なぜ始皇帝は5回も巡幸したのか
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紀元前210年、始皇帝は5回目の巡幸中に亡くなります。巡幸とは、皇帝が自ら国を見て回り、自分の姿を民に見せる行為で、統一後の始皇帝はこれを5回も行っていました。
楊さんによれば、巡幸には複数の意味がありました。かつての斉や楚、燕、韓といった滅ぼした国の領域に自分の威光を知らしめること、支配した土地や民情を視察すること、そしてその土地の神を祀るという宗教的な意味です。
だからスピリチュアル的にも軍事的にも政治的にも、ここは俺の土地だぞってするために、命をかけて5回も巡幸している。
深井さんは、これはマスメディアがない時代だからこその行動だと指摘します。自分が新しい支配者であり、その土地の神を新しく祀る人だと、実際に行って示さなければ民には伝わりません。当時の民はおよそ9割が農民だったとされます。
これはだからマスメディアがないから。
当時は新幹線もなく、中国は広大で道も舗装されていません。巡幸は身体的にも精神的にも大きな負担でした。統一を果たした始皇帝なら女遊びにふけることもできたはずですが、それでも時間を割いて巡幸を続けました。
楊さんは、始皇帝が亡くなった後に息子も巡幸していることを挙げ、当時の彼らにとって巡幸が単なる視察ではなく、きわめて重要な政治的アクションとして見なされていたと説明します。
株主総会のような「奉禅の儀」
巡幸の宗教的な側面を象徴するのが奉禅の儀です。楊さんによれば、これは伝説上の名君や古代の王が天と地を祀ったとされる儀式で、奉禅の儀 ── 泰山などで天地を祀り、王朝の正統性を天に報告するとされた古代中国の儀式。伝説上の名君が行ったと伝えられる。始皇帝はこれを行う権利があると考えました。
春秋時代に覇者となった斉の桓公も奉禅の儀を行おうとしたものの、家臣から「あなたはその器ではない」と止められてやめたという逸話が残っています。この掛け合いに深井さんは笑いを漏らします。
やばい。全員尖ってんの。
始皇帝は自分は統一を成し遂げ、古代の名君と並んだと考え、学者に奉禅の儀のやり方を尋ねました。しかし文献が残っておらず、学者にもわからなかったといいます。そこで始皇帝は自ら儀式を編み出しました。
泰山に登って頂上に土台を作り、その上に祭品を置いて焼き、煙にして天に祀りました。楊さんは、古代アーリア人が火に供物を捧げた例に似ていると触れています。さらに泰山の東南にある梁父山でも祭品を埋め、血を祀ったと伝えられます。
楊さんは、この奉禅の儀の意味を株主総会にたとえます。当時の感覚では上帝という神がいて、それは企業でいう株主のような存在だといいます。
だから株主総会で、社長交代しましたんでねって、ちゃんと言ったみたいな感じですよ。
つまり始皇帝は、天下太平を成し遂げたことを天という最大のステークホルダーに報告し、自分が上帝から信任されたと示そうとした、というわけです。深井さんはこの説明を「めちゃくちゃわかりやすい」と評します。
名君と並んだ自負
統一を果たし、古代の伝説上の名君と肩を並べたと始皇帝が考えた
自ら儀式を創出
やり方の文献が残っていなかったため、泰山で祭品を焼き天に祀る形を自分で決めた
天への報告
天下太平を成し遂げたことを上帝という「株主」に報告し、信任を示そうとした
過労とワンマン経営が生んだ始皇帝の死
この巡幸の5回目で、始皇帝は病死します。樋口さんは、その背景に過労があったと指摘します。始皇帝は毎日膨大な量の書物を処理していました。
なんか試算によれば、1日30万文字読んでたっていう説もあって。
その30万文字を読んで理解し、判断して決裁する作業を続け、しかも処理が終わるまで寝ないような生活だったといいます。深井さんは、権限委譲をせずすべて自分でやるワンマンな人物像を思い浮かべます。
巡幸中も同じでした。始皇帝は馬ではなく、大人数に担がれる車に乗って移動し、その中でも仕事をこなしていたと考えられます。
皇帝制の本質の一つは、皇帝っていう個人に権力のすべてを集約させるっていう点にある。
樋口さんは、始皇帝が中華最初の皇帝であったことに触れ、自分がすべてを握るというやり方が正解だという認識だったのではないかと話します。この「すべてを一人に集約する」構造が、のちの遺言捏造を可能にする伏線にもなります。
便所と倉庫のネズミが決めた李斯の人生哲学
最後の巡幸には、宰相の李斯が同行していました。李斯 ── 法家思想を学び、始皇帝に仕えて丞相にまで上り詰めた人物。統一政策の多くに関与したとされる。『キングダム』にも登場する。李斯はもともと楚の城塞に生まれた楚人で、若い頃は郡の小役人をしていました。
ある日、李斯は便所で人や犬に怯えながら汚物を食べるネズミを見ました。一方、倉庫に住むネズミは餌に困らず、身を隠す場所にも困らず、でっぷりと肥えて人にも怯えていませんでした。
李斯はここから、人間も生きる環境に左右されるのだと気づいたといいます。自分がどこにいるかで人生が決まる、だからどこに行くかが大事だという人生哲学です。
外部環境が人間の生き方とか価値観を規定するんだみたいな、そういう世界観を獲得する。これいまだに言われてるやつやん。頭いい。
楚の小役人のままではダメだと考えた李斯は職を辞し、荀子のもとで学問を学びます。荀子 ── 性悪説を唱えた思想家。礼と法による統治を説き、李斯と韓非の師とされる。荀子は、人間は放っておくと悪いことをするから、ルールと罰で縛らなければ天下は治まらないと説いた人物です。
李斯はここで法家思想と帝王術を学びました。同門には韓非がいましたが、楊さんによれば李斯は学者としての才能では韓非にかなわないと自己評価していたといいます。
祖国も滅ぼす。李斯が選んだ出世の道
所定の課程を終えた李斯は、荀子に対し、今は乱世で秦が最も強力であり、自分の説を売り込む相手として一番良いと語ったと伝えられます。楊さんは、これを「肥えたネズミが住む倉庫は秦だと思った」と表現します。
楚出身でも秦に仕えられる人材流動性の高さも、李斯が躊躇なくそれを選ぶ姿勢も、当時の特徴でした。皮肉なことに、才能で勝ると見た韓非は秦の始皇帝に危険視されてすぐに殺され、かなわないと思われていた李斯のほうが出世していきます。
李斯には強い出世欲がありました。師匠に語った言葉として、こう伝えられています。
私は人生最大の恥辱っていうのは、一生卑しい身分のままであること。
楊さんは、貧しい状態に安住して世間に文句を言うくらいなら、どんな手を使ってでも出世するという李斯の姿勢だと補足します。このこだわりが、後の情勢判断に影響していくと樋口さんは指摘します。
秦に入った李斯は、まず呂不韋の食客となります。食客とは、正式な役職ではなく、面白そうだから食事を与えられている状態のことです。やがて呂不韋に評価され、まだ皇帝になる前の秦王・えい政の近侍に抜擢されます。
近侍はえい政に直接進言できるポジションでした。二人の直接の対話記録は確認されていませんが、李斯はえい政に、秦の国力と英明さをもってすれば諸侯を踏みつけて天下を統一できると提案したと伝えられています。
楊さんは、この提案の史実性は不明としつつ、当時の発想の転換としての重要性を語ります。7つの国が数百年にわたって拮抗していた状況で、一つの国が全部を滅ぼして統一するという発想自体がなかったからです。
さらに驚くべきは、楚出身の李斯が自分の祖国も含めて滅ぼすよう提案している点です。深井さんも、その意味に気づいて驚きます。
滅ぼされる側に入ってるのか、祖国が。
こうして李斯は始皇帝に気に入られていきます。楊さんは、始皇帝自身もそう言ってほしかったのだろうと話します。統一後、李斯は司法を管轄する廷尉という官職に就いていました。
封建制か郡県制か、統一後の路線を決めた主張
統一後、李斯より上位の丞相らは、各地に王を立てて封建制にすることを提案していました。旧来の封建制だった土地にいきなり秦の法律を適用するのは難しいという理由です。
これに対し李斯は、占領地にも秦の方式を適用し、全地域をエリアに分けて知事を派遣する郡県制を強く主張しました。この主張が始皇帝の考えと合致し、実行に移されます。
樋口さんは、郡県制が官僚集団の利益にもかなっていたと解説します。封建制で諸侯に分封すると独立勢力が生まれ、皇帝の権力は相対的に弱くなります。一方、官僚の権力基盤は秦王という個人に依存していたため、彼らにも分封制に反対する理由があったのです。
李斯は説得のうまさを発揮します。周の文王・武王が子弟や同姓を各地に封建した結果、戦国七雄の争いになってしまった、それをもう一度起こすのかと主張し、郡県制へと導きました。
ここで楊さんは、李斯のダブルスタンダードを指摘します。李斯は貴族を許してはいけないと主張して潰しながら、自分の娘を始皇帝の子に嫁がせるなど、血縁関係を結んでいました。
自分は貴族になるというムーブをしながら、貴族っていうものを許してはいけませんという主張をして潰していってる。
長男の李由も、重要拠点である三川郡の防衛トップに任命されています。実力社会の秦のシステムとは異なり、血縁を理由に任命できる状態を作っていたわけです。こうした働きが評価され、李斯はついに人臣のトップである丞相にまで上り詰めます。
刀狩りと焚書坑儒、統一のためのガバナンス
丞相となった李斯は、各地方の城壁を破壊して都市を丸裸にしていきました。統一したのだから武力は不要だとして、武器の没収も行います。楊さんは、これを秀吉の刀狩りと同じムーブだと表現します。
樋口さんは、これが都市支配を強化する一環だったと説明します。都市の独立性を否定するために、城壁を持つな、武器を作るな、お金を発行するなという統治のテンプレートを進めていったのです。
続いて文字、度量衡、貨幣、法律の統一が進められます。ただし楊さんによれば、実際には統一後も地方の貨幣が使われ続け、文字の統一も完全ではなかったとされます。標準語や共通語のようなものが決まった、というイメージに近いようです。
有名なのが焚書坑儒です。中央が言ったことに黙って従わせる体制にとって、思想で反論してくる学者は邪魔になります。
要は、これなんでこうなんですか、だって前の思想からしたらこう言えるじゃないですかみたいなこと、儒学者とかもういらないんですよ。
そこで法律・医薬・占い・栽培方法などの実用書を除いて書物を燃やす焚書が行われました。これも李斯がやらせたとされます。ただし樋口さんは、民間が持つものは焼かれたが、国が保有するものは残ったという説もあると補足します。
坑儒については、当時まだ儒家がそれほど力を持っていなかった点が語られます。儒家が台頭するのは漢の前期以降で、この時代に埋められたのは儒学者だけでなく学者全般でした。不老不死の薬を作れなかった者なども含め、およそ460名が埋められたと伝えられます。
楊さんは、焚書が後世の史料の乏しさにつながっていることにも触れます。秦以外の国の歴史書も焼かれたため、楚の実態などはいまだによくわかっていません。
だから秦以外の国の歴史について書かれた資料ってすごく少ないから研究しにくいんですよね。
この焚書坑儒の頃が、李斯の権威の到達点でした。長男は三川郡の長官となり、息子たちは秦の公主と、娘たちは公子と婚姻し、自身は丞相となります。楚の小さな役人から、統一された中国で最も出世した人物になったのです。
陰謀の中心人物、宦官・趙高とは何者か
病死する始皇帝には、李斯のほかにもう2人が同行していました。車を管理する中車府令という役職の趙高と、始皇帝の末子とされる胡亥です。始皇帝には20人以上の子がいましたが、胡亥は特に愛されていました。
趙高は宦官とされ、歴史書の中では陰謀を働く宦官の代表格として描かれています。宦官 ── 去勢されて宮廷に仕えた官吏。皇帝の側近くに仕えたため、権力を握る者も現れた。近年では宦官ではなく隠官・隠宮という役職だったという説もありますが、いずれにせよ上位の官僚から見下される対象だったとされます。
趙高は裁判や獄法に通じていたため、車を管理する中車府令になりました。車を管理するということは、皇帝や皇太子と常に一緒にいることを意味します。そのため教師の役割も求められ、頭の良さが必要でした。
趙高は始皇帝に気に入られ、特に末子の胡亥に法律や判決の下し方を教えるようになります。つまり趙高もまた法家でした。ここで楊さんは、法家思想が国家統治で重視する3つの価値観を整理します。
賞罰を明確に規定して実行する。人間は利益や地位を最も大事にするものとして捉え、アメを与えたり奪ったりしてコントロールする
特定の臣下に権力を集中させず、臣下同士を相互に牽制させ合う統治の技術
厳しい刑罰と法律で圧力を作り出し、恐怖によって秩序を形成する
楊さんは、これを国家統治に徹底的に適用したのが秦であり、それが民衆に強く嫌がられ、後の反乱の要因の一つになったと指摘します。
干物で隠された皇帝の死と、書き換えられた遺言
5回目の巡幸で、始皇帝は都の咸陽から海岸線まで進み、山東半島を経て平原津という地で倒れ、50歳で亡くなります。楊さんによれば、その距離は地図上で3000〜4000キロにも及ぶといいます。
史記によれば、始皇帝は死期を悟り、命令書を書きました。宛先は長男の扶蘇で、咸陽に戻って葬儀をせよという内容です。つまり後継者は扶蘇だと指名したことになります。
樋口さんは、始皇帝が不老長寿を望んで後継ぎを立てなかったという説にも触れつつ、死にそうになってから事業承継を行う不思議さを述べます。過労死に近い最期だったと考えられます。
このとき扶蘇は、北方で匈奴と戦う防衛の最前線、オルドス地方に赴任していました。匈奴 ── モンゴル高原を中心に活動した遊牧民族。強力な騎馬軍団を持ち、中国の北方をたびたび脅かした。一緒にいたのは、『キングダム』にも登場する蒙恬将軍です。
扶蘇がオルドスにいた理由は、史記では左遷だとされます。始皇帝の墳墓工事を扶蘇が諫めたところ、始皇帝が怒って僻地に追いやったというのです。一方で、堂々と正論を言う扶蘇を頼もしく思い、重要な仕事を任せたという別の説もあります。
始皇帝の意思は扶蘇への継承でした。しかしここで、扶蘇と対立していた趙高を中心に陰謀が始まります。扶蘇が即位すれば、趙高は出世の望みを絶たれてしまうからです。
李斯は遺言どおり扶蘇への継承手続きに入ろうとしますが、趙高が止めに入り、胡亥を立てようと持ちかけます。李斯は当然断り、繰り返し怒りますが、趙高は柔らかい言葉で何度も誘い続けました。
恐ろしいのは、このとき趙高が皇帝の意思を文書化して送る役割を持つ臨時の御史大夫でもあった点です。文書を捏造できる立場にあったのです。
この二人が握れば皇帝の意思を捏造できるんです。それをやらせることができるんです。
趙高はすでに周囲の工作を終えていました。扶蘇が皇帝になっても自分たちにメリットはない、胡亥を傀儡皇帝にして意のままにしようと李斯を誘います。しかも、応じなければ文書を捏造してお前が嘘をついていると告発し殺すという脅しが含まれていました。
この時点で、始皇帝の死はまだ誰も知りません。密談の場で脅しながら捏造を持ちかけた趙高に対し、李斯はやがて抜け殻のようになって従います。
李斯はなぜ乗ったのか。第7章の続きとしての心理
樋口さんは、史記には書かれていない学者の考察を紹介します。李斯が陰謀に乗った背景には、彼自身の不安があったのではないかというのです。
李斯はずっと始皇帝の近くに仕え、その健康状態を熟知していた可能性があります。自分の権力基盤が始皇帝という個人に依存していることを深く自覚していたため、始皇帝の死で立場が脅かされる不安を趙高に突かれたと考えられます。
さらに、扶蘇が戻れば、扶蘇と親しい蒙恬が返り咲く可能性がありました。人臣の頂点を極めた李斯にとって、これ以上は上に登れず、下がるリスクだけが生じる場面だったのです。
楊さんは、倫理的にやってはいけないとわかっていても、目の前で捏造が可能な人物が耳元で囁く状況で、乗りたくないが乗るしかなくなったのだと表現します。史記が描く李斯の「死んだ顔」は、この心理を象徴する場面です。
樋口さんは、史記を書いた司馬遷が結果をすべて知ったうえで、説得力を持たせるようストーリーの構造を作った可能性を指摘します。対立する説を取捨選択する過程もあっただろうといいます。
やっぱストーリーとして面白いやつが残るみたいなの、普通にありそうですよね。
3千キロの死臭を隠した30キロの干物
趙高の狙いは、扶蘇と、扶蘇に近く軍隊を率いる蒙恬の謀殺でした。始皇帝の死を知るのが自分と李斯だけである以上、二人さえ説得すれば遺言をねじ曲げられます。李斯を説得できた時点で、陰謀は成功に向かいます。
始皇帝の遺体は棺に収められ、車中に置かれたまま死を伏せられました。生前と同じように食事が運ばれ、部下たちの奏上も続けられます。しかし真夏で遺体は腐り、死臭を抑えられなくなりました。
そこで採られたのが、30キロの魚の干物を車に乗せて臭いを隠すという手でした。始皇帝の死を知らない部下たちからすれば、なぜ皇帝が悪臭の干物を積んでいるのか理解できません。
なんか分かんないけど干物乗せてるわつって、あんな臭いけど何してんだろう、あの人って多分思ってんですよ、みんな。
それでも誰も問いただせませんでした。逆らえば罰があり、言われたことに従えと教育されてきたからです。樋口さんは、これを中央集権の帰結として整理します。
さらに、始皇帝はもともと暗殺を恐れて生前から人前に出ず、姿を隠して文書で指示していました。姿を見せないこと自体は普段どおりで、命令はいつも趙高が文書化して出していたため、干物以外は日常と変わらなかったのです。
一通の書類で兄が死ぬ。捏造された自殺命令
趙高は胡亥と李斯を説き伏せ、始皇帝が扶蘇を後継に指名したのを聞いていたはずの胡亥にも、兄に殺されると迫って覚悟を決めさせました。そして文書を偽造します。
偽造された文書は、始皇帝が出したという体裁で、扶蘇が長年戦果を挙げず、皇帝の仕事を誹謗していると断じます。そして人の子として不孝者だとして、剣を与えるので自殺せよと命じる内容でした。
扶蘇は非常に孝行者で、真偽を確かめないまま自殺してしまいます。蒙恬は自殺を止めますが、扶蘇は父が死ねと命じたのだから死ぬしかないと言って従いました。
蒙恬は納得せず、いきなりそのような命令が出るのかと疑いますが、獄につながれてしまいます。数十万の兵を率いる蒙恬が生きていれば、趙高にとって最大のリスクになるからです。再度の自殺を迫られた蒙恬も、観念して毒を飲んで死にました。
樋口さんは、この事態の恐ろしさを制度の観点から語ります。
楊さんは、封建制と違い、官僚制では役職の人であれば誰が文書を出してもよいと補足します。その役職の人物が裏切ったからこそ、書類一つで皇位継承がねじ曲げられたのです。
何のためかもわからないまま続く強制労働
扶蘇と蒙恬という盲点まで消してから、始皇帝の死は公開され、都で埋葬されました。胡亥は咸陽で二世皇帝として即位します。
実権を握ったのは趙高でした。宮殿の護衛と管理を司る郎中令となり、丞相でもないこの人物が国を動かします。胡亥は、趙高に文句を言えば罪をなすりつけられて殺されかねないため、何も言えない状態でした。
胡亥は李斯を従えて再び巡幸します。年少で権威がなく、民が懐かないため、デモンストレーションと祭祀が必要だったのです。このとき先代が巡ったところに「2回目に来た」と刻む際、最初に来た皇帝と区別するため、初めて「始皇帝」という言葉が使われたとされます。
深井さんは、この命名を身近な例にたとえます。
携帯電話が出てきたから、固定電話という言葉が生まれたように。
巡幸から戻った胡亥は、大臣や兄弟の公子が自分に従わないのではと恐れ、趙高と謀って彼らを次々と粛清していきます。何もしていない相手も含め、自分の権力を固めるための粛清でした。
10軒に1軒が動員される、統一の巨大な負担
胡亥は、始皇帝が造営途中だった巨大宮殿・阿房宮の建設を大規模に続けます。全国から民衆と、犯罪者である刑徒を動員し、その数は史記によれば70万人とされます。
楊さんによれば、漢の初期の人口が2000万人程度とされ、この人数の動員は現実的な数字だといいます。ある推計では、当時のおよそ10軒に1軒が強制労働に駆り出されていた計算になります。
さらに別に5万人の兵士を咸陽に駐屯させ、弓の達人を集めて弓矢大会のようなことも行われました。ここで重要なのは、遠く離れた斉や燕から、千キロ、二千キロも離れた咸陽まで連れてこられた人々がいたという点です。
楊さんは、これが秦の統一によって生じた新しい負担だと強調します。統一前はどれほど過酷でも自分の国のことでしたが、統一後は遠方から連れてこられ、前代未聞の巨大宮殿を作らされることになりました。
5万人規模の兵の食料や馬、藁を集めた影響で、東西120キロ四方の首都圏では穀物が食べられなくなったと伝えられます。皇帝権力の基盤を固めるという部分最適のために、全体最適が崩壊していく構図でした。
不老不死を求めた男が遺した巨大な墓
楊さんは、始皇帝陵の規模でこの回を締めくくります。不老不死を目指しながら、始皇帝は同時に巨大な墓を建てていました。
始皇帝陵は1970年代に発掘されて半世紀が経つのに、いまだに発掘途中の大きさです。墓室は三層の地下水脈を突き抜けるほどの深さがあり、中央には青銅の棺、宮殿や楼閣が再現され、都から運ばれた宝物で満たされていたと伝えられます。
さらに、盗掘者が近づくと射殺される仕掛けのクロスボウが配置され、天井には天文、床には地理が再現され、永遠に火が消えないよう人魚の油で火が灯されたとされます。樋口さんはインディ・ジョーンズを連想します。
兵馬俑は全体で8000体あるとみられ、しかも等身大です。それぞれ別々のポーズをとり、顔や髪型が少しずつ違うため、本物の人間を模した可能性が高いといいます。
容貌から兵士の出身地を推測する試みさえできると言われているぐらい写実的です。
楊さんは、これがすごいという話にとどまらず、これを作るために凄まじい犠牲が払われた点、そして胡亥が何も考えずにそれを引き継いでいる点を強調します。
樋口さんは、胡亥にこうした国家にしたいというビジョンはなく、この段階では自分の権力を固めることしか考えていなかったと整理します。さらに、始皇帝がきっかけで得た前例のない最高権力について、その限界や副作用を判断する材料がなかったのだと補足します。
秦の国内では、激しい法律で強くなり他国を滅ぼした成功体験がありました。楊さんは、その成功体験を他に敷衍させて、ただやってるだけの状態がこのときの秦だったと述べます。この歪みが、次回語られる恐ろしいしっぺ返しへとつながっていきます。
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まとめ
始皇帝の巡幸中の死をきっかけに、趙高と李斯が遺言を捏造し、扶蘇と蒙恬を排除して胡亥を立てるまでの過程が語られました。中央集権と官僚制が、書類一つで継承をねじ曲げられる仕組みでもあったことが浮かび上がります。
- 始皇帝の巡幸は視察だけでなく、威光の誇示と天への報告という多重の意味を持つ重要な政治行為だった
- 李斯は「環境が人生を決める」という哲学のもと、祖国の楚も含めて滅ぼす統一を進言し、丞相にまで上り詰めた
- 郡県制の徹底や焚書坑儒は、中央のルールに従わせるための統治手段であり、それが後の反乱の火種にもなった
- 趙高は文書を捏造できる立場を利用し、始皇帝の死を隠したまま遺言を書き換え、扶蘇と蒙恬を死に追いやった
- 阿房宮の大動員や粛清は、権力基盤を固める部分最適のために全体最適を崩し、次回のしっぺ返しへとつながる







