鑑真はいつ日本に来るのか?
コテンラジオの鑑真編は5回目に入りました。鑑真は1回目から55歳の姿で登場したものの、5回目になってもまだ日本には来ていません。
大体1回目で鑑真出てきたんで、しかも55歳からスタートして、「よっしゃ」って思ってたら、もう5回目まで来ちゃいましたよ。
そうですね、まだちゃんと日本に来てないもん。
今回の出発点は、日本から来た2人の留学僧、普照と栄叡が鑑真に会いに行く場面です。当時の日本の朝廷は、仏教に戒律を根づかせるために、戒律の権威である僧侶を唐から招こうとしていました。鑑真はその候補の一人でした。
ただし深井さんは、2人と鑑真の出会いに入る前に、日本の仏教が置かれていた状況をまず押さえておきたいと話します。
ずっと舞台袖で「まだ?まだ?BGM鳴りようやけど」って言ってます。
ちゃんと前提を踏まえてこそのコテンラジオなんで、ちょっとこう辛抱強くお付き合いいただければと思います。
仏像と経典は輸入できても、サンガは輸入できない
鑑真の時代の日本は奈良時代です。仏教が列島に伝わってから200年ほどが経ち、仏教は朝廷や豪族、貴族の信仰を得て、確かな地位を築いていました。
聖武天皇の時代には地震や疫病などの災いが続き、天皇は仏教に救いを求めて全国に国分寺と国分尼寺を建てました。この政策は武則天の政策をモデルにしたという説もあります。その目玉が、国分寺の総本山と位置づけられた東大寺です。
普照と栄叡が鑑真に会いに行った時点で、東大寺の建設はすでに始まっていました。しかし日本の仏教は、盛り上がっているように見えても、戒律があまり実装されず、実質的にはサンガが存在しない状態でした。
仏と法の輸入は簡単なんです。だから仏像と経典って輸入さえすればそれでいいんじゃないですか。でも3番目の僧、つまりサンガはですね、輸入すればできるっていうわけでもないんですよね。
深井さんによれば、日本の仏教は国策として導入されたため、僧侶は国家システムに組み込まれた公務員としての側面が強かったといいます。国家という土台の上に乗った仏教は、サンガという独立した集団を形成するプロセスを経ていませんでした。
サンガは人のコミュニティなので、戒律の背景にある理念や文化が一定数以上の人に共有されないと成立しません。深井さんは、三宝のうちサンガの導入がいちばん難しかった理由をそこに見ています。
ものなので、輸入すればそのまま日本に持ち込める
人のコミュニティなので、理念や文化が共有されないと形成できない
だって集まって修行するって言っても、その修行って何?みたいなとこからよくわからないですもんね、周りの人は。
手段が最初に来ちゃったってことですよね。
聖徳太子が1000人に授戒?形だけの戒律
サンガが成立していない奈良時代の日本では、サンガの法律である戒律を機能させる必然性もありませんでした。戒律は情報としては入ってきたものの定着せず、むしろ朝廷から押し付けられる側面もあったと書く本もあるそうです。
深井さんが挙げる例の1つが、殺人を犯した僧侶の扱いです。本来は戒律に基づいてサンガの中で裁かれるのが大原則ですが、当時の日本では一般人として国の法律で裁かれていました。
僧侶を統制する行政機関のメンバーにも、出家していない一般の官僚が任命されていました。サンガが自治している状態とはほど遠かったことがわかります。
出家に必要な授戒の制度も、一応はあったものの正しく機能していませんでした。授戒を行う資格を持つ戒師の数がそもそも足りず、当時の多くの僧侶は国際基準から見て正式な授戒を経ていない可能性があるといいます。
その実例として深井さんが挙げたのが聖徳太子です。鑑真の時代の1世紀前にいた聖徳太子は、出家していないにもかかわらず、僧侶1000人ほどに具足戒 ── 出家者が正式な僧侶(比丘・比丘尼)となるときに受ける、完全な戒律のこと。受けるには資格ある戒師と立会人による儀式が必要とされますを授けたとされます。
ほかにも、具足戒は本来20歳以上が前提なのに達していない人が受けていたり、出家した僧侶の立会人が必要な儀式を、自分で戒律を守ると誓うだけで済ませる考え方の人も少なくなかったりしたそうです。
朝廷もこの状況を何とかしようと、中国帰りの僧侶に頼ったり、戒律の要約本を作ったりしましたが、根本的な改善には至りませんでした。
行基という野良のカリスマ僧が朝廷を本気にさせた
朝廷に「戒律のプロを本気で招かないといけない」と思わせた出来事として、深井さんは行基という僧侶の登場を挙げます。行基は国家の許可を得ずに僧侶になった、いわば野良のお坊さんでした。
国家が許さないと僧侶にはなれないんです。公務員なんです。でも在家の僧侶っていうのは野良のお坊さんということなんですよね。
当時の律令では、勝手な出家、寺院の外での布教、許可のない托鉢などはすべて禁じられていました。行基は民衆の間を托鉢して回っていたので、朝廷から見れば非合法な活動です。
一方で、行基は民衆にとって超カリスマでした。病人に薬を与え、川に橋を架け、灌漑用の池を掘り、港を開き、道端の遺体を葬るなど、今すぐ人々を救うための社会事業を次々と行っていたといいます。
行基が説教を始めると人々が群れをなして後を追い、熱狂のあまり自分の指に火をつけたり、手の皮を剥いだりする者まで出たそうです。深井さんは、朝廷から見ればこれは不法行為であり、テロにも近いものだったと話します。
朝廷がそれ以上に危惧したのは、行基に従って勝手に出家する人が増えたことでした。僧侶は税を免除されていたため、出家者が増えるほど国家の基盤である税収が減ってしまいます。
行基の活動
民衆のための社会事業で絶大な支持を集める
私度の出家が増える
行基に従って許可なく出家する人が増える
税収の減少
税を免除される僧侶が増え、国家の基盤が揺らぐ
戒律の導入
宗教統制を強めるため、国の政策として戒律を入れようとする
この事態を防ぐために、朝廷は律令を徹底し、戒律を仏教にはめ込んでルール化しようと考えた。これが現在の通説になっているそうです。
これは厄介ですね、国からすると。だって民衆にとってはいいことをしてるから、ここで取り締まったら国が悪者になるし、一番厄介なやつよ、これ。
朝廷と僧侶、戒律を求めた動機のずれ
深井さんが強調するのは、朝廷が戒律を導入しようとした動機は信仰ではなく、国家統治が目的だったという点です。
一方、国家システムの中にいた僧侶たちの中には、純粋に日本仏教のレベルアップのために戒律を導入すべきだと考える人もいました。戒律を実装するという手段は同じでも、朝廷と僧侶とでは動機がずれていたことになります。
行基のような動きを抑え、国家による宗教統制を強めるため
日本の仏教を国際基準に引き上げ、正しく修めるため
なんか歪みが生まれそうですね。
僧侶側の代表として、深井さんは2人の名前を挙げます。1人目の道慈は唐から帰国した仏教界のエースで、政界にも大きな影響力を持っていました。道慈は、日本の仏教は唐の法則からまったく外れており、経典どおりに修めなければ国や民にご利益はないと主張したといいます。
2人目の隆尊は、日本には戒律の文献があっても、それを伝えて教える人がいないから戒律が備わっていないと嘆いていたそうです。
道慈は戒師招聘の企画者、隆尊は朝廷の首脳陣に戒師の招聘を進言した人物とされ、その結果、普照と栄叡に白羽の矢が立ちました。2人の僧はともに、藤原氏の氏寺である奈良の興福寺に所属していたので、鑑真来日の背景には興福寺主導の招聘事業があったことになります。
ただし深井さんは、鑑真が来日できたのは日本側の努力だけではないと付け加えます。日本の朝廷は鑑真の来日に財政的な支援をしておらず、10年にわたる渡航の試みは鑑真自身の意思によるものだったといいます。
普照と栄叡が唐で費やした10年
国家的な使命を帯びて唐に渡った普照と栄叡が、最初にしたのは戒師探しではありませんでした。2人はまず唐のお寺に所属し、権威あるお坊さんから改めて具足戒を受けて、本場の正式な手続きで僧侶として認められることから始めました。
そこからやるんや。免許証の発行からやらないといけない。
そのうえで2人は人選に取りかかり、鑑真に会うまでに5人の戒師を口説き落とし、そのうち1人を日本に派遣することができました。ここまでに約10年かかっています。
深井さんは、人を連れてくる難しさを、死ぬかもしれないうえに当時の中華から見れば外れの国に行くことだからだと説明します。樋口さんは、自分の地元の田川で働いてほしいと頼む状況になぞらえて納得していました。
複数の戒師を集めたのは、授戒の儀式に最低10人が必要だったからです。日本にすでにいる戒師と合わせて10人以上をそろえる必要がありました。
聖徳太子は慧思の生まれ変わり?
鑑真の弟子の紹介で、普照と栄叡はついに鑑真に面会します。2人は、かつて日本にいた聖徳太子という王子が、後の日本で戒律の儀礼が盛んになると予言したと伝え、今その巡り合わせが来ているので日本に来て指導してほしいと頼みました。
本によっては、この依頼は鑑真本人ではなく、鑑真に弟子を遣わしてもらうことを願ったものだと解説されています。鑑真はあまりに有名で、本人を招くことは想定していなかっただろうと言われているそうです。
これに対して鑑真は、中国のかつての高僧、慧思の名前を挙げました。慧思は天台宗の祖の一人で、戒律学の祖ともされる人物で、鑑真が学んだ学問はこの系列にあり、鑑真自身も慧思を深く崇拝していました。
慧思は生前、自分は生まれ変わると予言していたそうです。深井さんは本に書いていない個人的な補足として、これは大乗仏教 ── 自分の悟りだけでなく、あらゆる人々(衆生)の救済を重んじる仏教の流れ。中国や日本に広く伝わりましたにおける菩薩の考え方の表れではないかと話します。
本来の仏教は輪廻からの解脱を目指しますが、大乗仏教の菩薩は、衆生を救うためにあえて輪廻の世界にとどまる存在です。慧思の転生の予言も、この菩薩の思想に基づくものではないかというのが深井さんの見立てです。
この予言は、仏教が西から東へ伝わるという大きな流れと結びつき、中国で「慧思は東の国・日本の王家に転生した」という伝説を生みました。
伝説、まあ噂レベルっすよね。
噂レベルって言ってしまうと、すごく俗っぽいんですよね。それはなんでかっていうと、鑑真はこれを本気で信じてたんです。
鑑真の故郷ではこの伝説が広く伝わっており、鑑真が18歳から修行していたお寺の壁画にも描かれていたといいます。鑑真は面会の場で、慧思は亡くなった後に倭国の王子に生まれ変わり、仏教を盛んにして人々を救ったと聞く、と語りました。
深井さんの解釈では、鑑真はこのとき初めて聖徳太子を知り、東の国で仏教を盛り立てた王子こそ、尊敬してやまない慧思の生まれ変わりではないかと縁を感じたのだろうといいます。
長屋王の袈裟と、仏教でいう「縁」
鑑真はもう1人、日本の皇族の名前を挙げました。天武天皇の孫にあたる長屋王です。長屋王は後に藤原氏によって自殺に追い込まれる政治家ですが、大規模な写経事業を主催するほど仏教に深く帰依していました。
鑑真が触れたのは、長屋王が袈裟を1000着作って唐の僧侶に寄進したという美談です。その袈裟の縁には、漢字4字の句が連ねてありました。
読み下すと「山川異域、風月同天」に続く句で、深井さんは、住む場所が違っても風月は同じ空の下でつながっている、この袈裟を仏の子である僧侶に贈り、ともに来世での縁を結ぼう、という意味だと説明します。
めっちゃいいメッセージですね。俺たちつながってるよねみたいな。
慧思の伝説と長屋王の袈裟、この2つを思い出した鑑真は、日本は仏教が盛んになるのに縁のある国に違いない、と述べました。
深井さんは、仏教でいう縁は日常の「縁がある」とは重みがまったく違うと補足します。すべての存在や現象は、原因と条件が相互に関係し合って生まれるという縁起 ── あらゆる物事は単独では成り立たず、さまざまな原因や条件が関わり合って生じるという仏教の根本的な考え方の世界観です。
深井さん自身の推論として、鑑真は日本で仏教が盛んになることを、過去から続く仏との深い縁による必然の結果だと捉えたのではないかと語られています。
生まれ変わりの話も全然なんかとんでもない話ではなくて、だんだん中国から東に伝わってるっていう流れとくっついて伝説になってるわけだから、その伝説もちゃんと理由がありますもんね。
弟子たちは沈黙。鑑真の「私が行く」
鑑真は弟子たちに、この遠くからの願いに応えて仏法を伝えようとする者はいないかと問いかけました。樋口さんは「行きましょう師匠」となる場面を想像しましたが、実際の弟子たちの反応は無言でした。
ほんとシーンって。
しばらくして一番弟子の祥彦が進み出て、日本は遠く、渡航しても命が助かるのは難しく、100年に1人もたどり着く者はいないと述べます。さらに、人として生まれることも、文化の栄える中国に生まれることも難しいのに、自分たちはまだ修行の途中で悟れていないので、みな黙っているのだと一同の気持ちを代弁しました。
深井さんは、この発言には恐れだけでなく、お経を引いた仏教のロジックで師匠を説得する意図もあったのではないかと話します。悟りという最高の目標を目指すなら、最高の場所での修行を捨てて東へ行くのは仏教的に良くないのでは、という主張です。
それに対して鑑真は、これは仏法に関わることなのにどうして命を惜しむのか、皆が行かないなら私が行く、と言い切りました。これを聞いた弟子たちは、師匠が行くならお供すると申し出て、人数人ほどの弟子が同行を約束したといいます。
異常な決断を支えた「縁」と「菩薩行」
深井さんは、鑑真のこの決断は異常なものだったと振り返ります。当時の中国の世界観では中華こそ文明の中心で、そこに生まれた恩恵を捨てること自体が異例でした。
鑑真の地元・揚州は国際都市で、海難事故の話も多く耳にしていたはずです。遣唐使の生存率はおよそ3分の2だったとされ、しかも鑑真は55歳という高齢でした。
さらに鑑真は一時の気分で決めたのではなく、この後10年にわたって渡日に挑み続けます。深井さんは、この執念の根底にある動機は複合的だと考え、1つずつ挙げていきます。
1つ目は縁です。仏と縁のある日本の人が自分を頼ってきた以上、仏法を広める者として応える責任があると考えたのかもしれない、と深井さんは話します。
2つ目は菩薩行です。大乗仏教の善行の項目の1番目は布施で、布施には仏の教えを説くことも含まれるため、これも動機に関わっていた可能性があります。
3つ目は慧思への信仰です。慧思が日本で聖徳太子として生まれ変わったのなら、鑑真にとって日本は聖地であり、慧思の足跡を追う渡日には聖地巡礼の意味合いもあったのではないかと深井さんは推測します。
いちばん強い動機は「戒律」そのもの
深井さんが個人的にいちばん強い動機だと考えるのは、戒律そのものです。鑑真は戒律の完璧な実践者で、生活も修行も思考もすべて戒律にのっとっていました。
鑑真が授けられてきた戒律には、仏教徒の仲間が訪ねてきたら、誰であれ宿や食事、薬、学ぶ環境など必要なものをすべて用意し、分け隔てなく世話をせよ、死ぬ覚悟で怠らずにやれ、という決まりがあったといいます。
この戒律を普照と栄叡の面会に当てはめると、鑑真は2人の求めに最大限応えなければならない立場でした。2人が求めているのは日本に来て戒律を伝えることなので、願いに応えずに帰国させれば、それは罪になります。
これは樋口も非常にわかるな。だってルールやもん。
一回言うたもんっていう。守るって言うたもん、俺。
深井さんは、鑑真が戒律を単なる知識ではなく生きる道として実践しており、戒律を自分の思考と行動のOSと融合させていたのではないかと話します。俗世間とはかけ離れた原理で動いているからこそ偉人なのだろう、とも語っています。
玄奘先輩は西へ、鑑真は東へ
もう1つの動機として紹介されたのは、学説というより学者の想像として語られている玄奘の影響です。鑑真が日本に持ってきた書物には、玄奘のインドへの旅を記した大唐西域記 ── 唐の僧・玄奘が、7世紀にインドへ経典を求めて旅した際の見聞をまとめた地誌・旅行記が含まれていました。
玄奘先輩はね、西に行ってるから、私はもう今度は東に行きましょうかみたいな。そういったこともあったかもしれないですよね。
時代背景も鑑真の決断を後押ししたと言われています。仏教を推した武則天が失脚すると唐での仏教の全盛期は終わり、道教がリバイバルしました。
玄宗皇帝は老子を自分の祖先と称して祀り、官僚の登用試験に老子の科目を設けるなど、道教を優遇しました。律宗の黄金期に青春を過ごした鑑真は、この時代の移り変わりをはっきり感じていただろうとされます。
武則天が仏教を推し、鑑真の若い頃は律宗の黄金期
武則天の失脚後、玄宗のもとで道教が優遇される
一方、普照と栄叡から聞いた日本は、道教を崇めず、今まさに仏教を大事にしている国でした。深井さんは、鑑真が日本もいいかもしれないと思った可能性を挙げ、樋口さんも、命を燃やすならこれから伸びる日本のほうに生きる意味を見出せるかもしれないと応じます。
こうして鑑真は、日本列島の人々に戒律を授け、仏の教えに満ちた世界にするという衆生救済の志を抱き、高齢になって自ら困難な道に踏み出しました。ただし旅はまだ始まってもいません。
火星に行くようなもんだからね。
まとめ
鑑真の渡日は、仏と法だけが先に入りサンガと戒律を欠いていた奈良仏教の事情と、戒律を生き方そのものとした鑑真の内側の論理が重なって生まれた決断でした。次回以降、いよいよ苦難の渡航が始まります。
- 奈良時代の日本では仏像と経典は輸入できても、僧の集団であるサンガと戒律は根づいていなかった
- 行基の活動による私度僧の増加と税収減が、朝廷に戒師招聘を本気にさせたというのが通説とされる
- 鑑真は聖徳太子を慧思の生まれ変わりと捉え、長屋王の袈裟とあわせて日本に仏教との縁を感じた
- 深井さんが最も腑に落ちる動機とするのは、頼ってきた仏教者に応えよという戒律そのもの
- 玄奘の影響や、唐での道教の台頭といった時代背景も決断を後押しした可能性がある





