木材商人の父は、どうやって唐の功臣になったのか
コテンラジオ武則天編は、前回まで唐という国の成り立ちを語り、第6回でようやく主人公の武則天が生まれます。生年は623年から625年のいずれかと推定され、はっきりとは分かっていません。
深井さんによると、「則天武后」という呼び方は彼女を皇后として扱う、皇帝とは認めない感じの言い方です。武則天は実際に皇帝になったため、番組では「武則天」と呼んでいます。生まれたときの名前は武照でした。
武則天の家は、比較的有力な農民の家系だったと考えられています。父の武士彠は、木材の運搬販売で富を築いた人物です。
楊さんの説明では、当時は隋 ── 581年に中国を統一した王朝。文帝・煬帝の2代で大規模な土木事業を進めましたが、短命に終わり唐に取って代わられましたの文帝の時代で、宮殿の建設などで大量の木材の需要がありました。武士彠はこの木材ビジネスを当て込んで財を成し、さらに出世を目指す上昇志向の持ち主だったといいます。
生まれが良くない者たちにとって、これ(従軍)は役人として出世する、その定番コースが実は従軍だったわけですよね。
武士彠は軍の中でお金を使って小さなポジションを買い、木材商人から軍人へと「ジョブチェンジ」します。唐を建国する李淵の挙兵に従い、兵器の管理やインフラ整備の責任者を務め、全財産を李淵に献上して深く感謝されました。
木材商人
隋の土木工事による木材需要で財を成す
軍のポストを買う
お金で小さな地位を得て政治の世界へ
李淵に従軍
兵器管理やインフラ整備で働き、全財産を献上
李淵の信頼
この関係が、のちに武則天が浮上するきっかけになる
家柄を買う結婚と、異母兄からのいじめ
武則天の母は楊氏です。深井さんによると、楊氏は隋の帝室の流れを汲むとも言われる漢族の名門で、関隴系の派閥に属していました。
父の武士彠はお金も実力もありましたが、家柄が良くありませんでした。武士彠にとって楊氏との結婚は、ある意味で家柄を買う意味を持っていたと深井さんは説明します。
楊さんによると、武士彠は前の妻を亡くしており、皇帝の李淵が後妻として楊氏を紹介したといいます。皇帝自らが仲人のような役割を果たし、忠実な臣下の政治的地位を引き上げようとしたと言われています。
驚くのは楊氏の年齢です。平均寿命が50歳ぐらいだった時代に、楊氏は42歳で結婚し、そこから2人の娘を産みました。その次女が武照、のちの武則天です。
武則天が12歳のとき、父の武士彠が亡くなります。後ろ盾を失った母と姉妹は、前妻の子である異母兄たちから邪険にされるようになりました。
深井さんが中国の本で読んだ理由は、財産です。当時、娘が結婚して家を出る際には実家の財産を分与される権利があったとされ、異母兄たちには武則天たちが財産を持っていく存在に見えた可能性があります。
この人(武則天)は後々に自分の家族とか息子とか娘もどんどんどんどん殺していくんですけど、なんかこういう経験すごい影響してるんじゃないかなって感じますね。
家族の助け合いが重んじられる中国の文化の中で、武則天は家族からいじめられて育ちました。深井さんは、武則天が生涯を通じて人を許すことがほとんどなかった背景に、この経験を見ています。
武則天はなぜ太宗の後宮に入れたのか
武則天の転機は636年に訪れます。唐の2代皇帝・太宗李世民 ── 唐の第2代皇帝。兄を殺すクーデターを経て即位しましたが、「貞観の治」と呼ばれる安定した治世を築いた名君とされますの皇后、長孫氏が36歳の若さで亡くなったのです。
長孫氏は家臣・長孫無忌の妹で、玄武門の変 ── 626年、李世民が兄の皇太子らを討ったクーデター。これを機に父の李淵が退位し、李世民が即位しましたのときも太宗を支えた、非常にできた妻だったとされます。史書は彼女を女性の鑑のように絶賛していますが、深井さんは「どこまで本当かな」と距離を置いています。
皇后を亡くした太宗は落胆する一方で、皇后の目を気にせず振る舞えるようになりました。高官の娘たちから美貌と年齢で選抜して後宮に入れることになり、その中に13〜14歳の武則天がいました。
楊さんは、武則天の後宮入りには父・武士彠の存在が大きく関わっていたという説を紹介します。李淵がクーデターで帝位を失って亡くなると、武士彠は悲しみのあまり体調を崩して亡くなり、都では「主君への殉死だ」と評判になりました。
殉死は儒教の価値観で高く評価される行為です。ところが武士彠は李淵の失脚後、地方に飛ばされて10年間冷遇されていました。太宗は、忠臣を冷遇したと世論に批判されることを心配し始めます。
その批判を回避するために、武士彠の娘である武則天を仕方なく宮中に入れたっていう、政治的なポーズを取るために宮中に入れたっていう説がありますね。
深井さんは、日本の本では「美貌のため」と書かれていると付け加え、中国の本との詳しさの違いに驚いています。
才人のまま10年、太宗の死と貞観の治の行方
太宗の後宮は、すべての位が決まった完全なヒエラルキー社会でした。武則天は半分よりやや下の「才人」という地位で入り、太宗が亡くなるまでの10年ほど、その位のままでした。
だいぶ不遇の時代だよね。
まあまあ、でもここに入れただけでスーパーゴールですよ。ほとんどの人間にとっては。
深井さんは、それでも満足しなかったのは本人の野心が大きかったからだろうと見ています。太宗が武則天のもとを訪れなかったためか子供も生まれず、「何も起こらない」時間が過ぎました。
太宗は52歳で亡くなり、このとき武則天は27歳ぐらいでした。若い頃から戦場を駆け巡り、即位後も休まず働いた太宗は、当時としても長生きはしなかったと深井さんは話します。太宗は、コテンラジオの玄奘の回で玄奘を迎えた皇帝としても登場しています。
恩を売るための左遷が、なぜ武則天の伏線になるのか
太宗は亡くなる直前、奇妙な行動を取ります。息子の李治、のちの高宗に位を継がせるにあたり、信頼する宰相の李勣李勣(書き起こしでは李績)と高宗の間に信頼関係を築かせようとしたのです。
太宗が選んだ方法は、李勣をいったん左遷し、高宗の代になってから呼び戻させるというものでした。高宗のおかげで復帰できたと感じさせ、息子に恩を売らせる狙いです。
へんてこなことしますね。
しかし李勣からすれば、尽くして信頼されていたはずなのに突然左遷されたことになります。1か月で呼び戻されて感謝はしたものの、心の深いところに不信感が残り、高宗との信頼関係は最後まで築けませんでした。深井さんは、このことが武則天の登場に影響すると予告します。
楊さんは別の説も紹介します。藤原氏のように強大な力を持つ長孫無忌の勢力を警戒し、リスクヘッジとして軍の長老である李勣を補佐に指名した。そのうえで長孫無忌側の警戒心を和らげるため、いったん遠方へ出したという見方です。
左遷して高宗に呼び戻させ、新皇帝への恩を作らせた(オーソドックスな説)
長孫無忌への対抗馬として李勣を指名し、警戒を和らげるため一時遠ざけた
深井さんは、どちらの説も同時にあり得るとしたうえで、いずれにせよ李勣に不信感が募ったことは変わらないとまとめます。真相は分からず、学者の推測を採用するしかないといいます。
尼になった武則天は、どこで高宗と出会ったのか
皇帝が亡くなると、その後宮の女性たちには行き先が決められていました。深井さんは、夫である皇帝を失った武則天は仏門に入り、誰の妻にもならずにひっそりと生涯を終える運命だった、という説を紹介します。
楊さんによると、中国の本では皇帝の死後、後宮の女性の扱いには3つのパターンがあったとされます。
| 条件 | 扱い | 備考 |
|---|---|---|
| 多くの女性 | 未亡人として尼や道士にされる | ほとんどがこの扱い |
| 皇帝との子がいる | 子と一緒に宮廷の外で暮らせる | 子の存在が条件 |
| 子はいないが教養や特殊なスキルがある | 皇太子の教育係として宮中に残れる | 例外的な扱い |
子供のいなかった武則天は尼となり、出世の道は断たれたはずでした。ところが3代皇帝の高宗李治が、父の妻だった武則天に強く惹かれます。
出会いの場面には2つの説があります。高宗が武則天のいる寺を訪れて一目惚れしたという説と、太宗の看病で後宮に出入りした高宗が、そこで武則天と知り合ったという説です。
武則天は高宗より5歳ほど年上で、このとき27歳でした。楊さんは、後宮にいた頃から2人がこっそりやり取りしていた可能性にも触れますが、記録は残っていません。
今も俺らもわかんないじゃん。なんかこう、秘密を守り通したって言ってもいいかもしれない。あくまで想像だけど。
王皇后と蕭氏、高宗をめぐる2人の女性の争い
父の妻だった武則天を自分の後宮に入れるには、儒教の倫理もあり、もう一段階のハードルがありました。そこに関わってくるのが、高宗をめぐって争っていた2人の女性です。
1人目の王氏は、太宗が生前に皇后に定めていた王皇后です。漢族の一流貴族の血を引く関隴集団系の人物で、楊さんによると中国の五大氏族の中でもトップの家柄でした。皇帝より自分たちのほうが偉いという認識すらあったといいます。
2人目の蕭氏は、出自ははっきりしないものの、南朝の梁の王室の血を引くと言われる人物です。遊牧民的ではない漢民族的な優雅さがあったとされ、高宗は皇太子時代から蕭氏に愛情を注いでいました。
五大氏族トップの家柄で皇后の位にあるが、高宗の愛情は向いておらず子供もいない
南朝・梁の王室の血筋とされ、高宗の寵愛を受けて息子もいる
深井さんは、蕭氏にとって寵愛はメリットであると同時にリスクでもあったと説明します。王皇后を振り落として上に立たなければ、逆に殺される可能性もある、それほど危うい世界だったといいます。
王皇后はなぜ武則天を後宮に招き入れたのか
王皇后は皇后の地位にあって一応は安泰でしたが、高宗の気持ちが蕭氏に向いていることが問題でした。そこで王皇后は、高宗の気持ちを別の女性に向けさせようと考えます。
ちょうどその頃、高宗が武則天に目を向け始めているという噂が王皇后の耳に入りました。父の妻だったこともあり遠慮していた高宗に対し、王皇后は自分から「好きにしなよ」と後押しします。
本当は余裕じゃないですよ。尚氏(蕭氏)を牽制するために、もういいじゃんいいじゃんみたいな。
利用しようとしたけど、一番やばかったんですよ、この人(武則天)。ダントツで。
楊さんは、王皇后の危機感の大きさを補足します。皇后が皇帝の子を産めないことは皇位継承に関わる政治的リスクであり、子孫を残すことを重んじる儒教の倫理からも批判され、引きずり下ろされる可能性が高かったのです。
一方の蕭氏は高宗の息子を産んでおり、その子を皇太子にしようと評判を流していました。焦った王皇后の後押しによって、すでに身ごもっていた武則天は大手を振って後宮に出入りできるようになります。
武則天の位も、太宗時代の5番目の位「才人」から、2番目まで一気に上がりました。そのうえ武則天は、王皇后に野心を悟られないよう、害のない存在に見えるよう徹底して振る舞います。
一回はその尼さんになって、もう出世の道から断たれたやんか。もう絶対次は失敗しないでやろうっていう気持ちだったんだろうね。
深井さんによると、武則天は皇后には爪を隠して謙遜しながら、高宗には積極的に近づき、心を掴んでいきました。年上の女性としての頼もしさに加え、10年以上太宗の政治を間近で見てきた経験も生かしたのではないかと深井さんは推測します。
手遅れの共同戦線、武則天が後宮に築いた情報網
最初に焦ったのは蕭氏でした。位も高く、子供もいて、寵愛を独り占めしていると安心していたところへ、高宗が急に来なくなったのです。
しかも高宗が夢中になっている相手は、出自も大して良くなく、もとは太宗の後宮にいた年上の女性でした。蕭氏は王皇后に泣きつき、高宗が予想以上にのめり込んで困っていた王皇后と共同戦線を張って、武則天を非難し始めます。
しかし高宗は2人の訴えをまったく聞き入れませんでした。深井さんは、武則天のすごさは高宗の心だけでなく、後宮の女官たち全員を味方につけていた点にあると話します。
| 人物 | 態度 | 結果 |
|---|---|---|
| 王皇后 | 生まれの良さと皇后の位を背景に偉そうに振る舞う | 情報が入らず、何が起きているか分からない |
| 蕭氏 | 寵愛を一身に受けていることを誇る | 同じく情報から孤立する |
| 武則天 | 腰が低く、感謝を示して接する | 後宮のあらゆる情報が集まる |
楊さんの補足によると、武則天は皇帝からの贈り物を懐に入れず、身分の低い宮女たちに分け与えていました。その見返りに情報をすぐ教えてもらう関係を築き、事件が起きたときには証人として口裏を合わせることもできたといいます。
深井さんは、高宗が三男で政争も経験せず、長孫無忌らによって皇帝にされた、気が弱く体も弱い人物だったと説明します。そこに頼りがいがありながら高宗を立てる武則天が現れ、鉄壁の体制が築かれていきました。
昼ドラのような後宮劇は、なぜこの時代に起きたのか
深井さんは次回、武則天がついに皇后の位を奪うと予告します。楊さんは、王皇后と蕭氏の2人から同時に攻撃され、殺される可能性もあり、高宗との関係が不義から始まった弱みもあったと、武則天の不利な状況を強調します。
ほぼカード持ってないですけど、高宗しか。なんか高宗が好きになってくれてることが突破口ですよね。
新、漢、隋、唐と続いてきた話が急に昼ドラのようになったという楊さんに、深井さんは、この昼ドラが成り立つにはこれまでの背景が必要だったと答えます。
権力闘争に積極的に関わる女性が多く登場するのは、遊牧民と漢民族の文化が融合した後の世界だからこそだと深井さんは見ています。父の妻が息子の妻になることも、儒教が弱まりつつも残っている状態でなければ起こらなかったといいます。
さらに深井さんは、武則天がのちに皇帝になるためのロジックは仏教から出てくると予告します。時代背景がなければ武則天は出てこれないというのが、これまでの回を踏まえた深井さんの見立てです。
まとめ
武則天の前半生は、家柄の低さ、家族からのいじめ、後宮での10年の不遇と、恵まれないものでした。しかし高宗との出会いと王皇后の思惑をきっかけに、武則天は野心を隠しながら高宗の心と後宮の人心を掴み、王皇后と蕭氏が手を組んでも歯が立たない立場を築いていきます。
- 父の武士彠は木材商人から軍人に転じ、李淵の信頼を得たことが武則天浮上の遠因になった
- 太宗の後宮入りには、殉死した忠臣を冷遇したという批判をかわす政治的ポーズだったという説がある
- 王皇后は蕭氏を牽制するために武則天を招き入れたが、それが最大の誤算になった
- 武則天は贈り物を宮女に分け与え、後宮の情報網と味方を築いていた
- 遊牧民的な女性の強さと儒教の弱まりという時代背景が、武則天の台頭を可能にした


