法家でも道教でもなく、なぜ儒教だったのか
前編で秦の時代までをたどった中国の教育史は、今回の後編で漢王朝から始まります。楊さんによると、始皇帝の死後、秦はすぐに滅びました。法家思想で民衆を縛りすぎたことで不満が広がり、各地で反乱が起きたためです。
秦の民衆は、自分の行動が法に沿っているかを常に気にしなければ命が危うい状態だったといいます。そこへ現れた劉邦は、法をごく簡単なものにしました。人を殺した者は死刑、人を傷つけた者や盗んだ者はそれぞれ処罰する、という内容です。
それさえ守ってればいいっていうことだったんです。他(の)めんどくさい法律は全部いいよ、とりあえずって言って。
楊さんは、この法の簡略化が漢王朝を作るうえで最も重要な判断だったとする研究もあると紹介します。秦の民衆はそれほど強く縛られていた、という見方です。
漢王朝という新しい国家が生まれると、国家をどの思想で治めるかが問題になりました。楊さんの説明では、候補になった3つの思想にはそれぞれ長所と短所がありました。
| 思想 | 特徴 | 統治上の評価 |
|---|---|---|
| 法家思想 | 法で厳しく縛る | 厳しすぎて反乱が起きかねない |
| 道教 | なすがままに放任する | 地方の豪族や地主が力をつけ、中央集権が難しい |
| 儒教 | 属人的でふわっとしているが、礼という序列の思想を含む | 序列の考え方が中央集権に役立つ |
ここで登場するのが儒学者の董仲舒 ── 前漢の儒学者。武帝の時代に儒教を国家の正統な学問とするよう提言した人物として知られていますです。董仲舒は皇帝に提案して国家統治の基盤を儒教に一本化し、ほかの学問を排除して、官僚に儒学を必修としました。
楊さんは中国の論文も読んだうえで、董仲舒が採用した儒教は荀子 ── 戦国時代の儒学者。人の本性は悪だとする性悪説を唱え、礼による規律を重視しました。弟子には法家の韓非子や李斯がいますの説いた儒教だったという説が有力だと話します。深井さんは、これを法家と儒教が一本化されたものだと受け止めました。
儒教はビジョナリーなんですよ。ビジョナリーだけれども、中のシステムチックなところは全部法家思想で(運営してる)。
楊さんは荀子について、物事を感情を交えずに事実として認識することや、選択肢を一度すべて並べてから基準を決めて選ぶことを説いた人物だと紹介します。深井さんがふだん話している物の見方は全部荀子が言っている、と楊さんは笑います。荀子は認識論を突き詰めた人物だったといいます。
辺境の蜀から始まった、文翁の地方教育モデル
漢の儒教教育には、もう一人のキーマンがいます。楊さんが「日本の方はほとんど知らないと思う」と前置きして紹介したのが、漢帝国に仕えた儒学者の文翁です。文翁は中国の地方教育システムのプロトタイプを作った人物で、中国では教育の偉人とされています。
文翁が地方官僚教育を始めた場所は蜀、現在の四川省です。当時の蜀は漢帝国の文化が通じない辺境の地で、そこをどう治めるかという切実なニーズがありました。
楊さんは、中央への派遣を「霞が関に出向させるみたいなイメージ」とたとえます。この話を聞いた深井さんは、儒学を統治の基盤に使った理由がよくわかると反応しました。
この辺境のさ、何の常識も一致しない人たちにさ、国を治めるトップの人ってこういう人の方がいいよねみたいな話をしたい時に死ぬほど通じないじゃん。
それが儒教を教えてたら大体一致するじゃん。
楊さんがもう一つ面白かったと話すのは、儒教教育の中で若者を農村へ連れていき、葬式などの儀礼を行わせていたことです。儒教は古い宗教儀式の流れを汲んでおり、人の生死の儀式に関わる思想でもありました。こういう葬式が正しい、ということを教育の中でOJTとして教え、民衆の教化に使っていたといいます。
番組では、宗教が生活から分かれていなかった当時、儒教が生活スタイルの統一にも使われたと整理されます。出演者からは、プログラムでいう「フレームワーク」のようなものだという例えも出ました。楊さんは、儒教が長い歴史の中で体系化された思想であり、思想としての老舗ブランドも持っていたと付け加えます。
文翁はさらに、蜀での現場経験を積んだ若手の中から優秀な人を朝廷に推薦しました。選抜と育成、地元での仕事、中央への推薦というキャリアの段階を設け、蜀に官僚育成学校を仕組みとして作ったのです。番組では、地方、それも辺境にこうした機関を作れた例はほかの国ではほとんど聞かないと驚きの声が上がりました。
キャリアアップの道筋が見えたことで、蜀の若者たちの意欲が高まりました。学校には人が集まって規模が広がり、役人候補以外の人も入学するようになります。蜀から次々と人材が出てくる様子に皇帝が注目し、文翁のモデルは各地へ広げられ、その後の中国の国家教育システムになっていきました。
楊さんは、ここまでの流れをソフトウェアにたとえてまとめています。
孔子
儒教というソフトウェアを作った
荀子
儒教を国家というハードウェアで動けるように改造した
董仲舒
国家というハードウェアに儒教をインストールした
文翁
儒教を配信するプラットフォームの最初のモデルを作った
自分の国ながらなんかおかしいよね。イカれてますね。
唐・宋・元の学校はどう違ったのか
楊さんは次に、後の時代に実際どんな教育が行われていたかを紹介します。王朝が多いため、日本人になじみ深く、遣唐使も送られた唐を中心に取り上げました。後の時代の教育も、おおむね唐の仕組みを土台にしているといいます。
唐の公教育では、中央の都に王族や貴族向けの学校と、庶民のエリート向けの学校がありました。さらに法律、書道、算術、道教を学ぶ学校、留学生向けの学校、上級官僚の子ども向けの学校も置かれていました。
専門分野の学校も充実していました。踊りや音楽、医薬、占い、天文学、暦法、時間を測る技術などを学ぶ専門学校があり、地方にもいくつかの段階に分けて学校が置かれていたといいます。多様な学校が国家主導で仕組み化されていたことが、唐の大きな特徴だと楊さんは話します。
唐には公教育とは別に私学もありました。日常生活の常識を教える初級教育と、儒教や文学などを教える高級教育に分かれ、中心はやはり儒学でした。私学を運営していたのは学者や、役人になれなかった人などの民間人で、授業料を取って商売として成り立っていたそうです。
中国の教育でもう一つ特徴的なのが書院 ── もとは民間の学者や教養人が本を集めた私設の図書館。のちに学問を教える場となり、宋の時代以降に大きく発展しましたです。本が集まり教育資源がそろっていたため、自然と教育活動が始まりました。
唐の後の宋は国家の体力が乏しく、国家教育に十分な資源を割けませんでした。そこで宋の朝廷は書院にお金を出し、人材を育てて朝廷へ送ってもらうようにします。番組では「若干外注した」と表現され、書院は人材育成のセーフティネットとして機能しました。
モンゴル人が建てた元では、モンゴル語を学ぶ学校や帰国子女向けの学校がありました。西方の国々との交流のためにペルシャ文字を学ぶなど、外国人材の育成に力を入れていたといいます。
科挙はなぜ「すごい」制度なのか
中国の教育を語るうえで欠かせないのが、高級官僚の選抜試験である科挙 ── 中国で隋の時代に始まった官僚登用試験。清の末期まで続き、儒教の経典の知識などが問われましたです。楊さんは、科挙が中国の教育や社会構造、文化に1000年以上影響を与えた仕組みだと説明しつつ、詳しい内容はサポーター特典で紹介するとしました。
本編では、試験制度そのものの難しさが語られます。唐の時代から国が多くの分野の学校にお金を出してきた中国は、それをさらに体系化し、どんな人にもチャンスがある試験にしました。番組では、試験を作り、採点するだけでも大変なことだと指摘されます。たとえばポッドキャストを面白く伝える技術を試験で測ってフィードバックせよと言われたら、とても難しい、という例えも出ました。
科挙の最後には、時期によって異なるものの、皇帝が自ら受験者に向き合う殿試 ── 科挙の最終段階として宮中で行われた試験。皇帝が自ら試験官を務め、合格者の順位を決めましたがありました。皇帝はほぼ神と同じ存在だったので、その重さは社長面接とは比べものになりません。
楊さんは、科挙が生まれた背景を、皇帝が権力を集めるためだったと説明します。それまで官僚は推薦や縁故で選ばれ、派閥ができやすかったからです。
推薦や親戚の口利きが中心で、試験はあくまでサブ。派閥ができやすく、皇帝がコントロールしにくい
科挙によって皇帝が人材採用のルートを握る
ヨーロッパと違う、実学ではない官僚教育
話はヨーロッパとの比較に移ります。楊さんは、中国という国が成り立つには強力な中央集権体制が必要で、それに合わせて教育の仕組みや儒教という内容が選ばれてきたと説明しました。
番組では、中国の教育の特徴は、広い地域を1つの強い国家権力が同じ仕組みで人材育成してきた点にあると整理されます。ヨーロッパの大学やギルドの主な目的は官僚育成ではありませんでした。古代エジプトやメソポタミアも官僚を育てていましたが、中国はそれよりかなり高度な教育を国家主導で行っていた、と語られます。
さらに大事なポイントとして、中国の官僚教育の中心が実学ではなかった点が挙げられます。儒教を学んでも行政事務がこなせるようになるわけではありません。算術や実務もサブとして学びますが、儒教を修めた人でなければ官僚になれないことこそが中国の教育の最大の特徴だとされました。
国の中で出世したかったら、まずこのフォーマット(儒教)にインストールをしなさいということですね。
儒教は腐敗政治を否定します。古代中国の王朝には腐敗した時期も多くありましたが、清廉潔白な官僚もたびたび現れ、巨大な官僚国家を支えてきたと番組では語られます。たとえ建前でも、賄賂を受け取っていると表立って言えない環境を作り続けたことが、国家のビジョンとして大事だったという見方です。
楊さんは、中国の過去の統治を表すときによく使われる言葉として、外側は儒教、内側は法家思想という意味の四字熟語を紹介しました。内側は仕組みと罰則で固めていた、ということです。日本もこうした官僚組織を真似しようとしましたが、うまくいきませんでした。楊さんは日本について「必要なかったかもしれない」「日本は楽しいです」と予告し、次回の日本編につなげています。
まとめ
漢の時代に、儒教は荀子の流れをくむ形で国家に組み込まれ、文翁の地方教育モデルによって全国へ広がりました。その仕組みは唐の多様な学校、宋の書院、そして科挙へとつながり、儒教を修めた人が官僚になるという、中国ならではの教育の形をつくりました。
- 秦の厳しい法家統治の反省から、漢は序列の思想を含む儒教を統治の基盤に選んだ
- 孔子、荀子、董仲舒、文翁の4人によって、儒教をもとにした教育システムが立ち上がった
- 文翁は辺境の蜀で、選抜・育成・中央への派遣・帰還というキャリアの流れを作った
- 唐の国家主導の学校、宋の書院、元の外国語学校など、時代ごとに教育の形が広がった
- 実学ではない儒教を官僚の必修とし、外側は儒教、内側は法家で治めたことが中国の特徴とされる


