中国と真逆?日本の教育は「システム化しなかった」
コテンラジオの教育の歴史編は、前回までの中国編を終え、今回から日本の教育の歴史に入ります。深井さんは「自分が住んでいるので興味がある」と話しています。
楊さんがまず示したのは、中国との対比です。中国の教育の特徴が徹底的なシステム化だったのに対し、日本の教育はあまりシステム化が発達しなかったといいます。
日本にも公的な教育組織はあったものの、一門の中や家庭の中での教育、そして私学が中心に展開されたというのが楊さんの整理です。
思想の面でも違いがあります。日本も律令国家を作るときには中国から儒教を中心に据えたものの、その後の日本では儒教が教育の中心にはなっていきませんでした。
(日本は)中国とは離れているし、日本にも元から神道とか、あとは仏教とかいろいろ入ってきたので、儒教の文化を選択するか選択しないかみたいな自由をやっぱ持ってたんですよ。
中国から距離があり、神道や仏教も並び立っていたため、日本の教育は「いろいろある」状態になったと楊さんは話しています。
徹底的なシステム化。儒教が一貫して教育の中心
システム化は発達せず、一門・家庭・私学が中心。儒教は選択できるものの一つ
日本最古の公立学校・大学寮と菅原道真の超難関試験
日本最古の公立学校とされるのが大学寮 ── 律令制のもとで設けられた官僚養成のための教育機関。式部省の管轄で、儒学や法律、算術などを教えましたです。楊さんによると、唐のシステムを参考に、天智天皇が671年頃に創設したと言われています。
大学寮の初代長官は百済人でした。初期は長官も学生も、百済系や中国系の渡来人がほとんどだったといいます。
日本の最初の公教育の仕組みっていうのは、中国とか渡来人がスタートアップになって、移植を最初にしたっていうことなんですよね。
なるほど、輸入や。
大学寮が必要になった背景には、天皇を中心とする中央集権体制があります。遠隔地を治めるには文書行政が欠かせず、文字や文章を扱う事務処理能力を持った官僚を大量に育てる必要がありました。
大学寮で学んだのは儒学、法律、漢詩文、書道、算術、そして日本独自の科目として中国語の発音でした。律令制では財政の基礎である田んぼと税の把握が重視されたため、算術も大切にされたといいます。
ここでもやっぱね、読み書きそろばんね、毎回出てくる。
ただし大学寮が全貴族の目標だったわけではありません。親の位が一定以上の貴族は、大学寮に入らなくても位を与えられたからです。入れるのも文筆や記録作成に関わる特定の氏族に限られていました。
大学寮には唐から輸入した仕組みとして卒業試験や任官試験もありました。平安時代には菅原道真 ── 平安時代の学者・政治家。右大臣まで昇ったのち大宰府に左遷され、没後は天神として祀られ、学問の神として信仰されていますが合格した「大策」という超難関試験があったと楊さんは紹介しています。
二百年の間に65人しか合格者が出てないっていう。その一人が菅原道真。26歳で合格してます。だからほんと神様なんですよ。
地方には国学という教育機関も整えられたと言われています。
儒教より漢文学へ。神聖な漢字を崩した「エモい」ひらがな
大学寮とは別の系統として、仏教も日本の教育で重要な位置を占めていました。楊さんは、法隆寺がもともと法隆学問寺という名前の学術・研究機関だったことや、空海が作った学校を挙げています。
中国との違いとして、日本では次第に漢文学が最も重視されるようになりました。日本は儒教を国家統治の中心に据える必要はなく、欲しかったのは漢字を扱うスキルだったからだと楊さんは説明します。
もうガチガチに儒教をやるよりも、もうちょっとアーティスティックな方に振っていったというのはありますね。
日本は輸入した大学寮の制度をカスタマイズし、漢文学の教養を試す文学科目を設けます。この文学科目がとても人気になったといいます。
人気になるっていうのが面白いですね。
詩を読めるかどうかっていうのが官僚の基準になるんですよね。
宮廷詩人の育成が重視され、飲み会で漢詩を詠めないと出世に響くこともあったそうです。日本の教育は芸術の方向へ振れていきました。
楊さんがもう一つ面白いと話したのが、ひらがなの発明です。漢字はもともと神と王の交信の記録や占いに使われた神聖な文字でした。
(漢字を)躊躇もせずに崩して使う日本のメンタリティ。これ個人的に僕すごいエモいなと思いました。
日本人すぐ略しますからね。キムタクとか。
ひらがなは最初「女文字」と蔑まれていましたが、やがて公文書にも使われるようになり、『源氏物語』などの文学を生む土壌になっていきました。
一方で大学寮の地位は相対的に下がっていきます。藤原氏などの貴族や寺が力と土地を持つと、自分の一族が通う教育機関を独自に作り、そこで育てた人材を朝廷に送り込むようになりました。
この辺が中国と違う感じがするな。統制が若干取れてない感じが。
ヤンキーが勉強を始めた?武士の教養と礼法マニュアル
楊さんによると、律令制が衰退した10世紀後半には、大学寮や国学も学校としての機能を失い、教育は世襲制が特徴になっていきます。次に台頭するのが武士です。
武士って前の回でもやったけど、やっぱヤンキーじゃないですか。(そのヤンキーが)勉強始めるんですよ。
武士は家臣団を統率し、自分たちの正当性を説明するために、武力だけでは足りなくなりました。そこで京都の貴族を登用したり師匠に招いたりして、歌や教養を学び始めます。本を集めて文庫を作り、貸し借りをする武士も現れました。
武士の間では弓馬の道や礼法もフォーマット化されていきます。今も残る小笠原流礼法 ── 武家の礼法の流派の一つ。小笠原家が伝えてきたもので、現在も作法や弓術などの形で継承されていますは、武士に弓や馬、礼儀を教える指南役の小笠原家が作ったものだといいます。
小笠原家・伊勢家・今川家の3つの家が話し合って作った、武士が読むべき礼法のマニュアルの中身を、楊さんは次のように紹介しています。
- 暑いからといって人前で扇子を使うな
- 汗を拭うな、鼻をかむな
- 相手の食べるスピードや気持ちに合わせて食事を進めよ
- 爪楊枝を使う時は口を隠せ
- 酒の席で踊ってと言われたら踊れ
それ系なんや。マナー講座。
逆に(武士は)できてなかったってことだそうで、すごいやっぱヤンキーだったんで。
武士には実務上の学習ニーズもありました。開発領主として領地を経営し、農税を計算し、鎌倉や京都と手紙で連絡を取る必要がありました。裁判を巧みに行うことも政権の安定に欠かせず、文字の力が求められたといいます。
寺に集まる知識と、軍師を育てた足利学校の占い
武士の学習需要に応えたのは各地の寺でした。楊さんは、日本の教育システムの中核を担ったのは寺であり、漢字を読める僧侶や本などの文化資源が寺に集まっていたと説明しています。
番組では、中世ヨーロッパでキリスト教会が教育を担ったのと同じ構図だという指摘も出ました。生産活動に携わらずに教養を極められる余裕を持っていたのが宗教団体で、その人たちが武士のような層に教える役目を担う、という見方です。
武士が教育を受けるには貴族や寺との連携が必要でした。その流れで生まれたのが足利学校 ── 現在の栃木県足利市にあった中世の教育機関。室町時代に上杉憲実が再興し、「坂東の大学」とも呼ばれましたで、楊さんは足利一門の氏寺をベースに発展した最大規模の私立教育機関だと紹介しています。
足利学校は最盛期に全国から生徒数ほどの生徒を集めたといいます。起源は不明ですが、守護大名の上杉憲実が再興した記録が残っています。儒学、易学、医学、兵学、天文学などを学べる総合教育施設でした。
特に有名なのが易学、つまり占いです。当時の戦いでは船に乗り込む方角や体の動きまで占いのロジックで決めることがあり、占いは軍師が必ず身につける知識でした。足利学校からは軍師が次々と輩出され、大名に抱えられていきました。
足利学校の運営目的はよくわかっていないといいます。楊さんは、寺から生まれた学校なので、仏教的な功徳を積む一環として上杉家が運営していたのではないかという説を紹介しつつ、「わかんないですよ、実際は」と留保しています。
一揆にも訴状が要る。江戸時代に庶民が文字を学んだ理由
中世の庶民について楊さんは、幕府が勉強を奨励することはなかったと話します。それでも村の自治運営や商工業の取引で、民間でも読み書き計算のニーズが高まり、民衆の書簡や村の文書も多く残っているといいます。ただし組織的な教育はまだありませんでした。
江戸時代になると、社会構造の変化から組織的な教育が必要になります。大きな要因が兵農分離 ── 武士と農民の身分や居住地を分ける政策・社会の変化。武士は城下町に集められ、農村から離れて暮らすようになりましたです。
兵農分離
武士が城下町に住み、農民と離れて暮らす
文書行政の拡大
御触書や法令を文書で伝える必要が高まる
双方に識字が必要
武士は書き、農民は読む。陳情や訴訟も文書で行う
村役人の学び
文書を扱える人材の有無が村の政治力に直結する
下から上への陳情や訴訟もすべて文書の形でなければなりませんでした。楊さんは、農民の政治行動である一揆でさえ訴状が必要だったと例を挙げます。
要するに識字率がこの村の政治力をすごく関係してたんですよ。
だからもう(読み書きは)最低限のビジネススキルやったわけですね。生きていくための。
社会が安定した江戸時代には商品経済も進み、帳簿の整理や契約書の作成、年貢の計算など、都市でも農村でも文字の学習が必要になりました。
出版文化の広がりも追い風になります。それまで仏典や特権階級向けが中心だった木版印刷は、出版業者の増加でコストが下がり、中国の古典や『枕草子』『万葉集』などが市場に流通し、知識人も自分の著作を発行できるようになりました。
慶安の変がきっかけ?武力から教養へ転じた徳川家
江戸時代の公教育について、楊さんはまず徳川家が儒教を奨励したことを挙げます。目的は天下を治めやすくすることでした。
江戸時代になった当初って思い出して欲しいんですけど、武士って裏切ってなんぼのメンタリティじゃないですか。
幕府はこうした武士を、大名の家来として従順に働くメンタリティへと変えていく必要がありました。江戸初期には藩の取り潰しや領地の没収で浪人が溢れ、盗賊になるなど治安が悪化していたといいます。
その中で起きたのが慶安の変 ── 1651年に由井正雪らが計画した幕府転覆の未遂事件。浪人問題が背景にあり、幕府の政策転換のきっかけとされますです。火薬庫を爆発させて江戸城を焼き討ちにし、将軍を人質に取ろうとする計画でしたが、未然に抑えられました。
武力による統治
言うことを聞かない藩を取り潰し、浪人が増える
慶安の変
恨みを持つ浪人たちが幕府転覆を計画する
文治主義へ
教養で国を治める方針に転換し、中国の儒教のフォーマットを導入する
幕府は、教養で統治した成功事例がすぐ隣の中国にあると考え、儒教を国家統治に取り入れました。本格的な導入は五代将軍綱吉の時代で、武士教育の中央学府として昌平坂学問所 ── 江戸幕府の直轄の学問所。湯島聖堂を起源とし、朱子学を中心とする幕臣教育の拠点でしたが位置づけられていきます。
もう一つの特徴が海外の学問の導入です。徳川吉宗の時代に輸入が解禁され、オランダ語や医学、博物学、天文学などが入ってきました。楊さんは、それ以前の禁止も実際には割と緩かったようだと補足しています。
藩校は学校であり、情報ネットワークでもあった
江戸時代の教育システムとして有名なのが藩校です。各藩が自前で学校を運営し、楊さんは福岡の修猷館や山口の明倫館など、今も残るものがあると紹介しています。
それもともと藩校なの。
藩校はもともと藩士に学問を奨励する場でしたが、途中から人材育成という明確な政治目的を持つようになります。財政難や飢饉、打ち壊しなどが続き、政治改革に対応できる人材が必要になったためです。
藩士に「教養を身につけた方がいい」と学問を奨励する場
財政難や飢饉に対応できる人材を育てる、政治目的の機関
江戸末期にはほとんどの藩が藩校を持ち、合計は300校ほどあったと記録に残っているといいます。
楊さんは藩校のもう一つの重要な機能として、情報収集のネットワークを挙げます。インターネットのない時代、最も重要な情報源は人でした。
藩校ってそのいろんな藩を渡り歩いている先生を招いて教えてもらったりとか、逆に藩校の学生を江戸とか他の藩に留学に出すことができたんですよね。
こうして集まった情報を藩の政治決定に生かしていたことから、楊さんは藩校が「ちょっとシンクタンクっぽいこと」もしていたと話しています。
寺子屋で識字率は世界最高?6年間の義務教育のルーツ
江戸時代のもう一つの特徴が寺子屋の普及です。本来は手習い塾と呼ばれ、起源は中世の寺でしたが、身分を問わず文字が必要になったことで江戸時代に広まりました。途中からは幕府もテキストを町の寺子屋に配るなど、民衆教育に関わるようになります。
楊さんは、幕府の狙いは教養を高めることより、儒教の枠組みの中で「民衆は民衆らしくしなさい」という統治目的だったと考えています。
寺子屋によって江戸時代の日本は世界最高レベルの識字率を達成したとよく言われます。しかし楊さんによると、最近の研究ではそうでもなかったようです。
だからやっぱりこう、農村と都市ではかなり識字率の差があったみたいですね。
商人や職人が文字や計算を使う都市では識字率が高く、農村ではそうでもなかったといいます。
その証拠として楊さんが挙げたのが明治時代のエピソードです。軍が訓練マニュアルを作るために新兵の学力調査をしたところ、文字を読めない人が多すぎたため、文部省に働きかけて義務教育を4年から6年に延ばさせたといいます。
おお、そんなところに起源があるんだ。
実は軍からの要望なんですよね。そう、マニュアル読めない人が多すぎて。
キリシタン学校のピクニックから松下村塾まで
楊さんが「もう一つ面白い」と紹介したのがキリシタン学校です。イエズス会が布教の一環として学校を建て、200か所以上あったと言われています。
日本人の司祭を育てるため、セミナリオ、ノビシアド、コレジオという高等教育機関も大分や安土などに設けられました。カリキュラムにはキリスト教、ラテン語、フルートやオルガンなどの音楽、水泳が含まれていたといいます。
あと、弁当を持ってピクニックに出かけたりとかですね、クリスマスに文化祭をやったりとかしてたんですよ。楽しいじゃないですか。
特徴的なのは、日本語や『平家物語』などの日本文学をカリキュラムに入れたことです。身分の高い貴族や大名に布教するには、日本語力に加えて日本の教養も必要だったためです。
寺子屋より一段レベルの高いものを教えたのが私塾です。儒学、国学、洋学、蘭学、兵学、医学、天文学、音楽など、多様な内容が教えられていました。
| 種類 | 主な学び手 | 特徴 |
|---|---|---|
| 藩校 | 藩士 | 人材育成と情報収集のネットワーク |
| 寺子屋(手習い塾) | 主に庶民 | 読み書き計算が中心 |
| 私塾 | 身分を問わない学び手 | 儒学・国学・蘭学など多様な高度な学問 |
楊さんが挙げた有名な私塾は、広瀬淡窓の咸宜園、国学者・本居宣長の鈴屋、緒方洪庵が大阪で開いた適塾 ── 蘭方医・緒方洪庵が大坂に開いた蘭学塾。多くの人材を輩出し、大阪大学の源流の一つとされますなどです。適塾には福沢諭吉や大村益次郎、手塚治虫の祖父が通っていました。
そして吉田松陰の松下村塾です。幕末に社会の変動が激しくなると、私塾は思想運動の源泉となり、高杉晋作や久坂玄瑞らが生まれます。最終的には武士たちが、自分たちの政権である幕府を自ら倒し、明治維新へと向かっていきました。
統一権力が弱いからこその強み。日本の教育は一長一短
番組の終盤は、中国との比較で日本の教育を振り返る対話になります。楊さんは、幕府にも優れた儒学者がいて哲学的な研究もしていたとしたうえで、中国のような凄まじいシステム感がないのが日本の特徴だと話します。
幕府が寛政異学の禁 ── 老中・松平定信が昌平坂学問所で朱子学以外の学問の講義を禁じた政策。寛政の改革の一環として行われましたで朱子学以外を禁じても、私塾では好きなものを教えていました。松下村塾でも、朱子学と対になる陽明学を読ませていたといいます。
まあだから中国との大きい違いは私学でしょ。私塾の存在ですよ。
これ(私塾)が結局その幕府を倒しちゃうわけだから、松下村塾とかが。だから結局国家権力が弱かったって話ですよ。
システムが弱いからこそ変化できた、という指摘に対し、楊さんは長所と短所の両方を挙げています。
番組では、日本の教育のモチベーションの多様さも話題になりました。国も民間も教育を担い、私塾は営利目的でも官僚養成でもなく、純粋に学びたい人たちが集まっていたという見方が示され、「日本の教育ってアーティスティック」「平安時代からアーティスティック」という声も上がります。
さらに、各社会が何を教えるかをどう選んできたかにこそ社会の特徴が表れる、という視点も示されました。同じ儒教でも、中国では出世のため、日本では別の目的で学ばれていました。社会が変われば学ぶ内容も変わるのだから、社会が変遷している今も教育は変わらなければならない、という問題提起で日本編は締めくくられます。
まとめ
日本の教育は、大学寮で中国のシステムを輸入しつつも徹底したシステム化には向かわず、貴族・寺・武士・藩・私塾がそれぞれの必要に応じて学びを担う形で広がりました。その多様さが、最終的には私塾から幕府を倒す人材を生むことにつながったと番組では語られています。
- 古代の大学寮は唐を参考に渡来人主導で作られたが、日本では儒教より漢文学が重視され、芸術寄りに発展した
- 武士は統治や正当性のために教養や礼法、読み書き計算を学び、その学びを各地の寺が支えた
- 江戸時代は兵農分離や商品経済、出版文化で庶民にも文字が必要になり、藩校・寺子屋・私塾が広がった
- 寺子屋による「世界最高の識字率」には都市と農村の差があり、明治の義務教育6年化は軍の要望がきっかけだった
- 統一権力が弱いことは多様性と変化への強みを生む一方、到達スピードの遅さもあり、一長一短だと語られた



