孔子は秩序を、老子は自然を。何が真逆なのか?
老子・荘子編の第2回は、深井龍之介さんが不在で、樋口聖典さんと楊睿之さん(ヤンヤンさん)の2人で進みます。前回の「道」の話を受けて、今回から老子と荘子の思想の中身に入ります。
楊さんは冒頭で、この回はずっと抽象的な話が続き、物語のようなわかりやすさはないと前置きします。そのうえで、老子の思想の根幹を「仁義の否定」と「自然にかえれ」の2つだとまとめます。
楊さんによれば、老子の言う仁義とは「人があえてするもの」、つまり人工的・作為的なもののことです。その意味をつかむために、楊さんは孔子ら儒家の主張と対比させて説明していきます。
諸子百家が活躍した春秋戦国時代 ── 紀元前770年頃から前221年に秦が中国を統一するまでの時代。周王朝の権威が衰え、諸侯が争う乱世でしたは、周王朝が存在しながらも実力を失い、秩序が崩れた乱世でした。孔子の念願は、初期の周王朝のような秩序ある社会を取り戻すことだったといいます。
孔子は力による政治を排し、徳による政治を実現すべきだと考えました。乱世の原因は、仁・義・礼といった徳や道徳が失われたことにある、というのが孔子の捉え方です。
楊さんは儒学の本質を「秩序化の作用」と表現し、物理学のエントロピー増大の法則 ── 秩序あるものは、放っておくと無秩序な方向へ進むという熱力学の法則。部屋が散らかる、熱いコーヒーが冷めるといった例でよく説明されますに例えます。放っておけば崩れていく世界に対して、人の努力で秩序をもたらそうとするのが儒家だ、という説明です。
部屋は散らかっていくってこと?
楊さんはこれを、金魚の水槽にフィルターを付けて人工的に水をきれいにするイメージだと補います。孔子が「学びて時に之を習う」と語ったように、人間が学んで成長する努力こそが大事だというのが儒家の立場です。
乱世の原因は徳や礼の喪失。人の努力で学び、秩序を取り戻すべきだと考えた
徳や礼こそが人間の退廃と堕落を招く人為的なもの。文明を否定し自然にかえれと説いた
老子の「自然」は大自然のことではない
楊さんによれば、老子は孔子と全く逆の見方をしました。孔子が秩序回復に必要だとした徳や礼を、老子は「人間の退廃と堕落を導く諸悪の根源」とみなしたといいます。
真逆やん。
老子がそう考えた理由は、徳や礼がすべて人為的なものだからです。人為的な文明をすべて否定して自然にかえれ、というのが老子の主張だと楊さんは説明します。
ただし老子の言う「自然」は、自然界や大自然のことではありません。「自然とそうなる」の自然で、物事に内在する本来のメカニズム、万物の自然法則を指すといいます。
楊さんは、老子の自然には良し悪しの道徳が含まれず、コテンラジオでよく使う言葉でいえば「構造」に近いと話します。現代科学に無理やり例えるなら重力や磁力、脳内ホルモンの分泌のようなものだとしつつ、これは老子自身の例えではないと断っています。
古代中国の思想では、人間の守るべき法則は万物の自然法則と区別されていなかったそうです。人間も万物の一つなので、自然法則に従って生きれば全てが整う、という考えが老子の根底にあると楊さんは述べます。
知識はなぜ「不自然」なのか?
では老子にとって、自然に反する人為とは具体的に何なのか。楊さんの答えは「全部」です。知識、欲望、技術、道徳、法律と、文明社会のすべてが含まれるといいます。
いや、これが難しいなと思ってます。何が作為で何が作為じゃないかが。定義がむずい。
樋口さんが食欲も作為になるのかと尋ねると、楊さんは解釈によってはそうなると答えます。知識や欲望の概念も、その評価基準も、人間が主観の中で勝手に作ったものだからです。
老子が知識を不自然とする理由について、楊さんは知識の本質が「一つのものを二つに分けて理解すること」にあると説明します。前と後、善と悪、美と醜のように、名前をつけて差異を見える化することで、人間は世界を認識しています。
わかるは分けるですからね。
しかし老子は、もともと一つのものを分けて理解することは、ありのままの姿を歪めることにならないかと問いました。部分がわかっても、全体の本質には到達できないのではないか、という疑いです。
認識という解像度でしか捉えられてないから、認識の解像度レベルによってどれだけ正確に認識できるかが決まってるだけであって、そのままはもう受け取れないんですよ。
楊さんは、同じ風景でもゴッホ ── 19世紀オランダ出身の画家。「ひまわり」など強烈な黄色を多用した作品で知られますには黄色に見えてしまう、と感覚器官の段階からフィルターがかかる例を挙げます。
さらに知識は、善と悪、正しいと間違いに分けることで、自分を善、他者を悪とする対立を呼び起こします。それが争いの原因になる、というのが老子の指摘だと楊さんは説明します。
名前をつける
一つのものを他と分け、カテゴライズする
差異を見える化
善と悪、正しいと間違いに分ける
対立が生まれる
自分を善、他者を悪とみなす
争いへ
分断がありのままの理解を阻み、争いの原因になる
樋口さんは、以前の番外編で佐渡島さんが「色眼鏡は外せないから、いろんな色眼鏡をかけて相対化するしかない」と話していたことを思い出します。楊さんは、それを極限までやろうとしたのが老子と荘子だと応じます。
知らなければ欲しがらない。道徳まで否定する理由
楊さんは、老子が知識を否定するもう一つの理由として、知識が欲望を増幅することを挙げます。知ると欲しくなり、頑張って手に入れようとする。その動きが自然に反しているという考え方です。
老子は、民が盗みを働くのも、上流階級が贅沢なものを見せびらかすからだと捉えていたといいます。老子の念頭には、文明から遠い生活をする農民たちの姿があったのではないかと言われているそうです。
ここでの「無知」はネガティブな意味ではなく、ただ本当に知らないということです。知らないから欲望も少ない、というのが老子のロジックだと楊さんは説明します。
楊さんは、この発想を今に引き寄せると、ミニマリズムやデジタルデトックス、断食のように、満足の上限が低い環境に身を置く工夫に通じると話します。樋口さんも「かなり意識してやってますね」と応じます。
老子は知識だけでなく道徳も同じロジックで否定しました。仁や義は、一つであるべき自然の道を善と悪、仁と不仁に分けて差別を設けているだけで、「お前は仁だ、お前は仁じゃない」という不毛な争いを生む、という主張です。
善と悪はもともと相対的なもので、それを絶対化するのは醜い。だから対立を起こす知識や道徳を捨てて大いなる道に到達しよう、というのが老子の考えだと楊さんは語ります。
じゃあ社会に実装されたらどうなるんやろみたいなのが想像つかないからピンと来てないんでしょうね、多分。
楊さんは、ピンとこないのは知識で理解しようとしているからで、老子に言わせれば直感でしか理解できないと返します。最終的には悟るしかない点で、ブッダと似たアプローチだといいます。
「真の樋口聖典」は存在しない? 道を無限のあり方として読む
ここから話はさらに抽象度を上げ、「自然」と「道」の関係に進みます。楊さんによれば、老子は自然を一番上に置き、道はそれに則って駆動するものと位置づけました。
楊さんは、その道を端的に「無限のあり方」だと説明します。あらゆる可能性に満ちた、流動的で固定されていないあり方です。これを伝えるために、楊さんは樋口さん本人を例に使います。
いや、いますよ。俺俺俺。
楊さんは、樋口さんを「父親」「元芸人」「ポッドキャストのプロデューサー」「金髪赤帽子」などと説明できても、それは属性や解釈の説明で、存在そのものの説明にはならないと話します。
名前にも必然性はありません。両親がたまたま付けた名前で、改名もできます。周りの人はあだ名や「お父さん」と呼び、中国語や韓国語では読み方も違い、楊さんの飼うカメに同じ名前を付ければカメも樋口聖典になる、と楊さんは畳みかけます。
ちょっと途中からひぐちきよのりって言われすぎて、ひぐちきよのりって誰?ってなってます。
楊さんの説明では、真の樋口聖典はどこにもなく、目に見える世界には「樋口聖典という現象」が現れているだけです。名前も可能性としてのあり方で、揺らぎがあり、認識するために一応付けているに過ぎません。
そう考えると、宇宙のどんな塵一粒も樋口聖典になり得るし、ならないこともあり得る。この無限のあり方をすべて含むのが老子の道であり、だから道は根源なのだ、と楊さんは説明します。
ちょっと待って、これわかった人手を挙げて。今リスナーの中で。
樋口さんは、以前の唯識 ── あらゆる存在は心の認識が生み出したものだとする仏教の思想。コテンラジオでも過去に取り上げられていますの回で話した「どこまで分解したらピラミッドなのか」という話と近いのかと確認します。楊さんは、学術的には違うが、理解のための手がかりとして使うのは問題ないと答えます。
ただ、樋口さんが「関係性」の話として捉えかけると、楊さんは関係性ではなく「存在そのもの」の話だと修正します。樋口さんが「結構難しいこと言ってます?」と尋ねると、楊さんは「難しいこと言ってます」と即答します。
無限を入れるには、器を空にする
楊さんは、道を「無限のあり方」と捉えたうえで、人間との関係を説明します。道は万物の自然法則に乗っているので、黙っていても全てが整うようにできている、というのが老子の感覚です。
人間も万物の一つなので、人為を捨てて「無」に至れば、自分の中に眠る自然法則が動き出し、道が活性化して無限のあり方を体現できる。楊さんはこれを「するりと完璧に整う」と表現します。
無限に至るための条件が「無」である理由は、無限を器に入れるには無限の空間が必要だからだといいます。孔子の学問が知識を積み重ねるのに対し、道を体得するには逆に減らしていき、最後に無へ達する必要があります。
楊さんはお椀の例で補足します。水を入れるには、まずお椀を空にしなければならない。今の価値観でいえば、固定観念やプライドを取り払ってこそ、新しいものをフラットに捉えられるということで、これを哲学のレベルで言い続けたのが老子だといいます。
俺はどこまでわかっていて、どこまでわかってないのかがわからんな。
無為自然とは「何もしない」ことなのか?
一切の人為をなくし、自然のままに生きる。この老子の根本的な立場を表す言葉が無為自然 ── 作為を捨て、あるがままの自然法則に従って生きることを理想とする老子の中心思想です。老子の言葉でいえば、赤ちゃんのような原始的な状態が理想だと楊さんは説明します。
大人になるにつれて常識や制度、先入観、自我が組み込まれていく。それを引き算で取り払い、無に至った瞬間、自然法則が「ガガガッ」と駆動し出す。楊さんは、ほこりが溜まった機械からほこりを取り除けば動き出すイメージだと例えます。
樋口さんは、ある国で猿を研究したところ、食べたいときに食べたいものを食べていたら栄養バランスが完璧だったらしい、という話を持ち出します。菌類も必要な分だけタンパク質を取って生きているらしく、これが無為自然なのではないかと確かめます。
おそらくそこに作為とか知識とかが入ってきたから、自然に生きることができなくなっちゃってるんですね、人間って。
楊さんはその理解を認め、お菓子のマーケティングに乗せられて体に悪いものを食べ続けることや、「社長は死ぬまで働くべき」という固定観念で体が悲鳴を上げても働くことを、人為の例に挙げます。休む決断は固定観念を一つ取り払う行為で、自然に一歩近づくものだといいます。
さらに楊さんは、無為自然は「行為」ではなく「存在」、英語でいえばビーイングなのだと言い換えます。存在することで無限のあり方の海と一体化する、という捉え方です。
一方、「無為」は本当に何もしないのか、それとも自然に沿って動くことなのかについては、解釈が分かれるそうです。中国古代思想はロジックの積み上げではなく「アーティスティックにバン」と言うので、多様な解釈ができると楊さんは話します。後の時代には、自然法則に沿った行為なら許されるという解釈も道家の系譜から出てきたといいます。
小さな国と無為の政治、老子のユートピア
楊さんによれば、老子は無為自然が現実社会で実現した姿も想定していました。民は余計な知識を持たないので余計な欲もなく、自給自足で、機械も使わず、法律もあまり整備されていない。自分たちで耕し、自分たちで食べる社会です。
老子が描いたのは、今食べているものをうまいと思い、今着ているものを美しいと思い、今住んでいる場所に満足する人々の姿です。楊さんは、実現できるかは別として、老子のユートピアの原型だと説明します。
多分これを乱すもんが出てきたら、これ成立しないから、ゲーム理論でいうところの全員が同時に助け合ってる状態が最も全員が幸福みたいな。
国を治める行為も無為が理想とされます。あれこれいじり回さず放任するのが一番で、大国の君主自身が人為的な文化を捨てれば全てが自ずと治まる。人の生活が質素であるほど、無為で治めるのが簡単になるという考え方です。
楊さんは、現実の私たちも老子の価値観から多くを取り出していると指摘します。ミニマリズム、スローライフ、有機農業、デジタルデトックス、そして介入しすぎず環境を整えれば子どもは自然に育つ、という教育の言説もその例だといいます。
真理は言葉ではつかめない。老子が逆説を使ったわけ
では真理は何によって捉えられるのか。楊さんによれば、老子は言葉では捉えられないとします。言葉は分割して名前を付け、切り取ったものなので、そのルートでは真の道に到達できないからです。
残るのは体験的な直感で、論理や意識的な観察を通さずに判断が行われる、ほぼ悟りに近い状態だといいます。樋口さんが確認したとおり、ここでの「直観」は感性の「感」ではなく観察の「観」です。
真理に達するための修行も人為なので、老子的にはNGです。楊さんは、『論語』はそのまま道徳の教科書として使えるが、老子はノウハウではなく境地の話をしていて、すぐ役立つわかりやすさに価値を置いていないと対比します。
老子自身も、言葉で伝える難しさを自覚していたようです。だからこそ「無知なるものは大いなる知恵を持つ」「柔弱は剛強に勝つ」のように、常識を突き崩す逆説をあえて使ったと楊さんは説明します。
楊さんによれば、老子は「自分の言葉はわかりやすく行いやすいのに、誰も要点を理解できない」とぼやいてもいるそうです。難しいからこそ、あらゆる時代の人から解釈を引き出す深みがあり、残ってきたのかもしれないと楊さんは話します。
柔弱はなぜ剛強に勝つのか?
回の終盤、楊さんは「柔よく剛を制す」のもとになった「柔弱は剛強に勝つ」を解説します。樋口さんは合気道のように相手の力を逆利用することかと考えますが、楊さんは、老子が話しているのは自然法則の話だと説明します。
老子は、柔らかい・硬い・弱い・強いを循環する関係、つまり陰と陽として捉えていたといいます。草木は生まれたときは柔らかく弱く、死ぬときは枯れて硬くなる。ある段階に達すると、必ずぐるっと反転するという見方です。
花が咲くことはしおれることの兆しであり、満月は欠けることの兆しです。今弱く見えるものはいずれ強くなり、今強く見えるものはいずれ弱くなる。だから対象を弱めたいなら、まず強くなってもらえばいい、という理屈が導かれます。
柔らかく弱い
草木の芽のように、生まれたばかりの状態
硬く強い
成長し、ある段階に達した状態
反転
満月が欠け始めるように、強さはやがて弱さへ向かう
起源へ戻る
強いものは遅かれ早かれ弱い状態に戻り、循環が続く
ただし楊さんによれば、老子が言いたいのは勝ち負けの戦略ではありません。打算であえて弱くなれと勧めているのではなく、単に万物の自然法則を述べているだけだといいます。
人間はこの法則に逆らい、より高い権力や地位を得ようと一生懸命になる。それへのアンチテーゼとして老子の言葉がある、と楊さんは話します。
樋口さんは、ループしない右肩上がりのものもあるのではと疑問を口にします。楊さんは、老子にとってはそれも切り取り方の一つで、前後に無限の時間があると考えれば全ては循環していると説明し、人間も「気」が数十年だけ集まってできた現象に過ぎないという見方を紹介します。
片足を現実に残した老子、振り切った荘子
楊さんは、老子の思想のキーワードは「無数」ではなく「無限」だと強調します。数も概念も、違いもすべて無限で、それをさらに突き詰めて言語化したのが荘子だといいます。
無限の器みたいな話をしてる時、僕頭が無になってました、完全に。だから体験できてました。
楊さんが「人間がいない世界」を想像してみるよう促すと、樋口さんは、犬と狼の境目もなく、それぞれ個体として存在しているだけだろうと応じます。楊さんは、それを「万物斉同 ── 荘子の中心思想の一つ。善悪や美醜、生死などの区別は人間の見方に過ぎず、万物は本来等しいとする考え方」とスパッと言ったのが荘子だと話します。
一方で老子には、まだ人間的な部分が残っているといいます。国は小さく欲望を制限した環境でつつましく暮らすべきだと語るなど、現実社会への関心を捨てず、片足を突っ込んでいるからです。
楊さんは、無が有にどう役立つかを語る「無用の用」の例も紹介します。車輪の中心の穴は一見何の役にも立たない無だが、そこに車軸を通すから役に立つ。有を前提に無が貢献するとも読めるため、老子はまだ振り切れていないと言う人もいるそうです。
永遠の世界に惹かれつつ、国のあり方や無の効用も語る。よく言えば現実を見据え、悪く言えば振り切れていない
現実社会を思考の対象にせず、完全に抽象の世界で泳ぐ。万物斉同を説いた
楊さんは最後に、親がいないときに樋口さんの息子のトラちゃんが頑張って成長するという話を挙げ、「ない」ことで成長という「ある」が生まれるのも老子的な自然法則として解釈できるかもしれないと話します。
ちょっと待って、これ俺こんなにわからないのにこんな面白えんやけど、皆さん面白いですかね。
樋口さんは「よく観察すれば、老子が言っているようなことは現実にあるのか」と納得し、次回以降の荘子の話への期待を口にして、この回は締めくくられます。
まとめ
今回は、孔子の儒家が人の努力で秩序を築こうとしたのに対し、老子が知識や道徳を含む人為そのものを捨て、自然法則に身を委ねる「無為自然」を説いたことが語られました。道を「無限のあり方」、無をそれを受け入れる「空の器」と捉えることで、老子の抽象的な思想が少し身近になります。
- 老子の根幹は「仁義の否定」と「自然にかえれ」。自然とは大自然ではなく、自ずとそうなる万物の自然法則を指す
- 知識は物事を分けて対立を生み、欲望を増幅させるため、老子は知識や道徳まで人為として退けた
- 道は無限のあり方であり、人為を減らして無に至ると、自然法則が駆動して全てが整うと考えられた
- 「柔弱は剛強に勝つ」は戦略ではなく、強弱が循環し反転するという自然法則を述べた言葉とされる
- 老子は現実社会に片足を残しており、それを抽象の世界へ振り切ったのが荘子だと楊さんは位置づける




