荘子は老子の弟子ではない?
コテンラジオの老子・荘子編3回目は、前回の老子に続いて荘子の思想がテーマです。深井さんは荘子を「完全に哲学領域に振り切っちゃった人」と紹介します。
深井さんによると、老子の思想には、共同体の中でどんな自然な暮らしがよいかという話がまだ含まれています。一方の荘子は、そうした話はもうせず、俗世界からの離脱に徹しているのが特徴だといいます。
荘子と老子は、文明や世俗から遠ざかることや、無為自然 ── 人為的なはからいを捨て、あるがままの自然に従うという道家の中心的な考え方。老子・荘子の思想の土台になっていますの立場を共有しています。ただし、無為自然や道に対する考え方には微妙なニュアンスの違いがあるそうです。
荘子は老子の思想の継承者のような書き方がされることはあるんですけれども、一方ではそれは違うっていう風に言ってる説もありますよね。
深井さんは、荘子を老子とは別に道の思想を探求した人物として扱います。その荘子が探求したのが「万物斉同」という概念です。
文明や世俗から遠ざかりつつ、共同体でどんな自然の生活がよいかをまだ語っている
俗世界からの離脱に徹し、万物斉同という哲学的な概念を探求した
「分ける」ことが真理を歪める?ナマズと猿のたとえ
荘子と老子が共通して考えるのは、ありのままの真理である道は、人為によって歪められた状態では得られないという点です。無為自然の境地に達して初めて、道を体現できるとされます。
深井さんの説明では、荘子は常識や知識から真理を求めることを誤りだと考えました。その理由は、人間の言葉が不完全で、常識的な思考法には「ものを分ける」という欠陥があるからです。
人間は混沌としたものをそのまま知識の対象とすることはできないので、必ずこれを2つに分ける。
判断、理解、分析といった人間の思考は、どれも分けたり割いたりする働きを含みます。荘子によれば、この働きがありのままの真理を傷つけ、本来は相対的なはずの善悪などの価値観を絶対視させてしまうといいます。
荘子が挙げた例は住む場所です。人間は湿気の多いところを嫌うのに、ナマズは泥の中を好みます。人間は高い木の上を恐れるのに、猿は平気です。良い住み所は、それぞれにとってだけ良いものにすぎないということです。
荘子はこの相対化を無限に進めていきます。人間という立場を離れれば、二元的な対立や違いは消え、すべての差異は等しく同じになってしまうのではないか、というのが万物斉同の考え方です。
分ける
人間は混沌を2つに分けて理解し、判断する
絶対視する
本来相対的な善悪や良し悪しを絶対のものと思い込む
相対化する
ナマズや猿の視点に立てば、良い住み所も相対的だとわかる
無限に相対化する
すべての差別や差異が等しく同じになる
(無限に相対化するところで)だいぶ飛んだな、ここ。
無限の上空を飛ぶ大鳥と、何でも映す鏡
万物斉同の立場では、常識の世界にあふれる相対的な区別はすべて否定され、1つの等しいものになります。荘子はこれを伝えるために、空想上の巨大な鳥「大鳥」のたとえを出しました。
無限の高さを飛ぶ大鳥の目から見れば、人間の喜びや悲しみ、戦争や平和でさえ違いはありません。空が青く見えるのは無限に遠いからで、逆に大鳥から見下ろせば人間の世界も青一色に見えるのではないか、と荘子は想像します。
だから我々がピンとくるやつでいうと、もう宇宙レベルで考えたらほとんどなんか一緒みたいな。
無限の高さの宇宙を飛んでいるこの鳥からすればさ、樋口さんもトラちゃんも等しいんです。みんな青一色の中に溶け込んでるんですよ。
深井さんは近代科学でも無理やり例えられるとし、万物が同じ原子でできているという見方を挙げます。この考えは古代ギリシャのデモクリトス ── 紀元前5〜4世紀ごろの古代ギリシャの哲学者。万物はそれ以上分割できない粒子「アトム」からできていると考えた原子論で知られますもすでに言っていたことだといいます。
荘子はさらに鏡のたとえも使います。鏡は無色透明で特定の色を持たない、その意味で「無」です。それでいて、あらゆるものの姿をありのままに映し、来るものを拒まず、去るものも追いません。
深井さんは写真のフィルムと比べて説明します。フィルムは限定されたものしか写せず、ほかのものを排除しますが、鏡は無制限に映し出せます。その意味で、荘子にとって鏡は無であり、無限のあり方を体現しているのです。
1つの限定されたものしか写せず、ほかのものを排除する
色を持たない無でありながら、あらゆるものを無制限に映し、執着もしない
万物を「人生」に置き換えると見えるもの
深井さんは、あらゆるものを受け入れるという荘子の考えを、身近な価値観に引き寄せて解釈します。万物という言葉を「人生」に置き換えてみる、という方法です。
あらゆる人生のあり方を受け入れるっていうことになると、これはつまり運命のままに生きよということなんです。
人生には幸と不幸、富と貧しさ、寿命の長短などがあり、その大部分は人間の力を超えています。荘子は、一切のはからいを捨てて運命のままに生きよと説きました。
それが可能なのは、万物斉同の認識に立てば幸も不幸も同じだからです。金持ちかどうか、命が長いか短いかといった区分は、人間が頭の中で勝手に作った虚妄にすぎないと荘子は考えました。
深井さんは荘子の言葉も紹介します。人の力ではどうにもできないと悟ったとき、運命に従うことこそ至上の徳であり、聖人は青春も老年も、人生の始まりも終わりもよしとする、という内容です。
樋口さんはこれを「今ここ」のような思想だと受け止めます。深井さんも、執着を捨てる、現状を認めるといった態度は今の価値観にも普通にあると話し、足るを知る ── 満足することを知る者は豊かである、という意味の言葉。老子の「知足者富」に由来するとされますも例に挙げました。
足るを知るもそうですよね。あとletitbeもそうですよね。あるがままにみたいなやつとか。
胡蝶の夢は何を語っているのか
荘子の有名な逸話が「胡蝶の夢」です。深井さんは、逸話は必ずしも史実ではなく、荘子が思想を伝えるために作った話である可能性が高いと前置きします。
胡蝶の夢では、荘周(荘子の本来の名前)が夢の中で蝶になり、心ゆくまで楽しんで自分が荘周だとわからなくなります。目覚めると自分は荘周で、荘周が夢で蝶になったのか、蝶が夢で荘周になったのかわからない、という話です。
深井さんによると、この話は万物斉同の考えを表しています。万物斉同の理論では、夢も現実も同じで、蝶はそのまま荘周です。人は目覚めているときの認識を正しいと信じますが、その区別も相対的なのではないか、と荘子は問いかけているとされます。
夢も万物なんだ。
荘子は、あるものが別のものに変化することを「物化」と呼びました。胡蝶の夢では、荘周が蝶になり、蝶が荘周になる変化がこれにあたります。
深井さんは、東京大学の中島孝弘先生の解釈に沿って説明します。その解釈では、物化は自他の区別をなくすことではなく、人間として目覚めている世界と、蝶として存在する夢の世界という、2つの別の世界を想定しているといいます。
「受動性を突き詰める」と自由になれる?
深井さんは2つの世界を、映画マトリックス ── 1999年公開のSF映画。主人公ネオが、現実だと思っていた世界が機械の作った仮想空間だと知る物語ですにたとえます。ネオが電脳空間にいるのか現実空間にいるのか、世界そのものは溶け合わず区別されています。
では人間はどう臨めばよいのか。この解釈での荘子の答えは、今いる世界に徹底的に受動的に従うことです。
今現在の世界、その世界でのあり方を絶対的に肯定する、1000パーセント肯定する。そうして初めて自由になれる。
深井さんは病気や障害を例に挙げます。それまでの世界とは違う世界で生きることを強いられても、仮にそれを全肯定できれば、悲しいといった感情も入ってこない、という考え方です。
肯定するの中には楽しいは入んないんですね。
樋口さんは、「受動的」という言葉が誤解されやすいと指摘します。一般に受動的とは、嫌な仕事を嫌々やるような「やらされている」状態を指すからです。
深井さんによると、荘子の受動は人為を廃した状態です。知識も既存の価値観も捨て、水の流れに流されるように生きる自然な状態を指しています。
嫌な仕事を振られ、嫌だと思いながらやらされている状態
「嫌だ」という作為も捨て、水のようにどんな世界の形にも従う状態
さっきの会社の話で言うと、嫌な仕事を振られて嫌だなって。この嫌だながもうすでに作為なんですね。
樋口さんは、主体的に生きることをずっと考えてきた一方で、この考えにも強く共感すると話します。自由とは思うままに行動できることではなく「境地」なのだ、という深井さんの説明に、樋口さんは自身の6500万円の借金を重ねました。
深井さんは、借金という概念も人為的なものだと応じます。10億年後、20億年後には樋口さんの借金もなく、お金を貸した人も原子分解している、というのが荘子の世界観だといいます。樋口さんは「返さないです、だから」と冗談を言い、すぐに謝っていました。
深井さんは、こうした思考を自分の中でぶつけ合うことが楽しく、学びになると話します。自分を取り巻く現実を考える手立てになるのが思想だからです。
生と死は「気」が集まるか散るかの違い
人間が背負う運命の中で最も強烈なのは死です。深井さんは、あらゆる宗教の出発点は死の問題だったと個人的に考えていると話したうえで、荘子の死生観を紹介します。
荘子は生と死を気 ── 古代中国で、万物を形づくり生命を動かすと考えられた根源的なもの。元気や気候の「気」と同じ字ですで説明します。気がぎゅっと集まった状態が生で、散ってしまうと死になるという考え方です。
気が集まる
生命を構成する気が1か所に集まり、生きている状態になる
個として生きる
数十年の間だけ、意識を持つ個の存在になる
気が散る
死によって気が散り、無限大の世界へ還っていく
人間の目には生と死は2つに分かれて見えます。しかし万物斉同から見れば、1つの気が集まったり散ったりしているだけです。そうであれば、生死について悩む必要はないのではないか、と荘子は考えました。
実際僕が死を経験するとむちゃくちゃジタバタすると思うんですけれども、言ってることはわかる。
樋口さんは、この考えは仏教っぽく、スピリチュアルの世界で言われることにも近いと受け止めていました。
妻の死に、お盆を叩いて歌った荘子
荘子は生死が等しいことを、自然の循環になぞらえても説明します。深井さんが紹介するのは、荘子の妻が亡くなったときの逸話です。
弔問に来た友人は、荘子があぐらをかき、お盆を叩いて歌っているのを見て驚き、ひどすぎるのではないかと責めました。
荘子の答えは、妻が死んだばかりのときは自分も胸が詰まる思いがした、というものでした。けれども、人はもともと生も形も気もないところから生まれ、混沌の中から気が生まれ、形になり、命になったのだと考え直したといいます。
荘子にとって妻は、形ある生から気へ、さらに初めの状態へと還っていっただけです。それは春夏秋冬の循環と同じで、天地という大きな部屋で妻が気持ちよく寝ようとしているときに泣きわめくのはよくない、と荘子は語りました。
これも親戚の葬式とかに行った時に考えましたね、これのようなことは。やっぱりこう、悲しまないための方法としてもこれ考えたこと。
フローの中でこう一瞬原子と分子が集まって、で、また自然に還っていくみたいな。ただ寂しくは寂しいから。
深井さんは、荘子もこの逸話の中ではちゃんと悲しんでいると指摘します。自分を慰めるために、気の循環という考えを妻の死に当てはめたのかもしれず、そう考えると血肉が宿っている感じがすると話しました。
「天地が棺桶」荘子自身の臨終の逸話
荘子が亡くなるときの逸話も残っています。弟子たちは師匠を手厚く葬ろうと考えていましたが、荘子は葬式はいらないと言いました。
荘子は、天地を棺桶とし、太陽と月を玉の飾りとし、星々を飾りにすれば、葬儀の準備はすでに終わっていると語ったといいます。自然と万物が死を見送ってくれる、という意味です。
弟子たちは、遺体を放っておけばカラスやトビに食べられてしまうと心配しました。これに対する荘子の返答は、埋めても今度はオケラやアリにかじられるだけだ、というものでした。
カラスやトビについばまれる
オケラやアリにかじられる
荘子から見れば、埋葬はカラスやトビの獲物を選り好みして、オケラやアリに与えるようなものです。どちらを選ぶかは人間の勝手な理屈にすぎない、という話として残っています。
深井さんは、水が起伏に逆らわず流れるように、制度や規範を永遠の枠として押し付けるのは自然に逆らうことだと説明します。老いや病や死も、自然が循環する1つのフェーズにすぎないと考えれば、死は「壮大な里帰り」ではないか、と荘子の考えをまとめました。
実現できない理想を突き詰めるのが思想家
老子や荘子の話には、現実的には絶対にできないと感じる人も多いはずです。深井さん自身もそう思うとしたうえで、だからこそ彼らは思想家なのだと話します。
樋口さんは、老荘の思想は理想状態であり、世の中がそうなっていないからこそ提言しているのだと受け止めます。深井さんも、人類は100%ではなくても、10%、20%はこの理想への憧れを持っていると応じました。
みんなつって息を鼻から吸って鼻から吐こうっていう主張って、みんな誰も言ってないのはもうそうなってるからなんですよね。
樋口さんのたとえは、老荘思想が長く残っている理由を示しています。多くの人が共感し、それでいて実現していないからこそ、理想だけどなってない状態として語り継がれてきたというわけです。
現代の窮屈さに、老子と荘子はどう答えるか
深井さんは、現代社会は特に、自分の本心と現実がずれやすいと話します。会社を休めない、有給が取れないといった状況がその例です。
規範、制度、お金、常識、欲望といった人間が作ったものは、人間のコントロールを離れて、逆に人間を支配するようになります。ぎゅうぎゅう詰めの通勤電車に立たされる状態は、猫をずっと2本足で立たせるようなもので、ありのままではないと深井さんはたとえます。
このずれに対して、老子と荘子の答えは異なります。
システムから離脱し、人為や欲望を刺激する環境から距離をとって、素朴でシンプルなあり方に戻る
ずれ自体がそもそも存在しないと考え、徹底的に相対化して苦しみを消滅させる
樋口さんは、荘子の話を「大体何でもいいんだから、しがらみにとらわれず自由な発想ができる」と雑に解釈してみます。深井さんは、そういう要素は抽出できると応じ、目上の人への返事を使い分ける礼儀にも意味がないとする老子の考えを紹介しました。
深井さんは老荘思想を、ざっくり言えば「手放す」思想だとまとめます。手にしているものを手放し、万物の自然法則の上で動く無限のあり方である道に立ち返る、という考えです。
いやだからなんか言ってること逆にすげえシンプルな気がしてきたんですよね。
樋口さんも、頑張ること自体が自然の法則に反するのなら、コテンラジオという存在も初期化できると笑います。次回は、道家思想が現実の社会とどのような化学反応を起こしたのかを紹介すると予告されました。
まとめ
荘子の思想の核は、人間が作った区別を無限に相対化し、すべてを等しいと見る万物斉同です。そこから、運命やいまいる世界を丸ごと受け入れる徹底した受動性と、生と死を気の循環と見る死生観が導かれます。実現が難しいからこそ、究極まで突き詰めた理想として今も読み継がれていると考えられます。
- 荘子は老子と基盤を共有しつつ、俗世界からの離脱に徹し、万物斉同という概念を探求した
- 人間は「分ける」ことで価値を絶対視するが、無限に相対化すればあらゆる差異は消える
- 荘子の自由とは思うままに振る舞うことではなく、人為を捨てて世界を全肯定する境地
- 生と死は気が集まるか散るかの違いにすぎず、死は自然の循環の一部とされる
- 実現できない理想を突き詰めたからこそ、老荘思想は多くの人の憧れとして残ってきた




