目も耳も使えずに250回の講演?
大学を卒業したヘレン・ケラーは、発音の練習を重ねたことで人前で話すことが不可能ではなくなり、執筆と講演活動の人生に入っていきます。
深井さんによれば、ヘレンは50歳になるぐらいまでに123の都市で250回ほど講演し、延べ25万人ほどの聴衆を集めたといいます。
これね、250回の講演ってさ、なんだろうね、目と耳が聞こえてないのに250回すんのすごいよ。
樋口さんは、ヘレンには聴衆のリアクションが聞こえないはずだと驚きます。ただ、ヘレンは会場の空気の振動から、聴衆が喜んでいるかどうかを感じ取れていたと話されています。
だって、いくらおもろいことを言ってボケても全く笑い声聞こえないわけですからね。
一方で、障害のあるヘレンは日常生活にも時間がかかり、執筆・講演・家事でサリバン先生とともに多忙を極めます。その忙しさの中で、サリバン先生は体を壊していきます。
サリバン先生は結婚しており、夫とヘレンの3人で暮らしていました。夫はとても良い人だったものの、2人が有名になるにつれて心の距離を感じ、別居に至ります。正式な離婚こそしなかったものの、最後の何十年かは事実上の離婚状態だったといいます。
勝手に期待して勝手にキレる人たち
有名になるにつれて、ヘレンにはアンチも生まれてきます。中でもヘレンが一番困ったと語ったのは、自分たちを無駄に美化する人たちでした。
深井さんによると、たった1回しか会ったことがないのに、話してもいない内容で「こんなにすごい人だ」と言いふらしたり、事実ではない功績を広めたりする人がいたといいます。ヘレンは自伝の中で、こうした人々をかなり厳しく書いているそうです。
で、大体そういう人は勝手にお願いしてきて、勝手に失望して勝手にキレてくるって言ってました。
樋口さんは、こうした人は今の自分たちの周りにもいそうだと共感します。過剰な美化は、期待と失望の裏返しになりやすいことがうかがえる話です。
美化する
会ったこともほとんどないのに、事実でない功績を言いふらす
お願いしてくる
勝手に期待して、頼みごとをしてくる
失望してキレる
期待どおりでないと勝手に失望し、怒り出す
結果だけ見ればわからない、ヘレンの自信喪失
講演250回という結果から見ると、ヘレン・ケラーは立派な人だから何でもできた、と思いがちです。しかし深井さんは、ヘレン自身はずっと不安感と戦っていたと強調します。
たとえば5〜6人で活動の進め方を議論する場面では、ヘレンは相手の言葉に即座に反応できません。相手の顔を触れば話の内容がわかるようになっていたものの、複数人が同時に話す議論では、それも追いつきません。
議論もできないような自分がこういう世界に入って、一体何ができるんだろうっていうことでね。やっぱりね、自信喪失との戦いだったんですよね。
講演についても、ヘレンがうまくいったと思えたことはほとんどなく、毎回「全然ダメだ」と感じて終えていたようです。樋口さんは、ヘレンが参加した委員会でも議論にまともに加われず、結局辞めてしまったことに触れます。
僕らとかはもう本当にね、伝記とかが世界中で有名になって、ヘレンケラーって名前知ってるから、すごい人だっていう結果を知ってるからですけど、リアルタイムで生きてたらそれは不安でしょうね。
後世の読者は結果を知っているからこそ偉人を「余裕のある人」と見てしまう、という指摘は、コテンラジオが偉人を語るときに繰り返してきた視点でもあります。
大失敗の初講演から、勝ちパターンをつかむまで
ヘレンの初期の講演は大失敗だったといいます。相当練習して臨んだのに、いざ本番になると言葉が出てこず、話せても声が小さすぎて聴衆はほとんど聞き取れませんでした。
深井さんは、この場面をガンディ ── インド独立運動の指導者マハトマ・ガンディー。若い弁護士時代、法廷で緊張して言葉が出なかった逸話が知られていますの若い頃の失敗になぞらえています。ヘレンは話しながら、大失敗していることだけははっきりわかっていたそうです。
無理だったのに、なんでこんなこと始めてしまったんだろうって。やっぱ彼女はね、この時は思ってしまったみたいなんですよ。
それでもヘレンは、新しい先生を呼んで3年ほどかけて発音を学び直します。声を出す仕組みを「動力」「振動器」「共鳴器」の3つに分けて意識し、聞こえないリズムや音の高低をどうコントロールするかまで練習しました。
その結果、講演しても不自然ではない程度まで聞き取りやすくなります。ただ、いきなり一人で話し出すのはやはり負担が大きかったようです。
そこでヘレンが見つけたのが、サリバン先生と組んで段階的に話す形式でした。深井さんはこれを、ヘレンなりの「勝ちパターン」や「フォーム」と表現しています。
それでも本人は、最後まで話すことはうまくならなかったと語っていたそうです。ヘレンが話す様子は、YouTubeなどで映像として見ることができると深井さんは紹介しています。
社会主義者ヘレン・ケラーへの批判
同じ時期、ヘレンの社会活動は障害者教育にとどまらず、社会課題全般へと広がっていきます。深井さんによれば、ヘレン・ケラーは実は社会主義 ── 生産手段の共有や富の公平な分配を目指す思想。20世紀初頭のアメリカでは労働運動と結びつく一方、強い警戒の対象にもなりました者でした。
ヘレンは黒人の奴隷解放、反戦、労働者の処遇改善、女性参政権などについて政治的な発言をするようになります。深井さんは、いずれも今から見れば正しい発言だとしつつ、当時のアメリカではそうした発言をする人がまだ少数だったと説明します。
スーパースターの女性のスーパースターがなんかすげえ政治的な発言をしだしたみたいな。なんだこいつはみたいな。
2人は、これを今のTwitterで芸能人の政治的発言が叩かれる構図と全く同じだと重ねます。メディアがヘレンの時事問題の記事掲載を拒否したこともあり、執筆の仕事は減っていきました。
お金が貯まらない、サリバン先生も倒れる
さらにサリバン先生が働きすぎで倒れてしまいます。経済的支援をしてくれる大金持ちもいたものの、支援がなくなる時期もあり、2人は自分たちで稼いだお金で生きていくしかありませんでした。
支援の途絶
スポンサー的な支援者がいなくなる時期が生じる
働きすぎ
自力で稼ぐためにめちゃくちゃ忙しくなる
サリバン先生の不調
体を壊して働けなくなる
困窮
30代前半ごろから長い経済的困窮時代に入る
しかも2人は、稼いだお金を障害者のために寄付してしまうこともありました。最低限の生活費も維持できなくなると講演に出る、という状態だったといいます。
サリバン先生が療養している間は、執筆も難しくなります。ヘレンは最悪アウトプットは一人でできても、本を書くための資料集めというインプットが一人ではできなかったからです。
ついに2人は家を売り、ニューヨークのクイーンズに移り住みます。そこへ鉄道王として紹介されるカーネギー ── アンドリュー・カーネギー。19世紀アメリカの実業家で、一般には「鉄鋼王」として知られ、晩年は慈善活動に巨額を投じましたが経済的援助を申し出ます。
ヘレンは最初こそかたくなに断っていましたが、サリバン先生が完全に働けなくなり、ついに手紙で援助をお願いします。その援助で、ようやく生きていける状態だったといいます。
ヘレンがサリバン先生に点字を教えた日
樋口さんは、サリバン先生の視力が落ちてきたことにも触れます。深井さんによれば、サリバン先生は働きすぎや目の使いすぎなどもあってか晩年に再び目が見えなくなり、最後は失明します。樋口さんは、両方の眼球を摘出してしまったと補足しています。
晩年のサリバン先生が点字本を読もうとしたとき、長く使っていなかったために点字を忘れていました。そこで、かつてサリバン先生に教わったヘレンが、今度はサリバン先生に点字を教えたといいます。
ヘレンに自分が教えたんだけど、長らく使ってなかったから、ヘレンがサリバンに点字を教えたんだって、その時。
サリバン先生がヘレンに点字を教えた
点字を忘れたサリバン先生に、ヘレンが点字を教えた
講演家ヘレン、芸人として劇場デビュー
40歳ぐらいの頃、本当にお金に困ったヘレンは劇場に出始めます。大道芸人のような人たちと同列で、「目が見えず耳も聞こえないのに喋れる人」という見せ物のような形での出演でした。
芸人っていう立場でですか?
芸人です。芸人の立ち位置で出るような。
ヘレンは4〜5年ほど、この劇場の仕事で生計を立てます。笑い声は聞こえなくても、人の体温やリアクションから、笑っているかどうかはある程度わかっていたようです。
面白いのは、2人の受け止め方が正反対だったことです。ヘレンはすごく楽しんでいたのに、サリバン先生はとても嫌がっていたといいます。
堅苦しい講演より楽しく、観客が素直にリアクションしてくれるのを楽しんでいた
劇場に出ることをすごく嫌がっていた
この時期にも「障害を見せ物にしやがって」と批判する人はたくさんいました。それでも深井さんは、本人が楽しく、誰にも迷惑をかけておらず、生活のためにも仕方なかったのだから良いことだと考えています。
サリバン先生の後を担うポリー・トムソン
体の弱ったサリバン先生に代わって、2人は新しいお手伝いさんを雇います。それが、のちにサリバン先生の代わりとしてヘレンを支え続けるポリー・トムソン(タムソンとも読む)さんです。
ポリーさんはスコットランド人で、盲人教育の経験は全くありませんでした。それでも非常に献身的で筋の良い人だったといいます。
ヘレンはサリバン先生の死後も30年ほど生き、さまざまな活動を続けます。深井さんは、それができたのはポリーさんのおかげだと話しています。
いい出会いだよね。この人も立派な人だもんな。本当に立派な人。
母の訃報を胸に、笑わせ続けた舞台
劇場に出ていた時期、ヘレンが42歳ぐらいのときに、深い愛情を注いでくれた母親が亡くなります。
樋口さんによると、ヘレンは芸人として舞台に立つ直前にその訃報を知らされ、泣くのを我慢しながら観客を笑わせていたといいます。
それでも出るのが芸人なんですよね。いや、俺、俺の同期の友達に全く同じ経験したやつがいて、そいつもライブやってましたね。
いや、だから一番きついですよね。不幸の時に人を笑わせないといけない状態っていうのは。
一方、この頃のヘレンは劇場出演や反戦運動で世間から叩かれることも多い中、功績が認められて大学から博士号を授与されます。社会人博士のような形で、サリバン先生とヘレンの双方に博士号が贈られ、表彰を受けるなど良い出来事もありました。
次回はついにサリバン先生が亡くなり、その後のヘレンの生き方と、これまで話しきれなかった話題が語られる予定です。
まとめ
今回は、講演家として華々しい実績を残したヘレン・ケラーが、実際には自信喪失、批判、経済的困窮と戦い続けていた姿が語られました。劇場の舞台にまで立った時期を経て、ポリー・トムソンさんという新たな支え手も現れます。
- ヘレンは50歳ごろまでに250回ほど講演したが、本人は毎回うまくいかなかったと感じていた
- 無駄に美化する人や、政治的発言を叩く人など、有名になるほどアンチに悩まされた
- サリバン先生の不調と寄付も重なって困窮し、カーネギーの援助や劇場出演で生活をつないだ
- 劇場出演をヘレンは楽しみ、サリバン先生は嫌がるなど、2人の性格の違いが表れた
- ポリー・トムソンさんの加入が、サリバン先生亡き後のヘレンの活動を支えることになった



