無為自然が「有為自然」に?中華統一に揺さぶられる道家
老子・荘子編の最終回は、深井さんがいない状態をそのまま受け入れるところから始まります。楊さんは「一番最初に無為自然を実践している」と笑い、テーマである道家思想のその後へ話を進めます。
楊さんによると、老子と荘子、とくに荘子は抽象的な領域に振り切って思考してきました。それでも2人の思想は社会に残り、現実社会との相互作用を起こしています。今回はその事例をいくつか紹介する回です。
前提として押さえておきたいのが、諸子百家の時代以降に中華大陸で起きた大きな地殻変動です。それが秦と漢による中華統一で、楊さんは「世界が変わったというぐらいのインパクト」だったと表現します。この現実の変化に、思想界も連動して変わっていきました。
道家思想で起きた変化の1つが、無為自然が「有為自然」へと読み替えられたことです。秦が滅んだ後の漢王朝の書物である淮南子 ── 前漢の淮南王・劉安のもとで編まれた思想書。道家思想を軸に、儒家や法家などさまざまな学派の考えを取り込んでいますでは、自然の働きを助長する人為であれば、それはもう無為なのだという解釈が示されています。
たとえば老子が否定した学問も、淮南子の中では「自分の身を高める学問は自然の働きを助長するものではないか」と捉え直されます。全部が一色に塗り替えられたわけではないものの、こうした解釈も出てくるようになりました。
(淮南子の解釈は)その解釈次第やろって思ったんですよ。鳥が空を飛ぶのと同じように、人間が勉強するということが、本能的な自然行為なんじゃないかみたいなことも思ったんですけど。
楊さんはこの変化を、純度の高いものが時代を経るにつれて拡散していく「エントロピー」のような現象としても捉えられると話します。中華統一という大きな現実に押され、思想も「現実世界でどう価値を発揮できるか」という方向へ転がっていったのではないか、という見立てです。
水と油の道家と法家が歩み寄った理由
戦国時代の末期、秦による中華統一が現実味を帯びてくると、諸子百家の間で相互に影響し合う状況が生まれます。樋口さんが「キングダムの時代ですよね」と確かめると、楊さんは「まさに」と応じます。
楊さんが面白いと挙げるのが、道家と法家の歩み寄りです。本来、この2つは水と油の思想でした。
民を原始的で自然な状態に置く無為の政治を理想とし、自由放任を重んじる
法律と刑罰を重視し、君主の権力を強くすることで統制と干渉を行う
ところが両者は、相手の都合のいいところを自分の側に取り込んでいきます。道家側では、『荘子』という書物の中に「君主は無為であるべきだが、仕える臣下は刑罰・儀式・軍事などに奉仕するので有為でなければならない」という記述が現れます。これは荘子本人ではなく、後の道家の人たちが付け加えたものだと言われることもあるそうです。
あんだけね、作為がないのを目指したのに、めちゃくちゃ作為入ってきてるやん。
楊さんは、無為ではなく有為によって成し遂げられる中華統一という現実がそれだけ強烈で、思想そのものが揺り動かされていたと説明します。
逆に法家も道家を取り入れました。韓非子らの法家思想はとても厳しく、そのまま適用すると民衆の反動が大きくなります。その反動を和らげる根拠として、老子の思想が国家統治のスキルとして使われたのです。
たとえば「君主が無為で欲望に執着しなければ、臣下は君主の心の隙を突けない」「君主が静かに見守っていると、臣下は不気味に思って君主を恐れる」という記述があります。楊さんは、ここでの無為は臣下をコントロールするための手段になっており、本来の老子の思想からすればありえない使い方だと指摘します。
楊さんの言葉でいえば、無為は境地であって、スキルではないということです。樋口さんも「無為と言っているのがもう作為でしょ」と受け止めます。
宰相が酒ばかり飲む?漢王朝初期の黄老思想
道家と法家の融合から生まれ、実際に政治の現場へ実装されたのが黄老思想 ── 伝説上の帝王・黄帝と老子の名を合わせた思想。道家の無為を統治に応用し、民を休ませる寛やかな政治を説きましたです。「黄」は政治的に優れていたとされる伝説上の王・黄帝、「老」は老子を指します。
この黄老思想が統治の原理として使われたのは、秦を滅ぼした漢王朝の初期でした。法家思想で成功した秦の政治はとても厳しかったため、その反動として人々の支持を集める必要があり、国家ビジョンとして黄老思想が活用されたといいます。
だから(黄老思想は)カウンター的に出てきたんやな。
楊さんが紹介するエピソードの主役は、恵帝の時代の宰相・曹参です。曹参は部下を採用するとき、官僚としてのスキルより、落ち着きや重厚さといった人柄を重視しました。名声欲や出世欲の強い者は「自然な状態じゃない」として追い出したそうです。
さらに曹参自身は、日夜酒を飲むばかりで何もしませんでした。諫めに来た人には無理やり酒を飲ませて口を閉じさせ、政治の小さな間違いは全部不問にしたといいます。
楊さんも「これでいいのか」と思いながら読んだそうですが、この政治は始皇帝の厳しい政治に苦しんだ民に喜ばれました。
だからきつかったから、ちょっとこう緩めたし、それが求められてたんですね。ちゃんとやるよりも。
ただし黄老思想が統治の現場にあったのは70年ぐらいで、楊さんは「一瞬だった」と話します。樋口さんは「70年もったのすごいけどな。ずっと酒飲んで」と笑います。第7代の武帝の時代に儒教が国家の指導原理となった過程は、孔子編で扱われています。
表は儒教、裏は老荘という中国思想史のかたち
儒教が国家公認の正統思想になっても、老荘思想は姿を消したわけではありません。楊さんによると、老荘思想は「裏に回った」のです。
楊さんは、老荘思想を倫理や価値判断のマニュアルではなく、個人の生き方を扱う人生哲学だと位置づけます。儒教の政治哲学だけでは満足できない部分を、老荘思想で補おうとする知識人が本当に多かったといいます。
パブリックでは儒教を大事にしつつ、プライベートでは老荘思想の熱心なファンという人は、知識人だけでなく皇帝や王族にも珍しくありませんでした。表が儒教、裏が老荘思想というのが中国思想史の形だと楊さんはまとめます。
(儒教は)スキル書、実用書みたいな側面あります?知っとくと自分の生活や立場が良くなるみたいな。
楊さんは、儒学が目指すのは秩序化の作用だと答えます。一方の老荘思想は、構造と境地、あり方を話しているだけで、スキルの話もしていなければ、何が倫理的にOKかNGかも語っていないといいます。
ビジネスゴリゴリしてても哲学すごい好きで、趣味で読んでるとか。ありそうやなと思いました。
楊さんはこれを「平日はゴリゴリビジネスをやり、土日はしがらみから解放されて自由気ままにいたい」という感覚にたとえます。人間はそんなに強くないので逃げ場が必要で、老荘思想はその逃げ場を下支えする思想とも言える、というのが楊さんの見方です。
「アンチ儒教がかっこいい」西晋の貴族たちの自己都合な解釈
老荘思想と現実社会の相互作用には、再現性の高い現象もあります。それが、老荘思想をむちゃくちゃ都合よく解釈する人たちの登場です。
楊さんが例に挙げるのは、三国時代の後に魏を滅ぼして中華を統一した西晋の時代です。3世紀から4世紀にかけての天下太平の中で、貴族たちは「俺たちの時代だ」と調子に乗りまくりました。
老子も荘子も基本的にアンチ儒教です。本来、官僚でもある貴族は儒教に従って正しく生きなければなりませんが、西晋の貴族たちは「アンチ儒教ってかっこいい」という方向に振れ、その言い訳として老荘思想を使いました。
楊さんによると、西晋の貴族たちは勉強をまったくせず、賭博や酒に興じ、礼儀作法をあえて無視しました。つるんで人の家に押しかけて酒をせがんだり、酒の席で下賤な話をしたり、女性への暴行まであったといいます。しかも「俺たちは世俗を超えている」と恥じるどころか自由奔放を誇っていました。
なるほどね。無為自然ではないもんな、これは。ただのわがままやもんな。
楊さんは、こうしたことは構造として起こり得ると話します。本当は頑張れるのに、逃げたくて頑張ることを放棄し、「無為自然だしね」と言い訳に使う。楊さん自身はその良し悪しを判断しないとしつつ、人間が安きに流れる言い訳として老荘思想は使われやすいと指摘します。
道教は老荘思想そのものなのか?
もう1つのトピックが、道教の成立です。楊さんによると道教は、仙人が出てくる神仙説 ── 修行や薬などによって不老不死の仙人になれると考える古代中国の信仰。秦の始皇帝が仙薬を求めた話でも知られますなどの信仰を組織化し、そこに老荘思想を取り込んでできた宗教です。
道教では老子を教祖として崇めます。老子が道を「万物が生まれる根源」と説いたことから、道のエネルギーを長生きに生かすという使われ方をしました。
ただし楊さんは、老荘思想では修行は人為的なものとしてNGだと指摘します。その意味で、道教と純粋な老荘思想は基本的に別物です。それでも道教は、儒教・仏教と並ぶ中国の3つの「メインOS」として駆動してきた、大きな歴史上の現象だといいます。
これなんか、なんで成立したんですかね、道教って。
樋口さんの問いは、誰かが組織のメリットのために作ったのか、老荘思想に共感する人がじわじわ広がって自然に成立したのか、というものでした。楊さんは、教団を成立させるにはロジックが必要で、老荘思想はロジックがありつつ解釈の自由度が非常に高いため、好きなように引用できたと答えます。
弟子を集めて育て政治の世界に送る体系的な継承。エリートの必須の学びとして標準化されている
オフィシャルな思想ではなく、農民を含む民間に広く受け入れられ、民間信仰と混ざって解釈が多様化した
楊さんは、老荘思想はオフィシャルではないから変化の幅が大きく、学問的な正当性をそこまで求められなかったことで多様化したと整理します。道教が仙人の説や不老長寿の説と結びついていった過程は研究も多く、興味があれば本で読むと相当面白いそうです。
仏教は老荘思想を通して理解された
老荘思想は、中国に伝わった仏教が受け入れられるための「インターフェイス」としても機能しました。中国の知識人は、老荘思想を媒介にして初めて仏教の教えを理解できたと楊さんは話します。
たとえば仏教の空 ── あらゆるものは固定した実体を持たないとする仏教の中心的な考え方。執着を離れる悟りの根拠とされますの思想は、実在を否定して執着を消し、一切を平等・無差別に見る悟りの境地です。当時の人たちは、これは荘子の説く「無」の在り方、つまりすべてが道に包容される万物斉同 ── 荘子の中心思想の1つ。善悪・美醜・生死などの区別は人間の見方にすぎず、万物は本来等しいとする考え方の境地と似ていると気づきました。
また、僧侶が知識人に仏教を説くには、老荘思想の教養が欠かせませんでした。仏教の言葉を老荘思想の言葉に当てはめて講義することもあったといいます。
その影響は経典の翻訳にまで及びます。サンスクリット語の経典を中国語に訳す段階で、すでに老荘思想が入り込んでいました。
| 仏教の言葉 | 意味 | 意訳された言葉 |
|---|---|---|
| 涅槃 | すべての煩悩の火が消された状態 | 無為 |
| 菩提 | 煩悩を断ち切って悟りの境地に達すること | 道 |
じゃあもう僕らが仏教と思って受け取ってるものが、老荘思想をカスタマイズされたものかもしんないってことですよね。
楊さんによると、涅槃を無為と訳した経典は現役でも使われています。すでにある概念を使って理解しやすくするのが翻訳の目的の1つであり、そのとき使われやすかったのが老荘思想だったというわけです。
禅宗の座禅と浄土教の「自然」に残る老荘の影
仏教理解が中国で本格化すると、本来の仏教と老荘思想との差分が意識され、老荘思想を排除する傾向も生まれました。それでも老荘思想とのハイブリッドの中で発展した仏教があり、それが禅宗と浄土教です。
禅宗と浄土教に共通するのは、知識や理論に重きを置かないことです。禅宗の不立文字 ── 悟りや真理は言葉や文字では伝えられず、心から心へ直接伝わるとする禅宗の考え方は、真理は言葉や概念で規定できないとする点で老荘思想と重なります。浄土教の「一文不知」も、無学な者でも極楽浄土に生まれ変われるとする考えで、知識を排除するものとも解釈できます。
楊さんが具体例として挙げるのが座禅です。老荘思想は努力を伴う修行を不自然として退けました。禅宗はこの考えを取り入れ、座禅を悟るための手段ではなく、座禅する姿そのものが仏の姿、悟りの姿だと位置づけたといいます。
(禅宗の座禅は)目的的じゃないですよね。
浄土教で大事にされる大無量寿経には「自然」という言葉が頻繁に使われていますが、サンスクリット語の原本には対応する言葉がほとんど見当たらないそうです。翻訳者がわかりやすくするために「自然」を入れた可能性があり、多くの中国の人はそれを老荘思想の自然として受け止めたと考えられます。
本当に仏教とかを理解しようと思ったら、サンスクリット語の原文を勉強して原文で読まないと多分難しいんやろなというのが何か思いました。
楊さんは、仏教のOSが人の中でどれぐらい回っているかには個人差があるとしつつ、その仏教OSの中に老荘思想がエッセンスとして入っており、老荘思想は私たちのOSの一部を構成していると話します。明治維新で西洋の概念を漢字に当てはめて翻訳したのも、同じ種類の知的作業だったのではないかと付け加えます。
うつ病を経験した楊さんが老子と荘子に感謝する理由
本編の後、樋口さんは難しかったとしつつ、聞き終わると思想の感覚がふわっと入ってきていると振り返ります。楊さんは、老荘思想は「感じる思想」だと答えます。老子も荘子も西洋哲学のようにロジックを積み上げるのではなく、アーティスティックに、あるいはエピソードを通して語っているので、ロジックがわからなくてもいいといいます。
勉強して思ったことを尋ねられた楊さんは、2つ挙げます。1つ目は、老子と荘子に感謝したいということです。
楊さんはうつ病になった経験や、厳しい環境で子ども時代を過ごした経験があります。あるべき自分に徹底して順応できず、精神が崩壊しかけたこともあり、人間はあるべき規範に従いすぎたら死ぬと感じたそうです。そこに「そうじゃなくてもいい」という思想を用意してくれたことに感謝したい、と話します。
孔子が作った儒教とかっていうのが辛いだけのものかっていうと絶対違うと思ってて。ガチガチのルールだったりとか、規範みたいなものを作ることによって社会が進んだ部分めちゃくちゃある。
樋口さんは、どちらの思想を選ぶかという議論に陥らなくてよいと続けます。儒教を信仰すると宣言する必要も、老荘思想を信じると宣言する必要もないという考えです。
樋口さん自身、借金を抱えるなどつらい時期に「宇宙からしたらちっぽけなんだ」と捉えて気が楽になった経験があったといいます。今回それを「もっとすごい精度とパワーで聞けた」ので、今後つらいことがあってもより上手にできる気がすると話しました。
荘子は大きな怒りと悲しみを抜け出た人だった?
楊さんの2つ目の感想は、実態のよくわからない老子と荘子を、人間として想像してみたことです。楊さんは、2人は大きな悲しみや苦しみを経験した人ではないかと考えています。
とくに荘子については、一度むちゃくちゃな怒りを経験し、この世の残酷を見て田舎に引っ込んだのではないかという印象を持っているそうです。記述があるわけではなく、あくまで「そうでないとこの思考の熱量は出せない」と感じた印象論だと楊さんは強調します。
楊さんは、妻が亡くなった話が仮に史実なら、荘子は死ぬほど悲しく、自分が崩壊しないように理論にたどり着いて言語化したのかもしれないと想像します。世の不条理を受け入れるために言葉を紡いだ可能性もある、という見方です。
たとえそうだったとしたら、なおさらありがとうですよね。
楊さんは、戦国時代という、いつ死んでもおかしくない時代に老子と荘子が取ったスタンスがこれだった一方、最後まで諦めずに政治へ理念を実装しようとし、流浪の身でも弟子を教育した孔子もいたと振り返ります。
この時代にこの作為なく生きろみたいなことを言ってるこの強烈さみたいなものが、やっぱり歴史背景を知るとわかりますよね。
甘ったれの人ならこんな言葉は紡げない、と楊さんは応じます。ただ、2人は名を残すことが目的ではなかったので、実際のところはわからないとも付け加えます。
人類の思考パターンが出揃った時代
楊さんは、老子や荘子のような人たちが出てきたのはあの時代だけで、今後出てくるかは怪しいと考えています。諸子百家の時代は、古い秩序や価値観が大崩壊した中国史上初の大変革期で、原理や倫理、世界理解の仕方を捉え直すことが求められていました。
それまでは古くからの神話や信仰が大事にされ、特定の個人の思想はありませんでした。諸子百家の時代に初めて、思想が個人名付きで現れたといいます。
楊さんによると、同じ現象は前6世紀から紀元後1世紀ごろ、ギリシャ、インド、イスラエルでも起きていました。ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ブッダ、パンチャシャット哲学、イエスなどの精神活動が、その後の人類の精神のパターンを決めたという見方です。
楊さんは、数世紀にわたる人類のブレストで世界に関する論点が出尽くし、その後の数千年はカスタマイズの歴史だと表現します。その時代に足跡を残したのが、おそらく俗世間を離れた農村で空を見ながら永遠の道を考えた老子と荘子でした。
最後に樋口さんは、不在の深井さんを「木」に見立てて話しかけ、楊さんは隣の空席を、老子の説く車輪の真ん中の穴にたとえます。深井さん不在の回そのものが「作為的ではない」空間だった、と笑いながら締めくくられました。
まとめ
老荘思想は、中華統一という強烈な現実の中で有為自然や黄老思想へと姿を変え、表の儒教に対する裏の人生哲学として生き続けました。自己都合な解釈や道教への取り込みも生みつつ、仏教の翻訳や禅宗・浄土教を通して、日本に暮らす人々の考え方にも入り込んでいると考えられます。
- 中華統一の影響で、無為自然は「自然を助長する人為なら無為」とする有為自然へと読み替えられた
- 漢王朝初期には黄老思想による放任政治が約70年行われ、秦の厳しい統治に苦しんだ民に喜ばれた
- 中国思想史は「表が儒教、裏が老荘思想」の形で、老荘思想は人の逃げ場を支える人生哲学として機能した
- 涅槃が無為、菩提が道と訳されるなど、仏教は老荘思想を通して理解され、禅宗や浄土教にも影響が残った
- 諸子百家の時代は、ギリシャやインドなどと並び、人類の思考パターンの基軸が出揃った時代だった




