日本から見た「中国の始まり」はなぜ隋なのか
コテンラジオ武則天編は、前回までに魏晋南北朝時代を通して中国が多民族化していく流れを扱ってきました。今回はいよいよ、隋唐帝国の前半にあたる隋の話に入ります。
深井さんはまず、隋の王朝領域がそれまでの王朝と違うことを押さえます。江南の開発が進んだぶん領域が広くなり、隋はさらにその外側の周縁地域にまで影響を及ぼすようになりました。
その周縁地域のひとつが日本です。隋の2代目皇帝である煬帝 ── 隋の第2代皇帝(在位604〜618年)。大運河の建設や高句麗遠征で知られ、中国史では暴君の代表として語られることが多い人物ですの時代には、日本から使いが送られています。番組では、聖徳太子が送ったとよく言われるものの、聖徳太子からではないとする見方もあると触れられました。
樋口さんは、日本が中国という存在を本格的に視野に入れ始めたのが隋の時代だと受け止めます。深井さんはこれを、日本人が知る中国の出発点そのものが、すでに多くの民族が混ざり合った後の中国だという話につなげました。
深井さんによれば、のちに最澄と空海が渡ったのも、そうした「混ざった後」の中国です。日本で思い描かれる中国像は、この隋以降の姿から始まっていると言えそうです。
北周の実力者・楊堅と、「隋」の字からしんにょうが消えた理由
隋を建てたのは、北周という国の実力者だった楊堅です。楊堅は弘農郡華陰、今の陝西省あたりの出身で、楊という漢姓を名乗ってはいるものの、鮮卑人だったと考えられる人物です。
楊堅の家は武勇を誇る家柄でした。父も武功を立て、12人の将軍のうちの1人として名を連ねていたといいます。
楊堅は北周の王朝を簒奪し、隋という国を建てます。ここで深井さんが紹介したのが、国号の「隋」という字にまつわる縁起かつぎの話です。
「隋」はもともと地名で、楊堅はその地を治める随王でした。そのため国名も随にしようとしたものの、字からしんにょうを取り除いたといいます。
この(しんにょう)っていうのは早く行くっていう意味があるんですよ。
で、(しんにょうを)つけると、隋っていう国号が早く終わっちゃうじゃん。
しんにょうを外して国の長続きを願ったのに、結果として隋は早く終わってしまいます。樋口さんの「ダメやん」というツッコミに、深井さんは「縁起かつぎだったんです」と返し、樋口さんは自分の名字の「樋」からしんにょうを取ったらどうなるのかと笑いを誘いました。
突厥の内紛が開いた南北統一への道
北周から隋を建てた時点では、南にはまだ南朝が残っていました。楊堅のすごさは、この南朝まで統一し、久しぶりに南北統一を果たしたことにあります。
深井さんは、楊堅の南北統一には運の要素もあったと話します。中国の王朝は、北にいる混ざりきっていない北方民族を常に気にしながら戦わなければなりませんでした。
楊堅が隋を建てた頃、北方では突厥 ── 6世紀半ばからモンゴル高原や中央アジアに勢力を広げたトルコ系の遊牧国家。のちに東西に分裂しましたが大きな力を持っていました。ところが突厥では4人の可汗 ── 遊牧国家の君主の称号。のちのモンゴル帝国のチンギス・カンの「カン(ハン)」も同じ系統の称号ですが並び立ち、互いに争う内紛状態になっていました。
内紛は、他国にとって付け入る隙になります。4人の可汗のうちの1人である沙鉢略可汗は、楊堅に臣従して助けを求めました。
深井さんの説明では、これが突厥に対する突破口となり、突厥が攻めてこない状況を作れたことが、隋が南へ勢力を伸ばす余裕につながりました。
突厥の内紛
4人の可汗が並び立ち、互いに争う
可汗の臣従
可汗の1人が楊堅に臣従して助けを求める
北の安定
突厥が攻めてこない状況ができる
南北統一
南へ伸びる余裕が生まれ、南朝を統一する
南北を統一した結果、それまでよりはるかに広い帝国が生まれます。深井さんは秦の始皇帝が道などのインフラを整えたことを引き合いに出し、隋も新しく得た広大な領域のために、インフラを作り直す必要に迫られたと説明します。
内政面では、約400年にわたって政治的な統一がなかったことで疲弊した民衆の心をつかむため、楊堅はさまざまな政策を打ち出し、悪くない治世を実現したとされます。
難しかったのは外交です。巨大な統一王朝として、周りの国々に「攻めてこずに臣従せよ」と認めさせていく必要がありました。ほとんどの国はそれに従いますが、1つだけ問題の国がありました。
それが朝鮮半島北部にあった高句麗 ── 紀元前後から668年まで、朝鮮半島北部から中国東北部にかけて存在した国。強力な軍事力で中国の王朝としばしば対立しましたです。深井さんによれば、高句麗はツングース系のルーツをもつとされ、半島南部の百済や新羅とは異なる国でした。
高句麗は隋の言うことをあまり聞かず、隋は遠征を行いますが大失敗します。途中で従うそぶりを見せたり、降伏したふりをして攻めてきたりと、高句麗は隋から見て非常にしぶとい相手でした。深井さんは、寒い土地は守りに強く攻めにくいことも理由に挙げています。
煬帝の帝位簒奪と、5年で掘った1500キロの大運河
高句麗と争ううちに、隋は2代目皇帝の煬帝の時代に入ります。煬帝は初代文帝・楊堅の息子ですが、もともと皇太子ではありませんでした。
皇太子だったのは兄の楊勇です。深井さんによれば、楊勇は女性関係にだらしなく、特に母がこの兄に失望していたといいます。
一方の煬帝は、小さい頃から頭の回転が速く、勉強もでき、文章もうまく、見た目も堂々としていました。母の目には頼もしく映ったようです。
煬帝は多くの人を買収し、皇太子が謀反を企てているという嘘を広めて兄を廃嫡に追い込み、自分が帝位に就きます。ところが実際の煬帝はわがままで傲慢な人物で、即位後はものすごい贅沢を始めたとされます。
ただし煬帝の実行力はすさまじく、その代表が運河の建設でした。南北統一で必要になった新しいインフラ、それが運河だったと深井さんは説明します。
この運河は全長推定1500キロ。番組では鹿児島から本州を通って東北あたりまでに相当する距離だと例えられ、それをわずか5年で完成させたことに驚きの声が上がりました。
運河によって長安・洛陽から南の揚州までが水路で結ばれ、物資や軍隊、食料を運べるようになりました。深井さんは、これで隋が1つの国として成り立つためのインフラが整ったと位置づけます。
その代わり、機械のない時代に5年で1500キロの運河を掘る労力は凄まじいものでした。動員された民は10数万人の時もあれば、100数万人の時もあったといい、大勢の人々に重い負担を強いることになります。
こうした負担を強いながら、煬帝は父から引き継いだ高句麗攻めも続けます。しかし3回挑んで3回失敗し、これが隋の滅亡につながっていきました。
西域から東南アジアまで、隋が臣従させた世界帝国の広がり
深井さんが隋のダイジェストを語ったあとで掘り下げたのが、周辺国が隋に入朝するようになったという出来事です。入朝とは、相手を帝王として認めることを意味します。
隋は西域にも力を及ぼし、今のウイグルのあたりにいた吐谷渾 ── 4世紀から7世紀にかけて、現在の青海省周辺を中心に勢力をもった遊牧系の国。鮮卑の一派が建てたとされますなどの勢力を削ぎ、入朝させることに成功しています。
東南アジアにも進出し、ベトナム南部のあたりまで達したとされます。一説には台湾、沖縄、フィリピンなども臣従させていたのではないか、スマトラやシンガポールまで行ったのではないかという説もあると紹介されました。
そして日本からも入朝しています。深井さんは、隋が相当広い範囲に隋帝国の存在を知らしめ、世界帝国と呼べるほどの力を発揮していたとまとめます。
この話を受けて、一気に勢力を広げて一瞬で滅んだ王朝という隋の姿が語られました。
煬帝の豪奢な暮らしと、3度失敗した高句麗遠征
隋が世界帝国となる一方で、煬帝は民衆からひどく恨みを買っていました。まず挙げられたのが、煬帝の豪奢な生活です。
煬帝は、東京から名古屋ほどの距離にあたる長安と洛陽の間に、別荘をいくつも建てたといいます。洛陽には顕仁宮を造り、国中から珍しい石や木、動物を集めた庭園で遊んだとされます。
さらに周囲90キロメートルに及ぶ御苑を建造させたという話もあり、番組では「90キロ」という数字に何度も驚きの声が上がりました。
民衆を酷使して造った運河の開通式も、華々しく執り行われました。万里の長城についても、20日間で100数万人を動員して一気に造るような突貫工事をしていたといいます。
番組では、かつてないほど中華圏が大きくなったことで、煬帝の感覚が「バグった」のかもしれないという見方も出ました。深井さんはその心理を次のように推し量ります。
俺の権力はどこまで行くんだみたいな感じなんでしょうね。
こうして民に労力を強いるのと同時に、煬帝は高句麗遠征にも失敗し続けます。目指したのは、父が成し遂げられなかった高句麗の恭順でした。
戦場となったのは、今の瀋陽のあたりにあたる遼東城の周辺です。隋軍は遼水という川を挟んで高句麗軍と対峙しますが、どうしても勝てませんでした。
優秀な将軍を送り込んでも負けて逃げ帰ってくることがあり、煬帝は激怒しても打つ手がなかったといいます。2度目の遠征では煬帝自身も出陣しました。
あらゆる国を臣従させているのに高句麗だけが従わないことは、皇帝の権威に関わる問題でした。煬帝は何としても屈服させようとしますが、反乱が起きるなどして失敗を繰り返します。
巨大事業
大運河や万里の長城の工事で民を大量動員する
豪奢な生活
別荘や巨大な御苑を次々に造らせる
遠征の失敗
高句麗遠征に3度挑み、3度とも失敗する
民の疲弊
負担が積み重なり、民衆の恨みを買う
王朝交代
クーデターで隋が滅び、唐が建つ
こうした負担の積み重ねが民をさらに疲弊させ、ついにクーデターが起きます。隋はこのクーデターで滅び、王朝は唐へと交代しますが、その詳しい経緯は次回に持ち越されました。
高句麗問題は、なぜ武則天の時代までつながるのか
ようやく唐の手前まで来たところで、この時期の武則天はどうしているのかという問いが出ます。深井さんの答えは、まだ生まれていない、というものでした。武則天は次の唐の時代の2世代目ぐらいに生まれる女性です。
番組では、この時代の隋が世界でいちばん大きな国だったことにも触れられます。ローマが滅びた直後ぐらいの時期で、地球全体で人口が減っていたことも背景に挙げられました。
それほど大きな国でも、高句麗のような相手には思うように勝てません。土地も人もある大国なら攻めれば勝てそうに思えるのに、そう簡単にはいかないところが面白いという感想が語られました。
深井さんによれば、高句麗遠征の問題は武則天の時代まで残り、武則天の夫の代になってようやく終結します。そしてそれは、ある意味で武則天の功績として称えられることになりました。
隋の高句麗遠征を詳しく取り上げたのは、武則天の時代につながる伏線だったわけです。他の国が倒されるかどうかに関係なく恭順していく中で、高句麗だけはなぜか長く倒せなかったと、番組は締めくくりました。
まとめ
隋は、楊堅が北周を簒奪し、突厥の内紛にも助けられて南北統一を果たしたことで生まれた巨大な統一王朝でした。2代目の煬帝は大運河を5年で築き、周辺国を次々に臣従させて世界帝国を作り上げます。一方で、巨大事業や豪奢な生活、3度失敗した高句麗遠征が民を疲弊させ、隋はクーデターによって2代で滅び、唐へと移っていきました。
- 楊堅は突厥の内紛で北の脅威が和らいだ隙に南北統一を果たし、久しぶりに中国を1つにまとめた
- 国号「隋」からしんにょうを外したのは、国が早く終わらないようにという縁起かつぎだった
- 煬帝の大運河は推定1500キロを5年で完成させ、長安・洛陽と揚州を結ぶ国家のインフラとなった
- 巨大工事への大量動員と高句麗遠征の失敗が民を疲弊させ、隋はクーデターで滅んだ
- 隋が倒せなかった高句麗の問題は、武則天の夫の代まで続き、武則天の功績へとつながっていく


