高句麗親征の失敗で、煬帝はどこまで追い詰められたのか
唐の成り立ちを語るには、隋の滅亡を詳しく振り返る必要があります。深井さんはまず、隋の煬帝が3回にわたる高句麗への親征 ── 皇帝自身が軍に同行して行う遠征のこと。勝てば皇帝の権威は高まりますが、失敗すれば皇帝個人の威信が大きく傷つきますに失敗した話から始めます。
2回失敗してる時点でもうすでに権威は地に落ちてるんですよ。やっぱりね、失敗しちゃダメなんでね、遠征って。
煬帝の権威が落ちると、隋の各地で盗賊が増え、自ら王を名乗る者が現れました。従軍の途中で逃げる兵が増え、集合命令を出しても期日どおりに兵が集まらない状態になっていきます。
3回目の遠征の引き揚げでは、煬帝自身が賊8000人に襲われ、乗馬2頭を奪われたといいます。こうした情勢を受けて、一度は隋に従っていた東突厥までもが反抗するようになりました。
煬帝は長男で皇太子の楊昭を若くして亡くし、頼れる肉親もいませんでした。もともと疑い深い性格で、反乱以降は臣下も信じなくなり、臣下は都合の悪いニュースを煬帝の耳に入れなくなります。煬帝は揚州の離宮に逃避し、そこで遊んでいたと語られています。
李密と李淵、唐を建国したのはどちらだったのか
隋が崩れていく中で、隋に代わろうとする豪傑は130人に及んだそうです。その中で特筆すべき人物が李密でした。李密は以前の反乱に参加して失敗したあと、盗賊の頭として頭角を現します。
李密は要塞のように守られた隋の国倉、つまり食料の保管庫を奪い、洛陽から送られた討伐隊も打ち破って、自ら王を名乗りました。
番組では、李密が関隴集団 ── 北魏が東西に分かれたあと、西側の西魏・北周で形成された支配層。隋と唐の帝室もこの集団から出ていますの出身だったと説明されます。同じ関隴集団から出てきたのが李淵で、煬帝とはいとこにあたる、帝室に連なる人物でした。
李密は反乱の初期こそ勢いがありましたが、次第に衰え、最終的に李淵に助けを求めて合流します。李淵は周囲から押し上げられるように勢力を広げ、唐を建国しました。
一方、最後まで唐に抵抗したのが竇建徳と劉黒闥です。この二人は北魏が東西に分かれた際の東側の勢力、山東集団 ── 北魏分裂後の東側(東魏・北斉)につながる勢力。関隴集団と対立し、隋や唐の時代にも派閥として残りましたを形成しており、唐の建国後も、のちの太宗李世民が討伐を続けることになります。
この流れで見ると、唐は関隴集団の李淵が隋の支配層から押し上げられて建てた王朝であり、山東集団との対立を抱えたまま始まったことがわかります。
玄武門の変と、相続をめぐる2つの文化
唐の初代皇帝となった李淵は、長男の李建成を皇太子に、次男の李世民を秦王にしました。皇帝と皇太子は長安で内政に力を入れ、対外戦争は李世民が一手に引き受けます。
戦いを重ねるうちに、李世民は独自の部下と人気を得ていきました。その結果、唐の中に長男・李建成を推す派閥と、次男・李世民を推す派閥ができ、天下統一後に抗争が激化していきます。
ある日、李世民は父の李淵に「兄が父上の後宮に入り込んでいる」と訴えました。李淵は事情を聞くために兄弟を宮廷へ呼びます。その日の朝、李世民は宮廷の北側にある玄武門に兵を集めていました。
李建成は危険を感じて早めに玄武門を押さえようとしますが、すでに李世民に押さえられていました。自分の家に引き返そうとした李建成を、李世民は追いかけて殺します。これが玄武門の変 ── 626年、李世民が兄の皇太子李建成らを殺害した政変。この直後に李世民は皇太子となり、まもなく即位しましたです。
知らせを聞いた李淵は皇太子を李世民に替え、やがて引退しました。兄を殺して父から帝位を得るという点で、李世民は隋の煬帝と同じことをしたとも語られます。
番組では、この継承の背景に文化の違いがあると説明されます。漢民族の農耕社会では長子相続が基本でしたが、遊牧民の社会では末子相続が一般的でした。唐の帝室は鮮卑族という遊牧民の流れをくむため、年下の子が継いでもおかしくなかったといいます。
長男が家を継ぐ長子相続が基本
上の息子は成人時に財産分与を受けて独立し、最後に残った末子が残りを継ぐ
唐の帝位継承では、この漢人的な文化と遊牧民的な文化が衝突していたと考えられます。
兄を殺した皇帝が、なぜ「貞観の治」を実現できたのか
即位した李世民は太宗と呼ばれます。太宗の治世は貞観の治 ── 太宗李世民の治世(627〜649年)を指す呼び名。中国史上でも有数の安定した時代として、後世の為政者の手本とされましたと呼ばれ、中国史上でも最も統治がうまくいった時代の一つとされています。
この時代には人口が増え、家に鍵をかけなくても物が盗まれず、どの家にも米があふれていたと伝えられます。太宗の統治をまとめた『貞観政要 ── 太宗と臣下の問答をまとめた書物。帝王学の古典として日本にも伝わり、多くの為政者に読まれました』は今も残り、日本でも鎌倉時代や江戸時代の多くの武士が読んだといいます。
深井さんは、この時点でもまだ関隴集団と山東集団という派閥が残っていることを強調します。隋の直前に形成された二つの勢力が、隋になっても唐になっても続いているのは、貴族政治的な性質を持っているからだといいます。
これ(二つの集団)を潰すのも武則天です。
深井さんは、兄弟を殺した人物は儒教的な考え方からすれば決して良い王様にはなれないはずだと指摘します。それでも最高の治世が実現したことは、唐が漢民族文化と遊牧民文化の融合体で、多元的であったことを示していると語られます。
太宗は賢臣たちをどう使ったのか
太宗李世民は関隴集団の出身で、皇后の兄・長孫無忌は大親友であり、関隴集団の長老的な立場でした。ところが太宗が実際に使った幕僚には、山東集団出身の人物が多くいました。
太宗は両集団から人材を抜擢し、バランスの取れた内閣のような体制を作っていきます。その代表が、努力型・熟考型とされる房玄齢です。
太宗はある家臣を役職に就けたとき、房玄齢の反応を見てくるよう人に頼みました。報告は、房玄齢はその人の外見にはコメントしたものの、任命そのものには触れなかったというものでした。太宗はこれを「認めていない」と受け取り、任命を取り消して別の人を任命し直したといいます。
房玄齢と並んで重用されたのが杜如晦で、二人とも玄武門の変で太宗に味方しました。杜如晦は天才型でしたが、早くに亡くなったと語られます。
さらに太宗は、自分の政治判断を批判する役職を作り、そこに魏徴を就けました。この人物はもともと兄・李建成の家臣でしたが、賢さを買われて登用され、その批判を踏まえて太宗が判断し直す仕組みが作られます。後任には褚遂良が就きました。
まあそれぐらいしないと、やっぱりお兄さんを殺して即位するということに対する恐怖が多分あったと思いますね。
深井さんは、同じような出自の煬帝が滅ぼされたことへの恐れが、太宗のバランス感覚の背景にあったのではないかと見ています。
三省の仕組みは、皇帝の権力をどう縛ったのか
深井さんは、名前は覚えなくてよく、太宗が賢臣を使って良い政治をしたと理解すれば十分だと前置きします。そのうえで、煬帝のようにならないための工夫として、門下省・中書省・尚書省の三省を挙げます。
三省は互いに牽制し合い、一つの機関に独裁的な権力を持たせない官僚機構でした。番組では、これを「三権分立体制的なもの」と表現しています。
中書省
皇帝が命令を出したいとき、その起草案を作る
門下省
実力を持つ貴族層の意向を代弁し、起草案を審議する
尚書省
審議を経た命令を実行する行政機関
この仕組みでは、皇帝の言葉は三省の官僚の手を経なければ全土に発信されません。皇帝の権力は制度によって制限されており、好き勝手には動けなかったと説明されます。
それ(牽制)が行政的システムとしてシステマチックになされてるってことが大事なんです。
現代日本の三権分立と似ているかという問いに対し、深井さんは、日本の制度はモンテスキューに由来し考え方のルーツが全く違うと答えています。共通するのは、一つの機関に権力を集めず牽制し合うという点だけだといいます。
太宗はなぜ三男の李治を後継者に選んだのか
太宗の次の課題は後継者選びでした。皇后の長孫氏には3人の息子がいましたが、長男は身体に障害があったとされ、異民族の格好を好む趣味もあって評判がよくありませんでした。次男は勉強がよくできたものの、太宗は決めかねます。
太宗が相談したのは、皇后の兄で幼なじみの長孫無忌でした。長孫無忌は三男を推し、最終的に太宗はその勧めに従います。三男の李治はのちに即位して高宗となり、その配偶者が武則天になります。
深井さんは、長男と次男の後継者争いがエスカレートしすぎて手がつけられなかったという説も紹介します。太宗は国が治まらないと考えて二人を廃し、李治を手元に呼んで帝王学を叩き込んだともいわれます。
李治は派閥色が強くなかったため、長孫無忌にとってはコントロールしやすい存在だったかもしれません。日本の文献では、長孫無忌が自分に都合のよい人物として李治を推したと解釈されていると話されています。
父の妻を息子が娶る、武則天の特殊な経歴
今回は楊睿之さんがいるため中国の文献も読んでおり、日本の文献とは書き方が違って面白かったと深井さんは語ります。中国の文献のほうが詳しい部分もあったといいます。
武則天は、もともと太宗李世民の晩年の妻として後宮に入りました。何十人もいる妻の一人で、太宗とはほとんど交流がないまま太宗が亡くなり、その後、息子の高宗に見初められます。
番組では、父の妻を息子が自分の妻にすることは儒教社会ではありえないと指摘されます。一方で遊牧民にはレビラト婚 ── 亡くなった夫の兄弟や息子が、その妻を引き継いで結婚する慣習。遊牧社会などで、一族の財産や人の結びつきを保つ役割がありましたがあり、そうした文化的土壌が武則天の経歴を許したのかもしれません。
深井さんは、楊貴妃を皇帝が息子の妻から奪った話も、同じ文化的基盤があったからこそ起こり得たと述べています。唐王朝だから起こり、漢王朝では起こらないだろうという見方です。
隋と唐の分かれ目、そして武則天の時代へ
最後に深井さんは、この回のポイントを整理します。1つ目は、煬帝と太宗は似たことをしながら、太宗は煬帝の失敗を見て学んだ結果、唐を成功に導いたという点です。秦と漢の関係にも近い構図だといいます。
2つ目は、後継者選びです。長孫無忌が都合のよい三男を推し、太宗にとっても長男と次男の抗争を避けられる三男案が望ましかった結果、抗争に加わっていなかった李治が皇太子になりました。
3つ目は、関隴集団と山東集団という勢力がまだ残っていたことです。長孫無忌もこの派閥を意識していたからこそ三男を推したと深井さんは見ています。
こうして武則天が登場する土壌がそろい、次回からはいよいよ武則天の誕生から話が始まります。
まとめ
唐は、煬帝の失敗を教訓にした太宗李世民のもとで貞観の治という最盛期を迎えました。しかしその安定は、関隴集団と山東集団の派閥争いを太宗個人の力で抑え込んだものであり、太宗の死後に爆発する火種を抱えたまま武則天の時代へ向かいます。
- 隋は高句麗親征の失敗をきっかけに崩れ、関隴集団出身の李淵が唐を建国した
- 李世民は玄武門の変で兄を殺して即位し、背景には長子相続と末子相続という文化の衝突があった
- 太宗は両集団から賢臣を登用し、批判役や三省の仕組みで皇帝権力にも歯止めをかけた
- 後継者には長孫無忌の推す三男の李治が選ばれ、その配偶者となったのが武則天だった
- 父の妻を息子が娶る経歴には、遊牧民のレビラト婚のような文化的土壌があった可能性がある


