ヤンヤンはスパイなのか? 四川語という方言
この番外編は、花粉症で涙が止まらない深井さんの様子から始まります。樋口さんによれば、車での移動中も深井さんはずっと泣いているような状態だったそうです。
本題は、Twitterなどで寄せられた「ヤンヤンさんの中国語講座を聞きたい」という声です。ヤンヤンさんは日本語があまりに流暢なため、最近聴き始めた人は中国人だと知らないかもしれない、と樋口さんは話します。
なんか日本にいすぎた中国人ですよね。なんか多分戦争になった時に絶対一番最初にしょっぴかれる方だよ。
共産党のスパイじゃね?とか(ヤンヤンに会った)最初。
ヤンヤンさんの故郷・四川は人口1億人ほどで、ヤンヤンさんいわく「国みたいなもの」です。そこで話される四川語は、中国の方言の一つにあたります。
ヤンヤンさんによると、共通語である北京語の「ニーハオ」は、四川語では「ニイハオ」とイントネーションが変わります。漢字で書けば同じでも、音が違うのが方言としての四川語です。
中国の共通語は普通話 ── プートンファー。北京語を基礎に整備された中国の標準語で、学校教育を通じて全国に普及していますと呼ばれ、もともと北京の方言だった北京語が政策によって広まったものだと、ヤンヤンさんは説明します。近代の学校教育を受けた人なら基本的に話せるといいます。
深井さんが「四川語は日本でいうとどの方言か」と尋ねると、ヤンヤンさんは京都弁だと答えます。四川はかつて蜀 ── 三国時代に劉備が建てた国。成都を都とし、現在の四川省一帯を治めましたの都があった場所で、都としてのプライドの持ち方が京都に似ている、というのが四川の人の感覚だそうです。
一方、南の広東語はヤンヤンさんにもまったくわからないといいます。「ニーハオ」は広東語では「ネイホー」になると聞いて、深井さんも「全然違う」と驚いています。
「我是」の発音と「ヒグチ」の読み、なぜ変わる?
深井さんが「私はヤンヤンです」を頼むと、ヤンヤンさんは四川語で「我是杨睿之」と答えます。少しだけ中国語を勉強していた深井さんは、北京語の発音ではないとすぐに気づきました。
違いは「是」の発音にあります。ヤンヤンさんによれば、北京語では巻き舌音が入るのに対し、四川語にはそれがほとんどありません。
「是」に巻き舌音が入る
巻き舌音がほとんどなく、日本人にも発音しやすい
だから四川語の方が日本人にとって発音しやすいんじゃないですか。もう基本なんかあんま巻き舌音とかないので。
続いて樋口さんが「僕はヒグチです」を北京語で教わると、名前の部分は中国語の漢字読みに変わります。樋口さんは「水上さんを英語でウォーターアップとは言わない」と納得がいかない様子です。
深井さんの説明では、漢字はすべて中国語読みできるため、日本人の名前も漢字ごと中国語で読まれます。逆に、中国で「ヤン」と読む「楊」の字が、日本では別の読みで呼ばれてしまうこともあるといいます。
英語なら「マイク」を耳で聞いた音に近づけて言うのに、中国語と日本語の関係はそれとは違う、と樋口さんは整理します。
深井さんは、小学校で「中国読み」と習った音読みが実際の中国語の発音とは全然違い、むしろ広東語にとても近いと感じているそうです。ヤンヤンさんは、唐の時代の発音や三国時代の呉の発音など、いろいろな発音が混じって入ってきたようだと補足します。
樋口さんは、時代ごとに強い勢力が違えば、日本に入ってきた漢字の読みも違ったのではと考えます。ヤンヤンさんは、さまざまな発音が入り、その後統一されたり消えたりしたものも多かったと思う、と応じています。
博多弁と出雲弁、代名詞だらけの会話は何を伝える?
ヤンヤンさんによると、四川の中にも方言がたくさんあり、故郷の成都と重慶でも言葉が少し違います。深井さんはそれを福岡の中の北九州のような違いだとたとえます。
樋口さんは、県外の人からは福岡の言葉がすべて博多弁にされてしまうと話します。北九州弁と博多弁は違い、樋口さんの地元・筑豊の田川市の言葉はさらに違うといいます。博多で育ったヤンヤンさんは、博多弁も話せるそうです。
話題は出雲出身の深井さんの出雲弁へ移ります。「〜だに」「〜だけん」「〜だが」といった語尾があり、「だが」は「〜だよね」に近い意味だそうです。
深井さんが挙げる出雲弁の特徴は、代名詞がとても多いことです。実家に帰った深井さんは、祖父母の会話を聞いて驚いたといいます。
じいさんばあさんがどこぞの誰々が何々しちょるらしいわみたいなこと言うんですよ。(中略)俺びっくりした。何も言ってねえと思って。
相手もまた「そげだが(そうだよね)」と返すだけで、会話は成立しています。深井さんはここから、出雲の山間部の会話が情報交換のためのものではないと考えました。
多分彼らにとってその同じ文化圏だよね、僕たちはっていう会話をすることがとても大切であって、新しい情報何もないので情報交換必要ないんだなと思ったんですよ。
出雲弁では「皆の衆」の「衆」を「すう」と言い、「どこぞのすうが」のように人をざっくりまとめます。港町で人の出入りがある博多ではこうした言い方をしない、と深井さんは比べ、ヤンヤンさんは共同体の分け方の違いかもしれないと応じます。
もう一つの特徴は屋号 ── 同じ名字が多い集落などで、家ごとに付けられる呼び名。商家に限らず、農村でも家を区別するために使われてきましたです。深井さんの実家の屋号は「大阪屋」、婿養子に入った父の実家の屋号は「上ザコ」だそうです。
出雲の昔の人は名字で人を呼ばず、「上ザコのおっさん」のように、どの家のどの立場の人かで話すといいます。ヤンヤンさんは、関係性で人を特定しているのだと受け止めています。
早口の筑豊の言葉は、炭鉱の町が生んだ?
地域性が言葉に出る例として、樋口さんは自身が話す田川の方言多賀弁を挙げます。とにかく一つ一つの言い方が短いのが特徴だそうです。
たとえば標準語の「ちゃんとしろよ」は、樋口さんの地元では「ちゃんとせ」になります。「しろよ」の3文字がかったるい、というのが樋口さんの説明で、集まって話すと間を空けずに早口でまくしたてるといいます。
なぜそこまでせっかちなのか。樋口さんは、田川が炭鉱の町だったことに理由があると考えています。
炭鉱事故ってむちゃくちゃ起こってたんで、今日生きてるからといって明日も生きてるとは限らないから、宵越しの金は持たない文化っていうのがマジで生まれてるんですよ。
樋口さんの見立てを順に並べると、炭鉱の生活環境から価値観が生まれ、それが言葉の速さにまで表れたという流れになります。
炭鉱の町
炭鉱事故が多く、明日も生きている保証がない
生き急ぐ価値観
今日やりたいことは今日やる、宵越しの金は持たない
欲望に素直な文化
本能に従って生きる文化があり、ヤクザ文化も生まれた
短く速い言葉
今日伝えておかないと明日伝えられないかもしれない
ヤンヤンさんは「価値観のベースがそこにあるんだね」と応じ、深井さんも「非常に面白い」と反応しています。
言語の本質は音、なぜ中国語では「元気がない」が言えない?
深井さんが言語を聞くときに一番重視するのは音だといいます。深井さんにとって、言語の本質は音にあります。
深井さんが博多弁を聞いて驚いたのは、語尾が上がる「しとっちゃない」のようなイントネーションです。出雲弁にはその音がなく、出雲弁の語尾は「なんとかだわ」のようにふわっと消えていくそうです。
こうなんか水彩画の絵の具がこうふわってなるような感じの終わり方。
中国語を学んでいた深井さんがさらに驚いたのは、四声 ── 中国語の声調。同じ音でも高低や上がり下がりの4つのパターンで意味が変わりますのうち第四声です。中国人の先生に「そうだね」を意味する「對」の発音を何度も直され、とても強く発音しなければならないとわかりました。
日本語なら元気のないときにボソボソ話せますが、中国語では元気がなくても「そうだよ」と言うときは「對」と強く言わなければなりません。深井さんはここで、肺活量からして違うと感じたそうです。
あの発音から強気にならざるを得ないわけよ。中国語を喋る以上は。
そうだね、もう音の一音一音にやっぱ込める意志があると思いますよ。
ヤンヤンさんは、中国語は意思や情報の交換という機能に特化している部分があると話します。博多には中国の商人が多く来て共同体をつくっていたので、九州の言葉にもその影響があるかもしれない、とも推測しています。
音の話は、樋口さんのラップ論につながります。日本語は強弱や抑揚が少ないため、かっこよくラップしようとすると話し言葉からかけ離れてしまう、と樋口さんは説明します。
中国語や英語のラップは、現地の人にとっては話し言葉の延長に聞こえるはずだ、というのが樋口さんの見方です。ヤンヤンさんは「漢詩はもうラップ」だと応じます。
ヤンヤンさんと深井さんによれば、日本語は母音で終わるため、五七五七七のように音の数で音楽性を出します。一方、漢詩は韻を重ねて、ラップのように続けていくといいます。
母音で終わる音の数を数え、五七五七七のような長さで音楽性を出す。ラップでは無理が生じやすい
強弱がはっきりし、漢詩のように韻を重ねて音楽性を出す。ラップが話し言葉の延長になる
日本語に主語はない? 空気が主語になる会話
話は文法へ移ります。深井さんは言語学を学んだとき、ある権威が「日本語に主語なんてない。述語と修飾語しかない」と言っていたのが面白かったと振り返ります。
主語っていう概念は、西洋の人たちが文法っていうものを研究した時に作った概念であって、それをそのまま日本に輸入して、日本語をそれで見ようとしたら見れないと。
深井さんによれば、英語では雨が降るときも「It rains」と言わなければなりません。日本語なら「降ってきそう」で通じる、と樋口さんも同意します。「私は」も述語を修飾する言葉の一つにすぎない、という考え方です。
ヤンヤンさんは、日本語で強いて主語を挙げるなら空気ではないか、と言います。誰かが「これやりたいな」と言い、それに周りが乗る形で空気が形成されていくのが、日本らしいコミュニケーションだという見方です。
深井さんは「お腹すいたね」を例に挙げます。英語の「I'm hungry」は自分の状態を言うだけですが、日本語の「お腹すいたね」には「一緒にご飯を食べよう」という同意の求めが含まれることが多いといいます。
深井さんは、日本語の述語的な性質と、出雲弁の代名詞ばかりの会話はルーツが同じだろうと話します。主語を明確に分けて個別化する必要が、おそらくなかったという見立てです。
ヤンヤンさんは、日本の会話はみんなで作っていくものだと続けます。日本人は自分の意思を0から10まで言わず、0から3まで言うと、誰かが3から6、また別の人が6から9と重ねていくといいます。
「いいかねパレットに」って僕が言ったら、「あ、行きたいよね」って返ります。それ中国であんまないんですよ、こんなこと。
中国では一人で「いいかねパレットに行きたいよね」と全部言い切るのが普通だ、とヤンヤンさんは話します。深井さんはこの日本の会話を「Wikiみたいに一緒に作っていく」ものだとたとえています。
発話者が一人で意思を込め、最初から最後まで言い切る
一人が途中まで言い、周りが言葉を重ねて、みんなで空気の意思をつくる
ヤンヤンさんの言うとおり、みんなで構築していくのが日本の会話だとすれば、言語を学ぶことはその社会を理解する近道にもなりそうです。樋口さんもそのように受け止めています。
ドイツ語と哲学、そして氷室京介は文化圏?
深井さんは、言語はそうした理解の仕方で勉強しないと意味がない、と話します。本当はドイツ語を学びたかったそうで、ドイツ人が哲学に強いのはドイツ語に理由があるのではと考えています。
深井さんが聞いたところでは、ドイツ語は単語の意味がとても厳密に分かれているそうです。ただし大学の第二言語で選んだ程度なので詳しくはない、と深井さん自身が断っています。
最後に樋口さんは、自分は「UNLIMITED」から氷室京介を勉強し始めたと言い出します。深井さんが「氷室京介って勉強するものなの?」と返すと、樋口さんは氷室京介は人ではなく文化圏だと主張し、笑いのうちに番外編は締めくくられます。
違う違う。(氷室京介は)文化です。文化圏。形成してるんで。
まとめ
ヤンヤンさんの四川語講座から始まった今回の番外編は、方言の音や語彙、日本語の文法、会話の組み立て方へと広がりました。3人の雑談からは、言葉にはその土地の暮らしや共同体のあり方が映り込んでいる、という見方が浮かび上がります。
- 四川語は北京語に比べて巻き舌音が少なく、四川の人は都のプライドを持つ京都弁に近い立ち位置だと感じている
- 出雲弁の代名詞の多さや屋号、筑豊の早口は、それぞれ山間部の共同体や炭鉱の町の暮らしと結びついて語られた
- 中国語は第四声などで一音一音に意思を込め、日本語は抑揚が少なく音の数で音楽性を出すという違いがある
- 日本語は主語がなく述語中心だという説があり、会話も周りが言葉を重ねて「空気」の意思をつくる
- 深井さんは、言語を学ぶことは単語を覚えることではなく、その言語の思考回路を身につけることだと話している


