議会政治は民主主義ではなかった?名誉革命後のイギリス
今回のテーマはイギリスと日本の民主主義の歴史です。深井さんはまず、イギリスでは議会政治が独特の経緯で発達したものの、それだけでは民主主義ではなかったと前置きします。
ただ議会が発展してて、王権を議会が抑えてただけですよね。それって民主主義じゃないからね。
イギリスではピューリタン革命 ── 17世紀半ばのイギリスで、議会派が国王チャールズ1世と戦い、王を処刑して一時共和政を敷いた内戦・革命と名誉革命 ── 1688年、議会が国王ジェームズ2世を追放し、オランダからウィリアム3世とメアリ2世を迎えた無血の政変。議会主権の確立につながりましたを経て、議会の主権が確立していきます。深井さんによれば、ジョン・ロックらが名誉革命を正当化する理論を用意したことも大きかったといいます。
マグナ・カルタ以降のイギリス議会は、他国に比べて強かったものの、王様が課税したいときだけ開かれていました。名誉革命後は議会が毎年開かれるようになり、活発な論戦の中から社会が必要とする法律が制定されていきます。
深井さんは、この時代にすでにこうした環境が整っていたことを「議会の経験値がすごい」と評価しています。
有権者は国民のごく一部、一票の格差も「バグって」いた
名誉革命後のイギリス議会は先進的だった一方で、参加できるのは国民のごく一部でした。議会は貴族院と庶民院に分かれ、貴族院は個別に招請を受ける貴族とイングランド国教会の高位聖職者だけで構成されていたといいます。
庶民院(下院)は州や都市の代表が集まる場でしたが、議員が高い給料をもらえるわけではありませんでした。そのため代表になれたのは大地主などの有力なジェントリ ── イギリスの地主層を中心とした、貴族の下に位置する上流階層。地域の名士として地方行政や議会で大きな役割を担いましたで、深井さんは「要は金持ちです」とまとめます。収入の下限を設ける規定もあったようです。
さらに同じころ、イギリスでは産業革命が進み、大規模な人口移動が起きていました。マンチェスターやバーミンガムのような新興の商工業都市は急成長したのに、都市選挙区として認められていなかったといいます。
だってこの区域から何人とか決めてたのに、いきなり人口増えたけど、その法律変えない限りそうならないじゃん。
深井さんはこの状態を「一票の格差半端ない」と表現します。議会政治を本格的に始めた直後のイギリスは、そうした不均衡を抱えていたわけです。
欠陥だらけでも法律を量産した議会の底力
選挙区に偏りがあった一方で、イギリス議会は法律を作る機関としてはしっかり機能していました。深井さんは、どこまで本当かわからないとしつつ、ある期間に経済関係の法律だけで690本が成立したという話を紹介します。
樋口さんは「ちゃんと動いてるんですね」と応じ、深井さんは法律を「本」で数えることに一番驚いたと笑います。
選挙区とかバグってんだけど、法律制定機関としてめちゃくちゃ機能してて、ちゃんと法律バンバンバンバン出してるし、意外と声聞いてたらしいんですよね、庶民の。
深井さんが対比するのはフランスです。フランスは暴動や革命を起こしがちでしたが、イギリスは名誉革命までは王と議会がぶつかり合ったものの、それ以降は穏便に選挙権を広げていったといいます。
議会が庶民の声を聞きながら機能し、選挙権を段階的に穏便に拡大した
暴動や革命を繰り返し、選挙権を一気に増やして保守層が勝つなど混乱した
深井さんは、リアルタイムで生きていた人はむしろ苛立ったかもしれないとしつつ、後世から見ればイギリスは「いい感じの改革」をしたと話しています。
選挙法改正とチャーティスト運動、刻みながら広がる選挙権
イギリスの選挙権拡大は、少しずつ刻むように進みました。1832年の改正では、有権者が50万人から81万人に増えます。50万人は人口の3%ほどで、深井さんは「増やし方がなんか穏便」と表現しています。
一方で民衆は、隣のフランス革命やアメリカの独立宣言にも刺激され、さらなる選挙権を求めました。それが1830年代から50年代にかけてのチャーティスト運動 ── 19世紀前半のイギリスで、労働者を中心に男子普通選挙などを求めた政治運動。要求をまとめた「人民憲章(ピープルズ・チャーター)」が名の由来ですです。
チャーティスト運動が掲げた主な要求は、深井さんの紹介によれば次のようなものでした。
- 男子に選挙権を与える
- 秘密投票にする
- 毎年選挙される1年任期の議会を開く
- 議員歳費を支給する
- 10年ごとの国勢調査で選挙区の格差を調整する
この20年間のチャーティスト運動は保守派に押さえつけられ、当時は何も実現しませんでした。けれど、これが前段階となり、1867年の第2次選挙法改正で成人男性の3分の1までが有権者になります。
その後、1872年に秘密投票が導入され、1884年には農村の労働者が加わって有権者は400万人を超えました。1918年には全ての男性に選挙権が認められ、条件付きながら初めて女性参政権も実現します。
1918年の女性参政権には、30歳以上であること、世帯主か世帯主の妻であること、不動産の所有者か大学卒業者であることといった条件がありました。深井さんは「刻んでくるね」と苦笑し、それでも有権者数は2000万人を超え、総人口の6割近くになったと説明します。
全国同日投票と成人普通選挙、経験から学んだ制度づくり
1918年の改正ではもう一つ、総選挙が全国一律で同じ日に行われるようになりました。それまでは選挙区ごとに投票日が違い、1か月ほどかけて少しずつ実施していたといいます。
投票日がずれていたせいで、一人が2〜3の選挙区で投票する人もいたそうです。深井さんは、こうした失敗を経験してから「同じ日にしないといけない」と学んだのだと話します。
だって一回運用しないと、こういうなんかすげえ細かいバグがあってわかんないですからね。
そして10年後の1928年、女性参政権の付帯条件が撤廃され、男女とも成人普通選挙になります。樋口さんは「まだ100年経ってないね」と驚きます。
深井さんは、イギリスが何事も早かったのは議会の歴史が長かったからだと考えます。マグナ・カルタのころから身分制議会を続け、名誉革命後は毎年開いてきたため、議会に手慣れていたというわけです。
英語がわからない王様?外国人の王が議会を育てた
深井さんは、イギリスならではの事情として王家のルーツを挙げます。現在のウィンザー朝はもともとドイツ出身のハノーバー朝で、第一次世界大戦でドイツと戦ったため名前を変えたといいます。
18世紀にドイツから来たハノーバー朝の王は英語がわからず、イギリスの国政に深く関わるつもりもなかったそうです。その結果、大臣が台頭し、王の代わりに首相(プライムミニスター)が政治を担う制度ができていきました。
こういう制度が出来上がっていくとかっていうのも、やっぱなんかこの外国の人がイングランドどうでもいいけど王様になるみたいなムーブするから起こるっていうのも面白いよね。
樋口さんはアメリカとの共通点として、頼れる権力者がいなかったことを挙げます。深井さんは、イギリスが辺境だったからこそ議会政治が発展して強くなったと考え、「辺境であるってね、やっぱ実は強いんだろうな」とシリコンバレーにも重ねています。
ブレグジットの国民投票は議会の権威低下のサインか
議会が強いイギリスですが、深井さんは、21世紀になって議会の権威が落ちているのではないかという言説もあると紹介します。そう指摘する人がいる程度の話として聞いてほしい、という前置き付きです。
根拠とされるのは、ブレグジットの是非を議会で決めきれず、国民投票に委ねたことです。議会は民意を代表しているはずなのに、議会が決めても国民が納得しない懸念があったから国民投票にした、と読めるからです。
ただ深井さん自身は、この見方にやや懐疑的です。決定事項が重要すぎる場合は国民投票でもいいのではないか、と話しています。
明治維新と自由民権運動、戦争に参加した人が権利を主張する
後半は日本です。明治維新で幕府がなくなり、薩摩藩と長州藩の首脳陣が政府を主導する状態が生まれました。それに反発した人物として、深井さんは西郷隆盛と板垣退助を挙げます。
西郷隆盛は明治維新の主導者でありながら新政府への反発者でもあり、最後まで武力に頼って西南戦争で散りました。一方の土佐藩出身の板垣退助は、別の道をたどります。
楊さんは、その前の戊辰戦争 ── 1868〜69年、新政府軍と旧幕府勢力が戦った内戦。鳥羽・伏見の戦いから函館の五稜郭の戦いまで続きましたが社会に大きな影響を与えたと補足します。都市の下層民なども新政府軍に加わって戦い、武士以外の人々が戦争に参加したことで身分制社会の基本単位が崩れたというのです。
実際、板垣退助もそういうふうに自分の功績を主張してステップアップした人の一人なんですよね。
深井さんは、戦争に参加した人が権利を主張するのは古代ギリシャから繰り返されてきた、再現性のある現象だと指摘します。板垣退助はその後、西欧の民主主義思想の影響を強く受けた自由民権運動 ── 明治前期、国会開設や憲法制定、言論の自由などを求めた政治運動。士族から豪農・商工業者へと担い手が広がりましたを反政府運動として展開しました。
自由民権運動の担い手は、士族や商工業者、地主といった実力のある人々でした。彼らには薩長の政府が専制政治をしているように見え、議会の開設、税の軽減、不平等条約の解消、言論と集会の自由の保障を求めたといいます。
民撰議院設立建白書をめぐる全国的な論争
自由民権運動の一環として、板垣らは民撰議院設立建白書 ── 1874年に板垣退助らが政府に提出した、国民が選ぶ議員による議会の開設を求める意見書を政府に提出します。三人とも教科書で見た覚えがあり、深井さんは「長くてイライラしてた」と振り返ります。
楊さんによれば、民撰議院設立建白書は新聞に掲載され、全国的な議論を呼びました。賛否さまざまな論者が新聞や雑誌に投稿し、活発に議論したといいます。
楊さんが紹介する主な論点は2つです。1つ目は、もともと政府の役人だった板垣らに政府を批判する資格があるのかという点。2つ目は、民衆の意識がまだ江戸時代にとどまっていて、今すぐ議会を作るのは時期尚早ではないかという点です。
農民や商人の多くは政治の知識がなく、まず教育が必要
実際に意思決定に関わらせることで、自分たちの問題を自分たちで解決する主体性が育つ
興味深いのは、民撰議院そのものを否定する論者はいなかったことです。楊さんは、作るべきだという点は大まかに共有されていたと説明し、深井さんはイギリスやアメリカ、フランスというお手本があったからだろうと話します。
もうもうもう錦の御旗みたいになってた。
「板垣死すとも自由は死せず」から大日本帝国憲法へ
深井さんは、自由民権運動が非暴力で進められた点を重要だと強調します。板垣退助は明治15年ごろ岐阜で刺され、「自由は死せず」と言ったと伝えられていますが、言っていない説もあるそうです。
自由民権運動は明治7年ごろの民撰議院設立建白書の提出から始まり、専制政治への批判や公のための政治を訴えました。ただし、天皇はとても尊重していたといいます。
こうした運動の影響もあり、明治維新から20年ほど経った1889年に大日本帝国憲法が公布され、1890年に施行されます。同じ1890年には、民選議員による議会も設立されました。
福沢諭吉と中江兆民、儒教を通して訳された西洋思想
日本の民主化の背景には、西洋の民主主義思想の導入がありました。深井さんによると、福沢諭吉は明治維新の2年前の1866年に刊行した『西洋事情』の中で、アメリカ独立宣言を翻訳しています。
アメリカ独立宣言には、ジョン・ロックの抵抗権 ── 政府が人民の権利を守らない場合、人民がその政府に抵抗し、倒してよいとする考え方。ロックの社会契約論の柱の一つですの考え方が入っていました。福沢の翻訳によって日本にも抵抗権思想が紹介されますが、ゼロから受け入れることはできず、儒教とのアナロジーで取り入れられていきます。
その過程で若干歪むよね。
深井さんは、儒教にも孟子の易姓革命 ── 天命を失った王朝は徳のある者に取って代わられる、という儒教の考え方。孟子が王朝交代を正当化する理論として説きましたの話があるので、そうした考えと合わせて紹介したのではないかと推測しますが、詳しくは調べていないと断っています。
ルソーの思想も同様でした。楊さんは、ルソーを日本に紹介した中江兆民が、「一般意志」を「衆志」と訳したと紹介します。
深井さんは、江戸時代までバリバリの封建制だった日本が、西洋の国々が何百年もかけて争いながら築いたものを二、三十年で一気に入れたことを「すごいと思うよ」と評価します。
しかも日本の知識人は、留学先や得意な言語によって、フランス流、イギリス流、ドイツ流とばらばらに取り入れました。深井さんは、ルーツの違う民主主義を混ぜ込んだモザイク構造で明治日本は近代化したと表現し、涙ぐましい努力であると同時に弊害もあっただろうと話します。
ペリー来航と「公議」、幕府は意見を求めた
楊さんは、日本が西洋の議会政治を受け入れた背景に、幕末にすでに「公議」という理念があったという見解を紹介します。公議とは、政治参加を広げ、公正な議論で物事を決めていこうという考え方で、尊王攘夷と並ぶ明治維新の原動力の一つだったとされます。
公議が注目されたきっかけはペリー来航でした。老中の阿部正弘は、対応を決めるために、それまで政策決定に関われなかった大名や旗本にも広く意見を求めたといいます。
譜代大名など限られた人だけが、閉鎖的な場で政策を決めていた
阿部正弘が大名や旗本に広く意見を求め、公議の意識が下級武士にまで広がった
楊さんと深井さんは、この構図が、危機に直面したフランスが久しぶりに三部会 ── フランスの聖職者・貴族・平民の3身分の代表からなる身分制議会。1789年に約175年ぶりに招集され、フランス革命の発端となりましたを開いたことに似ていると話します。
ただし深井さんは、この見解に異論も示します。
その民主参加の話と、(大名に)何か意見聞くのってさ、似て非なるもんじゃん。別に一般意志の概念もないし、自由の概念もないし、財産保全の概念もないわけじゃん。
楊さんも、公議は理念的なものというより、政治的な発言力の範囲が広がるきっかけだったと応じます。集まって話し合うことに光が当たった背景として位置づけるのが、二人の落としどころでした。
民主主義はシステムではなく文化である
深井さんは、日本は戦後に今の憲法を作ったことにも触れつつ、アメリカ、フランス、イギリス、日本、ワイマール共和国のドイツと、国ごとに民主化の道がまったく違うと振り返ります。どの国も、もともとの伝統がすぐには変わらず、失敗を経て今の姿になっているといいます。
僕はやっぱ本当に民主主義っていうのはシステムでもなんでもないなって思いますね。
深井さんによれば、民主主義は理念が浸透しないと駆動しないものです。日本は導入のスピードがすさまじかったぶん、一般意志、社会契約説、個人、自由、人権といった概念が、儒教のアナロジーで半分わかって半分わからない状態のまま続いている感覚がある、と話します。
樋口さんは、よく言えばローカライズされた民主主義、悪く言えば純粋性の高い民主主義ではないとまとめます。深井さんは、中国やインドは自分たちの文化が強く西洋概念がそれほど入っていないのに比べ、日本はかなり塗り替えたように見えると話しています。
なんかこれをね、半分取り入れられてないじゃないかって見ることもできるし、半分も取り入れれたって見ることもできるし。
深井さんは、天皇を残した形だったから納得感も高かったのではないかと話し、「すごいハイブリッド感」と表現しました。
律令制から「社会」という訳語まで、日本的な輸入の特性
深井さんは、日本のこうした取り入れ方は律令制 ── 中国の隋・唐で整えられた、律(刑法)と令(行政法)に基づく国家制度。日本は7〜8世紀に導入しましたのときにも似ていたと考えます。頑張って入れても定着しきらなかった一方、江戸時代でも征夷大将軍は律令制の官職で、「超一応」律令制だったというわけです。
深井さんは、留学した日本の知識人層はほぼ完璧に西洋の概念を理解していたと評価します。その例が「社会」という訳語です。
世間って言葉を持ってたんだけど、社会と区別するために社会という言葉を新しく作ったんですよね。
「社会」や「政府」という訳語は中国にも逆輸入され、中国でも使われているといいます。深井さんは、既存の言葉で済ませず新しい言葉を作ったことこそ理解の深さの表れだと話しつつ、直接取り入れてハイブリッドで使い、その後まあまあ崩れていくのは日本的特性かもしれない、と付け加えています。
イギリス・フランス・アメリカ・ドイツ・日本、民主化の個性を総ざらい
最後に深井さんは、各国の民主化をまとめます。イギリスは、外国出身の王が国政に関心を示さなかったこともあって議会が育ち、王が排除できないほど強くなりました。ロックらが議会優位の理論を固め、もともと民主主義ではなかった議会政治が民主主義と結びついて代議制民主主義になったといいます。
深井さんは、代議制と議会と民主主義はルーツが別々だったことが、イギリスの歴史からわかると強調しています。
| 国 | たどった道 | 特徴 |
|---|---|---|
| イギリス | 王と戦いながら議会が優位に立ち、選挙権を段階的に拡大 | 議会に習熟している |
| フランス | 絶対王政の反動で共和制が現れ、普仏戦争まで混乱 | 民衆が自由を勝ち取るというプライド |
| アメリカ | 政府が機能しない中で町の自治が育つ | 誰にも従属していないという感覚 |
| ドイツ | 分断された帝国から敗戦でワイマール共和国へ | 制度と実態の乖離の反動でヒトラーが台頭 |
| 日本 | 侍の国から二、三十年で憲法と議会を整備 | 儒教アナロジーで半分理解された民主主義 |
フランスについて深井さんは、フランス革命以降に民衆が政府と戦い暴動を起こす伝統ができ、その経験が世界各地に影響を与えたと話します。アメリカはタウンシップ ── 植民地時代のアメリカで発達した町単位の自治共同体。住民が集会で地域のことを決めましたがあり、「これは俺らの街だ」という感覚が非常に強かったといいます。
ドイツは長く分断された帝国で統一国としてのアイデンティティが薄く、ワイマール共和国で制度だけが先行した乖離の反動からヒトラーが出てきました。日本については、エリート層は理解していても、全体としては西洋近代の概念がよくわかっていない状態が続いているのではないか、というのが深井さんの考察です。
樋口さんは、思想やシステムを一から作り上げた側か、出来上がったものを実装する側かによっても定着のプロセスが違うと感想を述べます。次回以降の数回では、現代の民主主義で指摘されている問題や論争を、肯定も否定もしないスタンスで紹介していく予定だと語られました。
まとめ
今回の回では、議会政治の国イギリスが失敗から学びながら選挙権を刻むように広げてきた過程と、日本が幕末の公議や自由民権運動を経て、西洋思想を儒教になぞらえつつ短期間で取り入れた過程が語られました。国ごとの違いを通して、民主主義はシステムではなく文化だという見方が浮かび上がります。
- イギリスの議会政治はもともと民主主義ではなく、選挙法改正を重ねて代議制民主主義へと結びついた
- 1832年から1928年の成人普通選挙まで、イギリスは経験から学びながら段階的に選挙権を拡大した
- 日本では戊辰戦争やペリー来航を背景に自由民権運動が起こり、1889年に大日本帝国憲法が公布された
- 福沢諭吉や中江兆民は西洋思想を儒教のアナロジーで紹介し、短期間での導入は理解の歪みも残したと深井さんは考える
- 民主主義は理念が浸透して初めて動く文化であり、各国の伝統に強く引っ張られている





