皇帝の背後で息遣いをうかがう?垂簾の政の実態
前回までに、皇后となった武則天は政敵を次々と左遷していきました。その結果、唐では武則天が事実上国を動かす体制が出来上がり、これを垂簾の政 ── 皇帝の背後にすだれを垂らし、皇后や皇太后がその後ろから政治を動かす体制のこと。中国史では幼帝や病弱な皇帝の時代にしばしば見られますと呼ぶと深井さんは説明します。
「垂簾」はすだれが垂れているという意味で、後ろで操っている状態を表す言葉です。高宗は結局、傀儡の皇帝になっていきます。
ただし、高宗も武則天に二度だけ逆らったことがあるといいます。一度目は王皇后たちを牢屋から出そうとしたときで、結果的に王皇后たちは拷問を受けて殺されてしまいました。
二度目はそこから10年後です。武則天が禁止されている呪術で高宗を呪い殺そうとしている、という密告が宦官から高宗に届きました。激怒した高宗が宰相に相談すると皇后を廃してはどうかと提案され、高宗も同意して、皇后を廃する詔の原稿を宰相に起草させます。
しかし、この動きは日頃から情報網を張り巡らせていた武則天にすぐ漏れました。武則天は高宗の執務室に怒鳴り込み、ちょうど机の上にあった詔の原稿を見つけてしまいます。
どういうことだということで怒鳴り込んでいって。そしたらそのタイミングすげえ悪くて、高宗にとってね。ちょうどその詔のその原稿がね、机に置いてあった時だったんですよ。
問い詰められた高宗は折れ、皇后を廃するのはやめると言い、すべて宦官がさせたことだと言い訳をします。詔を書いた宰相と、提案した宦官は処刑され、その一族も全員奴隷の身分に落とされました。
楊さんは、武則天がイレギュラーなやり方で権力を持っていたため、反対勢力が常にいて、小さな隙も見逃せないほど敏感だったのだろうと見ています。この一件を機に、臣下からの信頼もなかった高宗は、抵抗することを完全に諦めて孤立していきます。
楊さんはさらに、高宗の側の事情も指摘します。高宗は武則天を皇后に立てるという政治課題を使って自分の権力を回復しようとしたため、その決定が正しかったと示すには、武則天を公の場に出し続ける必要がありました。それが結果的に武則天の政治力を強めることにつながった、という見方です。
深井さんは、父の太宗との違いにも触れます。太宗にはクーデターを共に起こした信頼できる仲間の宰相たちがいましたが、高宗には仲間がいませんでした。父の宰相を引き継ぐしかなく、その宰相を排除するために武則天を立てたところ、こうなってしまったというわけです。
垂簾の政の高宗は、文字どおり真後ろに座る武則天の息遣いや衣ずれの音から、武則天がどう思っているかを察して話すようになったといいます。
もう操り人形やん。
マリオネットだよ。
こうした状態が20数年続き、高宗の治世の大半はこの形で進みました。それでも深井さんは、高宗が暗殺されずに天寿を全うしたことから、高宗にとってはある意味これで良かったのだろうと話しています。
宰相の44%が1年未満で交代。武則天の実力主義
一方の武則天は、とても優秀な政治家だったと深井さんは語ります。持ち込まれる案件を的確な指示でどんどんさばき、高宗はその様子を横で見て、自分よりすごいと感じていたようです。
深井さんが読んだ本では、武則天がもともと頭が良かったことに加え、先代の太宗のそばで十数年を過ごした経験も大きかったのではないかと書かれていたといいます。
武則天の政治の特徴は、実力のある人材をどんどん引き上げることでした。高宗以外に後ろ盾のない武則天は、自分の息のかかった人間で周りを固める必要があり、国政を担う以上、なるべく優秀な人間を選んでいきます。
その結果、貴族同士の門閥政治から、優秀な人を引き上げる実力社会の政治へと変わり、深井さんは、唐にとっては結果的にとても良い政治が展開されたのではないかと話しています。
楊さんによると、武則天の人材活用は出自を問わない実力主義で、使える人材は引き上げ、職位に見合う仕事をしない人は切り捨てるというものでした。その切り捨て方の激しさは、のちに武則天が皇帝となった時代の宰相の在職期間を調べた研究に数字として表れています。
この数字について楊さんは、宰相を1回だけ就かせることが多く、2回、3回とならせないのは、既得権益化することを強く警戒したからではないかと見ています。なお、1年以上2年未満の在職者も17%だったと紹介されています。
登用された人たちも、女性である武則天を侮りませんでした。儒教を学んだ官僚たちなら本来は女性を軽んじるはずですが、深井さんは、武則天にはそうさせない力があり、みな怯えていたのだろうと語ります。
怯えながらその緊張感のある中で、実力があれば登用されるし、実力がなければぶっ潰されるっていう世界で生きてるので、普通に実力を発揮させていくことになりますよね。
ただし深井さんは、優秀でも武則天と反りが合わずに潰された人もたくさんいただろうと付け加えています。反りの合わない優秀な人まで抱え込むほどの度量はなかった、という見立てです。
門閥貴族の力をどう削いだのか。科挙の本格運用
武則天の時代には、門閥貴族体制が本格的に打破されていきます。深井さんによると、名家とされる家どうしの結婚が禁止され、さらに貴族が家柄の劣る家と結婚する代わりに受け取っていた結納金のような金銭の受け取りも禁じられました。
深井さんは、家の名前そのものが貴族の財産だったため、その財産を使えない状態にして、貴族に力を発揮させないための施策だったと説明しています。
もう1つ重要なのが科挙 ── 隋代に始まった中国の官僚登用試験。家柄ではなく試験の成績で官僚を選ぶ仕組みで、清代末の1905年に廃止されるまで1300年ほど続きましたの本格運用です。科挙は隋の時代からありましたが、受験者は多くありませんでした。
武則天の課題としては、やっぱりこう、門閥貴族のルートじゃない人材確保のルートが彼女にはめっちゃ必要だったんですよ。
楊さんによると、武則天は科挙を毎年欠かさず実施し、開催場所を増やし、科目を増やしたうえで一定の難易度を保つといった工夫を重ね、その結果、受験者数が大きく増えました。
深井さんは、既得権益に対抗して実力ある人間を登用するための科挙の使い方は、制度本来の正当な使い方だと評価します。貴族が潰されることで、番組で以前から語ってきた、秦が設計した皇帝制という理想の体制に近づいていったというわけです。
楊さんが、武則天の歴史は中華帝国の権力闘争のマニュアルのようだと言うと、深井さんは、有無を言わせない強権発動ぶりは始皇帝 ── 秦の初代皇帝。紀元前221年に中国を統一し、郡県制や文字・度量衡の統一など、強力な中央集権体制を築きましたに少し似ていると応じています。
深井さんによると、武則天自身も「私できるじゃん」と自信を深めていきました。皇后になったこと自体への批判の空気はあったものの、それを潰そうという動きまでは出なかったそうです。
隋も太宗もできなかった高句麗平定はなぜ実現したのか
武則天の評価を決定づけたのが、長年中国を苦しめてきた高句麗 ── 朝鮮半島北部から中国東北部にかけて栄えた国。7世紀には隋・唐と何度も戦い、668年に唐と新羅によって滅ぼされましたの征伐です。隋では初代の楊堅も2代目の煬帝も高句麗征伐に失敗しており、この国家課題が唐へと受け継がれていました。
高句麗は、教科書にも出てくる広開土王碑 ── 高句麗の好太王(広開土王)の業績を刻んだ石碑。現在の中国吉林省集安市にあり、4〜5世紀の東アジア史の重要な史料ですで知られる好太王のころに最盛期を迎えていた国です。深井さんは、この石碑には好太王が何をしたか、いかに偉大な王国だったかが書かれていると説明しています。
唐が成立すると、高句麗は取り残された隋の兵を送り返したり遺骨収集に協力したりして関係修復を図り、唐も強圧的な態度を取らず、いったん良好な国交が回復します。
しかし、東アジアの頂点に君臨することを目指す唐にとって、高句麗だけが臣従していないと周りの国に見られるのは困ることでした。
いかに舐めさせないか、睨みを利かせるかっていうのは、周りの国に対してもものすごく大事じゃない限り攻めてくるからね。すぐに。
太宗は北方の突厥を制圧して「天可汗 ── 北方遊牧民の君主たちが太宗に贈った称号。遊牧民の君主「可汗」の上に立つ存在という意味で、唐の皇帝が中華と北方の双方に君臨することを示しました」の称号を得るほどでした。こうなると、高句麗の側が警戒を強めていきます。
そんな中、高句麗でクーデターが起き、泉蓋蘇文 ── 高句麗の宰相・将軍。642年に国王を殺害して実権を握り、唐との戦いを指導しました。淵蓋蘇文とも表記されますが実権を握ります。唐にとっては、王を殺した人物を討つという大義名分が手に入る絶好の機会でした。
太宗は645年、大化の改新と同じ年の春に、水陸十数万の軍勢で高句麗に攻め込みます。遼寧省瀋陽市にあった遼東城は落としたものの、もう1つの拠点の攻略に手こずって冬を迎え、兵糧が続かず撤退するしかありませんでした。
高宗の時代になっても両国の関係は好転しません。朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の3国が対立しており、唐は高句麗を牽制するために新羅を支援し、高句麗は百済と手を組み、その百済を日本が支援するという構図ができていました。
唐が新羅を支援し、高句麗を牽制しようとした陣営
唐に対抗する高句麗と百済が連合し、日本が百済を支援した陣営
唐は新羅と連合して百済を撃破し、百済は滅亡します。その3年後、生き残った百済の王女を助けるために日本軍が出兵しますが、白村江の戦い ── 663年、朝鮮半島西部の白村江で、日本・百済遺民の軍が唐・新羅の連合軍に大敗した戦い。これを機に日本は国防体制の強化を進めましたで大敗しました。
深井さんによると、日本はこの大敗によって国際的な緊張関係に入り、自分たちの王朝も滅ぼされるかもしれないという危機感から守りに入る時代へ移ります。これが日本史に大きな影響を与えていきます。
百済の滅亡で、唐は高宗の時代、つまり事実上の武則天の時代に、高句麗を南北から挟み撃ちにする体制を作ることに成功します。さらに泉蓋蘇文が亡くなり、息子たちの跡目争いで高句麗が分裂気味になったところを突いて、唐軍は現在の平壌を陥落させました。
深井さんは、武則天が政治の実権を握った時期から唐に有利に動き始め、8年で太宗でさえできなかった高句麗平定に成功したことになると話します。しかも、この攻略を推進したのは武則天でした。
この人すげえなってなった。だって全員失敗してるよ。楊堅、楊広、李世民の太宗、全員失敗しちゃう。
高句麗との戦争では、家柄は良くないが優秀な人材が次々と現れ、武則天は彼らを要職に登用して政権をさらに固めていきました。
病に倒れる高宗。なぜ武則天に皇帝位を譲れなかった?
武則天が実績を重ねるのと対照的に、もともと体の弱かった高宗は持病を悪化させていきます。楊さんによると、高宗は後半生の健康状態がとても悪く、30代ごろに目の病気で視力が弱まり、めまいや体の痛み、しびれも出ていたと記録に残っています。
楊さんは、健康のために道士が作った丹、つまり丸薬を飲んでいたことも体調悪化の一因ではないかと言われていると紹介します。こうした丹には水銀などの重金属が使われることがあり、深井さんは、父の太宗もそれで体を壊していると付け加えます。
高宗の病状は、目が見えにくいことに加え、強い頭痛と体の痙攣を伴う発作が起こるものでした。それでも皇帝である以上は政治の場に引っ張り出されるため、高宗は、自分より優秀な武則天がやればいいのではないかと考えるようになります。
だから武則天に皇帝位を譲りたくなってくるんですよ、高宗は。実は。楽しそうに政治してるし。なんか才能あるし、みんな認めてるし。
しかし、女性が皇帝になるという理屈がそもそも存在しなかったため、この考えはなかなか実現しませんでした。楊さんは、儒教の書物には女性は政治に関わるなと明確に書かれていると説明しています。
自分の子でも容赦しない?武則天が家族を排除した理由
武則天が皇后になると、その家族も外戚として出世します。仲の良かった母は問題ありませんでしたが、幼い頃にいじめてきた異母兄弟たちは、一時出世させたのちに左遷されました。
実の姉の韓国夫人とは仲が悪くなかったものの、高宗がこの韓国夫人と深い仲になります。深井さんによると、武則天は嫉妬心や嫌悪感に加えて政治的な脅威も感じ、姉を毒殺しました。
続いて韓国夫人の娘、つまり姪の魏国夫人も高宗の寵愛を受け、やはり暗殺されます。楊さんは、その手口が独特だったと語ります。
武則天はそのお土産に毒を混ぜて、それを魏国夫人に食わせたんですよ。で、魏国夫人は死ぬ。で、武則天は兄たちが魏国夫人を毒殺したっていう風に罪を着せする。
楊さんの説明では、武則天は異母兄2人を要職に就けておき、彼らが儀式に持参した地方の土産に毒を混ぜました。姪を殺し、その罪を兄たちに着せて処刑させるという、深井さんいわく「全方位ハメ技」です。
矛先は息子たちにも向かいます。高宗との間に生まれた李弘は、武則天が皇后になるとすぐ皇太子に立てられました。深井さんが読んだ日本の本では、李弘は慈悲深く、民の生活に気を配り、官僚に腰低く接する、評判の良い皇太子だったとされています。
高宗は優秀な後継ぎに安心しましたが、武則天は警戒していました。李弘の評価が高まれば高宗がいつ位を譲るかわからず、そうなれば自分の治世が続かないからです。
決定的だったのは、李弘が後宮に幽閉されていた2人の女性を見つけたことでした。2人は、かつて武則天と争った蕭淑妃の娘で、李弘にとっては母の違う姉にあたります。
李弘は、2人が20年間も後宮の片隅に忘れられ、30歳を過ぎても結婚の機会がないと高宗に訴え、良い相手を見つけてほしいと頼みます。深井さんによると、李弘は武則天がどうやって皇后になったかを知らなかったそうです。
そばで聞いていた武則天は、その日のうちに2人の結婚相手を一介の兵士に決めてしまいます。皇族に限りなく近い女性にとって、これは大きな侮辱でした。そのうえで武則天は、李弘を自分を脅かす存在と見なして毒殺したとされます。ただし楊さんは、李弘は肺結核で亡くなったという説もあると補足しています。
期待した後継ぎを失った高宗は深く落胆しますが、病に加え、過去2回の抵抗が潰された経験から、もう逆らう気力はありませんでした。できたのは、李弘に良いおくり名を贈り、立派な墓に葬ることだけだったといいます。
次の皇太子には第6子の李賢が立てられました。武則天の子とされますが、姉の韓国夫人の子ではないかという噂もあったそうです。武則天は李賢にも冤罪を着せて幽閉し、流刑ののちに自殺させます。
楊さんによると、李賢は文武両道で官僚の評判も良く、李賢を中心としたグループができかけていたことが武則天にリスクと見られた可能性があります。また、遊び好きで同性愛者だったとも言われ、身内の不品行につけ込まれれば自分にも失脚の危険が及ぶ、という理由で処分したという説もあるそうです。
| 皇太子 | 人物像(番組での紹介) | その後 |
|---|---|---|
| 李弘 | 慈悲深く評判の良い優秀な皇太子 | 毒殺されたとされる(肺結核説もある) |
| 李賢 | 文武両道で官僚の評判も良いが遊び人の面も | 冤罪で幽閉・流刑ののち自殺させられる |
| 李顕 | 兄2人の末路を見ておとなしかった | 高宗の死後に即位する |
3人目の皇太子は高宗の第7子で、武則天の実子でもある李顕です。兄2人が殺されているため、李顕はおとなしくしていたといいます。
高宗の崩御と遺言。武則天はなぜ慎重だったのか
やがて高宗は目がほとんど見えなくなり、先が長くないことを自覚し始めます。このとき武則天は、すでに17年ほど高宗を通じて権力を握っており、高宗の死後も自力で治められると考え、さらには唐を乗っ取ろうとも考えていました。
唐の王室は李氏の家ですが、夫婦別姓のため武則天は武氏です。深井さんは、武則天は武氏の王朝に変えてやろうと思っていたと語ります。
死にかけた高宗は、ある医者の提案で頭の外科手術を受けます。武則天は皇帝の頭に穴を開けるとは何事かと激怒しましたが、高宗自身が死んでもいいからやってくれと頼み、手術を受けると病状は大きく回復しました。
回復を示すために元号を改め、宮殿でそれを宣言しましたが、高宗はその日に亡くなってしまいます。武則天は、夫が生きているうちに権力を直接譲られる形に持っていきたかったものの、それはかないませんでした。
次の皇帝となる李顕は武則天に従うことが明らかでしたが、深井さんは、慎重な武則天は権力交代の節目に強い恐れを抱いていたと話します。
一応その高宗が亡くなる時に遺言っていうのを出してるんですよね。要するにこう、息子は皇帝を継ぎなさいと。でも何か重大な国家の決定をする時に、必ず武則天の意見を伺いなさいというふうに遺言はしてるんですよね。
楊さんは、高宗の遺言は武則天を皇帝にしてよいとは言っていないものの、国家の決定には必ず武則天の意見を聞けと定めたことで、その後の武則天の権力の正当性に大きく影響したという見方もあると紹介しています。
54日で廃位された中宗、引きこもる睿宗。62歳の実質皇帝へ
高宗の後を継いだのは李顕で、中宗と呼ばれます。武則天はまだ自分が皇帝になる時期ではないと判断して中宗の即位に同意し、皇帝の母である皇太后として、実権は一切手放さずに君臨しました。
即位した中宗は28歳で、殺された2人の兄よりかなり劣っていたと言われます。だからこそ母に警戒されず生き延びてきたのですが、皇帝になると、なぜ母の言うことを聞かなければならないのかと気持ちが変わっていきました。
さらに中宗の皇后である韋氏が、皇帝なのにいつまでも皇太后に従うのはおかしいとそそのかし、主要ポストに自分の外戚を就けようとします。しかし、主要ポストは武則天の息のかかった者で埋まっていたため衝突し、中宗はわずか54日で廃位されました。
政治センスな、ない。
完全に皇帝になったから、俺力持ってるって勘違いしたんですよ。
廃位された中宗は、その後15年間の幽閉生活を送ることになります。代わって即位したのは、中宗の弟で同じく武則天の息子の李旦、睿宗でした。
睿宗は兄たちの経緯を見ていたため、帝位に就いても玉座にさえ上らず、引きこもり状態を貫きます。楊さんによると、皇太后にどうぞ政治をやってくださいと下手に出たこの睿宗は、最終的に天寿を全うできました。
高宗の崩御
遺言で、国家の重大な決定には武則天の意見を聞くよう定める
中宗の即位と廃位
皇后韋氏の外戚登用で武則天と衝突し、54日で廃位
睿宗の即位
玉座にも上らず政治を武則天に委ねる
武則天の実質的な皇帝化
自ら玉座に座り、大臣に直接指示を出す
この時点で武則天は、二人体制ですらなく、自ら玉座に座って大臣と会い、指示を出す実質的な皇帝となりました。このとき62歳です。
深井さんは、30代で皇后になってから20数年にわたって垂簾の政を続け、高宗の死後は息子たちを退けて62歳に至った道のりを振り返ります。楊さんも樋口さんも、その精神力の凄まじさに驚きます。
武則天は、ここから本当に皇帝の位そのものを目指していきます。今の状態でも十分ではないかという樋口さんに対し、深井さんは、まだこの先があると予告して今回は締めくくられました。
まとめ
今回のエピソードでは、皇后となった武則天が垂簾の政で高宗を操り、実力主義の人材登用や科挙の本格運用、高句麗平定によって政治家としての評価を固める一方、自らの権力を脅かす家族を次々と排除し、62歳で実質的な皇帝となるまでが語られました。
- 高宗の2度目の抵抗も詔の原稿が見つかって潰され、以後、高宗は武則天の傀儡として孤立した
- 武則天は出自を問わない実力主義で人材を登用し、宰相を頻繁に入れ替えて既得権益化を警戒した
- 門閥貴族の婚姻を制限し、科挙を本格的に運用することで、貴族に頼らない人材確保のルートを作った
- 隋の2代も太宗も失敗した高句麗平定を武則天の時代に実現し、その政治判断が広く認められた
- 姉や姪、皇太子たちも権力の脅威とみなして排除し、中宗を54日で廃位したのち実質の皇帝となった


