる藩。薩摩と並んで早期の近代化に成功し、アームストロング砲の国産化などで知られます。はさらにアクロバティックで、借金の7割を返済免除、残り3割を「千年払い」にしたというエピソードも紹介されました。
返す気ないやん、絶対
こうした財政改革でなんとか首の皮をつなぎ、さらにその上で次の藩主・島津斉彬薩摩藩11代藩主(在任1851〜1858年)。集成館事業を推進し、西郷隆盛を見出して重用した名君。開明的な「蘭癖大名」としても知られます。の代でまた大型投資に踏み切るのが薩摩藩のすごさです。藩内からは「投資をやめろ、崩壊する」という声もあったといいますが、斉彬はこう語ったと伝えられています。
深井さんはこれを「めちゃくちゃ金ないのに超借金して超投資しないといけないぐらい危機感がある」と表現しました。お金があるから投資しているのではなく、外国の軍事的脅威に対する切迫した危機感が、このアクセル全開の投資を支えていたということです。そして重要なのは、こうした気概を持つトップが代々続いたこと。深井さんは「運良くなのか必然性なのか」と問いかけつつ、外国との接触が生み出す危機感の連鎖が、名君の連続を支えた可能性を示唆しています。
まとめ
西郷隆盛シリーズの第1回は、主人公が登場する前に薩摩藩という「器」の凄みを理解するための回でした。ステレオタイプな西郷像を一度壊し、資料から見える繊細で生き急いだ人物像を予告した上で、その西郷を生んだ薩摩藩がなぜ幕末の中心に躍り出ることができたのかを、領土・武士率・立地・技術力・財政の5つの軸から描いています。
辺境だからこそ外の情報に敏感で、先生がいないからこそ技術力が育ち、借金まみれだからこそ投資に命を懸ける──逆境がアドバンテージに転じるという構造は、現代の組織運営にも通じる普遍的な示唆を含んでいるのではないでしょうか。次回はいよいよ西郷隆盛が誕生します。
- 研究者・家近良樹氏の分析によると、西郷隆盛は「豪放磊落」とは異なり、繊細で感情の振れ幅が大きく、自殺願望を抱えていた人物だった
- 薩摩藩は南北1,200km・鹿児島+沖縄+宮崎の一部を支配する広大な領域を持つ一方、実質石高は35万石と意外に低かった
- 人口の25%が武士で全国平均の約4倍。関ヶ原敗戦後の国防体制維持が背景にあった
- 琉球を通じて海外からの情報と脅威をいち早く感じ取り、ペリー来航の10年以上前から近代化に着手
- 鎖国で先生がいない中、独学で全部品を理解しようとする態度が身につき、後の急速な技術習得の基盤になった
- 年収の40倍の借金を250年払いに切り替えてキャッシュフローを確保し、集成館事業など近代化投資に注ぎ込んだ
- こうした危機感・決断力・投資の覚悟を持つ名君が連続して現れたことが、薩摩藩が幕末の中心に躍り出た原動力だった

