大仏開眼の熱狂のなかへ、鑑真はどう迎えられたのか
鑑真編の第7回は、前回までの壮絶な渡航の末に、鑑真がようやく日本へ着いたところから始まります。楊睿之さんは「まだ着いただけで、戦いはこれから」と位置づけます。
楊さんは鑑真の来日を、ビジネスに無理やり例えると「地方の中小企業に大企業出身のプロ経営者が入ってきた」状態だと表現します。この例えは、回の最後まで繰り返し使われます。
鑑真が来日したころの日本は、仏教の熱量が最高潮に達していました。聖武天皇の肝いりの大事業である東大寺が完成し、鑑真来日の前年には、大仏に目を描き入れる大規模な儀式が催されています。
この大仏の儀式には、すでに天皇の位を退いていた聖武上皇、妻の光明皇太后、娘で女性天皇の孝謙天皇が臨席しました。官僚や僧侶など1万人ほどが参加し、日本の中枢の人々がほぼ集まったイベントだったと楊さんは説明します。
そのフィーバーのさなかに、本場から高僧の鑑真がやって来ます。深井さんが「外来来た!ってなりますよ」と応じるほど、盛り上がらないはずのない状況でした。
鹿児島
流れ着いて上陸する
北九州
北上して九州北部へ
瀬戸内海
海路で東へ進む
奈良
東大寺に到着する
鑑真一行は鹿児島から北九州、瀬戸内海を経て奈良へ向かいました。その道中、朝廷から次々と迎えの人が送られてきます。
なかでも重要なのが藤原仲麻呂 ── 奈良時代の貴族。光明皇后の甥で、孝謙天皇のもとで権勢をふるい、のちに恵美押勝の名を与えられましたです。光明皇后の甥で出世街道を爆走していた有力貴族で、鑑真の日本での最強のパトロンになりました。藤原氏が後ろ盾の興福寺が招聘を主導していたため、仲麻呂の支援は自然な流れだったと楊さんは見ています。
藤原仲麻呂の6男である円慶法師は、遣唐使として唐に渡った際に鑑真と出会い、鑑真から受戒して出家した直弟子でした。鑑真と一緒に帰国し、鑑真と朝廷のあいだで通訳やコーディネートを担ったといいます。
外国人で目も見えない鑑真にとって、権力者を父に持つ直弟子が間に立つのは非常に心強いことでした。楊さんが強調するのは、鑑真はスタンドアロンではなかったという点です。日本側に権力者のパトロンがいる構図があったのです。
孝謙天皇も、明日香上という人物を迎えに送りました。この人物は、以前の回で登場した長屋王の息子です。長屋王は袈裟1000着にメッセージを縫い付けて唐の僧侶に寄進し、鑑真に「日本も仏と縁がある」と思わせた人物でした。楊さんはこれを「心憎い人選」と評します。
「唐にこれほど大きな像は?」東大寺の大仏の前で
鑑真一行が奈良の東大寺に着くと、官僚たちが大勢出迎え、休む間もなく次々と人が会いに来たといいます。楊さんはここで、本筋から少し外れる面白いエピソードを紹介します。
当時の東大寺の別当だった良弁は、鑑真一行を大仏の前に案内し、「唐にこれほど大きな像はありますでしょうか」と尋ねました。この言葉の意図は定かではなく、仏教が盛んな国だという自負やプライドだったのか、単に情報を伝えたかったのかはわからないと楊さんは話します。
鑑真一行は通訳を通じて「このような大きな大仏は唐にはありません」と答え、大仏を礼拝しました。樋口さんは、この東大寺側の気持ちを自分の地元・福岡に重ねて共感します。
それは言いますわな。大宰府天満宮(に)誰か旅行者連れてきて、こんな気持ちいい場所あんまなくないすかって言っちゃいますね。
楊さんも、自分たちのやっていることへの愛やプライドから出た発言かもしれないと受け止めます。鑑真一行は東大寺を当面の滞在先とし、贈り物も数多く受け取りました。
仏教が国家鎮護と直結し、大仏まで建てた国に、本場からトップクラスの僧が来たわけです。期待値が高いのも納得だと楊さんはまとめ、歓迎が一段落したところから鑑真の活動が始まります。
目の見えない鑑真は、どうやって経典を校正したのか
楊さんによれば、ここからが実はあまり知られていないストーリーです。まず天皇側は、鑑真が連れてきた戒律の師の人数を確認しました。授戒の儀式を執行できる頭数がそろうかどうかが、鑑真を招いた第一の目的だったからです。
鑑真たちは、授戒の儀式を務められる人のリストを作って回答しました。また、鑑真が持ってきた貴重な経典は、日本で盛んに書き写されるようになります。
面白いのは、鑑真が日本側の経典を借りたいと願い出たことです。人の手で写されてきた日本の経典には誤字や脱字があり、鑑真は内容が正しいかを自分で確かめたかったのです。
コピペエラーがね。
しかし鑑真は失明しています。そこで弟子たちに経典を読み上げてもらい、鑑真が耳で聞いてチェックしました。楊さんはこれを「人力オーディブル」と呼びます。鑑真ほどの僧侶は経典を全部暗記していたため、目が見えなくても校正ができたのです。
この校正は、日本の仏教の水準を冷静に見極める作業でもあり、鑑真が日本で活動する上でのベースになる情報でした。
経典をとにかく書き写し、数を増やすことが中心
中身に踏み込み、間違いがないかをチェックする校正作業が日本全体で盛んに
楊さんはこの動きを、プロ経営者が乗り込んで「財務諸表や人事決定の議事録を全部出してください、一から全部見ます」と言うようなものだと例えます。樋口さんも「評価制度のシステム見せてくださいとかね」と重ねました。さらに鑑真は、日本の僧侶が戒律を理解するためのマニュアルも作っています。
最初に鑑真から戒を受けたのは誰だったのか
日本側が鑑真に最もやってもらいたかったのが授戒です。鑑真は天皇から、授戒と戒律に関する仕事を一任されました。
東大寺の大仏殿には臨時の戒壇 ── 僧侶に戒律を授ける儀式を行うための壇。ここで正式な作法に則って受戒することで、正規の僧と認められますが築かれ、鑑真による授戒が始まります。最初に受戒したのは聖武上皇で、続いて光明皇太后、孝謙天皇が受けました。権威ある人々がまず本場の受戒を受けるのは、デモンストレーションとしても大事だったと楊さんは話します。
この3人が受けたのは菩薩戒で、鑑真が18歳のときに受けた大乗仏教特有の戒律です。出家していない人でも受けられるため、3人が正式な比丘・比丘尼になったわけではありません。
実は3人は、鑑真の来日前に、カリスマ的な僧である行基からも菩薩戒を受けていました。朝廷は対立していた行基を体制内に取り込んでおり、今回は本場の鑑真から菩薩戒を受け直した構図です。
だから行基は正式なルートでお坊さんになってないから。
天皇家に続き、440人あまりが鑑真から受戒しました。この人たちは見習いの僧で、鑑真から具足戒 ── 正式な出家者(比丘・比丘尼)となるために受ける戒律一式。男性の比丘の場合、約250の条項があるとされますを受けて正式な僧になります。鑑真から戒律を授けられた初めての僧侶が日本に誕生したのです。
一期生や。
すでに僧だった人々は、鑑真をどう受け止めたのか
ただし、鑑真から受戒したのは見習いの沙弥たちでした。それまでの日本のシステムで受戒して出家していた僧侶たちは、必ずしも鑑真を受け入れたわけではありません。
すでに受けた戒律は有効なのか、鑑真から受け直さないと僧侶と言えないのか、という論点が出てきます。楊さんが読んだ本には、拒否反応を示す人や、様子見の人も大勢いたと書かれていたといいます。
実際に、鑑真の弟子たちと日本の僧侶が激しく議論したエピソードも残っています。日本の僧侶が「経典には、自分で誓うだけで戒を体得できると書いてある」と主張すると、鑑真の直弟子が「その経典は、自分で誓えば戒を授けられたことになると認めているわけではない」と反論しました。
楊さんはこれを、経営改革に乗り込んできたプロ経営者が抵抗を受ける状態に重ねます。樋口さんは、反発する側の気持ちも理解できると話します。
だって今までのやり方が間違ってたってことにも、会社としてはなりうるから。
楊さんは、ここが鑑真のシリーズを通して抽出できる学びの1つだと言います。樋口さんも、鑑真は本当によいと思ってやっているので悪気はないと付け加えました。
来日から2年ほどで、鑑真の説く戒律こそ本当の戒律だという観念が広まり、受け直す僧も多く出た
受け直した僧もいただろうが、実はあまり納得していなかったのではないか
地方の僧侶にとっては、首都の奈良まで来て受戒し直すこと自体のハードルが高いという問題もありました。
セミナー受けに行かなきゃみたいな感じですもんね。
鑑真監修の授戒だけを正式とすれば、受けたくてもすぐに来られない地方の僧侶にとってはデメリットのほうが大きくなります。ここにも難しさがあったと楊さんは説明します。
授戒は始まりにすぎない、「三千の作法」と三戒壇
こうした活動と並行して、東大寺の大仏殿には臨時ではない恒久的な戒壇が築かれました。楊さんは、日本に本格的な戒律が導入されたことを象徴する出来事だと話します。
東大寺の戒壇院では、鑑真が監修した授戒が次々と行われます。のちの時代には最澄と空海もここで受戒しました。国の公式な施設と手続きのもとで作られた制度なので、ここで受戒しなければ正式な僧侶にならない状況が一時的に生まれ、鑑真は戒壇院の運営と、日本の仏教界を指導する実質的なトップの地位を任されます。
しかし、授戒して終わりではありません。具足戒には約250の戒律があり、1つの戒律ごとに、歩く・止まる・座る・寝るといった場面での振る舞いまで決められています。
楊さんは「過去と未来どうやって守るん?とちょっと思いますけど」と笑いつつ、これらを全部理解し、日々の実践で守れて一人前の僧だと説明します。授戒は終わりではなく始まりで、師匠の指導のもとでの研鑽が欠かせません。
ところが遠方の僧侶には、奈良に来て、しかも衣食住を確保しながら留まって修行するのは困難でした。そこで東大寺に加え、今の栃木県にあたる下野国と、福岡の太宰府にある観世音寺にも戒壇が作られます。
この3つが公的な施設である「天下の三戒壇」で、以後これ以外での授戒は禁止されました。地方にも戒壇を置きつつ、授戒の質をコントロールする仕組みです。観世音寺の戒壇院は今も残っています。
引退は名誉か、それとも排除か
授戒の制度や設備が整っていく中で、高齢だった鑑真は仏教界を指導する職を解かれ、名誉職を与えられます。表向きの理由は、高齢の鑑真に無理をさせるのは忍びないというものでした。
一方で、他の僧侶との対立の中で鑑真が仏教界から弾かれたのではないかという説もあります。「大和上」という称号は目障りな鑑真への体のいい引退勧告だった、と唱える人もいますが、明確な証拠は見つかっていないそうです。
楊さん個人は、この排除説は「うがちすぎ」だという印象を持っています。引退後に平城京で建てた唐招提寺には、朝廷から一等地の払い下げ、官僚からの家や仏像の寄進、財源の手当てといったバックアップがあったからです。
唐招提寺は何のための寺だったのか
唐招提寺が建てられた背景には、受戒後の長い修行で挫折する僧侶が少なくなかったという現実があります。戒律の厳しさに加え、そもそも生活インフラが整っておらず、修行用の建物もキャパが足りませんでした。
そこで戒律を実践する専用の場所として唐招提寺が建てられた可能性がある、と楊さんは説明します。東大寺の戒壇院で行っていた研修や教育の機能を移したイメージです。
「招提」はサンスクリット語に由来し、各地から集まった僧侶たちの住むところを意味します。唐招提寺は、僧侶に修行の場と衣食を提供する場所として位置づけられました。
ふーん、寮や寮。
楊さんによれば、当時の日本でこうした目的の寺はそれまでありませんでした。日本では戒律が実装されておらず、サンガ ── 仏教の出家者の共同体。戒律によって運営され、僧たちが共に生活し修行する集団を指しますも実質的に存在しなかったため、受戒は「大学卒業したら終わり」のようなものだったのではないかと話します。
受戒して一度きりで終わり。修行を支える場も僧の共同体もない
長い修行生活を支える環境を整え、戒律で運営される本来のサンガを作る
鑑真が唐招提寺で実現したかったのは、長い修行生活を担保するインフラを作り、本来の仏教のあるべき仕組みを整えることだったと楊さんは考えます。
ただし唐招提寺の研修は希望者だけで全員必須ではなく、受け入れたのも男性の僧侶だけでした。日本の仏教自体が朝廷の統制下にあり、独立性も薄かったため、完璧ではなかったといいます。
鑑真は763年、唐招提寺で生涯を閉じました。来日から10年、数え年で76歳で、楊さんは今の感覚なら90歳くらいではないかと話します。
へー。まあでも十年で結構やってますね。10年やったんや。
楊さんはこの10年を「日本の仏教の経営改革」とまとめます。そして、これほど頑張った鑑真のあとで日本の仏教がどうなったのかが、次回の最終回で語られることになります。
まとめ
鑑真の来日後の10年は、熱狂的な歓迎から始まり、経典の校正、授戒の開始、既存の僧侶からの反発、三戒壇の整備、そして唐招提寺の建立へと続く、日本の仏教の制度改革の歩みでした。
- 鑑真は藤原仲麻呂ら日本の権力者をパトロンに持ち、孤立無援ではなかった
- 鑑真は弟子の読み上げと暗記をもとに経典を校正し、日本に校正の文化を広げた
- すでに僧だった人々からは反発もあり、改革が浸透したかは本によって評価が分かれる
- 授戒は始まりにすぎず、3000の作法を身につける修行を支える場として唐招提寺が建てられた
- 鑑真は763年に76歳で亡くなり、日本の仏教のその後は次回の最終回で語られる






