ムハンマド以前と以後で何が変わったのか?
教育の歴史シリーズは、ヨーロッパ、中国、日本と回ってきました。今回のテーマはイスラーム世界の教育です。深井さんはまず、イスラームの教育はムハンマド以前と以後で大きく違うと切り出します。
ムハンマド以前の時代はジャーヒリーヤ ── アラビア語で「無知」を意味し、イスラーム成立以前のアラビア半島の時代を指す呼び名です。イスラームの側から見た時代区分です時代と呼ばれ、「無知の時代」という意味を持ちます。当時のアラビア半島は遊牧民による部族社会でした。
ムハンマド以前の遊牧民社会で大事だったのは、厳しい環境を生き抜くための生活の知恵です。詳しいことはわかっていないものの、親から子へ、年長者から若者へと口承で受け継がれていたと考えられています。
状況を一変させたのが、ムハンマドがメッカで啓示を受け、イスラームを創始したことでした。ここから「知とは何か」という捉え方そのものが変わっていきます。
遊牧民の部族社会。生き抜くための生活の知恵を、親から子へ口承で伝える
クルアーンとハディースに学ぶべき知のすべてがあるという考え方が生まれる
なぜ「神の言葉に近いほど純粋な知」なのか
イスラーム社会で知の中心に置かれたのは、神の言葉であるクルアーン ── イスラームの聖典で、日本では「コーラン」とも呼ばれます。ムハンマドに下された神の啓示をまとめたものとされますと、ムハンマドの言行録であるハディース ── 預言者ムハンマドの言葉や行いを伝えた記録の集成です。クルアーンに次ぐイスラームの法や生活規範の拠り所とされますの2つです。学ぶべき知はすべてここにある、という考え方になります。
深井さんによると、イスラームでは神の言葉からの距離が近いほどノイズのない知だと捉えられていました。翻訳を挟んだり、さまざまな人の口承を経たりすると、知が劣化するという感覚です。
いろんな人のフィルターを通らない方がいいよねってことですね。
ムハンマドの存命中、神の言葉を伝えるのはムハンマドただ一人でした。深井さんは「先生この人だけ」という、極めて属人的な状態だったと説明します。ムハンマドの死後は、直接の弟子であるサハーバがさらに広く伝えていきました。
すげえな。ほぼ一人から発してるじゃない。
神の言葉を聞けたのが彼(ムハンマド)だけだったので、そこからすべての知が始まっていくという、大転換が起こるわけですね。
ただし深井さんは、実際には過去の生活の知恵も受け継がれていたはずだと補足します。そのうえで、新しい知が始まり、そこが真理であるという感覚が生まれた点を強調しています。
帝国の拡大が教育を必要とした理由
イスラームはその後、すごい勢いで拡大し、イスラーム教徒ではない人々や、砂漠以外の地域を取り込んでいきます。すると、これまで口承で伝えてきたクルアーンやハディースの内容を、一度テキスト化したほうがよいという話になりました。
クルアーンとハディースのテキスト化はアラビア語で行われ、その後はなるべく内容を変えないように扱われていきます。
同時に整えられたのが、生活のルールであるイスラーム法 ── クルアーンやハディースをもとに、信仰儀礼から商取引、家族関係まで生活全般を定める規範です。アラビア語でシャリーアと呼ばれますです。多様な背景を持つ人々や異教徒と共存していくためには、統一ルールを確立する必要がありました。
深井さんは、これまでのシリーズで見えてきた法則性として、帝国が広がると統一ルールのために教育が必要になるという流れを挙げます。学習ニーズが最初に生まれるきっかけはここにあり、どの文明でも大きな帝国を作ると同じことが起こるといいます。
領土の拡大
異教徒や砂漠以外の地域を取り込む
テキスト化
クルアーンとハディースをアラビア語で文字にする
統一ルール
多様な人々と共存するためイスラーム法を確立する
学習と教育
統一ルールを維持するため学ぶ必要が生まれる
そうだよね。日本も作ろうとしたけどね。
ギリシアの学問を吸収させた「余裕」
イスラーム世界は拡大の過程で、古代ギリシアの学問も取り入れていきます。拡大しきったあとは平和で豊かな時代が続き、人々に余裕が生まれたと考えられています。
余裕のある時代に、イスラーム世界は哲学、論理学、天文学、医学などを吸収しました。ギリシアから伝わった知識はイスラーム社会で温存され、のちにヨーロッパへ逆輸入される契機になります。
さっき言った余裕ってめっちゃキーワードですね。
普段自分たちが勉強してるやつ以外を勉強しようとする時っていうのは、やっぱり余裕がある時ですね。
深井さんは、生活に関係のない学問は勉強しなくても生きていけるため、学べるのは「暇な人」だけだと話しています。
ウラマーとモスク、5〜6歳から始まる学び
8世紀半ば以降、広い範囲を治めるアッバース朝 ── 750年に成立したイスラーム王朝で、首都バグダードを中心に学問や文化が栄えましたが成立すると、教育の方法も少しずつ変わります。この時代に、ウラマーと呼ばれる知識人層が現れました。
アッバース朝期のウラマーは知識を修めた学者であると同時に、行政官や裁判官としても働きました。そのため、ウラマーはとても尊ばれる存在になります。
宗教が一番あれだよね。その知識を溜めるモチベーションの一つだね。
深井さんは、宗教施設はリソースを集めやすく、余裕を生みやすい場所だったと説明します。過去の宗教は生活そのものと分かれておらず、イスラームは特に生活と密接に関わっていたといいます。
イスラーム世界の教育の場として使われたのも、宗教施設であるモスクでした。モスクは礼拝の場であると同時に、知識を伝える場にもなっていました。
モスクにはクッターブ ── モスクなどに付設された初等教育の場で、マクタブとも呼ばれます。クルアーンの読誦やアラビア語の読み書きを教えましたと呼ばれる、小学校のような幼児学校がありました。子どもたちはここでクルアーンの朗唱やアラビア語の読み書きを学びます。
深井さんによると、アラビア語は中世ヨーロッパのラテン語のような役割を果たしており、母語がアラビア語でない人も学びました。クッターブには5〜6歳ぐらいで入り、その数もとても多かったようです。
5、6歳で入るって結構すごいですね。
(クルアーンには)生活の知恵が真理がそこに全て詰まってるし、生活の知恵も詰まってるから、あれを勉強しないことにはどうにもならないので。
クッターブでの学習は暗記が基本で、クルアーンの暗唱を間違えると棒で叩かれることもありました。深井さんは、キリスト教圏でも同じことがあり、日本の寺子屋でもおそらく行われていただろうと話しています。
マドラサはなぜ生まれたのか?
モスクに続いて登場したのがマドラサ ── イスラーム世界の高等教育機関で、法学や神学などを教えました。寄宿施設を備えたものが多いのが特徴ですです。深井さんによると、マドラサはファーティマ朝の時代にできていきました。
マドラサとモスクの違いは、寄宿舎があることです。学生が寝泊まりしながら学べる、教育に特化した高等教育施設で、読み書き算術ではない高度な学問を扱いました。
深井さんは、高等教育の必要性が生まれた背景に、各文明に共通する構図があると話します。ファーティマ朝の時代には複数の王朝が並び立ち、それぞれがイスラームの正当な継承者だと主張していました。
王朝の正当性をロジックで語ろうとすると、教養が必要になります。深井さんは、ボローニャ大学ができたときも同じ話だったと振り返ります。
ある程度武力で何とかしてきて、それ以上いろんな人を納得させようとすると、武力では納得できなくなっていくので、教養のフェーズに入るっていう。
強制力で統制する方がコストが高くなる。
武力・脅し
ある程度までは力で統制できる
限界
さらに多くの人を納得させようとすると武力では足りない
正当性の主張
複数の王朝が継承者の正当性をロジックで語る
教養と高等教育
マドラサのような高等教育施設が作られる
深井さんは、中国や日本の武士の社会でも同じことが起きたと指摘しています。
アズハル学院は「世界最古の大学」なのか
代表的なマドラサが、エジプトのカイロに建てられたアズハル学院です。世界最古の大学とも言われ、ボローニャ大学よりも古い歴史を持ち、今も存在しています。
ただし深井さんは、アズハル学院を大学と呼ぶことには慎重です。シリーズの前の回で紹介した大学の特徴、たとえば独立性などをマドラサは共有していないため、別の表現のほうがよいのではないかと話しています。
マドラサはその後、イスラーム世界の各地に広がっていきます。高等教育で知識人を集める必要が生まれるほど、それぞれの国が大きくなっていたということです。
寄進制度ワクフが支えた無料の教育
樋口さんが「マドラサは国が作ったのか」と尋ねると、深井さんは国であり、イスラームの共同体であるウンマ ── イスラーム教徒の共同体を指す言葉です。民族や地域を超えて信仰でつながる集団という意味を持ちますが作ったと答えます。
マドラサを支えたのは、寄進の仕組みであるワクフ制度 ── 財産の所有者が、その収益を宗教施設や学校、公共の目的に永続的に充てるよう寄進する制度です。モスクや病院などの運営を支えましたでした。入学を許された学生は無料で学ぶことができ、貧困層でも実力があればマドラサで教養を身につけられた社会だったと言われています。
深井さんは、場所や時代によって違いはあるものの、そうした要素があったと補足しています。マドラサが広がる一方で、従来のモスクでの教育も続き、2つの教育が並行していました。
卒業を決めるのは年齢ではなくウラマー
マドラサの面白い特徴は、卒業の判断の仕方です。ウラマーの権威が非常に高いため、年齢ごとに学ぶ内容を決めるのではなく、ウラマーが学生の実力を見て卒業を判断していました。
マドラサの卒業判断はシステマチックではなく、ウラマー個人の判断に委ねられた属人的なものでした。樋口さんは「師匠と弟子みたい」と受け止め、深井さんはギルドで親方が認めると職人になれる仕組みに近いと話します。
権威ある個人(ウラマーや親方)が実力を見て認める
統一された制度や年齢の基準で判断する
深井さんは、弟子システムと学校システムはどちらも一長一短で、どちらがよいというものではないと話しています。
オスマン帝国はマドラサをどう変えたか
オスマン帝国の時代になると、マドラサは組織化され、国家の中にさらに取り込まれていきます。オスマン帝国はウィーン近くまで領土を広げ、コンスタンティノープルも攻め落としました。
オスマン帝国が新たに得た地域には、ムスリムがいませんでした。イスラーム法を理解した人に統治してもらうには、マドラサを作ってウラマーを養成する必要があります。深井さんは、中国が地方に大学を作った話にとても近いと指摘します。
オスマン帝国はマドラサをランク付けしてヒエラルキー化し、ランクを登っていく制度で国家を統治しました。樋口さんの言うとおり、ここはかなりシステマチックです。
それでもオスマン帝国のマドラサは、寄進制度であるワクフに支えられていました。深井さんは、共同体である自分たちがお金を出して共同体をより良くしていく、という感覚があったのではないかと話します。
(寄進するという行為が)もう制度の中に組み込まれてしまってるっていう状態ですね。それがインフラとして機能しているという。
深井さんによると、ワクフは純粋な寄付ではなく、寄進した側にもさまざまなメリットがあったようです。深井さんはこれを「すごくうまくできた社会」と評しています。
ここで深井さんは改めて整理します。イスラームの教育は、クルアーンとハディースを知の出発点とし、そこにある真理を学ぶものでした。そして、その知を担うウラマーの権威がとても高かったことが特徴です。
日本はなぜ「よそから学ぶ」のが得意なのか
話は日本へ広がります。樋口さんは、中国には儒教、イスラームにはクルアーンという必ず学ぶべきベースがあるのに対し、日本は自由だと感じたと話します。深井さんも、日本の学びは非常に自由で、確固たる軸がむしろなかったと応じます。
深井さんは、日本が置かれた環境の特殊さを挙げます。大陸と陸続きではない一方で、隣に超巨大国家の中国がありました。大国から攻め込まれることは少なく、日本人は自分たちの裁量で情報を取りに行き、少し遅れて中国を真似し続けたといいます。
真似しきらないのがある意味特徴だね。
深井さんは、日本は真似を達成しきらないなかで自分たちなりに生かし、そこでオリジナリティを出してきたと話します。その結果、よそから来た知識を頑張って学ぶメンタリティーがとても強くなったといいます。
蘭学であろうが漢学であろうが、お、なんかよそからめっちゃいいの来たぞ、情報がつったら頑張って学ぼうとするっていうのはすごく日本人の特徴。
自分たちが文明の出所であり最強だという意識
自分たちは文明の出所ではないと考え、よそから来た知を頑張って学ぶ
深井さんは、ドイツ、フランス、アメリカ、中国と、日本はその時々の先進国に強いリスペクトを払ってきたと話します。プライドを捨てずにそれを自然にできてしまうのが特徴で、樋口さんは明治維新ができた理由にもつなげます。
だけどなかなか一になれねえ。なる必要もないと思ってますけど。
外的脅威の少なさは日本の学びをどう形づくったか
樋口さんは、システム化して頂点を目指す文化になじまない「草食系」の人たちが日本列島に渡ってきたのではないか、と冗談めかして話します。自分は中国の受験戦争ではメンタルがやられると思う、とも語ります。
深井さんは、日本は外的な脅威が少なく、国レベルで究極まで追い込まれる経験があまりなかったと指摘します。そのため、いい意味でお人好しで、警戒心が少なく、楽観的だといいます。ここは完全に私見だと断っています。
武士とかは人をだましたり取ったりしてたんだけど、他の国もとしてんだよね、あれを。
深井さんによると、ユーラシア大陸やアメリカ大陸では、もっと大規模に争いが行われてきました。日本の武士の争いは、それに比べれば小さな規模だったといいます。
深井さんは、日本の教育には、そうした歴史の影響が表れていると考えています。日本には「学びたい人が学ぼう」という純粋さがある一方で、中国の春秋戦国時代には「法家を理解しないと明日滅ぶかもしれない」というヒリヒリ感があったと対比します。
みんなでね、法家も儒家もみんな一緒に仲良くやったらいいじゃん。
最後に樋口さんは、ヨーロッパ、中国、日本、イスラームと、教育のあり方は本当に多種多様だと振り返ります。深井さんは次回以降、ルネサンスを経て「子ども」という概念が生まれ、人類の教育が大きく変わっていく流れを扱うと予告しました。
まとめ
イスラームの教育は、クルアーンとハディースを知の源とし、帝国の拡大と統治のニーズの中で発展しました。モスクのクッターブからマドラサへと広がった学びは、ウラマーの権威とワクフという共同体の寄進制度に支えられていました。最後には日本との比較から、教育のあり方がいかに多様かが浮かび上がります。
- イスラームでは、神の言葉に近いほど純粋な知とされ、クルアーンとハディースが学びの出発点になった
- 帝国が拡大すると統一ルールが必要になり、イスラーム法を支える教育のニーズが生まれた
- 子どもはクッターブで暗記中心に学び、高等教育はマドラサが担い、卒業はウラマーが判断した
- ワクフ制度により、実力があれば貧困層でも無料で学べる仕組みがあった
- 日本はよそから来た知識を学ぶ姿勢が強く、外的な脅威の少なさが自由な学び方に影響したと語られた





