皇帝の許可なし、資金は自前。鑑真の渡航はどんな旅だったのか
鑑真は日本への渡航に5回失敗し、6回目でようやく成功します。楊さんによると、それまでに約12年がかかりました。
楊さんはこの長い挑戦を、ワンピースを探す航海にたとえます。樋口さんは、尾田栄一郎さんが相当長く連載していることに触れて応じていました。
前提として、鑑真の渡航は皇帝の許可を得ていない密出国でした。唐も律令制 ── 法律(律と令)にもとづいて国家を運営する仕組み。唐で整えられ、日本の奈良時代の国家制度の手本にもなりましたを敷いており、許可なく国境を越えることは禁じられていたといいます。
鑑真は唐のVIPだったため、許可を求めても認められなかったのだろう、と楊さんは推測します。インドへ向かった玄奘 ── 唐の僧。7世紀に国の許可を得ずにインドへ渡り、多くの経典を持ち帰りました。『西遊記』の三蔵法師のモデルですと同じく、高僧は密航しがちだと話していました。
まあそっか、(鑑真に)死なれたら困るしね、普通に。
5回の失敗といっても、海の上で遭難したのは2回だけです。残りはさまざまなトラブルで、出航にすらたどり着いていません。
渡航の資金は、基本的に鑑真の自前でした。日本は、鑑真を招くために普照 ── 奈良時代の日本の僧。栄叡とともに唐へ渡り、戒律を授けられる高僧を日本に招くよう鑑真に願い出ましたと栄叡 ── 奈良時代の日本の僧。普照とともに鑑真に来日を依頼し、渡航の試みに長く同行しましたを派遣しただけだったといいます。
鑑真は失敗するたびに、各地の有力者や民衆を相手に講義や説法をして回りました。その謝礼や寄進で、次の渡航計画を立てる構図だったと楊さんは説明します。
船や積み荷をそろえ、漕ぎ手を雇う費用も、おそらくほとんど鑑真が担いました。鑑真の意志と資金調達の力がなければ、どうにもならなかったと楊さんは話しています。
ねえ、だってね、今みたいにチケットを買っていくわけじゃないから。
第1次渡航は仲間割れと嘘の密告で頓挫
第1次渡航は、船ができあがり、備品も積み込んで、いざ出発という段階まで進みました。そこで起きたのが仲間割れです。
一行の中国出身の僧が、新羅 ── 古代の朝鮮半島にあった国。7世紀後半に半島を統一し、唐や日本と交流がありました出身の僧に「お前にはこの一行に加わる資格はない」と非難したといいます。
怒った新羅出身の僧は役所に密告しました。しかも、海賊と結託した一行が行動を起こそうとしているという嘘の内容でした。
それ、そこおかしくない?
この密告で、普照と栄叡は捕らえられます。最終的に無実は証明されますが、牢屋に入れられたこともあったようです。
楊さんは、普照と栄叡が身分保証のない外国人でありながら、トップクラスの僧の違法出国を手伝っていた点を強調します。今の時代でも危うい行為だといいます。
いや、だからよう考えたらこの二人(普照と栄叡)も相当な覚悟で。
楊さんによると、文献にも、鑑真一人ではこの渡航は成し得なかったとあります。普照と栄叡は鑑真にとって、きっかけであり、心の支えとなった同志でした。
これちょっとね、よく考えたらこの人たち(普照と栄叡)ただわがままで来て来てって言ってるだけじゃなくて、ガチで動いてる。
第2次は遭難、第3次は「連れ去り」の噂で潰える
第2次渡航は、前回の反省から秘密裏に進められました。鑑真がまた資金を出して船や物資をそろえ、185人ほどが船に乗ったといいます。
ちなみに、第1次で新羅の僧を非難した中国出身の僧は、この時点で一行から抜けていました。
何なん?最初から来んな、そんなら。
第2次の船は出航できたものの、激しい波に襲われて船が壊れ、座礁して使えなくなりました。一行は助かりましたが、ここで挫折します。鑑真は再び各地で講義や授戒をし、資金を集め直したと考えられます。
第3次渡航は、計画と呼べる段階にもならないうちに潰えました。日本の僧が鑑真を連れ去ろうとしているという情報が中国の僧たちに広まり、役所に届けられたのです。
この件で栄叡がまた捕らえられ、病死したことにしてようやく解放されたという記述が残っています。
楊さんは、各地での講義が渡航資金集めを兼ねていたことを、鑑真を慕う僧たちに見透かされたのかもしれないと話します。
うわぁ、確かに(鑑真に日本へ)行ってほしくないもんな。
第4次渡航、弟子の密告に仏の鑑真もキレた
第4次渡航では、見つからないように南の福州、今の福建省から出発しようとします。そこまでの陸路は険しい山越えで、吹雪に泣くほど寒い旅だったといいます。
それでも第4次は失敗します。原因は、鑑真の弟子でトップクラスの一人だった霊祐霊祐による役人への密告でした。
何度も失敗が続くなかで、弟子たちの間には師匠の身を案じる空気が強まっていました。これ以上続ければ師匠が犬死にすると思ったのかもしれない、と楊さんは弟子の気持ちにも理解を示します。
しかし、この密告にはさすがの鑑真も激怒しました。スタート地点の揚州に戻ると、人々は鑑真の帰還を喜んで寄進やお祝いに押し寄せましたが、鑑真自身はひどく機嫌が悪かったといいます。
本に書かれていた学者の考察として、楊さんはこう紹介します。鑑真にとって決断は仏法を広めるためで、自分の命は小さな問題であり、弟子の心配はむしろ志を殺すものだと思ったのかもしれない、というものです。
偉人あるあるっぽいな。
霊祐は謝り倒し、毎晩夜8時頃から朝4時頃まで鑑真のもとに立って謝り続けました。それが2か月続いても鑑真の機嫌は直らず、見かねた寺の有力者たちが取りなして、ようやく許されたそうです。
楊さんはこのエピソードを「仏の鑑真も三度まで」とまとめていました。
第5次渡航、漂流の果てに海南島へ。そして仲間を失う
第5次渡航は、前回の失敗から5年目のことです。普照と栄叡は役所にマークされて身を潜めていましたが、再び鑑真を訪ね、渡航を相談します。鑑真も、また行こうと応じました。
万全の準備で、これが最後という覚悟で出航しますが、東シナ海で台風の季節に当たり、2週間漂流します。
水がなくなって生米をかじり、喉が渇いて飲み込めずに吐き出し、仕方なく海水を飲む人もいたといいます。疲労と緊張から幻聴や幻覚を見る人も現れました。
死を覚悟するほどの状況のなか、一行は中国南部の海南島 ── 中国最南端の大きな島。現在は海南省で、リゾート地として知られていますに流れ着きます。土地の豪族や役人に歓迎され、鑑真はそこでも講義や授戒を行いながら、揚州へ戻る旅に出ました。
揚州へ戻る途中、鑑真はいくつもの苦難に見舞われます。長く行動をともにした栄叡が病で亡くなり、鑑真は泣き叫ぶほど悲しんだといいます。
最初に日本行きに反対した弟子のリーダー格、祥彦祥彦も亡くなりました。自分についてきたせいで死んだと思ってもおかしくない、と楊さんは話します。
普照は一行から離脱します。理由は、帰国を諦めたのか、役人に目をつけられていたからなのか、よくわかっていません。鑑真は普照の手を取り、日本渡航がかなわないまま別れるのは本当に残念だと涙ながらに語ったそうです。
さらに鑑真自身も視力を失います。疲れが響いたと考えられ、白内障だったという説もあります。揚州に戻ったときには、すでに3年が経っていました。
遣唐使の再来と、玄宗皇帝の「ダメ」
揚州に戻った鑑真は、失明をものともせず講義や授戒を続けました。弟子も視力も失い、客観的には絶望してもおかしくない状況でしたが、このときの気持ちはわからないと楊さんは言います。
事態が動いたのは、鑑真が揚州に戻った翌年です。遣唐使の船が唐にやって来ました。第1次渡航から10年ほど経ち、鑑真は65歳、今の感覚では80歳ぐらいだったといいます。
遣唐使たちはおそらく普照と接触し、鑑真のことを聞いたと考えられています。戒律に詳しいトップクラスの僧をぜひ日本に呼びたいと考えた遣唐使は、玄宗 ── 唐の第6代皇帝。治世の前半は繁栄を築き、晩年は楊貴妃を寵愛しました。道教を重んじたことでも知られます皇帝に、鑑真ら僧の招聘を願い出ます。
これで鑑真の来日は、外交の場の公式な議題になりました。しかし玄宗の答えは「ダメ」でした。
楊さんは、鑑真がVIPだったことに加えて、玄宗が道教を推していたことを理由に挙げます。玄宗は、日本に道士も連れて行けと言ったそうです。
ところが奈良時代の日本は仏教全盛で、道士を受け入れる余地はほとんどありませんでした。断れば皇帝のメンツを潰すため、遣唐使たちは一部の仲間を道教を学ぶために唐へ残し、鑑真を公に招く要求も取り下げます。
皇帝を無視した密航打診と、4隻の船の運命
ここで遣唐使たちは、皇帝を無視して鑑真と直接話し、密航を打診するという大胆な手に出ます。楊さんは、一国の外交官がよその国のVIPに密航を持ちかける構図だと表現します。
鑑真の答えは「行きます」でした。すぐに出国の準備が整えられ、弟子や在家の信者も集められます。弟子には、イラン系のソグド人や東南アジア出身の人もいて、国際色豊かな一団だったといいます。
ところが土壇場で、揚州の役人が船を捜索するかもしれないという情報が入ります。遣唐使のリーダーは鑑真たちを船から降ろしてしまいました。
まあ日和ったというね、わかんないですけど、危ねえもんね、普通に。
そこで機転を利かせたのが、別の船を担当していたサブリーダーの大伴古麻呂 ── 奈良時代の官人。遣唐副使として唐に渡り、帰国の際に鑑真を自らの船に乗せましたです。鑑真たちをこっそり自分の担当する3番目の船に乗せ、これで来日が実現しました。
遣唐使の船は4隻あり、それぞれ別の場所にたどり着きました。
| 船 | 乗っていた人 | たどり着いた先 |
|---|---|---|
| 1番目 | リーダー | 唐に吹き戻される |
| 2番目 | 普照 | 今の和歌山県 |
| 3番目 | 鑑真たち | 今の鹿児島県 |
| 4番目 | 記述なし | ベトナム |
もしリーダーの1番目の船に乗っていたら、鑑真は再び拘束されていたかもしれません。リーダーが日和ったことも、サブリーダーの機転も、結果的に来日につながった偶然でした。
9割に去られても。鑑真の来日が歴史に残った理由
第1次から第6次までを振り返ると、渡航計画の参加者のうち延べ36人が亡くなり、心変わりして去った人は累計200人ほどにのぼりました。
楊さんによると、日本の土を踏んだのが24人だとすれば、9割以上の仲間に去られたことになります。第1次からついてきたのは、弟子の思託 ── 鑑真の弟子の僧。鑑真とともに来日し、師の伝記の編纂にも関わりましたと普照の2人だけでした。
ここにヨウエイ(栄叡)もいたらね。
時代背景を見ると、鑑真の来日はぎりぎりのタイミングでした。来日の2年後、唐では安禄山の乱 ── 755年に始まった唐の大反乱。約9年続き、唐が衰退する転機になりましたが起き、十年近い混乱で唐は衰えていきます。その時期なら渡航はほぼ不可能だったと楊さんは見ています。
樋口さんは、6話かけて話した内容をまとめると「鑑真が日本に行きました」だけだと笑います。それでも、当時の日本行きは今では想像できないほどの大事でした。
楊さんは、苦労の末にたどり着いたからこそ歴史に残ったとも言えると話します。玄奘の旅に重ねた樋口さんに、楊さんは、失敗続きの鑑真が夜一人で遍照遍照の旅行記を読むシーンを書きたいと語りました。
鑑真の旅は終わりましたが、戦いはまだ続きます。次回からは日本編、奈良での鑑真が描かれます。
まとめ
鑑真の来日は、皇帝の許可のない密航として始まり、仲間割れ、密告、遭難、仲間の死、失明を経て、約12年後に偶然も重なって実現しました。
- 鑑真の渡航は密出国で、資金も鑑真自身の講義や寄進で集めていた
- 5回の失敗のうち海上での遭難は2回で、残りは密告などで出航前に潰えた
- 普照と栄叡は身分保証のないまま命がけで鑑真を支えた同志だった
- 遣唐使リーダーの判断と大伴古麻呂の機転という偶然が来日を実現させた
- 来日の2年後に安禄山の乱が起き、鑑真にとって最後のチャンスだった





